教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

人生の黄昏にしたいこと、ネトゲ

2010-03-01 00:02:39 | オタネタ全般
人生の黄昏の時期、すなわち働けないほど歳をとっている老後を迎えたらしてみたいことがある。
ネトゲである。



とはいえ、今わたしはネトゲをほとんどやっていない。
それには理由がある。

ネトゲでは、他のゲームの何にも増してプレイ時間が重要になる。
ネトゲの一般的な例では、仲間の何人かとパーティーを組んでダンジョンに潜る。
そこでは途中で
「明日は出勤だからそろそろ寝るわ…」
といって退席することは許されない。
そんなことをしたら残り仲間が全滅するからだ。

有名な言葉に
「私が眠ると、みんな死んじゃう」
というのがある。

プレイ時間に制約がある場合には、自分の実生活と道義的責任を天秤にかけてどちらか一方を選択せねばならない事態に陥る。
だから社会人の間はあまりホンキで手を出す気がしないのだ。



プレイ時間の重要性は他にもある。
ネトゲの一般的な例では、中身はロープレ形式で作られている。
プレーヤーは多くの時間を割いてフィールドやダンジョンをうろつき回り、モンスターを倒して経験値を集め、またレアアイテムやレアモンスターが出るまで待つのである。
だからプレイ時間が重要だ。

このプレイ時間を短縮するための方法もなくはない。
ゲームによるが、リアルの現金を出してパラメータが高いがしかし高価なアイテムを入手すれば良い。

しかし、そんなリアルの現金を出して強くなることに意味があるだろうか。
あるわけがない。
自分の腕で強くなってこそ意味がある。

やっぱり時間は必要なのだ。
だから社会人の間はあまりホンキで手を出す気がしないのだ。



そこまで考えるのには訳がある。
多くのプレーヤーは起きている時間の大半をつぎ込んで寝る間も惜しんでネトゲをやっている。
そんな人たちは廃人と揶揄されることもある。
しかし廃人と呼ばれる事はトッププレーヤーとしてのステータスでもある。

では。
その廃人は何を思うのか。

リアル生活を捨ててしまった事への落第感。
ギルドの仲間の助けにならなければならないという義務感。
それだけの時間や生活を投入してしまった後にネトゲを止め今までを無に帰してしまうという、そんな選択はしないと頑なに否定し続けなければならない事に対する脅迫感。

いくつものマイナス要因はあるだろう。

しかし、マイナス要因ではない共通することもある。
彼らにとってネトゲとは本物の人生なのだ。

有名な言葉に
「ネトゲは遊びじゃねーんだよ」
というのがある。

そんなことを言うネトゲ廃人でさえ、ネトゲは遊びなことくらいは十分承知しているはずだ。
しかし、ネトゲをただの遊び扱いされる事に対して、廃人たちは甚だしく気分を害する。
なぜなら、彼らにとってネトゲとは本物の人生なのだから。

ネトゲではないが、かくいうわたしも本物ではないゲーム内の女の子に本気で恋をしている愚者の1人である。
だから彼らの言わんとしている事はよく理解できる。
実体の伴わないモニタの向こう側のモノに対し、そこに本物同等の何かを感じることの意味として、そこにはわたしにも彼らにも同じものが流れているのだ。

だからネトゲで遊ぶにても、覚悟を決めて遊びたい。
片手間で遊べる程度のネトゲでは遊んでも楽しくない。
ネトゲは遊びではないと腹を据えて遊びたい。

それができるのは以下の2つのどちらかしかない。
今からニートとして生きる選択をするか。
もしくは人生の黄昏を迎えた時期に始めるか。
それしかやりようがないのだ。

だから老後はネトゲをやる。
老後は日がな一日ネトゲをやって暮らす。
そう決めている。

その時期になればもう体は満足には動かないだろう。
しかしゲームのコントローラーを握ることくらいはできる。

その時期になればもう今ほどの判断力や反射神経は伴ってはいないだろう。
しかしシューティングや格ゲーならまだしも、ロープレというものはそれが勝敗に対して支配的になるようには作られてはいない。

考えてみれば言い得て妙なことだ。
ゲームというと若者でさえ若者の遊びという感じを持つわけだが、実はネトゲは老後の第二の人生にちょうどよいのではないかとも思うのだ。



当blogがそんな何十年先まで続いているとはとても思えないが、もし本気でネトゲをやる宣言をする記事が投稿されたとしたら、
「ああ、ついにblog主も老後を迎えたか…」
と感じてほしい。