銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

八幡宮の境内に、ミッソーニの衣装が舞った時は、美を感じたが、コシノジュンコの、自衛隊儀仗用制服が、やってくるのは、ぞっとする。まるで、カーニバルだから△

2017-04-04 20:06:31 | 政治

 今は、5日の午後3時半です。下の文章の推敲と加筆が終わりましたので、恒例の△印を総タイトル横に付けておきます。

副題1、『鶴岡八幡宮に、あのブリキの兵隊さんが、やって来るのかと、思うと、げんなりする私であった』

 鶴岡八幡宮様は、白井宮司様の時代と、現在の、吉田宮司(さま)の時代では、いろいろな、面で、大きな変化があります。白井宮司の時代は、全体に、茶色っぽくで、そして、自然に溶け込んでいる、神社でした。全国の他の神社と、似ていました。そして、鎌倉近代美術館もあったし、ある意味で、ここを好きな人(知的な興味を持っている)がやって来る、特別な、静かな場所だったのです。

  しかし、最近では、いろいろ、異なってきています。まず、吉田宮司は、会社の経営者並みに、お金持ちである八幡宮様の、自らの資産を、自らの境内内へ、投下をなさることが、お好きみたいで、植木の伐採が、続いています。さっぱりは、しましたが、幽玄さが、失われたと、おもっております。

 この植木の伐採に関連して、私は、井上ひさしの真の役割に気が付いたのです。それは、副題αで、後刻、語ることにして、この章では、音楽会について述べましょう。

 白井宮司の時代には、白井貴子さん(きっと、お孫さんでしょう)の無料の、誰でも入れる音楽会がありました。それから、これも無料で、拝見できる、自衛隊(確実に来ていたのは、海上自衛隊だったと、思うけれど、陸上自衛隊も、来ていたかもしれない)の音楽隊の演奏会もありました。もしかしたら、警察の音楽隊の、演奏会もあったかもしれません。一年間に、三回は、ブラスバンドが下から聞こえて来て、私は、その練習の音が聞こえてから、山を下りて行って、30分ぐらい、立って、それを、聞いていたものです。

 今の自衛隊には、歌姫が、二人ぐらい居て、それも、ソプラノが聞こえると、降りて行って、数曲は、聞くのです。DJポリスほどではないけれど、最近では、自衛隊の、音楽会でも、司会者の言い回しが、ソフトになって居て、お客様が、喜ぶ様な解説をするので、エンタメ度が増しています。ただ、舞殿の周りに、スチールパイプの椅子を並べて、楽隊が座っていて、お客は、早く来たファンは、階段に陣取り、私の様にふらっと、来た人間は、舞殿の周りで、立って音楽を聴くのです。バックに横たわっている舞殿は、白木が、風雨にさらされて、薄茶色になって居て、周辺の、樹木と、釣り合っていると感じたものでした。調和があったのです。そして、音楽を演奏する側と、聞く側にも親和力があったのでした。

 その舞殿ですが、数か月(または、数年間)、防御膜に囲まれて、リフォーム中だと、知らされていました。何をリフォームするかというと、塗装だったのです。赤いきれいな漆が、木部に塗られて、ピカピカの、美しい建物へと、生まれ変わり、今は大安と、土日が重なったりする、好日には、昼でも夜でも、結婚式が、執り行われる場所となりました。夜は、ことに美しい結婚式となります。舞殿周辺に、かがり火が焚かれますし。

 しかし、あの赤い舞殿の周辺に、あのブルーの制服を着た自衛隊の吹奏楽団が、30人から、50人座って、あの、ウエストの細いブルーの制服を着ているのかと思うと、『え、それって、南ヨーロッパのカーニバルではないですか?

 国民の税金で運営をされて居る、自衛隊の音楽隊とは、とても思えません。シルクドゥソレイユがやってきたのですか?』 と言う感じです。 『ともかく、宝塚か、ジャニーズのショーならいざ知らず、

  あのくるみ割り人形の中のブリキの兵隊みたいな、制服で、おやりになるのですか? 八幡宮とは、最近、なんと変わってしまったのだろう』と、感慨が深いですね。

 コシノジュンコさんは、鎌倉の住民です。しかし、『朝早くとか、夜遅くとか、観光客が誰もいない時間帯に、八幡宮へ参拝に来たことがあるのかしら?』と、いぶかしく思います。そして、『八幡宮の境内で、特に舞殿の、周囲に陣取って、自分の目と耳で、自衛隊の、演奏を見たことがあるのかしら?』とも、疑問に思います。だから、こんな制服を、作ったのでしょう。八幡宮の境内には、全然合わないと、私は感じます。彼女のデザインした制服が、このまま、採用されてしまうと、ここ、八幡宮の境内では、伝統の破壊が著しいです。

 そして、自衛隊の全体像も、考えてみましょう。3.11のおお津波で、破壊され切った東北で、最初に片づけをしたのは、自衛隊でしたね。その時、国民は、大いに感謝し、尊敬したのではないですか? 泥にまみれで、危険も顧みず、奉仕してくれる自衛隊に、大感謝した筈です。

 それで、自衛隊は、人気を博し、自衛隊上層部も、「ああ、新規募集が楽になった」と、喜んだはずです。ところが、安倍内閣は、急に新しい悪法を作り、自衛隊が、駆け付け警護と言う名の、傭兵活動をしないと成らないことになりました。

 スーダンへ、派遣されるとか何とかいう、問題が起きました。それこそ、日本が、被植民地国家であることの悲しさであり、アメリカ・・・・または、CIAが、起こした、紛争の後始末に、アメリカへの国家単位の傭兵として、送り込まれ、時には、死者も出るのだ・・・・・と、言う事に成ったのです。そうしたら、突然に、自衛隊全体の人気も、士気も衰え、ましたね。

 その隙をついてと言うか、コシノジュンコさんに儀仗用・制服を、頼む案が、浮上したのでしょう。その、どさくさまぎれに、この一種の政治的・謀略が起案され、実行をされたのです。

 おかしい。おかしいです。何度も言いますが、こういう制服はコンペを通さないといけません。誰かが、裏でこっそりとお願いをしたりしてはいけません。

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副題2、『デザインと言うのは、美術の中でも、もっとも、政治的な要素を持つものであり、コシノジュンコがコンペティションを経ないで、この仕事の担当者になったのは、非常にオカシク、・・・・・結局は、鎌倉エージェントの二人が、自分たちの権勢の誇示のために行った、政治的謀略である・・・・・と、私は、考えている。戦時中に花森安治が、戦意高揚の、スローガン(たとえば、【欲しがりません。勝つまでは】)を作ったと言われる様に、デザインとは、構想力が必要なので、美術を志す人間の内で、建築科に次いで、頭の良い人が選び取る分野だと、思うけれど、それだけに、政治と、結び付きやすいのだ』

 今回、コシノジュンコについて、ブログで触れるにあたって、ふと、グーグル検索を掛けてしまいました。すると、彼女には、自己を、強力に売り込む、押し付けの強さがあることがわかりました。私は、このシリーズに取り組む前には、伊藤玄二郎と、井上ひさしのプロデュース力によって、彼女は、持ち上げられていると、感じていましたが、・・・・・・彼女自身にも、激しい自信が、あるのだ・・・・・・ということが分かったのです。

 では、どうして、それほどに、大きな自信を持っているのかと言うと、やはり、裏に在日の問題と関係があると、気が付きました。彼女は文化服装学院在学中の19歳にして、装苑賞を取っているので、その日以来、プロの、しかも、ハイソサイエティ向けの、洋裁師(兼デザイナー)となることを自覚していますので、上流階級には、未だ、色濃く残っていたであろう、1950年代の、在日差別を、瞬時に悟り、絶対に、カミングアウトをすることなく、今まで、生きてきた存在でしょうが、

 今般、『なるほどなあ。したがって、今度の儀仗用制服の件で、動いたであろう、いまだ実際には生きている井上ひさしも、カミングアウトすることがなかった在日の出自を隠し持ち、この手の特権階級の中で、最上位に位置していると、私が考えている成岡庸司君も同じであろう』と、私は再度、確信をしたのです。しかし、ここらあたりは、それこそ、伊藤玄二郎達、鎌倉エージェント向けの、最高難易度に当たる記述であって、一般の読者様が、嫌悪感をお持ちになることをも推察できますので、簡単に、書き下して、先へ進みます。詳しい傍証づけはしないで、置いておきます。

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副題3、『コシノジュンコさんは、鎌倉に溶け込んでいるとは、とても思えないのだが?!?!?・・・・・お婿さんに医者を迎えて、家も大きいし、場所も駅近くで、地価が高い場所に建っているし、上流階級としての家格を、保持していることは、誰もが認めている。しかし、善意をもって、「心からの友人で、親しいのです」と、思う人間は、少数しかいない筈で、彼女との間に、何らかのバーター取引がある、連中だけであろう。しかし、誰もあえて、批判はしない筈だ。批判をするなどとは、面倒くさい事であり、喧嘩をするのなど、もってのほかの下品な事だからだ。だけど、同じ様に派手派手でも、宮崎みどりさんなら、受け入れても、コシノジュンコさんの事は、本当は、嫌っている筈だ』

 江戸時代から、鎌倉に住んでいる有名人が、「元からの鎌倉の住民は、今の鎌倉の住民を、四つに分けて、呼んでいるのですよ。先住民、原住民、新住民、インヴェーダー」と、笑いながらおっしゃったのですが、私もつられて、笑ってしまいました。で、大金持ちとか、有名人が、たくさん、転入してきていますが、『実るほど、頭の垂れる稲穂かな』と言う雰囲気で、おとなしく暮らしている人と、比較をすると、コシノジュンコさんなど、まさしく、インヴェーダーと言ってよいでしょう。同じ洋服関係でも、スーツを専門に販売する会社の社長も住んでいますが、その豪邸は知る人ぞ知るという形で、生活そのものは静かな、雰囲気です。

 ところで、ちょっと、私について、モノを語らせてくださいませ。私の住民票を見ると、1984年に転入をしている事となって居るはずです。となると、【新住民】です。

 しかし、ご近所様と比較をすると、圧倒的なレベルでの、【先住民】かもしれないのですよ。と言うのも我が家の祖先は、戦国時代から、相模の国の住民だったと、言われています。それが、大江広元の四男の移動に伴って、西国へ移動をして行ったのですから、・・・・・

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副題4、『鎌倉の家が建っている敷地は、毛利様から、藤本真澄氏にわたって、その後、神田土地が買い、その後、堀内大衆と言う人物が買っていたものだが・・・・・』

 大江広元の墓は、広基と書いた記憶があるのですが、我が家の真下に存在していました。しかし、それをブログに書いたとたんに、移動をさせられてしまいました。私のブログ潰しのために、言葉替えが、行われるだけではなくて、史跡、そのものも移動をさせられるのです。しかし、私の曽祖父は、毛利藩の重臣だったので、戦国時代は、鎌倉の住人だった、大江広元の四男が、毛利様の始祖なので、実は、我が家の地所も、毛利様の持ちものだったのですから、三段論法で言えば、【先住民】ともいえるのでした。

 ところで、毛利様が、この【鶯が谷(やつ・・・と、読む)】と言う山を、いつ、お買い求めになったのかは、私は登記簿謄本の原本を見ていないので、(特に最近は、電子化されて居て、ひとり前の所有者ぐらいしか、見る事ができないのですよ、弁護士とか、司法書士などになると、過去記録の閲覧が可能なのかもしれませんが、普通の人には、一人前の所有者しか、記載をされて居ないものを渡されます)正確なことは判らないのですが、戦前(昭和15年ごろまで)には、既に、毛利様の持ち物だった筈です。

 もし、戦前の華族制度の下、お金持ちだった、毛利様が、先祖伝来の地である、鎌倉に地所を持とうと考えられて、お買い求めになった山であれば、あの大江広元(基だったと、記憶をしているが)の墓も、明治に入っておつくりになったかもしれません。と、すれば、納得される、簡素なものでした。今は、鎌倉文学館となって居る、旧・前田公爵の家も、明治に入ってからお買い求めになったものだと、考えられるので、前田さまは、温暖で、海が見える景色の良いところをお買い求めになり、毛利様は、海が見えないものの、鶴岡八幡宮の隣と言う由緒のある場所をお買い求めになったと推察すると、明治以降所有をなさったとも成るのでした。そうなると、それ以前は、八幡宮様の山だったかな? 廃仏毀釈の嵐の中に、お金に換える必要が出て来て、毛利様にお売りになったのかな?

 しかし、比企が谷妙本寺の、比企一族など、北條氏に鎌倉時代以内に、徹底的に滅ぼされたのに、子孫が、御寺を建てて、そのお寺が立派なものとして機能をしているので、先祖に対するお祭りが盛んなのですが、毛利様とは、一族の誰も、この鎌倉には、住んでおられないのですよね。だから、結局のところ、先祖に対する、司式(仏式の催事)を、行われないので、簡素な墓だったかもしれないのです。

 いずれにしろ、私のブログが、相当な注意深さをもって、常に観察をされ、検討をされ、私をいじめ、ノイローゼにさせ、貶める方向で、使われていることは確かです。で、大江広元の墓は、現在の毛利家の許可のもとだとは、信じていますが、移動をしています。それとも、伊藤玄二郎たちが、鎌倉市を動かして、勝手に移動をさせたのでしょうか? 以前あった場所は、鶴岡八幡宮の持ち物となって居る駐車場の、山すそに在ったのです。まさしく我が家の真下です。

  今では、八幡宮を通り越した対岸の東、頼朝の墓あたり近くに移動をしているとか?・・・・・そう聞いていますが、嫌な話なので、確認に行ったことはありません。

 しかし、それだけではないのですよ。毛利様は、戦後の華族制度の崩壊により、急に貧乏になられました。で、防府市には、江戸時代は別邸だったものが、今は、博物館を兼ねた立派なお屋敷として、残っておりますが、東京の毛利邸など、お売りになったみたいで、六本木ヒルズが、毛利庭園と称した庭を持っておりますね。

 終戦時、私の父は、35歳でした。そして、子供のころですが、本来は、萩の住民ですが、山口中学の方が、全県から、優秀な男子が、集まるだろうという事で、下宿をして、山口中学に通っておりました。その山中時代の同級生の中で、親友となったのが、藤本真澄氏です。藤本真澄氏とは、東宝の重役だった方です。これは、父から聞いたことではなくて、現在の鶯が谷の家の北隣の、現在は、ドリームハウスという、テレビ東京の、特番で、放映をされた(17-7-18)石井秀樹邸の前の持ち主の藤本悌子夫人が、藤本真澄氏の、義妹、もしくは、従兄弟の嫁に当たると、推察しているからです。

 ところで、この山の、人間関係は、非常に難しくて、1980年代を中心に、大勢の人間が引っ越して行って代替わりをしているのですが、私は、その一軒の上流階級様のお住まいに、最初に、チラシを読んで、買ってみるかなと、訪れたのでした。その持ち主は、上流階級特有の警戒心のない人で、この山に住む事がどれほど、大変で難しい事であるかを、正直におっしゃいました。「家内がノイローゼになりましてね」と。それを聞いたから、買わなかったわけではなくて、私は、他人の気配とか、視線が入り込む家は、苦手なのです。それはですね。五歳から、10歳まで住んだ、船橋市塚田にあった家が、300坪の敷地があって、よその家は、まったく見えないうえに、敷地の外側は、畑、田んぼ、竹林、松林、自然林に囲まれた家だったからでしょう。日吉に引っ越したら、敷地が100坪あって、西と、北は、道路で囲まれて居て、かつ、東と、南は段差があるくせに、他人の視線と、他人が発する気配に、圧倒をされて、つらい、いやだなあと、思った記憶が強いからでしょう。これは、塚田で、唯一のご近所様は、千坪の敷地を持っている方でした。その方が、三鷹台に、引っ越しをされたら、小さな敷地(ほぼ、100坪ぐらい)の普通の家だったので、そこの家の人々も、まったく同じ様に、感じたと思います。

 『今でも、あの家【塚田】の家が有ったら、嬉しいなあ』と、思いますが、実際のところは、現在は、マンション林立地帯となっているみたいです。

 で、鎌倉・鶯が谷のその最初に見に来た家は、ほぼ、同じ高さの位置に建っている三軒か、四軒かの隣家の気配を感じ取らないといけない家なので、買わなかったのですが、今の家は、その二年後に、売り出されたもので、東南の、方向には、他人の家が無いのでした。100%の山なのです。それで、他人の気配と言うものを、感じる度合いがゼロパーセントなので、好感をもって買ったのです。『ただ、この場所で、こうも、頻繁に売り物が出るのは、本当に、人間関係が、難しい地域なのだろうなあ』と、思って引っ越して来たら、まさしく、とんでもないるつぼ状態の、争いが、繰り返されて居る一帯でした。

 だけど、堀内大衆と言う、直前の持ち主と、その前の持ち主の神田土地の、二つを抜かし、その、もう一つ前の持ち主である、藤本真澄氏にまで、たどり着けば、父が、親友として、懇意だったのですから、なかなかに、私との縁が深い土地なのです。

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副題5、『鎌倉文士と言うのが、先住民 兼、新住民として、有名だけど、実際のところは、海軍を中心としたサラリーマンの方が、数が多かったでしょうね』

 もう一つあるのですよ。それは、付属小学校の問題です。我が家の、鶴岡八幡宮を挟んだ、対称的な位置に、付属小学校があります。横浜国立大学付属・鎌倉小学校と、付属。鎌倉中学校と言います。戦前は、男子だけが、入学する師範学校が、あったはずです。そこの教習用学校として、付属小学校が、建てられていたのです。そこを、大正六年に、叔父が卒業をしていますしね。叔父の父は官吏だったのです。

 ともかく、中央官庁の公務員になる人は、戦前は、士族階級出身者が多かったはずです。江戸時代から、富裕だった商家の出身者は、美大等に進んだかもしれないけれど、士族階級は、質素ですから、学歴をつけて、公務員か大会社に入るというのが、道だったのです。そして、武士は食わねど高楊枝と言って、プライドは、非常に高いけれど、収入はさして高くないので、つつましい、生活上の工夫を数々、していた筈なのです。

 食べ物についても、着るものについても、生活上の工夫は数々していた筈なのです。その延長上に辰巳浜子さんのスープはあると思いますよ。そこへ、やって来たコシノジュンコさんは、色合いの好みも、形も全く異なっているし、しかも、生活上の姿が、・・・・・そこどけ、そこどけ、お金が通る・・・・・と言う形でしょう。絶対に、鎌倉らしくないのです。誰も彼女を批判はしませんよ。そんな面倒くさいことに手を出しはしません。しかし、内心で、「別の世界の人だ」と思って居るでしょう。

 しかし、伊藤玄二郎と、井上ひさし(公的には死んだことにしていますが、実際にはまだ生きていますよ)の、二人が、川合夫人等を、動かして、コシノジュンコさんに、向かって、「婦人子供会館の、理事にご就任なさいませ」などと、誘いを、掛ける可能性はあります。そうするとコシノさんは、すぐそれに、乗っかって、相応の寄付金等を、払い、理事となり、その後は、「私は、婦人子供会館の理事ですから、すっかり鎌倉の、住人になりました」と、内情を良くは知らない、例えば東京の住民で顧客である人などに、向かって威張り返る事でしょう。

 それから、伊藤玄二郎は、辰巳浜子さんにも、彼女を紹介をして、二人が、共演をするテレビ番組等を制作するかもしれません。その可能性は大いになります。ただし、私にとっては、裏側がすべて読めているので、『おお、嫌だ』と言うしかない現象ですが・・・・・そういう風に宣伝をして貰って、ますます、雪ダルマのように、金もうけを重ねるのですねと、感じるからです。

  もう疲れてしまいました。ここから先は、有料の音楽会と、そのマイクの試験ちゅうと言ううるさい音の話とかに入りますが、上よりは、簡便な書き方になるのをお許しくださいませ。

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副題6、『ミッソーニは、ギリシャ風衣装を下敷きにしている。また、ミッソーニにデザインを頼むにしても、それは、コンペティションがあったわけではない。だけど、一過性のモノであった。鶴岡八幡宮をえらい場所として、持ち上げるための、オペラだったので、完成度が低くて、将来再演されることはないと、見做される。

 もし仮りにでも、再演されたら、一般のお客は高い切符代を出すはずはなくて、『その赤字補てんは、誰がするのだ?』と、大問題としなければいけない。ともかく、その催しは、大量の寄付金(企業から)で、賄われているのだけれど、自衛隊の、儀仗用制服となると、税金で、製作をされるものだから、今般みたいな、闇の中の取引状態で、終わってしまっては、困るのだ。国民の一人として、絶対に抗議をして置きたい』

 日本・イタリア友好記念の、オペラ【ジャパンオルフェ】の話(後注1)に入りたいのですが、それは、後ほど、別章で、その政治的な意味を、丁寧に、書く事とさせてくださいませ。ただ、総タイトルに含まれている【ミッソーニ】とは、そのオペラ・【ジャパンオルフェ】の衣装を担当したデザイナーなのです。そして、そのスタッフ、または、ミッソーニ自身が、八幡宮へも、事前に、見に来て、研究をしていますよ。だから、環境に適合をしていました。溶け込んでいました。

 そして、私は、その衣装に、例のコシノジュンコさんの、ブリキのおもちゃの兵隊さん風の儀じょう隊用、制服よりも、ずっと、高度な美的センスを感じました。大人と、幼稚園児ぐらいの発想の差がありました。コシノジュンコさんは、神楽坂女声合唱団の指揮とか、北京へ行くとか、忙しすぎて、仕事のやり方が、荒っぽくで、雑駁なのではないですか? 気が散りすぎている人。

 東京圏の住民にして見たら、稲葉よしえ、芦田淳、川久保玲などの方が、よほど、好ましいデザイナーとして、視野に入ってくると、思いますけれど。井上ひさしも東京圏のそだちではないし、伊藤玄二郎も成岡庸司君も、男だから、服飾については、センスがないのでしょう。こういう時には、まずコンペをする。そして、「コンペに、どうか参加をしてください」と、各有名デザイナーに、声を掛けるにしても、美的センスについては、何もわかっていませんね。だから、こんなおかしなこと、なったのでしょう。しかも、私の様なものにとっては、その政治的裏側が、見え見えだという結果が、招来したのでしょう。

 もちろん、ミッソーニも、無から、または、ゼロから、創作を始めたわけではなくて、形としては、ギリシャ風衣装を、採用しています。ゆったりと流れる生地の衣装を、改変しています。オルフェウスは、ギリシャ神話から出ている、モチーフですから。

 そういうわけで、コシノジュンコさんのケースも、儀仗用制服と言ったら、ロンドンの、有名な交代儀式に登場する、黒い背い高帽子をかぶった赤い制服の、儀仗兵を思い浮かべ、あれに似たものになるのは、仕方がないとはいえ、しかし、『少しは、日本的気配と言うものを残してほしかった』と、思うのですよ。今のデザインですが、あれでは、軽すぎる。どう考えても日本的要素が、ないし。

 なお、このブログですが、6日には、メインテナンスで、発信できないという警告が出ております。

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副題7、『コシノジュンコさんには、在日の出自が隠されているとは、私は、2017年4月4日のグーグル検索の結果、確信に至った事であった。彼女は、ヘイトデモに関する、モノ他の、政治的文章のチェックを担当しているらしい? どうして、デザイナーが、そういうことをする?・・・・・と、不思議でならないが、在日出自を持つものだけが構成しているソサイエティの中で、頭脳優秀だと、認められているから、それを、任されているのか? または、ソサイエティの中で、<私がやらないで、他の誰ができるのですか?」と、彼女が過剰な自信を示して、引き受けているとも考えられる。ともかく、日本人離れをした押しの強さと、激しさがある、人物の模様である。

 NHKの朝ドラで、主役の交代を主張したらしい。それは、世間の知る処である。横紙破りも甚だしいが,それって、士族階級のルールにどっぷりとつかって生きて来た、私などにすると、信じられない行動様式だ』

 今、書いて居ることが、非常に大きい真実なので、書かせてやらないぞと言う事なのでしょう。

 コシノジュンコさんの母親は、朝ドラの主人公になったのですから、大宅映子さんよりも大物だというわけで、しかも、彼女に在日の出自が隠されているなどと言う事は、書いてもらっては困る事なのでしょうね。だから、メインテナンスが入ります。

 特に自衛隊の、制服を、国籍が違う人などに作らせたら、大騒ぎですから、コシノジュンコさんの国籍は、日本だと、思いますけれどね。?????

 在日の出自ですが、グーグル検索を掛けるとコシノジュンコの項目の中に、彼女には、無関係だと、思われるヘイトスピーチに関する、項目が有ったりして、しかも、その項目の、案内として出ている数行の文章の中に、・・・・・監修がコシノジュンコ・・・・・と有るのです。『どうしてこんな文章の監修を彼女がするのですか?』と、疑問に思うモノばかりです。

 洋裁とか、デザインとかとは、まるで関係のない文章を、コシノジュンコさんが監修をするのですか?と、不思議ですが、

 彼女が、在日の社会の中で、相当に頭の良い人だと、認められていて、ネットサーフィンをする役目を与えられていて、これは、困るという様なものをチェックしていて、CIAエージェントたちに書き直させているのかもしれません。だから、自信があるのかしらね。

 しかも、それを写真に撮り始めたら、全体で、7つぐらいあったはずなのに消えていきました。 

   なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3969814です。

  2017年4月4日から書き始め、5日に推敲加筆をする。雨宮舜(本名 川崎千恵子)

 後注1、

八幡宮のオペラの実行委員に、元〇庁・長官が入っていたし、日本ユニシスと三井物産が寄付をしているので、私の被害に関する謎の解明が、大きく進展した△   2016-10-07 21:50:24 | 政治

 

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