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岩手番外編・1~思惟の森

 先日、仕事で岩手県田野畑村に行く機会があった。盛岡まで新幹線で3時間。そこから自動車で山を越えて太平洋側までまた3時間掛かるまさに陸の孤島。もちろん村を訪れるのは生まれて初めてだが、実はこの村の名前は40年以上前から知っていた。それは大学1年の教養課程で、当時の小田泰市助教授(1908-1997 享年89歳)による “人文地理” が、この田野畑村を題材にした講義だったからだ。その内容はすっかり忘れているが、5万分の1の地図を広げてこの地域の地理について学んだということだけは頭に残っていた。なぜ小田先生がこの田野畑村を題材にしたのかというのを思い出すために、改めて調べてみると、ネットで以下のような記述を見つけた。
 昭和35年(1960年)12月、当時52歳の小田先生はゼミ生13名を連れて、農村体験のために、ゼミ生一人の出身地だった田野畑村を初めて訪れた。翌年、フェーン現象で三陸地方に山火事が発生し、田野畑村でも多くの山林が焼けた。その後、植林事業が進められ、小田先生は、村の復興、そして自然教育の機会として、学生をこの植林活動に参加させた。当時大学では学生紛争が勃発しており、小田先生は学生の中に人間教育の欠如を読み取り、自然の中にこそ教育の原点があると考え、 『森を創り森に学び森をして文化を語らしめたい』 という自然教育の場を作る “思惟の森構想” を掲げた。
 一方、田野畑村でも昭和40年に36歳の若い村長が誕生し、地域の発達には教育が一番重要であるとする “教育立村構想” を立ち上げた。そして昭和41年、小田先生と村長が初めて会談し両者の考えが一致して、ここに大学と村の交流による森づくりが始まった。その後、村には大学のセミナーハウスが完成し、村と大学との交流は今でも続いているという。
 私が講義を受けたのは昭和49年(先生が64歳の時)だが、当時の私は森や植物については全く興味が無く、ただ単位を取るために授業に出ていただけだった。(ちなみに当時の成績表を調べてみると “優” だったので真面目に出席はしていたようだ。) できることなら今一度、小田先生の講義を受けてみたいと思うが、それは叶わない。小田先生の没後に、その功績を称えて 『森の合言葉』(小田泰市先生遺稿集刊行委員会編) という本が発刊されていたので早速ネットで注文した。それにしても、田野畑村で今も語り継がれる伝説の人物の講義を40年前に受け、今回仕事でその村に偶然訪れる機会ができたことは、何だかとても不思議な縁を感じる。
 写真は国道45号線の田野畑村 “思惟の森” の案内標識。今回は仕事だったので、思惟の森をゆっくり散策することはできなかった。
 『森の合言葉』 の中に小田先生の書かれた一文がある。 “5号館の前の庭の植え込みに3本の椎の木(スダジイ?)がある。その木の下に置いてあるベンチを小鳥の止り木のようにして考え込んでいる私は、この時節になると静かで人影のまばらな時を選んで、ここに腰を下して一時を楽しむのを常としている。”
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フデリンドウ・3~尾根緑道

 この界隈ではあちこちで自生が見られる「フデリンドウ(筆竜胆)」。リンドウ科リンドウ属の越年草で、これは尾根幹線小山長池トンネル付近から尾根緑道に上がったところに群生しているもの。シュンランと同じように毎年違う場所で見つけるのが春の楽しみになっている。来年もまた新しい場所で見つけてみたい。
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