カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を、年末にようやく読み終えた。長い時間がかかりました。それほど仕事がハードだったと言えるし、余裕がなかったのでしょう。なにせ、最後の10ページそこらを読むのに数日費やしたからね。
長いながい時間がかかりました。
結局、物語の中で実際的な巨人が登場することはありませんでした。強いて言えば、主人公たちが巨人の墓を迂回したくらい。タイトルに現れたのは、メタファーとしての巨人でした。
それでは、巨人とはなんだったのか。
英語版のタイトルは「The Buried Giant」で、この「Buried」は「埋められた」とか「葬り去られた」という意味があります。つまり、比喩的な意味の巨人が埋設された世界を描いたのですね。
その巨人が物語の後半、ゆっくりと動き出していきます。
カズオ・イシグロはテレビ番組「白熱教室」の中で、物語自体が巨大なメタファーだと示唆しています。それは個人を超えて集団、国家にも該当するのだと。それを感じること、考えることも物語の有効な部分であると。
「忘れられた巨人」は、記憶を巡る物語でした。悲惨な過去が葬り去られた(隠された)世界が描かれました。悲しい記憶が息を吹き返すたび、主人公ともども世界はぐらぐらと揺れます。過去のないことの平和、幸せ、もどかしさ、悲しさ。その感情すらも飲み込んで揺れます。
僕の場合は?
僕は、忘れたことなんて、ありません。埋めてしまうことなんて、できないのです。幸せな記憶を、あるいは胸の中にある思いを、閉じ込めてしまうなんて、できないのです。
どうしようもない思いを抱えて、少し、悲しくもなるのです。