くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

僕はどこか上の空で(滋賀編6)

2016年03月01日 22時37分39秒 | 記憶編
ジャージに着替え、タオルを頭に巻き、使い慣れたランニングシューズを履く。午後9時。時計の針がそこを通過したら、それからはまるで儀式だ。USBタイプのウォークマンにイヤホンをつなぎ、耳の中に突っ込む。再生ボタンがスタートの合図。イントロとともに文字通り跳ねるように外に飛び出す。

日中の熱気をいくぶん冷ました夜の空気。肺にぐっと吸い込み、一気に加速する。突然のトップギア。息が続かなくなるまで全力で駆ける。音と一体になり熱を帯びる体。歓喜に沸く細胞。命が燃える。世界が正常な輝きを取り戻し、僕は大きく息を吐き、それから思い切り吸う。ペースを少しだけ下げ、今度は音の世界に潜っていく。それは無重力。くびきを外れた魂が縦横無尽に跳ねだす。自由を手に入れる。

前職を辞めてしばらくの間、僕は片道1キロの町道をそのようにして毎日走っていた。まず1キロ走り、その先でストレッチをして、折り返して500メートル走ると、農道に折れて途中でごろんと横になった。周りには田んぼしかなかった。音楽からラジオに切り替え、それから好きな番組を聞きながら夜空を見上げた。1時間はそのまま動かなかった。夜は昼よりもずっと親密で、僕のものだった。星は輝き、時折何度も流れ、美しい月が目の前を彩ってくれた。

どうやって生きていけば良いのだろう、と思った。
社会で生きていくのは無理なんじゃないだろうか、と思った。

そういうネガティブな気持ちに襲われた時、僕は目を閉じ、イヤホンを外し、水田に流れていく水の音を聴いた。
大したことじゃない。もしかしたら、いつかどこかで、何かが変わるかもしれないじゃないか。今はここにしかない。そうして僕はこの音を聴いている。それが全てだ。いいか、それが全てなんだ。不安も、恐れも、挫折も、あるいは栄光でさえも、今ここにはない。今あるのは、この水の流れと、静かな気持ちだけだ。それを感じることがもっとも大切なことなんだ。

息を吐いて、静かに集中していく。そして、自分がまたフラットに、ゼロに戻れたことを確かめる。何度でもゼロになろうと思う。そこが全ての出発点だ。何度でもゼロに戻れ。

僕があてもなくプロポーズの言葉を考えたのは、そんな時だ。どうして考えてみようと思ったのか、それすらも定かではないけれど。

日曜日の午後に、ふと、思いついたみたいに。
ストレートに言うんだっけ?
そうかもしれない。
彼女の顔を見ないで言うんだっけ?
そうかもしれない。

ねぇ。

何?

きょうは暖かいね。

そうだね。

あのさぁ。

ん?

結婚しようか。

◇◇◇◇◇

ようやく式場を探し当てて向かうと、入り口付近にHとKさん(奥さん)の後ろ姿があった。まずはウエディングドレスに身を包んだKさんを追い越した。それからタキシード姿のHを追い越す瞬間、くっと顔を覗き込んだ。Hはいくぶん緊張したように、ぎこちなく笑った。言葉は交わす暇がほとんどなかった。
式場のいすに腰かけるとすぐに音楽が流れ始め、扉が開き、Hが入ってきた。続いて父親に付き添われたKさん。僕は遅れなくて良かったな、なんて思いながら、心臓を高鳴らせていた。自分の結婚式ではないのに、恐ろしく緊張していた。神父がいて、十字架があり、その先の窓からは一面の琵琶湖を望むことができた。

ここで挙式をするんだ。

僕はどこか上の空でその光景を見ていた。ジェットコースターに乗っているような気分だった。場所が分からなくて迷い、慌てて式場に行ったら、すぐに始まってしまった。きっと2人の両親くらい緊張し、流れに身をまかせるしかなかった。

Kさんの手がHの腕に触れ、2人は琵琶湖の方に向かって歩き始めた。そして僕の目の前を通過する。

ずいぶん遠くに来たものだった。僕たちは高校時代の友人で、確か一緒に学ランを着ていたはずなのに。それが今では、琵琶湖の前でタキシードなんか着てさ。隣には純白のドレスを着た女性。なんだか冗談みたいだった。僕はどこか上の空で、その光景を見ていた。

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