遠隔専門ヒーラー ハスノのあれこれ日報

あれこれの名に恥じない雑多なブログ

9月4日~5日

2006年11月01日 | 入院記録

悪夢のような一夜が明け、5日の朝になった。
相変わらずの苦しさだったが、呼吸の方法を思い出したおかげで、少し眠れた。
思うように動かない体に辟易しながら過ごす。
食事もまともにとれないでいた。
自分で自分の体を支えられないのだ。寝返りが打てない。体に力がまるで入らなかった。
母に食事を食べさせてもらい、一日中だるさに悩まされた。
夜になってから、夫と父が来てくれた。
夫の顔を見ると、本当に嬉しくてたまらなかった。
動けない状態でも、授乳が開始され、小児科にいる白蓮が連れてこられた。
力をふりしぼって横向きになり、白蓮に乳首をふくませる。
助産師さんが上手に含ませてくれて、「乳首をはなしたら呼んで下さいね」といって去っていった。
白蓮は、凄い力で吸ってくる。
痛いほどだ。
でも、初めてなのにとても上手に吸う。
お乳が出ているかいないかさっぱりわからなかったが、両方のお乳を吸ってから、白蓮は助産婦さんに連れられていった。
すぐにお乳が出なくても、赤ちゃんというのは二日分くらいのお弁当を持って生まれてくるらしいので、とにかく頻回授乳でお乳を吸わせるそうだ。
吸わせることで、お乳が出るようになっていくから。
夫と父は1時間ほどで帰っていった。
5日の夜は、4日とは違って、ほんの少し体が楽だったが眠れず、母とずっと喋って過ごした。
子供を産んで、母の気持ちがわかったことや、離婚のこと・・・再婚のこと・・・いろいろ話した。
私がこれまで言えなったことも話せた。
一生懸命話した。
母もちゃんときいてくれた。
「ここだけの話」をどっさりして、気持ちが楽になっていった。
私は、母の子供で本当によかったと思った。
産んでくれてありがとうと、言えてよかったと思う。

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9月3日~4日 その2

2006年10月05日 | 入院記録
と、赤ちゃんの泣き声が聴こえた。
高いきれいな声だ。
主治医の先生は私の後産の処理と、会陰の縫合に入っていた。
麻酔をしてるとは言っても、場所によっては痛い。
その痛みよりもなによりも、出産で力尽きてぼーっとなっていた。
と、子供の泣き声がしなくなり、あれっと思っていると、小児科の先生がいつのまにか来ていて、
「ちょっと羊水飲んでしまったようだから、酸素室に入れてくるね」
と言って、私が白蓮の顔を見て、少しだけ触るとすぐに、連れて行ってしまった。
私の主治医はひたすら縫合作業をしている。
私は「なんでもいいから早く縫ってくれーっ!」と思いながら、いきみ逃しの呼吸法のままで耐えていた。
ようやく縫合が終わって、分娩台の横にくっつけるようにして運び入れられたベッドに「自分で転がって移動できる?」と助産師さんに聞かれる。
私は「どうにかやれますー」と力なく返事をして、必死になって移動した。
そして、また陣痛室に戻った。
戻ったときに母を見たはずなのだが、覚えていない。夫と父が来てくれたことと、夫に「産んであげたよ。一生恩にきいや」と言ったことは覚えている。
あと、夫がプリンを食べさせてくれたことと、それを全部吐き戻してしまったことを覚えている。
が、あとは思い出せない。
夫と父が帰ってからが地獄だった。
母に付き添ってもらって、過ごした一夜・・・・・。
自動計測する血圧計が右手に、左手には点滴。
ずっと気分が悪く、そして呼吸が普通に戻せずにいた。いきみ逃しのための「吐くこと」に重点をおいた呼吸法のままだった。
なので、だんだん過呼吸になっていき、気分が悪くなっていくばかりだった。
聞けば、私は会陰裂傷と深い切開のために、3分の2の血液を失ったらしい。
貧血からくる発熱もあり、気分が悪すぎて眠れなかった。眠ってしまうと、目覚めたときの気分の悪さがとんでもなくて、それがイヤで眠らずにいた。
何度も何度も母にナースコールしてもらい、ビニール袋を使って深呼吸をし、過呼吸になるのを防ぎながら、「苦しい」だの「しんどい」だのと弱音を吐きまくっていた。
途中で吐き気に襲われ、吐こうとしたが飲まず食わずであったので何も出てこなくて余計に苦しかった。
胃液ですら出てこないのだ。
それでも、少しでも気分がよくなるかもと思って嘔吐感がくる分だけ吐こうとした。
体は自分のものではないということを実感させられた。自由にならない手足の感覚。重度の貧血のために体を動かすことが困難になっていたのだ。
一晩中苦しさと戦いながら、産まれた子供のことはまるっきり心配しなかった。
臍の緒でずっとつながっていた私と白蓮。臍の緒が切れて24時間たっていないから、まだつながっている感覚が強かったのだ。
私には白蓮が元気にしていることがわかっていた。何の心配もいらない元気な状態だと確信していた。
でも、出産のときと違って、一人で苦しみと戦うことは辛かった。寂しかった。心細かった。
白蓮のために頑張ろうとは、正直微塵も考えなかった。
自分の苦しみで手一杯だった。
私は、生きるか死ぬかという苦しみ中にいたのだった。
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9月3日~4日 その1

2006年09月29日 | 入院記録

3日は日曜日だった。
夕食の始まる前、6時から腹痛があったが、軽い痛みだったので
「前駆陣痛ってやつかなあ?」
と思ってたいして気にしなかった。
食事がすんでから、だんだん痛みの間隔が短くなってきて、9時頃には10分を切る間隔になっていた。
一度病院に電話して、そのあとも耐えていたのだが、あっというまに3分おきになり、慌てて連絡。入院の準備をしてきて下さいと言ってもらい、用意して家を出たのが12時前だった。
車の後部座席で痛みに苦しむ私を見て、父は
「救急車で行こう」
と決断。病院の向かう道の途中に消防署があるので、そこで救急車に乗り換えた。
人生で一度は乗ってみたかった車に救急車とパトカーだが、自分が患者として乗ると、車内を観察する余裕が無い。
それでも、必死になって見える部分は見て、痛みに苦しみながらも「すげーっ!」と喜んでいた(笑)。サイレンが鳴っているのが聴こえていた。
隊員さんが素早く行き先の病院に連絡、きびきびとした対応に「かっこええっ!」と感動する。
隊員さんが優しく話しかけてくれるうちに、あっというまに病院に到着。普段なら40分ほどはかかるのに、さすがは救急車、20分で着いた。
その時すでに陣痛は1分おきになっており、自力では当然歩けない状態になっていた。
ストレッチャーに体をベルトで固定されていたことに気づいて、「おおっ(喜)」と思う間もなく、病院の方のベッドに移動(これは自力で転がった)。
ガラガラと運ばれながら、必死で天井を眺めていた。

陣痛室に着いてからは、陣痛との本格的な戦いだった。
いきみのがしの呼吸法(吸うより、吐くほうに重点をおく)でいきまないようにしながら、ひたすら耐える。
つきそってくれた母に腰を押してもらいながら、過ごすこと14時間ほど。
子宮口は9センチ開いており、赤ちゃんも降りてきてるのに、出てくる気配がない。
助産師さんが「恥骨に頭がひっかかっているみたい。介助するから思い切りいきんでみて」と言い、ポータブルトイレに座って力の限りいきませてもらう。
が、介助してもらっても(穴を広げてもらっても)一行にらりがあかない。
私の体力が尽きてきているためで、とりあえず休憩ということに。
母が何でもいいから口にしてくれといったので、しかたなくチョコレートを2かけとポカリスエットを少し飲んだが、結果は全部吐いてしまった。
1分より小刻みになった陣痛のさなか、疲れ果てた私はなんと陣痛と陣痛の合間の数十秒を眠って過ごしていた。
ある程度してから、再度いきんでチャレンジするもダメで、とうとう分娩台へ。
陣痛室のベッドで分娩室まで移動し、必死になって分娩台へ自力移動。
ぼーっとしていたら、私の担当の先生がいるのに気づいた。
「あ、先生。よろしくお願いします」
先生が血管確保をしてくれるのをぼんやり感じながら、いきみのがしの呼吸は続けていた。
で、先生がスタンバッテいきんだものの・・・・・。「やっぱり恥骨にひっかかってるね」と言われてしまった。
と、そこへ産科の部長先生登場。
二人の先生を見た瞬間、「二人もいればどうにかしてくれるだろう」と確信した。
私の担当医が赤ちゃんの方、部長先生が私の腹に両腕を乗せて体重をかける。押し出すためだ。
が、出てこない。
位置をチェンジしてやるも、出てこない。
しかたなく、会陰切開することになるが、「やって下さい」と即答(本当はしない方向でいくはずだった)。
麻酔をして、切開、担当医が吸引するためにスタンバイ。
部長先生が私の腹を押す。
「恥骨でひっかかっているから、下の方へ引っ張れ」
と部長先生が担当医に指示。
私には「喋らないで、息を思い切り吸ってからいきみや」と指示。
部長先生の指示で、思い切りいきむ。そして休憩。もう一度いきむ。
と、助産師さんの一人が「頭が出たよ!」と教えてくれた。
後は、私のいきみのみで体が出た。
知り合いから聞いていたとおり、「するーん」と出る感じがわかった。

(つづく)

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