奇想庵@goo

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ガンパレの思い出その3

2007年02月19日 23時12分44秒 | アニメ・コミック・ゲーム
その1
その2

ガンパレは自由度の高いゲームで、他人とは関わらずにプレイヤーキャラのみで戦いに挑むこともできるゲームではある。しかし、このゲームの本質は、他人と関わることで世界を変える、そんなゲームだ。例えば、プレイヤーキャラが放課後すぐに帰宅すれば、他のNPCたちも早々と帰宅することが多い。一方、プレイヤーキャラが遅くまで訓練や整備をしているとNPCたちも遅くまでいたりする。世界を変えることは大事ではなく、身近な人々との交流の結果である。

ガンパレは宣伝費がほとんどゼロのゲームで、そういうゲームが売れること自体ありえないはずのことだった。その逆境を乗り越えたのは口コミの力である。このゲームをプレイした人々が、周りの友人たちを口説き落として広めていった。このゲームを救ったのは、そうした人々の力、身近な人々との交流の結果である。

ガンパレは様々な種類のファンを呼び込んだゲームで、そんな多種多様な人々が集った場所が公式サイトだった。システム好き、戦闘シミュレーション好き、美少女キャラ好き、やおい好き、新しもの好き、設定好き、SF好き……。どんな遊び方も許容するゲームだった。開発したアルファ・システムは彼らのために「ガンパレ23」という謎ゲームを公式サイトの掲示板で行った。それに引き込まれる人々がいる一方で、反発する人々も生み出した。それが終わったあと、謎ゲームを越える祭が公式サイトの掲示板のひとつで繰り広げられる。それは誰かが仕掛けたものではなく、自然発生した祭だった。それは、プレイヤーたち自身が求めた、他のプレイヤーとの交流への願いの結果だった。

私のガンパレファンサイトが、ガンパレファンの交流サイトと位置付けられたのはそうした流れの結果である。それは私の願いであり、集まってくれた人たちの思いでもあった。2001年8月、手狭になった「奇天の部屋」は有料スペースを借りて移転し、「青天、一迅の風」と名前を変えた。

公式サイトの一掲示板、ファンパレの祭は3月に終息したが、それでも5月頃まではそれなりに賑わっていた。私も頻繁に書き込んでいた。夏になると徐々に書き込みも減っていった。私のサイトのチャットや掲示板は賑わいを見せ、オフ会の開催も恒例行事となっていく。
しかし、一方で、この頃からガンパレ自体のネタは減り、交流のための交流という状況が生まれつつあった。もちろんそれは悪いことではない。私自身は青天の常連とPSOをすることが多くなり、競馬ネタなどそれぞれの興味に分かれていった感じがする。

それでも10月に大阪、11月に名古屋、12月に東京でオフ会を開催。それぞれかなりの数の参加者でとても楽しんだ。ちなみに12月の東京オフのときに初めてコミケに参加。まあ行っただけではあるが、その独特の雰囲気を体験できただけでも良かったとしよう。
年が明けるとリアルの事情で私自身が動きにくくなり、オフ会が減ってしまう。3月の北海道、6月の熊本の二つのオフ会の企画のみ動いていたが。逆にこの時期にはイベントと称して、「なりきりチャット」や「くじびきカップリングSS祭り」の企画を実行して、かなり楽しむことができた。

6月の熊本オフはいろんな意味で特別なものだった。これについては次回書く予定。次で最終回。