読売新聞を見ていたらあの令和の発案者とされる「中西進さん」が時代の証言者という欄で、憶良について書いていた。山上憶良は「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」など子らを思へる歌で知られている。この憶良が渡来人であるという説を中西さんは若いころ発表している。
この記事によれば、憶良は40歳を過ぎて「遣唐少録」という遣唐使の末席に連なる書記役になるまで何をしていたか不明だという。万葉集には4500首の歌があるが「貧乏」をテーマにしたのは憶良一人だという。憶良の底流には「かなしみ」があり、「孤語」という言い回しや仮名遣いも独特だという。
その後も研究を続けた結果、憶良が日本に来たのは9歳ごろのことで、高句麗からやってきた中国人ではないかと現在では考えているという。研究に終わりはないという中西さん。
幼年期だけでなく少年時代まで半島にいたと考えると「かなしみ」の深さがよりわかると述べていた。憶良は最終的に従五位下、筑前守に上り詰め、天平5年(733)に亡くなったといわれている。聖武天皇の時代だ。ある日の朝、奈良の時代までさかのぼることができた。