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感想:『ヒトクイマジカル』

2009年07月22日 01時17分14秒 | 本と雑誌
ヒトクイマジカル―殺戮奇術の匂宮兄妹 (講談社ノベルス)ヒトクイマジカル―殺戮奇術の匂宮兄妹 (講談社ノベルス)
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2003-07


くり返しになるが、西尾維新の文体、話術、やり取り、展開、これらは素晴らしい。馬鹿馬鹿しくもクセになる言葉遊びの数々や、極端なサド的マゾ的掛け合いの妙は西尾維新の真骨頂と言え、他では味わえない楽しさがある。

けれども、『戯言』シリーズを読んでいると激しい苛立ちも感じてしまう。これまで書いてきた批判はその苛立ちゆえのものだ。
こうした苛立ちは何も『戯言』シリーズが初めてではない。『Fate/stay night』をプレイしたとき、或いは『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだときも感じたものだ。それゆえにゼロ年代という枠組みの中でこれらの作品についても言及してきた。

苛立ちの最大の要因は、主人公との不協和音だ。主人公の心情や行動に同調できない。その溝が苛立ちを生む。
『ハルヒ』の場合『涼宮ハルヒの消失』を契機にその不協和音がほぼ鳴り止んだ。一方、最後まで消え去らなかった『Fate/stay night』はそれゆえに私の中では高い評価となっていない。

苛立ちの最大の原因は、おそらく世代の問題なのだろう。時代らしさ、その時代のリアリティ、ライヴ感覚を突き詰めることで、その時代の雰囲気を知らないものには伝わらない、そんな時代性の壁は仕方がないと思う。だが、特定の世代にしか伝わらない言葉や思いについては、あまり感心しない。本当にそれは普遍性を持ち得ないのか。

当然だが、『戯言』シリーズにおいてそんな世代性は狙って組み込まれている。単純な年齢による区分ではないが、キャラクターごとにかなり明確な立場の差異が描かれている。「大人」と「子供」。そして、「子供」の論理を突き通すことにただ苛立つのだ。

<<以下ネタバレ強>>

姫ちゃんこと紫木一姫の死はそれほど衝撃ではない。わざわざ死亡フラグを描いたことは不快に感じたが。
西尾維新の描く小説はキャラクター小説のようではあるが、そのフォーマットを利用してはいるが、それなのに決定的にキャラクターに魅力がない。記号的なキャラクターというのは、キャラクター小説の手筋であり、それによって逆にキャラクターの魅力を作り上げるものなのだが、西尾維新の場合、キャラクターの記号化のベクトルが魅力に向かっていないので、本当にただの記号にしか感じられない。
一姫は玖渚友の代替のような意味合いで死んだが、玖渚友ではないがゆえにただの死に過ぎない。『戯言』シリーズは玖渚友が死なないと成り立たない話だと思うのだが、それを回避する決着法があるのならそれはそれで見てみたいが、いーちゃんが奇麗ごとすぎて、ガキすぎて、それを崩してくれないと不完全燃焼となってしまいそうだ。


運命や物語の話も青臭すぎるんだよね。西尾維新の才能からすれば、普遍的で面白く、けれども尖がった話は作れそうなのに、狭っ苦しい所へ話を進めるのかと思ってしまう。西東天が敵としてインパクトがあるかと言えばかなり疑問だし。

『戯言』シリーズも残りは上中下巻と三分冊されているとはいえ『ネコソギラジカル』を残すのみとなった。このシリーズ、そして西尾維新に対する評価はやはりそれを読んだ上で下すというのが真っ当だろう。