銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

政府は幼保無償化の次に専業主婦にも保育園を解放する。上滝家とチヨコレート遊びと、横浜銀行の衰退

2023-12-29 22:23:05 | 政治

 

 

 

  この文章は、増田忠氏分析の四となります。前報と、時間を空けて申し訳ございませんでした。でもね。結構横道にずれます。それは、お許しくださいませ。私は、書く時の助走期間が必要で、特に難しい問題を書くときはそうなります。そして、1月1日の午前一時まで【増田夫人とうちの母の違いは?・・・母は私に全てを託して空の空となり旅だった・・・増田忠ー4】という総タイトルでしたが、その時点で次の物、さらに、一時間後に、三番目のもの(上)へと変更しました。

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副題1、『母の最期は、東北のお坊さんの入寂と同じであった。または、エリザベス一世と同じであると言うべきか?』

 私の母は、老人ホームへ入っていたのですが、92歳10か月目の夏に、「もう、何も食べたくない」という意思表示をして、それから、二か月、子供たちは、胃ろうや、点滴で、栄養補給をすることはやめて、水分だけ与えることにして、母は、水分だけで、生きて行って、二か月後、ほぼ、ミイラ化した状態で亡くなりました。お医者様の診断書では、死因は、「大往生」と、書いてあったそうです。

 最後のころの様子ですが、頭蓋骨に茶色くなった皮膚が張り付いているという状態でした。よく昼間見舞いに訪れている妹と弟がお医者さん、及び、老人ホームのスタッフと相談して、点滴で、与える水の量をどうするか、検討をしたそうです。最後の週は、500ccと、定めたそうです。一日に、そうなのか? 一週間で、そうなのかは、知りませんが、。。。。。

 これは、威張るために言うのではなくて、たぶん、本当のことだと思うから言うのですが、母がものを食べなくなったころ、不思議な話をしました。よく夜に見舞いに行く私に対して、ベッド上の母が、「ここに妹が居るでしょう?」と、言うのです。同じ部屋に、もう一人、別の人間が居ると、言っているみたいでした。しかし、現実には、母と、私の二人しか、居ないのです。

 私は母のその時の、妹と言う語彙が、本当の妹・喜美子を、さすのだと思っていたので、「喜美ちゃんは、この部屋には居ないわよ。もう、帰ったのよ」と、言いました。すると母は「いいえ、違うわよ。喜美ちゃんじゃあなくて、別の妹よ」と言うので、私は、大いにと惑いました。でも、ふとあれを指しているのではないかと、きがついて、「お母さん、もしかしたら流産をした?」と聞きました。私も一回、知らないうちに流産をしていたことがあります。お正月の休みで子供が学校へ行っていないので、病院へ行けませんでした。また、休みが終わっても、まだ、小学校低学年で、早く学校化から帰ってくるので、なかなか病院へ行かれず、ほぼ、一週間も動脈が開いたままに放っておいたので、実際に病院へ行ったときには、病院側から大きな誤解を受けたのです。

 お医者様が、・・・・・これほどに、我慢をするとは、私の精神がものすごく強いのだ・・・・・と誤解をして、麻酔をかけないで、掻把(部分的に残っている胎盤等を、子宮壁からはがす手術)を、したので、私はダメージがひどくて、顔色が、緑色になったらしいのです。気持ちも悪いし、むろん立っていられないし、座っていてもさらに寝たいぐらいでした。」で、そばにいた患者さん達が「先生、この人死にそうです」と、騒いでくれて、やっと先生が、事態を正しく把握して、「原因は麻酔をせずに掻把したことに在ります。申し訳ございませんでした」と謝罪をしてくれました。

 母も大体似たような経験をしたらしいのですが、場所が、東横線・武蔵小杉だったので、風土上、患者さんが大切にされるところなので、麻酔なしで、掻把するなどと言う乱暴な処置はなかったでしょう。ただ、麻酔が効きすぎるタイプで、それで、死にそうになって、大騒ぎだったそうです。

 私の方は、横須賀、京浜急行・横須賀中央駅最寄りの病院でしたので、やっぱり風土上は田舎なのですね。お医者様の方が、上だと、言う認識の風土。だから、麻酔も無しに、掻把されてしまったのです。無論のこと、「これは、流産ですよ。今から掻把します」と、言う説明も無しに、掻把されちゃったのです。出産以上の痛みでした。本当にすごい痛み。で、ショック状態に陥ったのです。精神的にではなくて、肉体的ショック状態です。動脈がひらっきっぱなしの一週間で、大量の赤い赤い、鮮血も失っていたので、それも悪かったのでしょうが。。。

 で、そういう自分の経験を思い出しながら、「お母さん、その、流産した、赤ちゃんのことを(今)思い出しているの?」と聞くと、 「違うわよ。ほら、妹が、今、あんたの目の前にいるでしょう?」と言うのです。私は、所謂ぜいもうが、これを言わせているのだと判断をして、それ以上は、質問をせず、無論、反論もせず、黙っていました。

 しかし、以前、6冊目の本にそれを入れたと思うのですが、あれが、ターニングポイントだったと思っています。つまり、母は、自分が、娘であり私の妹であると、言ったのです。それは、どういう意味合いを指すかと言うと、『ねえ、ちっちゃん(私を母が呼ぶときの名前)、私は、自分のすべてをあんたに理解してもらったとおもっているから、自分の方は、もう、空も空、何も残っていないのよ。この世に、思い残すことはないわ』と言う事だったと。

 この5年ぐらい前に、自宅だと、パソコンの仕事ができない時期があって、外のパソコンを使っていました。ネットカフェで、外のパソコンを使いながら自分のパソコンを充電して、お昼を食べながら錦糸町のジョナサンで、自分のノートパソコンで仕事をしていました。すると、隣の席で、カウンセラーが、企業の、労務担当の、課長と話しているので、「すみません。一時間で、一万円支払いますので(今から16年以上前の相場です。友達がかかったことがあって、そう教えてくれていました)、私の方も、話を聞いていただけませんか?」と、言って相談に乗ってもらいました。

 しかし、これは、今思うと、仕込まれた出会いだったと思います。私のノートパソコン、および、私が編集しつつあった書物用ファイルは、microsoft word で、作っていたのですが、そのソフト=アプリを使った、fileには、すべてに隠しファイルというものが、入れ込められていて、インターネットで、つながっていると同じ機能があり、どこで、仕事をしていても、把握をされるのです。で、二時間分の編集が、あっという間に白癬化して、消えてしまったことが何度もありました。今は、ブログで、書いている場合は、防衛と復活ができる様になりました。しかし、ワード単体で、仕事をしているときは、復活ができず、また、入力をし直します。とても大変な人生ですが、それだけ、私の書いているものあ高度なので、人気が出たら大変だと、思っている連中が、これを、やっているのです。まあ、精神的に悪事を考え出す人間と、機械的に破壊を実行する人間は、別ものでしょうが。

 その買うセラーが、雪の下二丁目の谷戸からは、引っ越した方がいいというので、は、ハーン、敵さんが、いわゆる、回し者として、この人を派遣しましたねと、思った次第です。

 でも、その後、ネットで、この人が出てきたので、本物の、有名カウンセラーらしいですよ。誠実そうな人ではありました。

 ただ、このエピソードをここで、さらすのは、思いがけない知識をこの人が与えてくれたからでした。それは、母と、私の関係において、長幼の序は、逆転していて、実はわたくしが、母を支えているのだと、言ってくれたからです。私が、実の母にとって、母親みたいなものなのだと、いうことらしいのです。そういえば、銀座で、一種の美術評論をしていた時期にも、「川崎さんって、まるで、お母さんみたい」と言われていました。

 そして、これが、増田忠さんと関係があるのです。私は、あの最晩年の増田さんと付き合っていた、1907年ごろ、実は、増田さんの、保護者の役目とか、カウンセラーの役目を果たしていたのでした。

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 う、今、2000字消えました。すぐさま、再入力しましょう。クラウドに乗せていなかったので、復活が無理です。うえに書いたとたんに、やられてしまいました。悪い奴ら目!

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副題2、『増田忠さんは、家族の愚痴とか、悪口を言わない人だった。だが、客観的にみていると、もう、一人で、自分を支えきれない段階に達していたのに、子供に救い(=生活の上での同居、または、老人ホームに入れてもらう。費用は、子供が負担をする、という救い)を求めない主義の様だった。私は、それが不思議で、今、この文章を書こうと、取り組んでいる段階だけれど・・・・・

 他人の悪口は、平気で言う人だと思う。それは、賢いといえば賢い方法だが、私としては、憤懣やるかたない。

 だって、第二期の交際期間では、増田さんは、それこそ、幼児がえりをしたといってよいほどに、私に甘えていたのだから。

 例えば増田忠さんの結婚だけれど、義姉と、自分は初婚、相手は子供連れの未亡人としての再婚、などという話は、お子様二人ともに知らなかった話であろう。私は、上の、お子様が結婚をするときに、彼女にだけは、真相を話したらおいおい泣いた。だが「お父様ありがとう」と言ってもらえたのだ・・・・・と、聞いている。

 私は、そのエピソードを聞いて、まず、だから、増田さんは息子と同居(同じビル内に住む。生活は、完全に別)を、甘受し、お嬢さんの方には、助けを求めないのだと、理解をした。

 もう、腰が、90度曲がっていて、しかも、痛いのだそうだ。それで、金属製の、むき出し型の外階段を三階まで、上がっていくのは、本当に苦しいことだと思う。私の忠さんとの、大人になってから始まった第二期の交際は、こうして、圧倒的なレベルでの、同情心から始まっているので、ほとんど、自分のことはしゃべらず、増田忠さんの言うことを聞いていた。是って。期せずして、最上のカウンセラー役を果たしていたということになる。

 しかし、「お金なくなっちゃったのよ。ちえこちゃん、お昼ごちそうして」までは、良い。だけど、室内の写真を見せながら「ちえこちゃん、僕のベッドを整頓しに来て」には、ぎょっとした。

 この時より、2年後、ニューヨークで知り合った女性が、自分の部屋に招いてくれたことがある。私は、マンハッタン島以外の地域で、800ドルで、2DKの独立したアパートを借りていたが、彼女は、シェアルームを、マンハッタン島内で、借りていて800$ 出しているとのこと。大変親切な女性だった。が、室内に入ると、ベッドの上に、金属パイプが渡してあって、ピンクのセーターや、カーデガン(ニット類)が、40着程度、かけてあった。「あ、母国に帰った時に売るのだ」と考えたが、増田忠さんの、ベッドは、まさに同じ状態で、ただパイプにかかっている洋服が、ニット類ではなくて、ウールの黒の、ジャケットやら、おズボンだった。それが違うだけだった。でも、マンハッタン島の女性の使用しているベッドは、サイズが大きい。だが、増田さんの部屋のベッドは、小さかった。だから、NYでは、パイプにたくさんの洋服がかかっていても、ベッドに、腰かけるスペースがあった。私と彼女は、だからベッドに座って歓談をした。でも、増田さんのベッドは、きゃしゃな増田さんが、寝るサイズしかなかった。そして、その上に皮のベルトが通ったままのおズボン等が下がっているのだ。これじゃあ、布団と、お洋服の間のスペースが、40~50cmしかない。若い人なら、なんとかなる。だけど、70を越した人は、休憩をしたいのだ。だけど、きっとソファーや、ロッキングチェアを置くスペースなどなくて、ベッドに腰掛けるのが、唯一、休憩をとる場所であろうに、そこに、座れないなんて、なんということだろう。そうか、雨の日など、ずっとベッドに寝ている。それが腰を痛めた原因だろうと思いいたった。母の老人ホームも台所が、ない・・・・という以外はほとんど同じ形式のワンルームだったが、共用のダイニングとリビングがありソファと、90度背を立たせる形の椅子があった。どちらかを選んで、新聞や雑誌を読んだりできるのだった。そこと、自室との往復、おフロ場と、自室との往復。そんな些細なことでも、動きの種類にヴァリエーションができます。そういう運動でも、老人が体を健康に保つのに役立つのです。

 どうしたの? 増田さん、日吉のあなたの家は、土地の名義が、ママのものだったのかしら? ママは、遺言書を書いていて、ぼっちゃまに、60%を譲るなどと、書いてあったのかしら。で、お嬢様が20%、ご自分が、20%だったのですか?

 でも、ともかく日吉の家を売らせておいて、こんな、みじめなスぺースにパパを押し込める‥…不思議な坊ちゃんですねと考えていた。増田さんの言葉が、「セックスしましょうよ」の暗喩だとは無論わかっていたが、そこに頭を割くよりも、老人、特に親に対する子供側の、心理(無理解度の大きさ)にただただ、関心が行っていた。

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副題3、『第一期交際時に、ジャンコクトーの詩【耳】を東横線車中で、教えてもらっていた。・・・・私の耳は、貝の殻、海の響きを懐かしむ・・・・16~18歳までの高校在学中に、東横線車中で増田さんが、教えてくれたこの詩は、1925年出版の堀口大学訳詩集【月下の一群】に出ているそうだ。だが、増田さんが、日本語でそれを語ると、・・・・・あ、この人、フランス語も、知っているのだわ。きっと、フランス語でも、暗唱できるのよ』と思った。それが、1958年から、1961年までの、話で、それ以前、1950年からは、毎晩11時過ぎに、増田さんが、奏でる、グァルネリだと思われる、美しい音色を聞いていた。参った、参った。どうしちゃったの? 増田さんと、思う。かつ、当日は、これは、ジョークだろうから放っておけば、自然に消滅すると、考えていて、返事もしなかった、セックスへのお誘いが、次の日の早朝5時からの長電話になるなどと、どうして、理解ができるだろう。

 増田忠さんは、メンターとして、指導をするというタイプではなくて知識を与えるという指導者だったが、目を輝かせながら、吸い取り紙の様に、瞬時に話を理解をして、尊敬のまなざしを向ける私は、自分に喜びをもたらす存在だったと思う。その感謝の気持ちが、その30年後に、大切に、思う気持ちにつながっているのに、どうして、それを壊しちゃうんですか?と、深い深い怒りにかられた。特に次の日の早朝、

 灘るっこしくて、ずるい電話をかけてきて、私が暗喩の意味を正確に察しているかどうかを探ろうとされたのには、怒りが、三重ぐらいに膨らんだ。

 娘が、お母さんは、切れたら怖いという。それは、彼女が三歳程度の時に、西南隣の五歳の女の子が、幼稚園に通わせてもらえず、毎日我が家に遊びに来たが、親が、かっこうの托卵よろしく、幼稚園の月謝を払いたくないので、私を利用しているというのを見事に察して、私のことを小ばかに仕切っていた。父親は、銀行マンだから、お給料はいいはずなのに、投資資金でも、ためているのか、その子には袋菓子を買って与えていないらしくて常に、五袋ぐらい、準備してある、我が家の引き出しから、袋菓子を盗み出して、勝手に食べてしまう。叱っても、叱っても言うことを聞かない。で、押し入れに隠れて食べている現場を母親を呼んできて見せた。これで、やっと、その子は、よそのおばちゃんをなめたら、とんでもないことになると学習したであろう。そして、娘もお母さんって、すごい決断力があると、三歳にして理解をしたのだった。お母さん=千恵子さんを怒らせたら誰にとっても、とても怖いことになるのだった。

 増田さんが子供のころに与えてくれたヴァイオリンの美しい響きをはじめとする、数多い恩恵は、その早朝の長電話で、一期に消え、思いは、逆転した。私は、一時間は我慢をした。が、午前六時になった時に「増田さん、会社に行く息子の朝食を作らないといけないので、ここで、切ります。もうお電話は、よこさないでください」といった。彼には衝撃だったと、思う。で、増田さんは、この第二期の交際が、始まった日と同じく、曲がった腰を、いたわりながら、日吉・常盤台・バス停から、西へ向かう急坂を上って、沢野邸へ向かい、そこに寺沢夫人も呼ばれて、私の悪口を言い合う大会を開いたのだった。そして、それがその20年後に、小田歯科医院の院長先生のいじめに出会い、びっくりして、あれこれ書き始めると、水沢勉・現・葉山の美術館・館長を守るために、ゾフルーザ問題が、まず、メディアで取り上げられ(沢野家は、塩野義製薬勤務である)、その次に、カリタス小通学バス襲撃事件が起きてきた。寺沢家のお嬢様二人が、1970年代カリタスに通学していたからだろう。

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副題4、『私を救うものは、考えることで、それは、文章に落とさないと頭が破裂する。その文章だが、登場人物を実名で、しかも、公開で、書いているのは、そうしないと暗殺されるからである』

 で、今、書いているこのシリーズだが、増田忠さんに対する、復讐のために書いているのではない。私は、考えることが大好きであり、考えることが救いになっていて、どんな被害にあおうとも、平静に、普通の生活を送ることができている。で、考えた結果だが、それは、文章に落としておかないと頭が堂々巡りをして破裂をしてしまう。で、このシリーズも自分の、ストレス解消のために必要な考察の記録である。

 この間、用事があって30年前、礫というグループで、一緒に勉強をした、そして、そのころ以降永年にわたって新制作の会員である・馬緤さんに電話をかけた。すると彼女が、「あなた、今、何をしているの? どこで、発表をしているの?」と詰問をしてきた。で、「ブログを書いている」と答えたが、まったく理解がされなかった。で、「川崎千恵子は、ひとかどのアーチストとしては、終わったんだ」と、みなされたと思うが、今は、これで、いい。

 :::::::::ここで、次の日に挿入します。私は誰に引っ張ってもらったわけでもなくて、美大を卒業してもいないのに、女流展とか、国展にさらっと入選します。そして、国内外で、9回も個展をしています。CIAに弾圧をされているので、有名人としては、浮上できないのですが、実物を見た、海外の有名人(ニューヨークの二つの美大のFINE・ART学部・部長・教授など)が、皆さん、驚いて刮目をしてくださるので、センスの良い画家・版画家なのです。だが、国画会で、大勢力者島田章三さんの後ろにCIAエージェントが居るのを悟ってしまったし(これは、北久里浜の旧水道山をめぐる大・実質的詐欺事件が関与しています)、銀座で、個展をしようとすると、今度は、野見山暁次さんが、ギャラリー山口に、私が居る時間帯に、千里さんを伴って現れ、「川崎千恵子には、親切にしないで、欲しい」と、私が、帰った途端に、命令してしまうのですから、もう、面倒くさくなって絵画とか、版画の発表をやめてしまったのです。しかし、父が、毎晩油絵を描いていたので、一種の二代目として、あまり、物おじをしないで、上野の公募団体展に入って行ったのですよ。父は、美大卒ではなくて、石油の技術屋だったのです。ただ、日本は、石油が、欲しくてたまらず、中国で、それが、出ないかと、期待をされていたので、普通のサラリーマンより優遇をされていて、戦争に行っても、すぐ帰る事が出来たのでした。で、父が、満鉄、中央試験所時代に、中国の遺跡を油絵で、描いて、安井曾太郎氏に絶賛をされて、新聞記事になったり、ラストエンペラーの宮殿、甘粕大尉(当時、満映理事長)とか、満鉄総裁の部屋を飾っていたのです。で、増田さんが、夜の11時から、ヴァイオリンを弾くのと、まったく、同じ様に、うちでは、父が、夜の11時から、油絵の小品を居間で、描いて居ました。じゅうたんの上に、正座して。(別室は、寒いし、は亜hがそばにいないと、寂しいのでしょうね。男って、子供です。大体において。あ、は、は)で、私はね。自分にアートの才能があるのは疑っていないのです。だけど、本当に、面倒くさいことになって来たし、山口みつ子さんが、そういう傾向の抵抗して、ずっと親切にしてくださったために、殺されてしまったと言う事があり、それが、一番、いやな事であり、アートシーンから身を引いたという形になっています。山口みつ子さんが、自殺したと言う毎日新聞での、文字による報道や、読売新聞の入り口の写真を使って暗喩的に、自殺だとした、それらを、否定するために、このブログを書いていると言ってもいいでしょう。私は、自分一人のために戦っているわけではないです。千里さんと銀座でもし、出会っても、ひるむことはないです。別に喧嘩を仕掛けるわけでもないが、ひるむこともないです。一緒にお茶してもいいですよ。::::::という挿入を入れて、元の文章に戻ります。::::::::

 ところで、それなら、非公開で、書けば? とおっしゃる方もいるだろう。だが、すでに六回は、殺されそうになっている。どうしてかというと頭が良いことが、1965年ベイカーさんという イェール大学からの交換留学生に見つけられてしまったからだ。ただ、眉をひそめただけで、彼に一回殺されそうになっている。旧中島飛行機の滑走路で、後ろから、首を絞められてだ。

 で、増田さんがどうしてあれほどに変化したのかが、不思議である。で、それを解明する一手段として、・・・・靴下修理のエピソード・・・・・を取り上げよう。これは、すでに一回書いているが、その時とは、まったく違う深みをもって、再度取り上げる。

 私の母は、父の会社の経理を担当していたので、ものすごく忙しいので、常にお手伝いさんを雇っていた。だんだん、見つけるのが、上手になっていたのだが、一番最初は、家を建ててくれた大工さんの紹介で、元全日本クラスのバレーボール選手が静岡県からやってきた。彼女は、離婚経験済みで、母とは、5歳程度しか差がなかった。そして、自分の子供もいるらしかった。だが、新聞に載るぐらいの選手だから、東京で、富裕な暮らしをするのにあこがれていたらしい。で、母を追い出して、父と結婚しようと考えていた。私はたまらず、父に、「こういうことだから、あの人をやめさせて」と頼んだ。父は、鼻を長くして、彼女の媚に、悦に入っていたが、私の方を選んでくれた。

 このころ母は、女医さんに、紹介してもらうという方法をまだ、思いつかなかったので、我が家から、100mぐらいの近傍に住んでいる、奥さん=Nサンを雇った。

 このNさんは、現在の朝ドラの主役、福来スズ子さんの実家と同じく、銭湯を戦時中まで経営していた。蒲田だったという話だ。しかし、戦争で、焼けてしまった。

  この章のサブテーマは、実は、戦争だ。我が家も、大きな被害を敗戦によって受けているのだが、増田家も、戦争の、被害を被っている一家だった。増田忠さんに諦観がある模様だとすでに言っているが、それは、中島飛行機の、消滅とか、忠さんの兄の死とかが絡んでくる。我が家にもものすごい被害が襲っているのだが、今、それに取り組むと、100万字必要で、この章が、終わらなくなるので、ただ、我が家も大きな被害を被ったと、だけ、言っておこう。

 さて、そのお風呂屋さんの奥さんだが、夫が、働いていなかった。男が、元お風呂屋という商売をやめて、すでに、40代後半だとなると、再就職口はない。しかも、昔は、日銭が入るお金持ちだったので、今更、建設現場で、人夫(=ニンプと発音する。今の作業員のこと。当時は、こう呼んだ)として働くなど、できないプライドもあった。で、奥さんは、急に貧乏になったので、仕方がなく、お手伝いさんを始めたのだった。で、スズ子さんの母親=水川あさみとは、違って、でっぷりとした、林真理子スタイルで、肝っ玉母さん風であり、如何にも庶民的だった。ぐわっ、は、は、と、大口を開けて笑う様なタイプだった。

 ところで、この人を雇ったら、突然に増田夫人が乗り出してきて、「うちにも来てください」と頼んだらしい。で、この人は、週に四日、我が家で、週に三日は増田家で、働くことになった。前のお手伝いさんは、静岡県から来ていたし、24時間泊まり込みだったので、増田夫人は手を出さなかったが、今度の奥さんは、100mぐらいの、近傍に住んでいるので、町内会は、違ったが、すぐ、手を出すことができるのだった。

  ある日のこと、この奥さんが我が家に来て、こういった。お茶のみ会の、時間だったと思う。「ね、ね、奥さん。増田さんちって、とっても変わっているのよ。小さな黒板があってね。そこに、パパがね、・・・・ママ、靴下の修理をしてください・・・・って書いているの。そして、そばの壁に穴の開いた靴下が画鋲で、とめて下がっているの。・・・・ぐわっ、は、は」と。そう。お風呂屋さんを経営していた家族だ。大家族。そして、家族間の協力と連携は、日常茶飯事の、必要事項だった。だから、黒板にメモを書いて、連絡しあうなんて、彼女にとっては奇異なことだった。だけど、その話を聞いた母は、すぐさま、その家に飛んで行ってNさんの妹と交渉をした、「あなた、すみませんが、我が家に来てくださいませんか? お姉さんの方は、増田さん専任にして」と。で、そういう風に変更になった。

 母は、今でいうプライバシーの保護という観点で、二つの家で同じ、お手伝いさんを雇うことの危険性に気が付いたのだった。

 ここまでは、今まで、書いてきた。しかし、本日は、二つほど、新しい考察を加えよう。

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副題5、『増田夫人とは、どういうコネを使ったのかは知らないが、表向きは、編入制度のない学芸大学付属小学校へ、お嬢さんを編入させた。それは、私が、横浜国立大学附属中学校へ、ほかの受験生に、50点の差をつけて、一番で、合格したということが、当時は、人口五千人ぐらいの日吉の街で、大評判になった年のことだったと思う。特にご自分宅の私塾で、私に受験勉強を教えてくれたM夫人は大得意で日吉台小学校の担任の先生(石川先生、私の担任ではなかった)に教えたと推察される。石川先生は日吉駅前の薬局のお嬢様で、日吉地区代表で、市会議員に打って出るさまな方だから、人脈が広くて、私は、日吉の街でいささかの有名人であった。一方「パパは、二眼レフで、運動会へ、向かうそこのご長女様と、二歳上の私を一緒に写真にとってくれたほどで、それほど、強く、差別をしなかったが、増田夫人の、対抗意識は、相当なものだった

 私は、子供心に、増田夫人が非常に勝ち気で、我が家に対抗心を持っていることに気が付いいてた。実は、このことは長らく秘めていたことだったが、事実だろう。増田夫人は、人間として、未成熟で、わがままなところがあったと思う。それが、どうして、そういう風になるかというと、原節子に似た美女であったということと、実家がお金持ちだということが、そういう彼女を作っていたと思う。これは、ほかのケース(副題5の、サブタイトルで、書いた通り)でも、うかがえることだった。

 今は海外駐在員というのが多い。中学生とか、高校生で、海外派遣をされると、日本の大学受験に不利となるので、親は若いうちに出掛ける。で、「子供が、いったん付属小学校へ入った後で、三年と、四年だけは、ニュ-ヨークにいました。五年で、帰国しました。だから、編入させてください」と、いえば、編入させてくれると思う。だけど、増田家は、海外にいたわけではない。そして小学校の段階での編入は明文化は、されていない制度だ。どういうことが裏であったかというと、増田夫人の知人か、親せきに、付属小で、PTA三役を過去にやった人がいて、校長先生と懇意だったりしたら、可能なことかもしれない。

 でも、国立の施設でこういう特例が認められるのは、いやなことだと思う。東大への推薦制度も、その一つで、それが、政治的に利用をされえ居るので、日本が暗くなっている一要因だと思う。お嬢さんは、のちに慶応大学に入るのだから、頭がいい。普通の形で、私立中学受験をしても大丈夫だと思う。だけど、増田夫妻のどちらかの過去に、中学受験時に、不合格があったと仮定すると、こういう風な用心をする可能性もある。増田夫人は、神戸の人だから、神戸女学院が最高ランクの入学先だとなる。でも、そこがダメだった過去があれば、ああいう用心をする可能性はある。

 増田夫人は、この編入の前、もっと、お嬢さんが小さかった時に、刺しゅう入りのブラウスを着せて婦人之友のグラビアに載せていた。すべて、「我が家は、上流で、ございます」という示威だったと思う。ただ、増田夫人ががんで亡くなる前に支配していた主婦の数は、五人にも、満たなかったと思う。それが、この雪ノ下二丁目の、前田清子さん、安野智紗夫人をトップとする支配とは、異なるところだった。理由は、さらに、上を行く賢い主婦がいたということに尽きる。派閥とか支配とか、上下関係とかからは、自由でいたいと考えている人もいたということ。「

 そして、誠実さの問題だ。お手伝いのNさんが、小さな黒板に書いてあったパパからの伝言「ママ、靴下を修理しておいてください」というのを見つけてしまったのは、ひとつには、パパに注目をしていなくて、黒板の命令をすぐさま実行をしなかったので、10時に来るお手伝いさんに、見つけられてしまったということ。それは夫に対して、不誠実だと、いうこととなる。

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副題6、『しかし、2023年の今、私は、もっと、違うことに気が付いてしまった。実は、増田夫妻は、音声を出す言葉で連携が取れないほど、仲が悪かったのではないかという説である。

 それを私は、戦争のせいだと思うのだ。戦争で、兄が亡くなったと仮定しよう。戦死ではなくて、結核などの病死としても、あの頃は、栄養が足りない時期で、かつ、結核に効く薬が、まだ、無かったので、バタバタと、知的な感じの青年(今でいうお宅系とか、草食系という男子)が、死んでいったのだった。

 で、これは、もう書いたと思うのだけれど、公開されているブログの中では、見つけられないので、裏から消された文章があったので、そこの部分かもしれない。だから、もう一回書いて行こう。増田さんは、それをお子様にも言っていなかったらしいが、実は、奥様は、初婚の人ではなくて、兄のお嫁さんで、既に、お嬢さんが居た女性だった。

 増田さんは、諦観の人だったと、私はどこかで書いている。お見合い結婚だけだったあの頃、増田忠さんは、、自分は、結核を、患っているから、釣り書き(身上書)にそれを書く限り、良い家の、良質なお嬢様とは、結婚が出来ないだろうと思っておられた様な気がする。

 義姉(=勝ち気で、我が家をライバル視していた奥様)の方は、あの時代だと、良家のお嬢様で、女子大などを出て居ないとなると、良い職業につくのは、無理で、したがって、慶応でのサラリーマンである忠さんなら、いいわ、良かったというところだろう。増田夫人は、原節子似の美貌の人である。そして、実家は、お金持ちで、有力者である。忠さんにとっても、理想の相手に見えただろう。

 しかし、結婚とは、いろいろな側面を伴うものだ。特にセックスの側面で‥‥もし、増田夫人が前の夫の方が肌合いが合うと、感じて、それを、つい態度で、表現してしまったら、どうだろう?

 増田夫人は学校の偏差値という意味では、お成績は良かったと思う。だけど、苦労知らずの、お嬢様特有の、自分勝手なところはあった。増田家は、忠さんの好みだと思うのだけれど、ケヤキとか、シラカバなどの背が高くなる落葉樹を植えていた。そして、植木屋さんを雇っていなかった。だから、秋から冬にかけて、落ち葉がひどかった。雨水を流す側溝は、当時は増田家側だけあって、蓋がない形式だった。母は、おお手伝いさんが、帰った後で、竹ぼうきで、たびたびそこを掃除していた。で、母が掃除をしているところから、増田夫人が編み物をしている部屋までは、6mぐらいの距離だったと思う。増田家は、日吉の家もコンクリート製(リフォーム後の話)だったから、音は、聞こえないと仮定しても、母の姿は見える筈だった。二人は、増田夫人が癌で、入院してしまう前まで、40年近く、隣の人として、暮らしたのだけれど、その間、増田夫人が、自宅の葉っぱを片づけたことがないそうだ。

 ここで、上に書いた、お菓子を盗み食いをするお嬢さんの話に戻る。その母親なのだが、上の、男の子は、かわいいらしい。男の子の方は、二年間(当時の平均)ちゃんと幼稚園に通わせた。そして、男の子の友達の母親とはママともとして、一緒にお買い物に行ったり、自宅にあげて、お茶したりして交際をしている。にこにこしながら、我が家の居間から丸見えの、南側の道路を使って、買い物に出かけている。私は毎日、毎日、その家の五歳のお嬢ちゃん(お金をけちるために幼稚園に入れてもらっていない)の面倒を見ている。特にお菓子を盗み食いされるのには、本当に困った。最初に気が付いたのは、二人が、全く音を出さない時間がある事だった。会話がない。どうしたんだろう?と思うと、主人の事務用机の下に、隠れて、袋菓子を食べていいる時間帯だったのだ。で、夜になって気が付いたのだけれど、そこに、ビスケットのかけらが、落ちていた。

 私が特にイライラしたのは、彼女が、毎日お礼に来ないのに、お兄ちゃんの友達のママ友とは、にこにこしながら、楽しく楽しく午後過ごしているからだった。本当に腹が立った。だから、ある日、押し入れ下の段の、客布団の間に、挟まって、例のごとく、お菓子を盗み食いをしている、午前、9時半ごろ、母親を招いて、現場を見せた。お嬢ちゃんは、震えあがっていた。これを無記名で書いていた。と言うのも、全く同い年の子供を持って居る8050ママに、こういう事を相談したかった。と言うのも私は、ご近所に悪口を言わないのだが、上滝夫人は、ご近所に悪口を垂れ流していて、私が大損をしているからだった。しかし、8050ママは、「あら、私はね。ご近所付き合いはしないの。だから、愚痴を言う必要はないのよ」と言った。私は、「えっ、そんなことで、子供は育たないわよ。何を威張っているのよ。私に、協力しなさい」と言いたかったが、8050ママは、成果主義の人で、社会的に地位が高い女性で給料も高くもらっている人しか尊敬をしなかった。そう、相手に、子供が居なくても、<<<オックスフォード出版会に勤めています。訪問すると、港区内の特に有名レストランで、ランチをおごってくれます>>>という形で暮らしている葉っぱちゃんにしか、相談をしないのだった。

 上滝夫人に戻る。私が人生で、もっとも、迷惑をかけられて、イライラさせられた女性が、上滝夫人だった。で、これをメルマガか、ブログで書いたので、さっそくCIAエージェントは、彼女たち一家に飛びついた。で、お父さんが、勤務していたときわ相互銀行(当時の名前・・・・現在は、東日本銀行と改名している)を横浜銀行と合併をさせ、コンコルディア銀行と名前を変更させたのだった。これは、横浜銀行にとっては、大損だったと思う。

 横浜銀行とは、神奈川県の住民にとって、大変便利な銀行で、三菱UFJ銀行よりも支店が多い。例えば横須賀市だが、三菱の方は、たった、一行であるが、横浜銀行は、6支店ある。だけど、鎌倉支店を見る限り、規模を縮小している。一階の広いスペースを、接客用に使い、三菱UFJ銀行と、ほぼ同等だったのに、今では、三階にスペースを写して、かつ、縮小させてしまった。裏駅(=西口の事)に在ったATMも閉鎖させた。

 上滝夫人の、あのとんでもない、他人を利用するだけ利用して悪口を言っている悪辣さが、

そして、さらに、上滝家を保護するためにたぶん、部下である、遠藤某を我が家の西隣に住まわせたうえで、そこのお嬢さんを養老孟子先生ご夫妻と、川合良一ご夫妻の仲人で、妙本寺へ、お嫁入りさせた。この件は、もう書いているので、後で、リンク先が、見つかったら、ここに置こう。

 そして、上滝夫人は、幼保無償化という政府の施策を招いた。これだが、このことによって、幼児教育は、ビジネスと化した。国庫から垂れ流される、お金を使うほどに楽な商売はないからだ。で、商売として、幼児教育を行う子供園が増えたので、送迎バスの中に置き去りにされた子供が、運転している経営トップの注意も引かず、担任の注意も引かないと、言うダブルの不注意で、熱射病で、死ぬと言う様なことが起きるのだった。

 ここで、午前二時半になりました。元旦の準備をしないといけないので、中断します。

 だが、ちよこレート遊びとは、この上滝家が、私に意地悪をするために、特に大・実質的詐欺事件の際に、昼間行ったものです。

 しかし、その後、2012年過ぎに前田家が、孫を使って、二度か三度、夜行い。それに引き続いて、関本家が、子供を使って、同じく夜行いました。まったく安全なことをやっていると思っているでしょう。だが、あれは、上滝家が、私に恥をかかされたから、我が家の子供を阻害してやろうとして始めた事です。したがって、前田家は、子供園の送迎バスに取り込野されて亡くなった、お子様方の事件に、1%ぐらい関与しているという事になり、関本家は、一階なので、0.5%関与しているという事になります。

 今、あの上滝家のお嬢さんから、毎日、毎日、お菓子を盗み食いされた時代から、50年(正確には、48年)後です。私は、良く、神様はいらっしゃると、言っています。浜銀・鎌倉支店を見ていると、経営上、もうけが少なくなったのだろうと、感じています。浜銀は、彼ら悪人たちに協力しすぎです。上滝夫人の行った悪から始まっていることに協力をし過ぎです。被害は、鎌倉支店だけに、終わらないかもしれませんよ。早急に改善しないと。

 それから関本夫人に言いたいです。だれが、あなたに「こういう事をやりなさい」とチヨコレート遊びを、命令しましたか? 夜、子供を遊ばせる。それに、千代子レート遊びなんて言う、小学校低学年までが、興味を持つことを、もう、大きなお宅のお子様にやらせるなどと言う、異様なことを命令された際には、

 もしそれを、実行すると、必ず、雨宮舜(本名 川崎千恵子)に、ブログで、詳細に描かれるのだと、ちゃんと覚えてくださいね。

 前田清子さんの方は、使ったのは、孫です。一緒に、この雪の下の山には、住んでいない。だから、まだ、通園バスに取り残されて、熱射病で、亡くなったお子様たちの、無念の、思いの、影響力は、関本家よりも、少ないかもしれない。その上、前田清子さんにやられた事の総体があまりに大きくて、そこから、出来した損害もあまりに、巨額なので、私には、彼女に注意するつもりは、もうありません。・・・・おやりなさいよ。勝手にね。なんでもご自由にね。でも、神様の采配が、何時、顕現するかは、わかりませんよ・・・・・と、だけ、言っておこう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『増田夫人が、自分の家の崖に付属している側溝を、私の母が、掃除したり、そこや、道路に、散らばっている、落ち葉をかき集めたりしているのを、気が付いて居ながらも、何も感謝の挨拶をしなかったのは、私の母を相当にいらいらさせたと思うが、

 ここで、なぜ、増田夫人が、道路掃除をしないし、母がしていても感謝をしなかったのかを、考えてみよう。』

 私が、推察する一つの理由は、増田夫人は、道路掃除など、庶民とか、人夫とか、女中のやる仕事で、自分は、そういう階級の出自ではないから、やらないで、いいのだ‥・・・と、考えて居たと思う。だけど、それって、頭が固形化しているという事だ。やはり、現実に添ってほしい。誰か他人に助けてもらったら、お礼は、言うべきだと思う。

 で、後年、増田夫人が亡くなってから、この件を、私に向かって、母が笑いながらも愚痴った際に、私は、自分の考えて居ることについては、何も言わなかった。だって、母を女中程度の階級の人間だと、増田夫人がさげすんでいることが分かったので、母がかわいそうだったからだ。

 だけど、晩年に至るにつれて、母の方が圧倒的に金持ちになっていく。海外旅行は、自由にできるし、お土産には、上等な生地(ジャワ更紗とか、サリー用の絹地)とか、宝石を、娘に買ってきていた。忙しいので、洋服を手作りしている暇はなかったが、娘や、自分には、日本橋の高島屋か三越で、好き放題の既製服を買ってくれたし、自分に対しては、銀座小松で、白生地(ちりめん)を、いったん買ってきて、で、生地を買って洋裁師に作らせたり、既製服のいいものを買ってくれていた。年末には、段ボールにリンゴ、東京でしか買えないお菓子類を詰めて、山口県に送っていた。だんだん日本全国が、均一化して、リンゴの、富士が、山口県でも、自由に買えるのだと、わかって以来、海外旅行に一緒に行った、横浜スカーフ捺染会社の社長(女性から、何十枚ものスカーフや、ハンカチーフを買って、それを、歳暮やお中元として送っていた。お手伝いさんは、1980年代までは、使っていたと思う。毎日月曜日から、土曜日まで。

 どうしてこれほど、裕福だったかと言うと、母は、経理の仕事の合間に、息抜きとして、短波放送を聴きにながら株式投資をしていた。父親が、大正期に既に、山口高商を出て居たし、兄も同じで、おじは長崎高商を出て居たので、数字に明るかった。方眼紙を横に二等分した、グラフを、50枚ぐらい、作って、二冊のファイルに、閉じていて、自分でチャートを書き込んでいた。パソコンが普及すると、自分で、チャートを書くのではなくて、パソコンをいじりながら、株式投資をしていた。

 母は、「私がね。もし大根一本腐らせたとしても、その間、頭を使うと、100万円は違うのよ」とよく言っていた。原資は、父からもらう給料だったが、生活費は、父の方の給料だけで、まかない、自分の給料は、すべて、株に注いでいた模様だ。で、配当金が、お小遣いだった模様。

 だが、私が逗子で、一人暮らしをしたりすると、離婚になるのを心配して「お金がある事が、幸せを招くとは限らないわね」と言っていた。しかし、私が鎌倉に帰えると、非常に安心して、私を、上に置くようになったのだった。考え方の上で、だけだけど。お金に関しては、私は、母には足元にも及ばない。ただ、母からあまりにも多くの物(指輪など)をもらったので、着るものとか、宝石に関しては、欲望がわかないのだ。そういう、物質的に後に残るもの、特に高いものを買いたいとは思わない。

 さて、こういうことを言うのは失礼だが、増田夫人のお金持ちぶりは、やがて途絶えていく。たぶん、親が富裕な人で、お小遣いを、たくさんくれる存在だったと思うのだが、その親が亡くなったのだと思われる。1950年代は、お手伝いさんを雇っていたのだけれど、それは、三年と続かなかった。うちは、母が忙しくて、雇っているのだから、母が、経理の仕事を続けている限り、お手伝いさんは、雇い続けていた。そして、父が会社を閉鎖したら、お手伝いさんを雇うのを、やめたのだけれど、父が、寝たきりになってしまった後で、

すみません。これまた続くのですが、元旦の午前中は書けません。

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誰でも、通園制度、子ども家庭庁

2023-12-29 21:17:15 | 政治

 

 これは、私のブログ、

政府は幼保無償化の次に専業主婦にも保育園を解放する。上滝家とチヨコレート遊びと、横浜銀行の衰退

2023-12-29 22:23:05 | 政治

 

に関するニュースなので、ここに置きます。

「こども誰でも通園制度」試行的事業の指針 こども家庭庁

親が働いていなくても子どもを保育所などに預けることができるようにする新たな制度「こども誰でも通園制度」の来年度から行われる試行的な事業について、こども家庭庁は1人当たりの利用の上限を「月10時間」などとする具体的な指針をとりまとめました。

目次

<button class="content--accordion--open js-accordion-open" aria-controls="accordion-9427565e-a45b-47fe-99e0-bc68dbeb7cfb" aria-expanded="false" aria-selected="false">目次を開く</button>

保育所などの利用要件を緩和 来年度から各地で試行的事業

政府が創設を目指す「こども誰でも通園制度」は、すべての子どもの育ちを支えることを目的に保育所などの利用要件を緩和し、親が就労していなくても時間単位などで子どもを預けられるようにする新たな通園制度です。

令和8年度からすべての自治体で実施されるのを前に、来年度、各地で試行的な事業が行われる予定で、25日、こども家庭庁で開かれた保育所の事業者や専門家らによる検討会で具体的な指針が取りまとめられました。

それによりますと、対象となるのは0歳6か月から3歳未満の子どもで、保育所や認定こども園、幼稚園、地域子育て支援拠点、児童発達支援センターなどで行うとしています。

また、提供体制を確保するため、1人当たりの利用時間の上限を「月10時間」とするとほか、慣れるまでに時間がかかる子どもへの対応として、初回などに「親子通園」を取り入れることも可能とするということです。

試行的事業について、こども家庭庁はおよそ150の自治体での実施を想定して公募を行っていますが、今後、すべての自治体で実施することを見据え、計画的に提供体制を整備するよう求めています。

“働いていなくても子どもを預けられる”新たな通園制度

国が創設を目指す「こども誰でも通園制度」は、親が働いていることを原則とする今の保育所の制度に加えて、親が働いていなくても月に一定時間、子どもを預けられるようにする新たな通園制度です。

対象となるのは0歳6か月から3歳未満の子どもです。

認可された保育園や認定こども園などに通っていない3歳未満の子どもの数は、令和3年度、全体の6割に当たるおよそ146万人と推計されています。

新たな制度は、子どもにとっては保育の専門職がいる環境で家庭とは異なる経験ができたり、同世代の子どもなど家族以外と関わる機会が得られたりするほか、親にとっても育児負担の軽減や孤立感の解消につながることなどが期待されています。

今後は検討会で取りまとめられた事業のあり方などを踏まえ、本格実施を見据えた試行的な事業を各地で行う予定で、来年度は全国およそ150の自治体で行うことを想定し、実施する自治体の公募が行われています。

一方で制度の本格実施に向けては、▽保育現場の人員配置のあり方や、▽利用可能枠の定め方、▽障害のある子どもを受け入れる体制の整備など、引き続き検討が必要な課題もあります。

国は試行的な事業を通して課題の整理や検証を行い、令和8年度には法律に基づく新たな通園制度として全国のすべての自治体で実施する方針となっています。

本格実施に向けた課題

 

1.保育現場の負担軽減

「こども誰でも通園制度」の本格実施に向けては、新たに子どもを受け入れる保育現場の負担をどのように軽減していくかが課題の1つになっています。

今年度、国のモデル事業を行っている自治体のひとつ、千葉県松戸市の保育園では、待機児童対策でつくられたプレハブの空き教室を活用して、ことし8月から保育園などに通っていない子どもの定期的な預かりを行っています。

対象となるのは原則3歳未満の子どもで、定員は8人。

週に1から2回、一日最大で7時間利用できます。

保育園では、慣れない環境に戸惑う子どもの不安や負担を軽減できるよう専属の保育士3人を配置するなど、手厚い体制で対応にあたっているといいます。

一方で、来年度から始まる試行的な事業では、より多くの子どもを受け入れることになるため、保育士は子どもの特性などを把握するのに時間がかかるほか、子どもも慣れるまでにより時間がかかるなど、現場の負担の増加が懸念されるということです。

「心に余裕ないとよい保育できない 人員配置考えてほしい」

 

新松戸南部保育所の木村良子所長は「短い時間で多くの子どもを預かることになるので保育士のスキルも必要になるし、心に余裕がないとよい保育はできない。保育士が苦しくならないように人員配置などについても考えてほしい」と話していました。

2.定員に余裕がない都市部での受け皿確保

保育所の定員などに余裕がない都市部では、子どもを受け入れるための受け皿の確保が課題となります。

松戸市は今年度、未就園児を預かる国のモデル事業の対象を「育児に負担感や閉塞感を感じている保護者」に限定して公立の3つの保育園で取り組みを行っていて、登録している子どもの数は今月18日時点で合わせて51人となっています。

一方で来年度、「こども誰でも通園制度」の本格実施を見据えた試行的事業を行う際には、受け入れの対象を保育園などに通っていない3歳未満の子どもに広げることになり、これらの子どもを受け入れるために必要な定員は339人分に上ることがわかったということです。

必要な定員は339人分 確保の見通し立ったのは43.7人分

このため、松戸市は保育園や幼稚園を所管する課など関係する職員によるプロジェクトチームを立ち上げ、受け皿の確保に向けて検討を進めていますが、追加で確保できる見通しが立ったのは合わせて43.7人分で、目標の2割にも満たない状況だということです。

今月19日に開かれた検討会では課題や対応策についても意見が交わされ、出席者からは「幼稚園では保育室の環境の問題や乳児の保育経験が十分にないことなどから、0歳や1歳の子どもの受け入れに消極的な部分があるので、環境を整えるための備品を補助したり研修会を開いたりしたい」などといった意見が出されていました。

「未就園児を預かる意義は大きい いかに工夫していくか」

 

松戸市保育課の山内将課長は「保育所などの定員に余裕があるという状況ではないが、未就園児を預かる意義は非常に大きいものがあるので、それをいかに工夫していくかだと考えています。事業者や行政、利用者が情報共有をしながら連携し、制度がよりよいものになるよう注力していきたい」と話していました。

「孤立している家庭などが利用できる仕組みが大事」

 

保育や子育て支援の問題に詳しい玉川大学の大豆生田啓友教授は「月10時間の利用というのは、子どもを預ける親の立場や保育の観点から考えると短い時間だという課題はあるものの、すべての子どもに保育所とつながる機会が保障されるということが重要だ。孤立している家庭や、病気や障害などで保育所などとつながりにくい子どもも利用できる仕組みにしていくことが大事になる」と評価しました。

一方で、受け皿の確保や保育現場の負担軽減を進めるためには保育士の配置基準の改善や働き方の見直し、人手確保の取り組みなどが不可欠だとしています。

そのうえで、今後に向けては「必要な手続きを簡素化するなど利用しやすい仕組みをつくり、今後、試行的な事業で出てくる現場の課題や解決策を国や自治体とも共有しながら、子どもにとってよりよい制度にしていくことが重要だ」と指摘しています。

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増田忠さんとは、戦争と結核により自分の本当の希望=violinist になる=を諦めた人であった筈

2023-12-27 21:06:00 | 政治

 私は、自分、および、自分の家族を防衛するために、日本現代・政治を分析する様になったわけですが、今、書いていることは、カリタス小通学バス襲撃事件の分析です。それに、遠因となっている、増田忠さんが、日吉で、もとのご近所様だった、沢野夫人+寺沢夫人へ、わたくしの悪口を言ってしまったことを書いている最中です。

 本当は、林真理子と、日大PHENIX廃部と、それを強調しておこうとする、鎌倉エージェントに教唆されて、打ったであろう関西学院大学アメリカンフットボール部の、甲子園ボール優勝六回を、記念する新聞の全面広告に、話題を戻すべきですが、

 私がメルマガという形で、他人に、自分の文章を読んでもらいたいと、願った最初の動機は、市井の哲学者として生きることで、『人間とは何だ?』を追求することでした。政治もまた、人間の営みの一つにしかすぎず、したがって、わたくしの視野や、ハートに強い印象を残している、増田忠さんを分析することは、たまたまでしたが、取り組みたいテーマとなるのでした。

 読者の皆様にとっては、テレビ画面を席巻する、林真理子の裏側を分析する方が、テーマとしては、わかりやすいと、わかってはいるのですが、どうしても、増田忠さんに拘泥したいのです。で、本日はこの2023年12月に入ってから、書き始めた増田忠・分析の第三弾です。

 悪口として書いているとか、復讐として、書いていると、お考えにならないでください。私は、大体の人間を相手にして、母親としての視線で、見ている人で、若い時(10代から)、大変、老成をしている人なのです。そして、大体の人間に対して、憐憫の情と、神のレベルでいうアガペーは、持っているつもりです。特別にあくどい人と、特別にあくどいCIAエージェントに、すっかり乗っ取られて行動する人は、除きますがね。

 ところで、昔から、丁寧に、丁寧に、増田忠氏については、書いてきています。その昔の文章を見つければいいのですが、今は、見つけている時間がないので、今回シリーズとして新しく書き始めているわけですが、

 一番最初は、

関西学院にはヴォーリズの建物が多数あるそうだ。ICUにも旧中島飛行機研究所としてのそれがあり、そこからスタップ細胞疑惑が起きたのだった      2023-12-25 21:48:47 | 政治

 の、副題4の中で、相当、ふかく・・・・増田忠さんが、1997年に仕掛けてきたセクハラ・・・・・について述べています。それは、増田さん側は、伏せているはずで、だから、わたくしが欠席裁判で、一人だけ悪者になっているはずだからです。その、私が一人だけ悪人扱いを受けているのは、非常に嫌な話で、さらに悪が拡大していく方向が、認められたので、書かざるを得ないことでした。

 しかし、わたくしは、常に、バランスを取ろうとする人間で、『増田忠さんにも、良いところがあったわね』と、思う部分もあって、それを書いたのが、次の章です。主に、クラシック音楽の、側面で、増田さんが、高い能力を持っていたと書いています。

 で、一つのエピソードとして、NHKがクラシック音楽を放映するにあたって、本当に正しい判断で、演奏会を選んでいるかどうかについて、増田さんが、疑念を持っていて、それを怒っていたのだとも、書いています。

増田忠さんは、NHKを叱る程、高度なクラシック音楽理解力を持ち、ジョルジョ・サンド風のサロンの講師でもあった     2023-12-26 21:39:32 | 政治

  しかし、それほど、=NHKを叱り飛ばすほど(ただし、礼儀正しい言葉遣いでのはずですよ)、高い音楽性を誇っていて、かつ、美しい音を出すことのできる高い演奏能力も持っていて、かつ、現代では、数億円でも、買えないほどの、貴重な名器(多分、グァルネリである)を持っているのに、なぜ、プロのヴァイオリニストにならなかったのですか?・・・・・と、読者の皆様が、疑問を持たれるという可能性です。

 そうですね。そこは、この章で、解説していきます。増田さんが、ご自分で、言われた答えではなく、わたくしが断片的に聞いているエピソードを、統合演繹して、答えを探していきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題1、『プロの世界に入るためには、先達としての、指導者が、必要である。神戸育ちの増田さんには、適切な先生がいなかった可能性がある』

 人生の仕事として、プロのヴァイオリニストになると、言うことは、たとえグァルネリを親に買ってもらえるほど、お金持ちの息子であっても、危険なことだったでしょう。今、小津安二郎監督が、最大限の回顧と、オマージュの対象になっていますが、昭和初期には、日本に不況が訪れ、「大学は出たけれど」とか、言う言葉に象徴をされる、就職先がないと、言う時代もあったのです。で、小津監督は、サラリーマンの悲哀というのも、テーマとしていたと、語られています。親子関係で、おやの方が、悲哀を感じるのだというのも、重要なテーマだったらしいのですが、サラリーマンの悲哀というのも小津監督の重要なテーマだったそうです。

 増田さんの両親はサラリーマンではなくて、貿易商か何かだったと思います。が、大正時代には、好況で、ヨーロッパからヴァイオリンの、名器を息子に買ってあげるために輸入することができても、その不況期に打撃を受けていたかもしれないのです。

 そうすると、両親がわからの忠告、および、ご本人の考えで、「よらば大樹の陰」で、大きな組織のサラリーマンになった方がよいと、言う意識が芽生えたとも、考えられます。増田さんが新卒時に、就職した会社は、中島飛行機で、これは、敗戦を迎える前までは、一流中の一流企業でした。

 増田さんは、ヴァイオリンの先生については、私には、一言も語りませんでした。実は、神戸に住んでいる外人に習っていた可能性もあります。白系ロシア人に、習っていたと、仮定すると、その先生のお名前は、日本社会では、有名であるとは、限りません。(その先生の紹介で、グァルネリが手に入ったかもしれないですね。白系ロシア人は、裕福な人が多いし、また、ユダヤ人の筈でもあるからです)

 芸大卒の先生に、ついて習うことが、日本社会で、プロの演奏家として、職業的な階段を上っていくのには、絶対に大切なことでしょう。そして、芸大を卒業することも、大切でしょう。特に桐朋学園が勢力を伸ばす1970年代より前は。しかし、芸大に入学するためには、子供のころから、芸大系の先生に、習っておく必要があるのです。神戸にいると、それが無理だったかもしれないのでした。

:::::::::ここで、挿入ですが、1985年ごろ、鎌倉の旧中央公民館(現在名、きらら、結構上等なホールがある)で、野島稔が、演奏会を開いたのです。キャパ500席ぐらいなのに、300席ぐらいしか埋まっていませんでした。すると、野島さんが、プログラムを変更したのです。吉田秀和氏などが、来ていないと、言う情報が入ったのかもしれないのですが、よく知られている曲に、変更になったのです。え、野島さんは、今日のお客数にがっかりして、手抜きをするのか?と最初は、思いました。が、ファンだから、『まあ、いいわよ。知っている曲の方が楽しく聞くことができるし』と思い直して、開演を待っていると、舞台に現れた野島さんが、痩せているので、びっくりしたのです。演奏自体は、手抜きではなくて、きれいな音であり、満足しました。が、1970年代、満員(1200人以上)の観客を前に、熱烈な調子で、かつ、お客に対して、深い愛情を示しながら、弾いていた時期の野島さんは、太っていたのですよ。そして、幸せそうでした。N響アワーで、ベートーヴェンなどを弾いているときの。野島さんも太っていました。

 しかし、1985年、鎌倉でリサイタルを開いた野島さんは、痩せていました。髪は、長髪で、パーマをかけていることもあいまって、ほとんどショパンとも見えました。眼鏡をかけていることだけが違いでしたが。私は、【野島稔が、ショパンに見えた日】と、言うエッセーをメルマガで、配信したのですが、その中で、野島稔が、この時期味わっていたであろう、各種の苦労について、推察しています。でも、その後、2011年東京音大の学長に選挙で選ばれて、就任してから、野島さんは、愛煙家としての、肺をいためたことを除いては、ご自分にふさわしい評価と待遇を周囲から受けて、ずっと、環境が改善されたと思います。よかった。よかった。特に野島さんを敬愛する、藤田真央が、世界中で、好評を博して、受け入れられてね。最近、東京音大は、野島賞というのを創設し、第一回受賞者として、藤田真央を選んだそうです。::::::::::::

 その・・・・・カーネギーホールで、大喝さいを浴びていた・・・・・野島稔でも、味わわないといけなかった、クラシック演奏家の世界に在る不条理なものに対して、賢い増田さんは、推察していて、巻き込まれたくないと、思っていたのでしょう。だから、音大には、進学しなかった。

 でも、もっと大きな理由があった筈です。それは、病気(=結核)と、戦争の影響です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『わたくしは増田さんから、「僕は、結核にかかったことがあってね」と、聞いている。それは、増田さんが、・・・・何かを諦める、そういう人生を送らざるを得ない・・・・・という方向へ、氏を、導いていった筈だ』

 私は子供時代には、増田さんが持っている二眼レフカメラで、増田家のお子様と一緒に、写真を撮ってもらったり、高校時代は、しょっちゅう東横線の中で、お話を聞いたわけですが・・・・・ほぼ40年ぶりに日吉で坂を上がる増田さんの、苦しそうな様子にびっくりして、こえをかけたことをきっかけにして、第二期の交際が始まりました。

 昔は、「いろいろなことを教えてあげますよ」という感じだったのですが、第二期では、友達という感じになりました。で、ある日、「僕は結核にかかっていたのです」という話を聞きました。それがいつの時期だったのかは、わかりません。私の方が、何もフォローの、質問をしなかったからです。が、いわゆる赤紙が来て、徴兵検査に行くという状態ではなかったと思います。

 ヨーロッパの教養を、深く身に着けていた増田さんでも、1945年より前は、軍国少年とか、愛国者であった筈で(表面だけだったかもしれないが)、自分が兵役についていないことを肩身が狭い思いで、考えていた可能性があります。となると、ヴァイオリンを弾くなどとは、もってのほかです。

 これが、増田さんが、ヴィオリニストにならなかった、もっとも大きな理由でしょう。

  でも、頭の良さで、国家に忠誠を誓う‥・・・という事が、中島飛行機勤務だったと思うのです。しかし、2023年12月28日、初めてプリンス自動車の、wikipedia を開いて、増田忠さんは、立川飛行機が、一番最初の、就職先だったかもしれないと、訂正する必要を感じ始めています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『ここで、プリンス自動車の社史をwikipedia から、コピペしたい。それを巻末に置きたい。私は、増田さんは、中島飛行機出身で・・・・と常に言っていたが、立川飛行機だったかもしれない。中島飛行機は、父親がそこの社員だった、宮崎駿氏によって、【くれないの、豚】が、制作されたりして、有名だ。だが、立川飛行機という会社は、私は、全く知らなかった。立川飛行機は村山市榎という、立川北部で、業務を行っていたらしい。そこが、4万坪、三鷹市大沢で、業務を行っていた、中島飛行機が、五万坪、その両方の、技術者が、合併して作った会社が、プリンス自動車だった。

 プリンス自動車は、したがって、誇りが高くて、高級車と、中級車を作っていたので、もうけが少なくて、やがて経営困難に陥り、日産自動車に、吸収合併をされた。

 今ダイハツが大問題を起こしている・・・・らしい。私は、トヨタ自動車に関連するニュースで世界一販売台数が多い・・・などと、マスメディアが、褒めまくる傾向が強いことを、以前から、ずっと、懸念していた。別に主人が日産自動車の研究所所員だったので、対抗意識で、そういっているわけではない。そうじゃあなくて、例のCIAエージェント及び、CIA自身は、日本人が優れているという傾向を許さないのだ。

 まあ、私自身も、・・・・眉をひそめただけで、その、殺すべきターゲットにされてしまった・・・・ので、CIAと、それを、自分たちの下部組織としている欧米の大富豪群団の、残忍さがよくわかっている。で、トヨタの為に、心配してあげていた。・・・・・ここで、どうしてこういう挿入を入れたかと言うと、プリンスが、無くなった理由が、軽自動車などの、安い車(それは大量に売れたらしい)を作らなくて、売り上げの金額が、低かったという事が、一番の原因らしいので、こういう挿入を入れた。また、もう一つ新しい事実を知った。本社の所在地が、杉並区桃井だったと言う事、そうなると、朝七時半ごろの日吉発の東横線で、よく一緒になったことが、理解できてくる。

 増田忠さんが、その最晩年において、坊ちゃんに対して、「僕は、こういう生活になるとは思っていなかったよ。腰が痛くて三階まで、外階段を上るのは、苦しいのだ。なんとか、一緒に考えてくれ」と、いう事が出来なかったのは、

 増田さん自身の中に、おしゃれへの希求が強くて、格好をつけたいと、言う部分もあったのだろうが、もう一つ、諦観と言うのもあったと思うのだ。

 うちの父なんかも、人生の途上で、ものすごく苦しい体験をしているのだけれど、諦観と言うのはなかった。パーキンソン氏病を患っていたのに、最後まで、リハビリをしようとして、週に、3日か、4日社交ダンスをやりに遠くまで通っていたのだった。私立の教室には、母と一緒に行っていた。が、公立(横浜市民が、参加できる区立の公民館で行われる)安いクラスにも、二か所以上通っていたらしい。で、当時は、大陽が差し込む地上の高い位置にあった、東横線横浜駅のホーム(コンクリート製)で、転んで、普通だと、両手を出して、頭などの大切な場所を守るのだけれど、手が出なくて(パーキンソン氏病の、特徴)大きく、脳にけがを負い、言葉をしゃべれなくなり、寝たきりになったのは、天の配剤だったのかもしれない。パーキンソン氏病というのは、普通の場合は、脳は、健全なので、ひどく悩んでいたのだった。治らないと言う事に対してだった。どんどん、機能が衰えていくと言う事に悩んでいたのだった。

 上は、66歳ぐらいの父で、まだ、パーキンソン氏病には、かかっていないか、診断を受けていない段階だったと思う。私の北久里浜の家の確認申請をとってくれて、あれこれ、指導をしようとしていたところだ。昭和17年(1942年)生まれの主人(右側)に比較しても、明治43年(1910)年生まれの父は、体格が抜群に良い。

 こちらの方は、昭和8年(=1933年)伊勢佐木町のスタジオで撮った写真らしい。その二年か三年前は、神宮外苑の陸上競技場(いまの隈研吾氏の作品の前の前の世代のもの)で、走高跳日種目で、学生陸上(後のユニヴァーシアードか?)に選手として出て、162か165cmを跳んだと、言っていた。それでもサラリーマン時代中に、肺浸潤(肺結核の前段階の物らしい)を患ったと言っていた。1900年以降生まれの青年たちは、ストレプトマイシンが発売されるまで、肺結核にかかる人がおおかったのだ。女性で、それを外部に語っている人は、唯一、私が知る限り馬場あきこさんだけだ。彼女は、もう、ストレプトマイシンの良い影響を受けたのかダメージが少ないたいかくをしている。

 なんというのかなあ? 実は、増田家側が、激しいプレッシャーを我が家に与えていたのだった。これを語るのは、非常に難しい事であり、昨日、この章に手をつけながら、途中で、公開をあきらめたのは、その件があるからだった。

 その件について、語る前にもう一回、中島飛行機に戻らないといけない。中島飛行機は、三鷹市大沢にも土地を広く(五万坪)持って居たのだが、杉並区桃井三丁目(三万坪)は、ほとんど、中島飛行機が、占めていたそうである。

 増田さんは、西荻窪に通っていたのだから、朝7時半に日吉駅を出発しても間に合うのだった。ただし、毎晩、夜11時に帰宅をしたのは、不思議だった。その件だけど、どうしてか、これも増田さんから、直接聞いたのだけれど、実はお酒が好きで、(西荻窪?)の居酒屋で、毎晩、お酒を飲んで、帰って来たそうだった。それは、とても意外だった。私の父も、主人もアルコールを分解できない体質で、お酒は呑まない。特に外では呑まない。主人など、必ず、定時に帰って来る。それには、大いに面食らった。夕食が早いので。

 私の父は、お茶だけ飲むのだが、社交的で、いろいろな人と会話をするのが好きで、毎晩10時ごろ帰ってくる人間だったから。夫の帰りが早いと、女性の方はまとまった仕事ができにくい。で、夫にもっと遅く帰ってきてほしいと願ったが、絶対に早く帰って来る。誰かと、社交的なおしゃべりをするタイプではない。無論暖簾をくぐって、誰かと一緒にお酒を呑むタイプでもない。それが、我が夫だ。

 一方増田さんもわが父も、家に帰る前に、自分自身の友達との会話が欲しいタイプだった。妻との会話よりもだろう。西荻窪駅周辺か、荻窪駅周辺には居酒屋がある様な気がする。増田さんは、「僕は工員さんたちと呑むのです。彼らは善人で、とても気が休まるのです」と言っていた。

 私の父は、所謂女性にもてるタイプで、女性(鎌倉美術家協会所属の閨秀画家と話して帰ってきたりしたが、それでも、妻を愛していて、パーキンソン氏病になった時に通った社交ダンス教室で、母を絶対に、自分以外の人とは、組ませなかったので、それで、父の死後、ダンス教室で、母が大切にされたそうである。母も寝たきりになった後の父を献身的に介護した。一週間に三回ほど、元看護師さんに来てもらって(まだ、介護の制度などない時代だったが、)一緒に、シーツ交換などをしたので、床ずれなど一切ない体であり、お風呂サービスの業者が、父をモデルにして宣伝用のコマーシャルを撮影していたそうである。母は元ナースである、夫人が来てくれている間に銀行に行ったり、その他、自分がしなければならないことをやるために、よく外出していた。で、そのすきを狙われたそうである。で、留守を預かる元ナース女史から、それを聞いた母は弁護士さんを雇ってその使用を、差し止めたそうである。

 私は、その動画で、業者がまさか、父の陰部を撮影するはずもないので、父の体が、色白で、しかも筋肉がしっかりとついている立派な体だし、室内も庭も、ともに、きれいなので、彼らが撮影をしたと思っていた。それは、1984年ごろの話だったが、その20年前、私がICUキャンパス内で、倒れたことがあって、それを介護しつつ、自宅まで、ついて来てくれたフェリス卒で、かつ、美術部の同胞である人が、「なんてきれいなおうちなの!」と言ってくれた。

 普通の家なのだ。日本家屋だ。だが、どうしてそういってもらえたかと言うと、(現代アートでいうと、ミニマムアートっぽい色遣いをしていて)、飾るものは、いっさい置かせない主義の父だったからだ。洋間なら油絵一点ぐらい。日本間なら、掛け軸一本ぐらいしか、置かせなかった。海外旅行の土産物とか、京都旅行の土産物を飾るなど、一切ご法度だった。

 父が死んでからは、生活がしやすいように母が、ティッシューの箱とか挟みとか、ホッチキスとか輪ゴムなどを、それぞれ使う場所に置いたので、すっかり普通の家になってしまっていたが、1965年ごろは、特異な美しさを発揮していたのだった。テレビで、いろいろな建物とその内部を見るが、うちの家に似て居るものはなくて、強いて言えば、伊勢神宮の式年遷宮の、発想を真似していると、考えて居る。ふすまの桟も白木だったし。ふすま紙は、もちろん鳥の仔の、真っ白なものだったし。母が途中で、「ニスを塗らせて。掃除が大変だから」と言って、廊下とか、柱がてかてかになった(苦笑)が、日本間の、北山杉には、ニスは塗らせなかった。

 だから、母が弁護士まで雇って、その動画を使わせない様にしたと、言うのを聞いて、「あら、いいじゃあないの、それくらい」と私はいった。それに続いて、「業者が、この家とお父さんをモデルに使おうと思ったのは、この家がきれいだし、お父さんの体がまだきれいだからよ」と言うつもりだった。だが、それを言う前に、母が涙を流しながら、「口が利けなくなった、お父さんを守るのは、私しかいないのよ」と言った。で、私は、母の純粋な愛情を知って、あら、聖書を前にした、結婚式の誓いの言葉である、「やめる時も、大切にしますか? あなたの伴侶を」と、言う教えを、母が、聖書を知らない(というか読んでいない)はずなのに、実践をしているのを知った。婦人之友は戦前、戦中から読んでいて、戦後も無論読んでいたが、羽仁もと子さんの教えだけではなくて、何か、体の、心底から、そういうものを、ひねり出す人なのだった。

 そして、母は、父の死後、30年後に、92歳で、この世を去るのだけれど、老人ホーム中、いち番お見舞客が多い人であっただろう。一週間に、おとうとが三回行っていて、妹も三回ぐらい行っていて、私が、二回ぐらい行っていて、重なる日もあったであろう。が、私は、常に夜遅く行っていたので、兄弟には逢わなかったが。母は、私を教戒師のごとく扱い、精神的に頼っていた。それは、昔から、私が老成をしていたからだ。精神的には、母より、さらに、大人だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『私自身は、母とは違って、子供に大切にされないと思う。だから、自己保身をしないといけない。だけど、81歳まで、夫婦だけで、子供に頼らず、生きてきたので、それだけでも、立派なものだと思っている。介護離職を子供に迫ったりはしていないし。それだけでも、子・孝行ではないかと思っている。

 で、増田忠さんが、最晩年、非常にみじめな可哀そうな暮らしをしていたので、私は例のごとく受容の人として、または、母として、自分より、20歳は年上の増田忠さんを支えていたのだった。だけど、洋服が数十枚、ベッドの上のパイプにかかっている部屋で、・・・・・(だから、収納スペースがない、非常に狭いワンルームマンション形式の、部屋に増田さんが押し込められていたことが判るのだけれど)・・・・・、ベッドの上も散らかった状態の写真を見せられて(これは、スマホがない時代の話ですよ)「チエコちゃん、これを片づけに来てくれない」と言われて、ぎょっとして、イエスもノーも言えない私と、午後三時ごろ、別れたのちに、急に、『あ?!?、自分は何かを、間違えたのではないか?!?」と、気が付いて、夜寝られなくなって、次の日に、朝の五時に、「さくばん、寝られなくてね」というお電話をかけて来て、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃと、ずるいやり方で、・・・・・というのは、「チエコちゃん、気を悪くした。ごめんなさいね」が、一番最初に来ないといけない言葉なのに、それが、全くでないので、私は、一時間我慢をしたが、とうとう堪忍袋の緒が切れて、「増田さん、もう、電話をよこさないで下さい」と、宣言したのだった。増田さんの方は、もし、私が、「洋服をかたづけに来て」が、「ベッドインをしましょうよ」という暗喩だと、言う事がわかっていたら、謝ろうと、思っていたと思う。

 だけど、それを最初に持ち出さないで、ぐずぐずと、一時間以上も自分が、神経質であり不眠状態に陥りやすい事を説明する言葉を重ねるので、私は、本当に怒ってしまったのだった。そんなことで、私の本心を探らないでくださいと、内心で、怒りまくったのだった。

 その上、そのぐちゃぐちゃした自己弁護を、聞きながら、『なあんだ。増田さんは、奥様が亡くなった後、いろいろな女性とセックスしていますね』と、私は、気が付いたのだ。

 自由が丘か、田園調布で、理想的なサロンを開いていると、聞いた。それは、お金がかかる仕組みだろう。でも、クラシック音楽に関する知識を、美しい文章で、富裕なマダム連中に語り、一回につき、一曲、自分が誰かの伴奏付きで、グァルネリを演奏をする、と言う、素晴らしく上等なサークルが、この時もまだ続いて居たら、「小人、閑居して不善をなす」は起こらなかったと思うのだ。私は午前五時から、自分が幕引きをする午前六時まで、延々とぐちゃぐちゃ弁明を続ける増田忠さんの言葉を聞きながら、『そのサークルの中の誰かとセックスをしましたね。あのね、女性って、非常に嫉妬深いのですよ。誰かが、出しぬいたと思ったら、怒りが収まらないのです。そして、勘は鋭いから、ちょっとしたしぐさで、その秘密がばれるのです。そういう事だったのね。なんだ。なんだ。いやだなあ』と思ったのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『増田夫人って、原節子に似ている。最上級の美女である。だけど、忠さんという夫よりも、前の夫である、忠さんの兄を、思い出して、ふと、そっちの方が男性度が高かったなあなどと、思ってしまって、それを態度に出した可能性があるのだった。

 これは、最晩年の増田忠さんを粗末に扱った息子さんも知らないことだったかもしれないけれど、私は、増田忠さんから、直接打ち明けられていた。増田忠さんは、その兄については何も説明をしない。名前も年も職業も私は知らない。だけど、増田さんが兄について、何も語らないからこそ、問題があるのだと、私は、考えた。富岡多恵子著の、【中勘助の恋】を読むと、長子である兄に、ことごとく、否定をされて、苦しんだ経過が書いてある。堀文子の自伝るいを読んでも、長子と比較をすると、次子である、自分がどれほどに、差別をされたか、その不条理には、怒りがあると、書いてある。

 で、増田家でも、両親は、最初の子供を大切に扱い、長男が、世間的には、エリートとみなされる職業につくように育てたと仮定しよう。医者か、軍人か、学者に、したと仮定しよう。なぜ、早世したかだが、医者であったら、軍医として従軍して亡くなった可能性があるし、軍人だったらなおさらに、戦死した可能性がある。しかし、大切に大切に育てられているので、背は高いし、階級も中尉か、大尉程度に上っていたと仮定しよう。また、学者だったら結核で亡くなった可能性はある。唯、何が原因で、亡くなっても、理想の夫として、忠さんの妻には思い出が残るはずだ。特に1945年の敗戦以前には、軍人は、崇拝されていたので、そうなる。でも、その思い出がどんなに大切なものであっても、増田夫人には、一人で生きていく力はない。かつ、男性の数が圧倒的に不足をしている。。したがって、配偶者が亡くなった後で、「その弟と一緒になったらどうお?」と勧められたら、断ることはできないだろう。

 一方忠さんの方だ。 忠さんの方は、男の数が圧倒的に不足をしている時代だ。ところで、よしながふみの漫画【大奥】だけど、男性の数が少ないという設定は、1940から60年ごろまでの日本には、現実の事としてあったので、それを親族の誰かから、聞いていると仮定すると、決して突飛な発想でもないとなる。増田忠さんは、男性不足の世の中で、スリムだが、決して背が低いと言うわけでもない。立派な見かけの男性だ。ただし、奥さんの方が背が高かったが、忠さんの方に、見かけ上の欠点は何もない。しかし、当時の上流階級の結婚はすべて見合いである。忠さんは、お見合い用の身上書(釣り書き)に、自分が結核を患った過去があると、書くと、それだけで、マイナスハンディになり、いいお嬢さんとは、結婚が出来ないと考えたのではないだろうか?

 いいお嬢さんと結婚が出来ないのなら、義姉は、素晴らしい女性の一人だ。この人で、満足しようと、考えてもおかしくない。増田さんは、諦観の人でもある。行きずりのアヴァンチュールには、欲望を喚起させられても、人生の、全般において、特に、哲学の側面で、諦観の人だと、考えられるのだ。流ちょうな話しぶりだけれど、声は、抑えてある。決して声高ではなく、主張も激しすぎない。

 それは、まず、プロのヴァイオリニストになるのをあきらめた事が、一つ。それと、中島飛行機と言うエリート中のエリートだけが、就職できる会社に入ったと思ったのに、その会社が、日本の敗戦のよって、つぶれてしまった。かろうじて、再建され、飛行機から、自動車へ、生産を移行をさせて、復活をしたのだけれど、今の奥様との、結婚の話が出たころは、まだ、プリンスが、スカイラインと言う、ヒット作品を出していない時期であって、将来性が、わからない時期だった。そういう時に、奥様の実家が富裕層で、現在の貨幣価値に換算して、毎月50万円位は、仕送りをしてもらえると、わかっていたら、『成り行きに任せてみよう』と、忠さんが、考えたとしても無理はない。

 しかし、ここで、肌が合わないと言う問題が起きたと仮定しよう。この説明は、離婚の真因が、セックスのやり方で、好みが違うと言う事が原因で、離婚に至る際に、影の、暗喩として、使われる語彙であるらしい。で、男性が、亡くなった妻の妹と、結婚をする際には、あまり問題とされない。

 それは、この1940年代から、1960年代にかけて、男性の方は、上流階級にしろ、そうではないにしろ、結婚前に複数の女性と、交尾(いや、人間のセックスのことですが)をしてもよいという不文律がある。芸者と呼ばれるプロの女性とか、半分プロである、バーのホステスなどが、生起し始めたころだろうし、ぶんかとして、男性の、フリーセックスが、許されている現状がある。だから、男性の方が、違う膣と、違うやり方を好む新しい女性と結婚をしても、あまり、問題が起きない。

 ところが、女性には、結婚前のフリーセックスは、認められていない時代だった。いいところのお嬢様が、婚前に男性と結合をしていて、処女を失っているなどと言うのはスキャンダルになり、良き結婚相手との、結婚の資格を失う事に繋がるので、バカでない限り、処女を守っているだろう。さて、彼女が初婚で、しかも、数十年婚姻生活を続けるのだったら、何も問題が起きない。ところが、普通は、一つのペニスと、一つのやり方しか知らないはずの女性が、再婚だと、二つのペニスと、二通りのセックスのやり方を知ることになる。そして、ふとだが、前の夫のそれの方がよかったと、思って、ベッドの中で、それを表現してしまったら、どうなるだろう?

 現代の日本の夫婦とか、欧米の夫婦は、それだけで、簡単に離婚に入っていくだろう。だが、欧米には、パーティ文化があって(これは、自民党の資金集めのそれを指しているのではない)出会いのチャンスが多いうえに、セックスについて語ることが、許容をされている。それで、お互いに不満を言い合いやすい。その上で、すり合わせていくことができる。ところが、現在の日本は知らないが、1930年から、1950年代までの、日本は、そうではない。

 私は増田さんが毎晩11時過ぎに帰ってくることを、仕事が忙しいからだと考えて居た。だが、毎晩呑んで、帰えるのですよと、聞くと、あ、増田夫人って、忠さんを傷つけることをしたのではないだろうか?と、理解し始める。それが、自然に、息子さんにも伝わっていて、彼は、父親を大事にしないのだと、考えた。

 実は、ここからさらに、大量に、加筆をしないといけません。だけど、午前五時になりました。だから、就眠します。台所もまだ片付いていないし。ごめんなさい。

$$$$$$$$$$。

プリンス自動車工業株式会社(プリンスじどうしゃこうぎょう)とは、かつて存在していた、日本自動車メーカー。1947年に創立、以後変遷を経ながら1966年日産自動車と合併する。

第二次世界大戦後、航空機製造を禁じられた立川飛行機出身の、外山保田中次郎ら技術者により、1947年に「東京電気自動車」の社名で発足。電気自動車製造からスタートしたメーカーであるが、1951年以降はガソリン自動車開発に転身した。経営および資本面ではタイヤメーカーのブリヂストンとその創業者である石橋正二郎が大きな役割を担っており、旧、中島飛行機系の企業である「富士精密工業」との協業、合併をも経るなど、企業としての成立過程および社名の変遷は複雑である。

元航空技術者を多く擁する技術開発重視の社風により、早くから先進技術を導入し、1960年代にはモータースポーツ界でも大いに活躍したが、1966年8月1日をもって日産自動車と合併した(日産自動車による実質的な吸収合併)。

合併するまでは、東京証券取引所上場していた[1]

概説[編集]

商号は、創業以来、たま電気自動車、たま自動車と変遷、1952年11月以降はプリンス自動車工業に社名を変更していた。1954年にはすでにエンジンで協業し、やはり石橋正二郎が会長となっていた富士精密工業と合併し、社名を富士精密工業とした。富士精密工業も、中川良一ら、飛行機会社中島飛行機の東京製作所(荻窪)と浜松製作所の技術者によって業態転換で発足した会社である。のち1961年に社名を再びプリンス自動車工業に変更、日産自動車との合併までこれを通した。

自動車技術面においては、極めて先進的な試みを多く行ったことで知られている。当初は電気自動車を製造したが、1950年の朝鮮戦争勃発に伴うバッテリーのコスト高騰に伴いガソリン自動車生産に転換[2]。以降、日産やトヨタなどの上位メーカーをも凌駕する先進技術を続々投入して日本の自動車市場にインパクトを与え、1960年代前半にはモータースポーツでも華々しい活躍を見せた。

しかし、元航空技術者を多く擁する体制に起因する技術偏重の社風はコスト度外視な設計につながり、一方で中級車が主力、かつ小排気量大衆車を持たないというアンバランスな車種構成は、販売面でのマイナスであった。これらの理由から他メーカーとの競争力を欠き、長く経営難が続いた。

最終的には、1966年日産自動車と合併し、独立メーカーとしての歴史を閉じた。従業員、工場、ディーラー網、そして当時の生産モデルであったグロリアスカイラインクリッパーマイラーホーマーホーミーといったブランドは日産自動車に引き継がれた。

なお、日本の皇室御料車として試作車を除き7台が作られた「日産・プリンスロイヤル」は、開発はプリンスによるものであるが、宮内庁に初めて納入されたのは日産と合併した後の1967年2月のことであり、車名には「日産」と「プリンス」が共に冠され、「ニッサンプリンスロイヤル」の車名で納車された。またこれに限らず、1960年代前期には、多数のプリンス乗用車が宮内庁の公用車として納入された。

プリンス自動車と皇室との縁は深く、「プリンス」の車名・社名が、1952年の皇太子明仁親王(現・上皇)の立太子礼にちなむだけでなく、明仁親王本人がプリンス車でしばしばドライブを楽しんだ史実もある。明仁親王は自動車愛好者でもあり、青年時代においては、宮内庁に納入された1954年式プリンスAISH、1958年式プリンス・スカイライン(1900ccエンジン試作車)、1964年式グランド・グロリアなどのハンドルを自ら握り、東京近郊をドライブしていた。

コメント
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増田忠さんは、NHKを叱る程、高度なクラシック音楽理解力を持ち、ジョルジョ・サンド風のサロンの講師でもあった

2023-12-26 21:39:32 | 政治

 関西学院大学アメフト部の全面広告に戻らないといけません。ただ、政治的分析のためとはいえ、前章

関西学院にはヴォーリズの建物が多数あるそうだ。ICUにも旧中島飛行機研究所としてのそれがあり、そこからスタップ細胞疑惑が起きたのだった   2023-12-25 21:48:47 | 政治

では、増田忠さんのある一面(特に失敗)だけを書いたことは、心残りがいっぱいです。

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副題1、『増田夫妻は、神戸の貿易商か何かの、子孫同士の結婚であり、忠さんが持って居たヴァイオリンは戦前に、親に買ってもらったストラディヴァリウスか、グァルネリであろう。そして、自由が丘か、田園調布で、増田さんが講師役をする、クラシック音楽のサロンを持って居た』

 私はできるだけ、親世代と言うか私と同世代の人の話だけにとどめておきたいのです.しかし、増田忠さんが、朝の五時に、切羽詰まった様な電話をくれた時に、前日からの、セクハラ問題を、嫌がっていた私は、それを前日の対面時には、顔にも口にも出さないのですが、増田さんの、切迫度をさらに嫌だと思ったのでした。我が家は、1997~8年の当時、まだ、子供が家にいて、サラリーマン生活をしています。そこに朝の五時に電話がかかって来て「昨夜は、寝られなかったから、うんぬんかんぬん」と、本筋(=私に対して、僕のベッドを片づけに来てと、表面上は、一種のお手伝いを頼まれたのだが、実態は、セックスしましょうと、暗喩的に誘ってきて、それを、私の方も、暗喩的に、断ったので、あ、失敗をしてしまったと、増田さんが、思ったのが、本筋である)を離れて、ご自分の苦しさだけを一時間以上、訴えられても、同情は、できません。

 一方増田さんは、大変寂しくて、不幸だったのでした。お子様と同じビル(お子様所有の個人的ビル。賃貸用テナントは、無いビル)内に住みながら、すでに、5年以上、一切の交流がない形で、三階までを、鉄製の外階段で、上がらないといけないと言う生活を送っている時期でした。腰が悪くて、90度曲がっていて、かつ、腰が痛いという段階ですから、お子様夫妻の処遇は、とても、冷酷な措置だと、言えましょう。だけど、普段全く接触がないので、父親の変化を息子所帯は、知らなかった模様です。

 私は、その建物の全体とか、内部(増田さんが使っている部分)の写真を見せてもらっただけで、お坊ちゃまの情のなさを強く感じました。それと、武蔵野美大卒で、作家活動をしているお嫁さんが、息子さんよりも強くて、かつ成果主義であり、『自分は、子供(=増田忠さんにとっての孫)を、三人も育てているのだから、それ以外の時間は、創作と、発表活動、及び(教える活動?)に向けたい』と、言っていることも、増田忠さんの不幸を招いていると、わかってはいたのです。

 親世代と言うのは子供が優秀であることを望みます。武蔵野美大を卒業した娘が、立派な男性と結婚をして、彼女自身のアトリエも有る様な立派なビルに住み、作家活動を旺盛にしていると、なると、鼻高々でしょう。そして、「自分たちの面倒は見ないで、いいですよ」と言っていると思います。で、娘として、自分の親の面倒も見ないのだから、「夫側の親の面倒も見ません」と、宣言をしている模様です。ビルの写真、及び、増田忠さんの住んでいる部屋の内部の写真を見せられて、私は、このスペースは、30平米ぐらいで、所謂ワンルームマンション形式で、お風呂場に、トイレも一緒に在る様な、設計で、将来、増田さんが死んだら、他人に賃貸すると言う感じで、設計をされていると感じました。

 で、日吉の、まるで、武蔵野の森見たいなお庭(欅とか白樺と言う枝が高く伸びる樹木がたくさん植わっていた)のある、コンクリート製の一軒家から、そんな小さな居室に引っ越して、さぞ、みじめな思いをしておられるだろうと、感じました。増田さんの日吉のお屋敷は、直後に、真田宏之・手塚理美夫妻が買ったのですよ。

 増田さんが、売った時期がいつだったか、母と一緒に住んでいない私は、確たる時期を知りませんが、7000万円から、一億円の間だったと思います。そんなお屋敷から、無機質なワンルーム形式の、狭い部屋への移転は、全くの下降ラインでした。でも、それを許諾したのは、増田さんの心の中に、普段の昼間は、息子さん所帯と一緒に、暮らすのだと、言う予想があったのだと思います。だから、キッチンなど、コーフィーを沸かすぐらいしか使わないだろうと、言う予測があったのでしょう。で、『テレビを見るのは、豪華なソファーの有る24畳ぐらいのリビングで、孫と一緒に観るのだ』し、お食事は、8人が一緒に座れる大きなテーブルで、みんなで、一緒に食べるのだと、言う予想があったでしょう。だからこその許諾だったと思います。

 今、小津安二郎が、最大規模で、回顧されています。小津監督が、繰り返し描いたのは、親は、子供には大切にはされないのだと、言う真理だったそうです。戦前は、論語なのか? それとも教育勅語の影響なのか?、天皇陛下には忠、親には孝と、教えられていたのですが、それが、戦後、消えたのです。そして、現代では、さらに崩れてきているのでした。

 後の祭りですが、増田さんは、自分の家を売らない方がよかったのです。ただ、奥様が割と早い時期に、癌になって入院してしまったから、一人暮らしを、あの日吉の家で、5年以上続けたので、もう、寂しさの限界に達していたのでしょうか。

 それと、お料理を作るとか、洗濯や掃除をするとか、そういう家事能力が低い男性だったかもしれません。そうなると、お金をバンバン使って、解決すると言う形になるので、老後資金が、どんどん減ります。日吉の家を売って、老後資金に充てようと、考えられたのかなあ? でも、その売却益は、坊ちゃまが、横浜の中心街(?)にビルを建てるお金に化けてしまったのでしょう。

 増田忠さんは、お坊ちゃまに、「もっと私を大切にしてください」と要求すべきだったのですが、それが、瓜南直子さんと同じで、ご自分が信じる、フランスの思想や、哲学が、縛りをかけて居て、一日本人としての、人間的な本心をさらけ出すことが出来なかったのでした。それは、現代風に言うとダサいことになるのでしょう。誇り高い増田さんは、カッコウをつけるのが好きだったのです。

 県民ホール内、画廊のソファーで、「チエコちゃん、僕、お金使い切っちゃったのでね。お昼をご馳走してね。日本そばが好きなのだけれど」と言われたときは、本当に悲しかったですよ。

 増田さんは、愚痴を言ったわけではないのですよ。でも、写真を見せられただけで、増田さんの悲しい現況が判りました。

 あれから、26年が、経過していて、同様の問題に、我が家も直面をしているのですが、まだ、夫婦そろって生きているので、いろいろ、生活上の、防衛が出来ている段階です。夫が死んだらどうなるか? 私が死んだら、夫が、どうなるか? 心配ですが、?!?!?

 増田さんのヴァイオリンがグァルネリである可能性が高いのです。もしストラディヴァリウスだと、それは、素人にも知名度が高いので、絶対に私にその名前を、おっしゃると思う。だけど、その名器の名前を出さないからこそ、専門家こそが知っているグァルネリだった可能性が高いのです。でも、名器であることは、坊ちゃまが、ご自分のホーム頁・・・・(坊ちゃまは、有名人です。ただし、職業の分野を私は言わないでおきます。ただ、音楽が仕事ではないです。ヴァイオリンも弾かないと思う)で、ご自分の写真のそばに、それをかけていたからです。

 「10億円を超える名器を所有している家庭です。そういう家に生まれました」と、坊ちゃまは言いたいのでしょう。ただし、その写真は、今は、消えています。

 増田さんが、グァルネリを持って居ると言う事と、演奏が、大変上手であると、言う二つの面から、増田さんは一時期、田園調布か、自由が丘かのどちらかで、サロンを開いて、クラシック音楽に関する講義を持って居たのでした。たぶん、その家の奥様がピアノを弾く人で、その人と、何かの曲を、月に一回は、一緒に弾いて、その後ティーパーティに移り、増田忠さんが、クラシック音楽に関する、お話をなさるのです。参加者は、総勢10人ぐらいだと思う。

 それが継続して居たら、良かったのですが、何らかの原因で、つぶれたのでしょう。腰を痛めて、腰が、90度曲がると言う老人スタイルになったので、マダム連中が尊敬しなくなったのかなあ?

 でもね。増田さん自身は、高いプライドを持っておられたので、NHKを叱り飛ばすぐらいの意気軒高さも、あったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『関西学院大学は、メソジスト派の布教のために大正時代から建学をされたと、今週私は、初めて知った。とても似ているのが、バプティスト派の布教のために開かれた、関東学院だ。ただ、東京圏には、上智大学、ICU 、明治学院、立教大学、聖心女子大,東京女子大、フェリス等々 たくさんのミッション系大学があるので、それほど、高位ではなかった。でも、最近、横浜市所有の建物が建っていた関内駅傍の土地を買ってタワービルを作ったので、立地条件が格段に上がった。ので、これから、人気が出ると思う。そして、そのタワービル内に、テンネーホールという、美しいホールもできた模様だ。

 ところで、話は、1990年代に戻る。関東学院が、京急金沢八景駅を最寄りとしていた時代の事。そのキャンパス内で、ヴァイオリン・リサイタルがあったらしい。六浦のキャンパスと言うのは、電車を降りてから、15分程度歩くと思う。私は、高等学校の先生方と、1980年代から音楽(コーラスの指導者)や美術(国画会の会員として敬意を示す相手であった紳士)の上で、知遇があるが、キャンパスそのものを訪ねたことはない。

 私はヴァイオリニストについての知識がない。三浦文彰とか、服部百音は、NHKで、聞いたことがあるが、ほとんど、関心がない。これは、ピアノにおけるショパンと同じで、感情が揺さぶられ過ぎる楽器だと思っているので、避けているのだ。増田忠さんが、夜11時過ぎに、ご自分を慰めるために弾くぐらいだと、聞きやすいのだが、本格的なリサイタルとなると、まあ、受け入れはするが、演奏家の名前など、すぐ忘れてしまう。一方ピアノは、相当にわかっているつもりだ。リパッティは、聞いたことが無いが、ブレンデル以降は、相当に聴いていて、好きな人もちゃんと決まっている。

 だから、増田さんが、「NHKがあれを収録しなかったのは、怪しからん。ひどく不勉強だ」と言われたヴァイオリニストの名前も、無論、今、記憶していない。しかし、竹沢恭子さんクラスだったと思う。竹沢さんは、日本音楽コンクールで一位をとっている。年齢とか格を考えると、そうだったと思う。そして、曲目の選択が良かったのだろう。で、増田さんが、ほめちぎるほど、その日のリサイタルは、素晴らしかったそうだ。

 私はそれを聞きながら、増田さんが、威張りすぎているとは、思わなかった。NHKの方は、「横浜でも、金沢八景最寄りの、六浦の関東学院のホールなんて、場末の場末ですよ。だから、気が付きもしませんでした」と言うだろう。

 だが、増田さんの批判の方を信じた。テレビに出る人が、感性が高いわけでもない。増田忠さんのヴァイオリンに関する感性は一流中の一流だ。

 私が、ブロガーとして、有名人中の有名人たる林真理子を、徹底的に批判をするのは、あの頃の増田忠さんの気迫を、思い出すからだ。それと、ニューヨークの地下鉄で出会った、美形の詩人(エジプト人だそうだ。ペイン格子のサマーウールの白地のスーツを着ているが、それを、コインランドリーで洗うそうで、あっちこっちがほつれている・・・・・すさまじい姿だった。が、洋服にも汚れは一切ないし、高貴なお顔は、真っ白な肌で、エジプトでは、上流階級の子供だったと推察された。だが、詩人になると、言ってしまったので、親から勘当をされていてお金がないそうだ。

 私がその子に気が付いたのは、ディトマス・アストリアと言う、自分のアパートの有る地下鉄駅ホームのベンチだった。ずっと、興味を持って居て、彼が、マンハッタン島に入った途端に降りたので、私も降りて、カフェに誘って、いろいろ、話を聞いた。その時、1.5ドルのコーフィーさえ、おごられることを拒否したので、今思うと、相当に、緊迫した経済状態だったと思う。お金がないからこそ、ひとに恵んでもらうようなことを避けるのだった。で、最後に、「何か、詩集を出した?」と聞いた。もしあるのだったら、特に英語だったら、買うつもりだった。すると彼は突然に怒りだして、「本を出したら、偉いと言う事なの? 本を出していないと、劣っているという事なの?」と、私が、答える間もないほどの、急迫で、詰問をしてきて、そして、急に、席を立って向こう(=セントラルステーション)の方へ行ってしまった。

 私は、その気迫に圧倒をされた。おかねという意味では、ぎりぎりの生活をしながらも、高貴な、誇りに満ちている青年だった。生まれつきの遺伝的なお顔もきれいだと思うけれど、考えて居ることがきれいだから、顔もきれいになるのだった。この青年の言ったことは忘れられない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『しかし、人間は、頭脳と、ハートだけで、生きているわけではない。文化資産(=教養)がいくら高くあっても、胃腸も、大腸も動かさないと生きていかれない。そして感性の高い人ほど、性的欲求も高いのだと思う。

 ここで、有名な手相観の日傘雅水さん(この人は日大芸術学部卒だが)が私に向かって、言ったことを書かないといけない。「あなたは、芸術家でよかった。これが、普通の専業主婦だと事件を起こす人になっていますよ」と彼女は、言った。それほど、私は、実は男性にとっては魅惑的なところがあるらしい。両手に、金星帯と言う女性中の女性が持っている線が、二本ずつ、四本もあるのだった。

 ただし、30ねん前の話だ。あ、は、は。今はざんねんながら、おばあさんです。【マダム優美】は、エステなどに通っているのか?、高級な化粧品を使っているのか? まだ、50代にしか見えないが、私はざんねんながら、婆あ化しました。

 だから、1997年の私に向かって、『チエコちゃん、僕と一戦構えませんか?』と、暗喩的お誘いをしてきた増田さんが、間違っていたわけではない。

 だけど、私は創作をする人なので、そこで、大満足を得ているので、ワギナを使って、満足を得ようとは、思っていないのだった。創作という仕事が一番、大きな快楽を、人間に、もたらすそうである。

 しかし、この増田忠さんとの関係においても、私は、自分のトリックスターとしての、特徴を、驚くほど鮮明に発見をしてしまうのだった。

 増田忠さんが、私の「もう、電話をよこさないでください」という言葉に傷ついてしまって、日吉の沢野夫人とか寺沢夫人と言う昔のご近所マダムに愚痴を言いに行ったことで、

 寺沢夫人が坊ちゃまに、「パパをもっと大切にしないとだめよ」と忠告をしてくれたと、数年後に知った。母は、「寺沢夫人は、誠実で安心できる人だけれど、沢野夫人は、怖い人よ」と言っていた。で、沢野夫人発で、私の大悪口が、日吉・ときわ台町内会に、蔓延することになったのだった。大損をした。だけど、その件がきっかけで、やっと増田忠さんは、お子様方一家と、一緒に暮らすことができる様になったと、推察している。そして、あのビルは一階部分が、24坪から、30坪だと考えられる。80m²から、100m²のこと。増田さんは、二階だけで、生活することができる様になったであろう。一回は坊ちゃま夫妻の仕事上の部屋となっている。で、二階の居住空間の、ダイニング、リビング、ベッドルームを移動することになったであろう。それなら車いす生活になっても大丈夫だ。坊ちゃま夫妻の寝室を三階に移し、お孫さんの、部屋を増田さんの昔使っていたスペースに移せば、歩くのが不自由になっても、増田さんは、楽に生きて行かれる。

 今、増田さんが生存中なら、100歳に近い段階だと思うが、お元気であることを祈っている。そういう改良が無かったら、増田忠さんはあの狭くて、無機質なベッドルームで、孤独死でもしかねないほど、ぎりぎりだった。それが、無くなって、日本人の普通の三世代同居生活に移行をしたのだったら、これは、私の怪我の巧妙だと言う事になる。良かったと思っている。それで、私は前報のようなことを書いても良心に痛みは感じていない。

 2023-12-27 雨宮舜(本名 川崎千恵子)

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関西学院にはヴォーリズの建物が多数あるそうだ。ICUにも旧中島飛行機研究所としてのそれがあり、そこからスタップ細胞疑惑が起きたのだった

2023-12-25 21:48:47 | 政治

このブログは、最初の、総タイトルを【今、関西学院の勝利宣言という全面広告を見るのは辛いですが、無論、裏があるでしょう】としておりました。だが、また、そこまで書ききれない見込みが出てきたので、総タイトルを、変更します。そうしておいて、初稿の冒頭に戻ります。

 このブログは最初に写真を置くことが多いのです。本日の写真は、新聞紙一枚全面広告です。

 私は、まだ、図書館に行って確認をしていません。だが、この写真は、ひどいレベルで、政治的意味がありますので、全紙に同じ広告が載っているでしょう。私は最初は、記事なのだと思っていました。記事でも、非常に強い政治的意味があって、嫌な感じです。だが、全面広告だとなると、さらに深い政治的意味を感じて、嫌な感じを受けます。

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副題1、『関西学院って、理事長、院長、学長っていう三頭体制で、運営をされているらしい。だが、キャンパス内に、W.M.ヴォーリズ設計の校舎があると知り、さらに親近感を抱いた。キリスト教+、ヴォーリズ建築を共通項として、私の母校・ICUと似ているのだ』

  関西学院は、普段は付き合っていない(山口県に住んでいる人だし年齢が違うから)親戚の男性が卒業をしているし、ご近所で東大・早稲田・慶応卒業者よりも教養が高いなあと、私が認めている岸田淳平氏(画家兼ライター、現代の、池の大雅という風情の人)が卒業をしているし、大体が、キリスト教系のミッションだと思っているので、なおさらにこの広告を嫌悪します。学長は、どういう判断で、こういう広告を打つことを、ゴー発進させたのでしょうか?

 で、学長の名前を知ろうとして、本日初めてウィキペディアに入りました。すると、学長単独で、支配をされている大学ではなくて、理事長、院長、学長の三頭体制で、運営をされている大学だと知りました。

 となると、「こういう広告を打った方がいいですよ。広告代は、半額以下にしておきます」と誰かが、忠告をしたと私はおもうのですが、そのラインや、ルートが見えてきません。残念。だが、私は欲張りではない。できないことは、追及をしません。

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副題2、『ICUの本館は、W.M.ヴォーリズ設計の、旧中島飛行機の研究所だったと、2010年ごろやっと知るのだった。しかし、それは、明確には、発表をされていない。というのもICUは、当時日銀総裁だった一万田尚人氏が、音頭をとって、開かれた大学だが、旧中島飛行機の跡地を使っている。ただし、正当なお値段を出して買ったとは、思われない。結局、戦勝国アメリカが、勝利の象徴としての大学を、ゼロ戦を作った会社の土地を、占有して、作ったキャンパスだと、言う事になる。

 関西学院も、メソジスト派の牧師が起こした大学なのだけれど、1889年から創立されていて、卒業生等の、支援で、大きくなったとみられ、現在では、圧倒的に、ICUの方が、負けている(苦笑) ただ、私にとっては、それが、問題なのではない。

 ここで、私個人の思い出に入らせていただきたい。どうしてもそれを語りたいので、致し方がない。1965年の事だった。日本化学会最高レベルの俊秀だと、みなされていた湊宏先生から、私は、新しいプラスチックを作る様に命令をされていた。実験は、材料も器具も装置も湊先生の、考案なさったもので、実際には、合成が無理だった。そこから、私は、本当はICUの助手(これは、将来まで、頑張れば教授に成れる立場)になる予定だったが、実験が不成立で、その報告懇談会で、湊先生に、「それは、あなたが、考えることではなくて、僕が考えることです」という雷を落とされたので、就業をお断りしたのだった。私は毎晩10時間待ち続けたが、合成は成立しなかった。途中で、突沸という現象が起きて、500ccの、現代では、体に悪影響を与えるとわかっている物質が、部屋中に充満する中で、(水銀stirrer )という一種の栓が外れて、床に飛び散った水銀を拾わなくてはならなかった。

 水銀は、200粒ぐらいに分散して床に散らばった。すると、床が、驚くほど、変形していた。化学実験室というのは、床が、厚い材木で出来ている。大理石とか、鉄平石ではだめなのだ。もちろん、コンクリートでもりのりゅーむなどの新建材だもだめだ。それらでは、薬品がこぼれた時に、悪いガスを発生させる可能性がある。木材だと、薬品がこぼれても、焼け焦げた匂い程度で、終わる。したがって、厚さが6cm以上の木材が敷き詰められているのだ。だけど、その木材が、薬品の浸食で、非常に傷んでいた。深さ、1㎝を超える溝がいっぱいあって、そこに入り込んだ、水銀をいちいち、スパーテル(さじみたいな物)とか、ピンセット類で、拾うのだけれど、毎晩、毎晩、本当に苦労をした。唯一の慰みは、お歌を歌う事だった。ラジオは、もともと嫌いだし、一応突沸を避けるために、10時間程度、みつ首フラスコを見つめていないといけないので、お歌を歌う事だけが、できることだったのだ。

 だから、6時間かける15回ぐらい誰もいない、ICU本館、一階、化学実験室で、うたい続けたのだった。だから、音楽大学卒ではないけれど、歌を歌う事は呼吸をする事ぐらいに、身についている事だ。でも、それにしても床の傷みが不思議だった。私は、ICU10期生だ。となると、この実験室は、まだ、10年間しか使っていない。そのはずだ。それなのに、木部がどうして、1cmの深さで、浸食をされているのだろう。不思議で、不思議で、ならなかった。それを、2003年ごろから、パソコンを使って書き、配信を始めたメルマガの中で、書いたのだった。

 すると、回答がネットで、もたらされた。個人相手ではなくて、何かの、ブラウザのニュースとしてもたらされた。ICUの本館とは、旧中島飛行機の、研究所棟だったのだ。それで、1917年創業の中島飛行機のこの実験室が、1927年から使われたと仮定をすると、ICUが占有してからの10年を含めて、28年間使われていたわけだった。だから、ここまで、傷んでいるというのもそれを知って納得をした。

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副題3、『中島飛行機とは、私のブログの中で、重要な登場人物として、出て来る【増田忠】さんが、戦前、慶応を卒業した新卒時に、就職した会社だ。増田忠さんは、日吉ときわ台町内会の縁で、実は、カリタス小通学バス襲撃事件の遠因となった紳士だ。しかし増田さんは、その事件の成立時には、すでに亡くなっていた。で、直接の引き金は、水沢勉氏だった。水沢先生には、1997年から、2004年ごろまで、大変お世話になっている。もちろん、慶応卒。

 だが、同じく、慶応卒の酒井忠康氏の、業務上の部下である。したがって、酒井氏から影響は、私との交誼よりも、一万倍程度、強くて深いと思われる。だから、CIAの支配下にある酒井氏の、そのまた支配下にある存在として、私から離れていった人だ。。そしてただ離れるだけではなくて、前報で、言っている、あの恥辱を与える方に回ってしまった。そういう事。

 それを、私に書かせないがために、カリタス小襲撃事件は、起こされた。そして、今は、マダム優美のご主人が使われている。ご近所に、あまりにひどいことが起きたら、マダム優美の実名を書きますと、前報で書いたら、まさに、その次の日の23日到着という形で、マダム優美から、また、プレゼントを頂いた。ともかく三田会、横浜支部長は、横山和生君と言って、これまた、私とは、横浜国立大学付属中学の同期生だ。ありと、あらゆるところに、重要な知り合いが居る。

 こういう私を正の方向で、自由を与えてくれたら、本当に文明史に残る様な仕事ができるだろうに、細かい、細かい弾圧が行われる。本日も、二つか、三つ、ご近所で発見をしているが、それを書いていると、この文章も終わらないので、ご近所問題は、わざと看過する。しかし、NHKニュースを使った方は、後で、取り上げよう。ただ、今は、朝日新聞(及び、新聞各社全部を使ったと思われるが)に載った全面広告を問題としている章なのだ。

 だが、そこに入る前に、中島飛行機に戻らないといけない。増田忠さんは、、もしかすると、ゼロ戦などの戦闘機の設計もしていた可能性もあるが、戦後は、プリンス自動車で、自動車の設計に携わり、昭和天皇の御料車を設計したと、言っておられた。平成天皇と、令和天皇の御料車は、誰が設計しているのかは知らないが、伊勢神宮に令和天皇が参拝になるときに、雅子皇后が、お馬のアレルギー云々という事が起こり、鶴岡八幡宮の、吉田茂穂宮司様が、12月29日の夜八時ごろ、わざと御馬で(ただし、洋服姿だったが)表参道を、海へ向かって、パカパカ駆けて行かれると言う謀略行為が起きた。(後註1)ホテルメトロポリタン前あたりの話。

 鎌倉が、急に出てきたのは、天皇御料車の問題からだった。

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副題4、『日吉駅発のバスは、二種類あると思う。サンヴァリエ(旧公団住宅)へ向かうものは、慶応の、野球部練習場と、ラグビー部練習場のそばを通るのだが、そこまで行く手前にときわ台バス停というのがある。

 そのバス停を利用する住宅街の中で(眺望と、日当たりという点で)もっとも好位置に我が家があり、その北側に増田忠さんの家があった。両方ともに、今は、売られてしまって、建物は失われているが、その両者の、半径60m以内に、水沢邸が在る。この分譲地は、全60戸が、最初は、日吉町一番地と命名をされていた東急の分譲地で、30代から、40代のサラリーマンが、1950年ごろに、一坪600円で買って、自分で注文住宅を建てた住宅街だった。今、私が住んでいる、雪ノ下二丁目と、大体同じレベルの住民が住んでいるとみてよろしい。だけど、私の家の北側、増田家との間を東に向かう通りだけは、社長通りと、揶揄されており、この雪の下の住民より、レベルが高いであろう。大・大企業の重役が多いから。

 私は、地上に在ったころの渋谷駅で、NHK音楽コンクールと、現代アートコンクールを毎日新聞側で、創設した、水谷氏に、「あんたは、バカだけど、あんたのお母さんは、聡明だよ」と言われたことがある。うちの母というのは子育てにおいては、欠点があった。私は、たまたま錦糸町で、出会った心理カウンセラーに、「あなたが母親を見守っている存在です」と言われたほど、実は老成をしているのだった。母よりも成熟しているのだった。もちろん、今から出てくる増田忠さんよりも成熟度は高い。館野ひろおちゃん(上皇后美智子様=弟君と、テニス仲間、江戸時代からの日本橋の大商店・竹本油脂=今は、株式会社です=の創業家のおぼっちゃま)、よりも成熟度は高い。三輪喜久代さんとどうかなあ?と思っているが?!?!?

 母に戻ろう。母だが、ご近所付き合いという意味では、聡明だったと思う。上下関係、今でいうマウンティングを、気にせず、決して深入りをしなかったが、観察眼はあって、この町内会で、一番、よくできた女性は、寺沢夫人だと言っていた。その方も、母も二人ともに、亡くなっているが、寺沢家のお嬢様二人(多分、60代)が、カリタスに進学している。それで、カリタス小通学バス襲撃事件が起こされた。この問題は、まだ、まだ、書いている途中だが、なぜ、カリタス小が選ばれたかというと、私の母が、信頼を深くしていたのが、寺沢家だったからだと思われる。

 水沢家は、半径60m以内のご近所様である。だから飯能市で、外人三人家族が、殺された。斎藤・某という学者風の青年が犯人として逮捕された。あれだけど、むろん嘘で、殺人は、実際には、行われておらず、ただ、ただ、水沢家と、私の実家の距離を利用して、私が脅かされただけであろう。サイトウ某という青年は、斎藤実・東大名誉教授・東京女子大学長・ICU教授の類縁者だと思われる。

 だけど、日吉・ときわ台の、お上品なマダム連中の間にも隠された競争心は、あり、夫の卒業大学如何、職種如何、地位如何で、秘められた、上下関係の認定があり、勝っているか、負けているかの、判断はあった模様だ。

 増田家の奥様は、神戸の出身で、非常に華やかな人だった。8分の1ぐらい明治時代のお雇い外人の血が混ざっているかもしれないと言う種類の美女で、いわゆる、【金曜日の妻たち】の世界を、または、シロガネーゼの世界を、20年は、早く先取りをして、実践していた人だった。つまり、1950年代にして、既に、洋風生活の実践者だった。婦人之友に、自分の子供の、刺しゅう入りのお洋服姿を、載せる、力もある人だった。父親が、関西実業界で、偉い人だったのかもしれない。

 その増田夫人が、深く、深く、気にしていた存在が水沢夫人であっただろう。水沢夫人は神戸の出身ではなかろう。グッと、日本的で、あまり、派手な行動は、とらなかった。但し、お高く留まっていると、言う向きはあった。それが、増田夫人には、癪に触っていたのだろう。その上、水沢家では、夫が、社長になっていた。自動車会社という職種が、自分の夫、忠氏と、同じ職種なのに、忠さんは、社長ではない。プリンス自動車は、日産に併合されたので、プリンスの人が、より大きな日産の、社長になるのは無理だった。水沢勉氏の父君は東大卒で、社長をしたのは、いすゞ自動車だった。日産よりは小さい。

 私は、お茶大付属高校に入学して以来、増田忠さんと、日吉発の東横線を利用したのだっただろうか? 電車が同じ時間であることが多く、隣の席に座って、大いにかわいがってもらっていた。増田忠さんは、芸術に造詣が深くて、いろいろな事を教えてもらっていた。

 それに、日本財団からの、貸与ではなくて、ご自分のものとして、グァルネリ級(または、ストラディヴァリウス級)の良いバイオリンを持って居て

ここのヴァイオリンのことから次章

増田忠さんは、NHKを叱る程、高度なクラシック音楽理解力を持ち、ジョルジョ・サンド風のサロンの講師でもあった     2023-12-26 21:39:32 | 政治

 の発想が生まれて来る。

、毎晩、11時過ぎに会社から帰って来て、それを弾く人だった。その音色も素晴らしくて、私は、本当に尊敬していたのだった。そして、木製建具の時代だったが、教養の深い、日吉・ときわ台の住民は、誰も、「その音が、夜、遅すぎて出て居て、こまる」などと言う人間はいなかった。それほど、美しい音色だった。

 しかし、その30年後、増田さんと、私は、以前とは全く違った形の付き合いをすることとなる。増田さんが、腰を痛めて、腰が曲がった状態で、ときわ台のバス停から坂を上っているのを見て、思わず、心配して、声をかけたのだった。私は、日吉・ときわ台にある小田歯科医院に通っていたので、増田さんと30年ぶりに出会ったのだった。増田さんは、我が家よりも早く、ときわ台を売って、お子さんと横浜の中心街で、同居していたのだが、お子さんと、同じ個人的なビル内に住んでいながら、全く交流がないみたいで、その寂しさから、昔のご近所主婦を訪問をしていたのだった。

 いわゆるお茶飲み話をしに来ていたのだった。ざっくばらんで、気の置けない会話をしたいと、言う形で、昔のご近所様を訪問していた。それに、寺沢夫人と、沢野夫人が相手をしてあげていたころ、私が増田さんと、坂で、声をかけて以来、急に交際を、し始めたのだった。で、個人的に、二人だけで出会うのは、日吉ではなくて、主に関内の諸施設(=県民ホールなど)でデートをする事となったのだった。

 増田さんから、水沢家のあれこれをたくさん聞いた。なんだか・なあ・だった。奥様が、水沢夫人を強く、意識をしていて、水沢家の弱点を握っては、旦那に、伝えていたのだった。でも、それを聞くと、子供のころに尊敬をしていた人が落ちた偶像として、目の前に現れたと、私は、がっかりをした。奥様の嫉妬心に、旦那が、巻き込まれている低劣な話題だと思ったから。

 そして、彼の自室の洋服類が、散らかり切った写真を見せられて「僕のベッドを整理しに来てくれない(=一緒に一晩寝ませんか?)」と、いう種類の、暗喩をかけられた。これは、本当に困ったことだった。しかも、私が、イエスともノーとも言わずに別れた事で、いわゆるノーだったと、あとから、気が付いた増田さんは、「失敗してしまった」と思って、夜も寝られなかったらしくて、朝の五時に電話をかけて来て、私の、考えて居ることを、探ろうとするのだった。

 私はこういう電話が大っ嫌いだった。本音というか本題を隠している。そして、自分が頭がいいから相手を、うまく丸め込めると考えて居る。そういう電話が大っ嫌いだった。

 私のことを「バカだ」と思ってはいけませんよ。と、私と知遇がある人には言っておきたい。本日も、CIAエージェントの言うなりに、動いた、平木さん、白井夫人、そして、渡辺賢司殿、あなた方は、今日みたいなことをして・・・・・もしかしたら、私を馬鹿だ。自分より劣っている・・・・・・と思っているのはないですか? それは、違いますよ。本日はあなた方については書きませんが、カリタス小襲撃事件の遠因となった、増田忠さんには、言及します。それと似た様なことが将来起きますよと言っておきたい。

 私はその増田さんからの、困った電話内で、午前五時から、六時まで、一時間は、我慢をした。のらりくらりとあっちこっちへ飛びながら、でも真相を探ろうとする増田さんに付き合った。だが、一時間が、限界だった。「増田さん、子供の出勤が、7時なので、ご飯を作らないといけません。こういうお電話、もう頂きたくないです」と、はっきりと言った。すごくきついと、思われたみたいだ。だけどね。増田さんは私の本当を知らない。すごく、私は頭がいいのだから、そして、それが原因で、CIAに命を狙われているのだから、もっと違った接し方をしないとだめだ。「チエコちゃん、ごめんね。ちょっと、誤解していた。軽くお誘いに乗る今風の女だと思っていた。許してください」と言うべきだった。

 そう、言ってくれたら、「ああ、いいのです。気にしないで。今日はね。こんな朝早くで、しかもお葬式とかの連絡ではなくて、一時間も長話をしています。で、子供とか、主人が、怪訝な思いをして、聞いているから、ここで、電話を切りますよ」で、終わって、なんとか、次の会合まで、つなげることができただろう。そうしたら、次の会合で、私の方が、笑いながら、「だめよ。増田さん、ご自分の、素敵なオジサマ像を、自分で、崩したら!」と、軽いジャブを飛ばして終わり。増田さんが、話し相手が欲しいことは、わかっていた。で、最上の話し相手になってあげただろう。それを壊したのは、彼が、欲張り過ぎからだった。話し相手、そして、お昼をせびる事の出来る相手で、終わっておいたらよかったのだ。セックスまで、求めたらだめだ。相手をよく見ないとだめだと言いたい。

 ただし、増田さんは、その後、日吉に出かけて、例の寺沢夫人とその南側に住む沢野夫人(塩野義の、ゾフルーザ問題は、ここから、起こされた。沢野家は、塩野義に勤務している)へ、私の大悪口を言ったらしいのだ。2015年ごろから、『どうも、ときわ台の人の私に対する態度がおかしい?』と感じた。小田歯科医院の院長先生と奥様の態度で、それが、明瞭にわかって、『この原因は、何だろう?』と、思って寺沢夫人に電話をかけてみると、案の定、増田さんが、私の大悪口を、日吉・ときわ台で、言っていると、言う事が判った。

 ずるいなあと、思う。弱いなあと、思う。男が弱いと言う事で、私が大損をしたのは、この増田忠さんのケースと、こちら鎌倉雪の下二丁目での、中谷共二氏のケース。中谷氏は、セクハラではなくて、政治的なものだが、トラブルの本当の原因である前田清子さんを叱ることも、彼女を個人的に制裁しようとしている藤本悌子夫人を叱ることも、できないのだった。また、両者をすり合わせ、仲直りさせることもできないのだった。そして、トラブルを、私の犠牲によって解決しようとした、本当に弱い人で、しかも裏があり(瀬島龍三と通々だった)、ずるい人だったのだ。まあ、それについては、後程、別章で、詳しく語りますが、

 増田忠さんのケースに戻ると、寺沢夫人は、私からの問い合わせに、こう答えてくれた。・・・・・私たちは、坊ちゃんに電話をかけたのよ。「あなたが放っておくから悪いのよ。ちゃんと、パパの面倒を見なさい」と言っておいたわ‥・・・と。しかし、たとえ、真相が判っても、後の祭り。私が、電話をもらうのを、拒否したのは、増田忠さんの、のらりくらりとしたずるさが嫌だったので、昔、尊敬をしていただけに、あまりの変化が、非常に嫌だったし、寺沢夫人と、沢野夫人に、自分が、ベッドの整理を頼んだなどと、言うセクハラ問題は、告げている筈もなくて、一方的に、私が冷たい人だと、言う事にされているのだと、思う。大変な損をした。

 これで、私が、ひどい人だと言う形に、故郷で、なってしまったのが、水澤勉氏のおっちょこちょいな発言を招くことへつながる。

 わたくしにそんしつをあたえてはいけませんよ、ちゃんとすべてはわかっているのだから、必ず、こういう風に事態を書きますからね。直後ではないでしょう。だけど、チャンスを与えられれば、必ず、書きます。だから、常に、対等に処理していて、損失を与えてはいけません。

 さて、なぜ、こういう話題に入って行ったかというと、中島飛行機の旧研究所をICUが使っていたというところから、入って行ったのです。そして、なぜこういう事を書いたかというと、私が故郷での、信用を失ったことが、カリタス小通学バス襲撃事件を招いたからです。しかし、本日もそれを最後までは、書かないで、置きますね。いろいろ考えがあって、そう致します。

 で、1965年のICU化学実験室に戻ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『実は、同期で、館野ひろおちゃんという青年と、三輪喜久代さんという、女性が居た。三輪喜久代さんは、卒業後、春秋社に勤務する。どうして、化学を専攻したのに、仏教関係と、楽譜の出版で、有名な春秋社に、勤務したのか不思議である。

 しかし、春秋社の名物社長、神田某氏の後ろに、CIAが居たと考えると、三輪喜久代さんを、春秋社に雇ったのは、理解ができる。

 彼女は、そこで、春秋社の社長のことを大好きな、伊藤玄二郎と出会ったはずだ。私が浪人をしているし、三輪さんは、AFSを経験しているので、三人は、1966年の、同期での入社となるが、伊藤玄二郎は、河出書房を、たった一年で、退社して、それを誇りにしている。

 私は湊先生の教授室で、すでに、助手となっていた二人の女性の前で、雷を落とされた。湊先生が、突然、怒りだすことは、有名で、それが、先生の欠点ではあった。だが、もし、私が、その日の前に、実験で、大きな苦労をしていたのではなかったら、あの日のあの雷を、我慢をして、助手職をお断りすることもなかったと思う。材料として与えられたトルエン類を大量に吸ったので、その15年後、トルコ・イスタンブールでは、四時間も仮死状態に陥ったほどだ。「全身の血管の弁が既に、普通の人の速度では、閉まらなくなっていて、で、立ち眩みがひどいのです」とあるお医者様が教えてくれた。そういえば、最近は、何かを食べると、必ず、椅子に座ったまま寝てしまう。血が胃腸に集中していくのだと思う。弁がそれを抑える力がないので、一気に血が、胃腸へ流れてしまって、脳内に薄くなるのだ。それで、眠くなるので、椅子に座ったまま30分は転寝をする。仕方がないと思っている。ひどい体になってしまっているが、精神力だけで、頑張って生きている。

 でも、湊先生は、雷だけではなくて、私の論文は、化学会誌に載せないし、日本化学会にも入れてくださらなかった。だけど、結婚式には出てくださった。ちゃんとスピーチもしてくださった。それは、私が助手に就任することを、断ったことで、実は、湊先生も評判が悪くなって、ICUをやめることとなったからだった。で、クリスチャンとして、反省してくださった。湊先生は、ICUから、都立大へ、ご転任になった。都立大は、今では、ICUよりはるかに大きな大学だから、それは、かえって良かったと言うべきだろうか。だが、湊先生は、早死にをなさった。都立大へ転任後、12年で、亡くなった。脚立が倒れると言う事故で、脳挫傷を起こされたのだった。

 私は、ただただ、自分の直感で動いているだけだけれど、思いがけない程、強い影響力を他人に与えているのだった。

 でも、それは、今だから言えることで、人生の大半においては、日本化学会の会員に推挙してもらえなかったことは、損をしたと言う事になる。館野君は、先生と共著でアメリカ化学会誌に、論文を載せ、三輪さんは、先生と共著で、日本化学会誌に論文を載せている。

 館野君については、本日は、書かないで置こう。後で、暇が出来たら、あれこれ、すでに書いている文章のリンク先を見つけておく。

 三輪さんの方については、あまり、書いて居ない。それは、彼女という人間を、好きではないからだ。常に冷笑をする様な態度で、私に接した人だからだ。どうしてそうなるかというと、彼女は、AFSで、アメリカ留学中に処女を失ったのだろうと、私は、考えて居る。で、大人の女性として、経験のない、私を常にからかっていたのだった。

 そのアメリカ滞在中に既に、CIAに、リクルートをされていたと仮定をすると、春秋社に就職した事も正当性が出て来るし、伊藤玄二郎をCIAエージェントと、化して行ったのも彼女だったかもしれないのだ。アメリカ滞在中にすでに、大物エージェントとして、政治的教育(=洗脳)を、受けていたと仮定すると、なるほどなあ。あのふてぶてしさも、裏に特権があると、信じている傲慢さなのだと、理解が出来て来る。石川和子さんとか、田中愛子(かまくら春秋社が、自費出版に近いたぐいの、書物を出版するときの、春秋社側の代表)さんとかとも同じ、雰囲気を、持って居る女性だ。

 さて、三輪喜久代さんに関して、是だけは、確かだろうと、言う話がある。彼女は、英語は無論ペラペラで、いつの間にか、ロンドンに定住している。で、小保方晴子さんのとんでもない、論文を雑誌NATUREに、押し込んだであろうと、言う事。

 その際に、ずっと、研究も、実験もしていなくても、日本化学会会員という資格は、高い信用を付与しているので、NATURE側は、掲載を、許可したと、思われる。

 彼女の、結婚だが、相手についてはICUの友人たちには公開していないが、誰か、男性が、後ろに、ついているとは思われる。海外で、暮らす場合、独り身は危ないから、実質婚という形で、パートナーが居ると、推察される。だけど、相手は、もしかすると、同じCIAエージェントかもしれない。外人か、日本人かはわからないが。

 ここで、本日は終わっておきたい。無論、すべての現象は、途中までしか書いていないが、81歳であるという、年齢を考えて、無理はしない方向で、生きているので、お許しを願いたい。

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満座の中で抗議や挽回ができない形で恥辱を与える。それはCIAの常套手段である。23-11-16 16:00の歌舞伎座正面では、まさにそれが実行されようとしていた

2023-12-24 01:47:51 | 政治

是もまた、前報

伊藤玄二郎は、またもや黒岩知事を動かして、前田家に公金が下りる手配を始めた        2023-12-22 22:50:56 | 政治

の100%の続きです。ただ、同じ場所をお読みいただくのが、申し訳ないので、新しい章を起こします。

副題1、『公開の場所で、回復不可能な、恥辱を、或る人物(=その人物をCIAが殺したいと願っている=)に与えて、それで、その人が精神を病む様にもっていくのが、CIAのルーティンワークの中にあるらしい。私は他人のケースと、自分のケースで、四回それと、遭遇している』

 前報は、前田家というものを分析している途中です。

 しかし、話は、1985年の4月に、私が、PTA会長の命令で、広報委員長に任命されたときに、戻っています。PTA会長は、上流階級の人だけが入る事の出来る鎌倉市内の或る塾の関係で、私の高い学歴を知っていたので、そういう措置をとったのですが、それを知らないであろうZ・Z・Z夫人から、猛烈な反発を受けて、第一回目の会合から、何も仕事ができない状況に陥ったと、言い始めています。

 この時から、30年後、【鎌倉駅入り口】という名前の交差点そばの歩道で、前田清子さんと、このZ・Z・Z夫人が談笑していて、たまたま通りがかった私は、ほぼ、30年ぶりにZ・Z・Z夫人と目が合ったのです。前田清子さんの方は、どこであっても目を合わせようとしませんので、この時も彼女の表情は見て居ません。だが、Z・Z・Z夫人の表情を見ているだけで、すべてが判ったのです。もしかすると仕組まれた出会いだったかもしれません。ブログで書いた人物と、わざと、私に出会うように、伊藤玄二郎は手配をします。

 養老先生だって、そうさせられています。三菱銀行の二階で、伊藤玄二郎と一緒に待機していて、私がみずほ銀行を出て、鎌倉駅の地下道へ入った途端に、養老先生は、地下道を通る様に命令をされて、で、肩と肩を触れ合わんばかりにして私はすれ違いました。 こういう風に設定をされるのは、訳があります。それは、すでに、何十回も書いていると思いますが、我が家にはひんぱんに泥棒が入りますね。で、銀行の金庫を、四つ借りています。で、頻繁に出し入れします。で、大体3時にみずほ銀行を出て、その後、横浜銀行に入ると、言うルーティン作業を、週に、三回ぐらいします。特に税務申告の帳簿付けをパソコンでしていますので、ハッキングをしている手合いは、今日は、銀行に領収書を入れに行くぞと、考えます。彼らは、それを見越して、「この人に出会ったら、彼女は、心病むはずだ」と、思う人物を準備して待機させているのです。この領収書とか元帳というのがひんぱんに盗まれるので、220円の土をダイソーで買いましたと言う様な、大富豪なら、絶対に捨ててしまう頬の、領収書を、バカみたいなお金をかけて、銀行の金庫に入れているのです。で、四つも借りているのでした。

 自宅で金庫を買うのはだめです。彼らは、すごい技術を持って居ますので、自宅の金庫などぴっきんひ簡単に開けてしまいます。銀行の金庫も、悪利用をされています。雑誌【演劇界】の隠し場所として、かれらに、利用をされた過去があります。盗まれたわけではなくて、入れ込められた方ですが、彼らにいじられたということは確かです。

 主人が、2016年4月9日に救急車で、病院へ運ばれ、重い心筋梗塞だと言われ手術をしました。主人は、東洋医学を履修し、鍼灸医医院を開いていましたので、自己診断をして、食道がんだと判断をして、自分で治そうとしていたので、重症化させたのです。その入院より前に、演劇界という歌舞伎専門誌を図書館から借りていたのですが、とても読んでいられません。それで、駅改札口そばに置いてある、図書館が設置している返却ボックスに、夜9時ごろ、病院からの帰途入れたのです。その時、尾行が付いていたと仮定をします。しかも、演劇界を自宅に置いて置いたら、自宅から盗まれたと思いますよ。というのも、その号は、小田原の図書館から、取り寄せたとか、様々な、イーファン(まあジャン用語)が、つけられていて、非常に大切なものだと、言う認識をインプリントされていました。だから、こそ、最初から、盗んでやろうと仕組まれていたのでした。

 歌舞伎界は、井上ひさしが、脚本を書いているし、伊藤玄二郎の方は、松竹で、小津映画の、プロデューサーを務めた、山内静雄(または、静夫〉氏と、懇意なので、2015年に外人と一緒に、【蛇柳】を見て以来、子供の頃(三世時蔵と、梅幸は、今でもはっきりと覚えている。九世海老蔵の助六も覚えている)以来の復活で、見に行き始めたのですが、トイレのドアの内側に、禁煙マークを急に貼るなど、散々に、攻撃といじめの場として、利用をされてきたのでした。今回の松竹定款騒ぎもその一つです。

 で、恐るべきことに、尾行が図書館の返却ボックスに返却したのを確かめた後、それを、ピッキングの作業で開けて、取り出して置いて、図書館から「返却をされていませんよ」言う電話が来ると言う対応を受けました。普通なら「図書館で代替の本を探してください。本代は後で、払います」が、有効だと思うのですが、これは、ここには、書いて居ない、数多くの作業も事前に準備されている謀略だと思うので、頼んでも、聞いてもらえないだろうと考え、自分で探しました。で、それを図書館にもっていったのです。その後、1331という番号の金庫は、9月まで、開けませんでした。

 どうしてかというと、主人が退院後猫が急死したのです。猫と私が二階にいる時に、我が家の猫がびくっとするので、何かを感じて、一階を、覗くと安野家の猫が、我が家に入っていました。それで、慌てて、猫用トイレを屋内に設置し、猫用出入り口を閉鎖したのです。それに用いたのが、立派な銅製の花瓶です。それも、盗まれていますが、そのふさぎを乗り越えて、合いかぎを使って、安野夫人があそこの猫と一緒に入って来たらしくて、階段上り口にマーキングをされて、臭い事、臭い事、その上、我が家内で、我が家の猫を追い回して脅かしたせいでしょう。主人が引退して、五月に退院すると、その後、たった、一か月以内に、死にました。

 そんなこんながあって、浜銀の金庫を開ける時間もなくて、1331という高い場所にある金庫を開けたのは、9月でした。そして、そこに、問題の雑誌演劇界を見つけて、本当にびっくりした事でした。そんなことを書いていると、浜銀のATMに、鎌倉警察署の生活安全課の課長が、部下の若い女性と一緒に待っていると、言う様なことも出現したのです。ただ、浜銀は、使役され、使役され続けて、私は、何本もブログを書いているので、最近こそ、安定してきました。金庫の話です。そういう嫌なことがあっても、借り続けています。だって、自宅に置いて置いたらさらに被害が拡大するだけですから。

 で、私のパソコンをハッキングしていて、税務処理をしたら、「必ず、二つの銀行に、いくはずだから、その時を狙え」と、彼らは行動し、養老先生とすれ違う日もあれば、各種のデモ隊が、浜銀前で、署名活動をしていることもあるのでした。

 妙本寺に娘をお嫁入りさせた、遠藤夫人にであう時もあります。遠藤夫人という女性は、毎日、毎日、庭ごみを掃いて、1m低い我が家に掃きコム女性です。それを、書いているので、CIAエージェントは、遠藤夫人を私の目の前に差し出すのでした。養老先生が現れるのは、このお見合いに、妙本寺側として、仲人として、立ち合い成立させたと私が書いているために、養老先生もこき使うのです。川」井良一氏は、遠藤家側の仲人です。

 で、前田夫人とZ・Z・Z夫人が、談笑をしているという場面が、わざと、見せつけるために準備された事か、そうでないかは、今のところ、判断が出来ません。が、その時のZ・Z・Z夫人の表情を見ているうちに、彼女が30年前に私をいじめたのは、前田夫人からの讒言を信じたせいだと、わかりました。それで、前田夫人が共産党員だと、前章で、断言することとなりました。

 というのも1985年四月というのは、まだ、中谷共二氏の、一種の犯罪である、・・・・・無断で、我が家の東北の山を切り崩す・・・・・という行為は、行われていませんでした。それと同時に行われた我が家の土地を盗んで、コンクリート打ちをすると、言う工事も行われていませんでした。すると、前田夫人が、私の悪口をほかの人に言う可能性は、無いのです。一応ないのです。普通ならないのです。

 それなのに、Z・Z・Z夫人は、壮大な、いじめ行為をしてきたわけです。私と彼女は、初対面に近く、私は、彼女と過去にトラブった経験はありません。全勝では、あまり説明を詳しくはしておりませんが、共産党員が、CIAの支配を受けているのは、100%確実なことで、それゆえに、前田夫人は、どこかで、夫・祝一氏とともに、私をいじめぬくように命令を受けていて、それに役立つ行為として、Z・Z・Z夫人に、「私をいじめぬいて、広報委員長の仕事をできない様にさせなさい」と、命令的,依頼をしたのでしょう。で、私は、平役員として、広報委員を引き受けた、名士夫人を、前にして、満座で、恥をかかされたわけです。

 Z・Z・Z夫人が共産党員であるかどうかは、わかりません。遠いところに住んでいるらしい人なので、普段の彼女の生活ぶりは、知らないからです。ただ、鎌倉市内には、隠れて、共産党を信奉している党員は、多いと思います。その上、その三十年後の邂逅の後、鎌倉駅の地下道で、すれ違った際には、彼女は、とうとうと、『我が家には、三人の男の子が居て、どこそこ大学を出て、どこそこ企業・・・・一流です‥‥に勤めています」と、話し出すのでした。こちらが質問をしていないの二です。立て板に水という感じで、話すのでした。これも対私いじめです。中堅クラスの私立中学二校を、不合格にさせられた後で、息子は、意欲を失うし、その上、受験制度で、全教科一ランク下げられた、二年の、二学期の通信簿で、内伸を行うとされて、鎌倉学区での、一流高校には、入学できなかったのです。

 この雪の下二丁目の小さな谷戸社会では、不文律としてのルールがあり、それで、階級が決まります。その一つが、子供がどの高校へ、進学したかと、比べることです。中谷家もご長男は、湘南高校でしょう。富沢家は、高校の名前を外には、言いません。が、前田家は、次子(女の子)が、湘南ですから、威張りかえっています。

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副題2、『この山へ導入をされてしまったのは、瀬島龍三の裏工作の結果だったが、その際に、前田祝一・清子夫妻が、共産党員であり、それを、自分たちが完璧に支配できるという事も、大いなる理由の一つだっただろう。』

 北久里浜と、鎌倉は、間に、三浦半島固有の山脈が横たわっているので、連携がまるでありません。で、普通の場合、鎌倉で配達されるチラシの中に、北久里浜における売り物件は、含まれていないし、反対も、そうなっています。でも、この雪の下二丁目の売り出し物件だけは、北久里浜の我が家のポストの中に、何度も入っていたのです。A4サイズの紙一面に、一軒だけ情報が入っているという形です。で、今、関本家というお宅が住んでいる家には、1982年に見に来ています。しかし、そのお宅には、我が北久里浜の家に勝ると言うポイントが見当たりませんでした。その後、今、住んでいる家の売り出しがあって、今度は、買ったわけですが、理由は、建て増しができる余地があったと言う事と、東と南に他人の家が一軒も見えないと言う事です。それが、関本家よりも、有利ポイントとなり、買ってしまいました。

 しかし、その時、既に前田家は、引っ越してきていたわけで、前田家の夫婦が、共産党員だと、仮定すると、あそこを利用して、私を弾圧しぬけば、・・・・・やがて、あいつは、自殺という形で、死んでくれるはずだ・・・・・・と、推察されていたと、今では、はっきりとわかります。

 つまり、ここへの引っ越しそのものが、罠に引っかかったと、言う話だったのです。まずい選択でした。

 しかし、転んでもただでは起きない、という私は、政治分析を始めたのです。だから私が語ることは、すべて、最高ランクの真実です。被害を被っている。それで、死をかけて、書いているわけで、並みのライターとか、並みの政治評論家とは訳が違います。圧倒的な深さで、日本政治の真実、安倍晋三氏、暗殺の真実を含んで、書いているのが私です。

 今、ここで、副題3と、副題4を書いたのだけれど、三千字程度、一気に消されてしまった。用心しなかったのがまずい。だけど、要点だけ、繰り返そう。

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 前田家に対する、黒岩知事のこれからの動き、が、悪い方向で流れた場合。また、私は、12月23日にセブンイレブンで、歌舞伎の切符(ただし歌舞伎座ではない。初台の、新国立劇場、中劇場だが)を、手に入れた。初台で、何かが起きれば、また、マダム優美の件を蒸し返さないといけない。

副題3、『マダム優美のお子様は、ご自分の姓で東工大教授をしていると考えられる。ご主人の方は入り婿なのだが、ビジネス上は、結婚前の名前を使っていると考えられるので、別性であろうが、お子様は、マダム優美の名字で活動をしていると考えられる。

 そういう立派な母君が、歌舞伎座正面で、私が、逮捕される? または、そこまでの恥辱はないとしても、400人か、500人の富裕なご婦人の前で「あなただけは、入れません」と排除されると言う恥辱を味わわさせられる? それは、本当に恐ろしい事だと、書かないといけない。

 それは、確かだと、考えて居るが、そういう罠に、甘言を用いて誘い込んだらしいと、書かないといけない。それを、詳しく立証をしようとしていた矢先、突然に、黒岩県知事が登場して矛先を変えられてしまったが、そこを前に戻って詳しく書かないといけない。

 ここで、副題4として、豆腐屋うかいでの、恥辱の体験、も語っていた。

 副題5として、1966年に、ICUの一学生が、千鳥ヶ淵で、身を投げたという話も書かないといけない。

 本当はすでに書いたのだけれど、すべては、裏に、CIAが居る話なので、自分たちに、都合の悪い話だから、一気に消されてしまった。すでに午前6時なので、就眠します。続きの再度の入力は、また、別の日に。

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伊藤玄二郎は、またもや黒岩知事を動かして、前田家に公金が下りる手配を始めた

2023-12-22 22:50:56 | 政治

 これは、全く持って前報

今、脳が半分しか動きませんが?!? 黒岩神奈川県知事と、伊藤玄二郎の為にそう成っています     2023-12-21 22:25:08 | 政治

の続きです。その部分を二度お読みいただくのが申し訳ないので、新しい章を起こします。それから、最初の総タイトルを、【この雪の下の谷戸では、娘が居ると、結婚をしているかどうかとか、孫が居るかどうかで、上下関係が決まる】としておりました。しかし、そこまで書きぬけない見込みが出てきたので、総タイトルを変更します。

 歌舞伎座の大騒ぎが起きる前には、プロの画家というシリーズを始めたいと言っていました。その人の実名を書かないのは、彼が、我が家の合いかぎを持って居て、泥棒行為を繰りかえしていて、その被害が大きすぎるからです。しかし、泥棒行為を実行している現場を、目撃したわけではないから、誣告罪にでもはめられたら、大変ですから、実名をさらしません。

 ただ、この山の人たちが、『ああ、あの人を指しているのですね』と、わかる事は願っています。それが、彼の恥の感覚を刺激することを願うからです。一般の日本人から見たら、なんて恥ずかしい事でしょうと思う事ばかりやってきています。そこに目覚めてほしいと思っていますが、CIAのサポートがあると、感覚が違うのかもしれません。だから、ここまで書いても、自分は正しいのだと、判断をしているかなあ。これからは、柄沢斉の名前を、必ず付記しましょう。二人は卒業大学が同じです。柄沢斉は、そんな人物を弟子としていて恥ずかしくないですか?という風な書き方へ移行しよう。あまりにも反省が見られないので。

 この小さな谷戸では、我が家の合いかぎを持って居るご近所様が二軒もいるのですよ。是って本当に異常です。だが、そういう事を、このブログ内で、書いても、普通の人が理解できるだろうか?と、言う懸念があって、プロの画家と、安野家については、シリーズとしての分析を、まだ、しておりません。

 ただ、プロの画家とは、岸田淳平氏ではないと断言をして置きます。別の人間です。

 柄沢斉の、版画上の弟子だと、自ら名乗っていて、版画は木口版画ですが、油絵の方の画風は、スーパーリアリズム風です。柄沢斉は、油絵を発表していないでしょう。版画のプロですよね。ただ、こっちの雪ノ下の画家は、油絵が、主で、版画は、趣味でしょう。彼の油絵ですが、薔薇の花とか、葡萄などアングルかな?という風に黒いbackの中に、美麗に、そしてわかりやすく描く画風です。

 プロの画家と、常に、冠言葉=プロ=をつけるのは、彼が、貸画廊では、個展をしないからです。「絵の格が高い人をプロの画家というのだとすると、ちょっと、違う分類なのですよ」と、言っておきます。お金の問題でのプロの画家という意味です。貸し画廊で個展をする人は、画格が、高くても、お金がある人を指します。美大の教授だって、貸画廊で、個展をします。お給料が入るから、貸画廊を、使うお金があるのです。ただし、画廊の方も、作家の格に応じて、貸し料を安くしている筈です。時には、無償で、使ってもらっているでしょう。

 ともかく、絵だけでは、食っていけないと言うのは世界共通の、認識です。ただ、ただ、メディアに乗っかった人気作家となると、法外な収入が得られるのですが、それ以外の人は、みんな苦しんでいます。だから、必ず別業に就職して、その余暇に絵を描くと言う形で、生活していきます。だけど、彼は、別業を持って居ないので、プロの画家と、私が、いうのです。

 で、その男よりも、まだ、普通の人間の、範疇にいる平木さん一家から、分析し始めていました。その方が気が楽だからです。ところが、急に黒岩・神奈川県知事が出て来て、私個人にとっては、より、危険な方向の、攻撃が始まって居ます。

 それは、マダム優美が、歌舞伎座を利用して私を一種のえん罪逮捕にもっていこうとしていた、罠の話とか、日大PHENIXが、廃部になってしまったとか、言う仕組みより危険度が高いのです。廃部の方ですが、林真理子を、総理大臣にする道程の一つであり、安倍晋三氏を、暗殺したのが、鎌倉エージェント(=CIAエージェント)であるからこそ、安倍という語彙を、抹殺していくために、安倍派議員の一掃が図られていて、ついでに二階派の一掃も図られており、自民党の中から、古っぽい部分がすべて、追い払われ、・・・・・ほら、その道筋は、日大に、襲った謀略の組み立て方とそっくりでしょう? 同じ人間が、企画しているから、そうなります・・・・・

 したがって、岸田さん以外は、すべて、メロメロになり、力を失い‥・・・そこに前原新党が、結集させた、新しい勢力がとってかわり、やがて林真理子が、その党の議員として、永田町に入り込み、日本の総理大臣になる‥・・・とそういう形で、伊藤玄二郎と、いまだ、実際には、生きている井上ひさしが勝つ==私に対して勝つ==というのも私にとっては、危険なことです。いやなことです。しかし、黒岩知事が乗り出してきて、また、前田家一族が、大金を神奈川県が持って居る公金から賦与されると言うのも、私にとっては、危険な事なのです。

 でね。マダム優美という、横浜国立大学(それが、特に入試偏差値が高かった、1961年入学の才媛)と、そのご主人(ゲームソフトメーカーの重役か社長である‥・・・但し、四季報を見ても、戸籍上のお名前と彼がビジネス上、使っているお名前が、違う筈なので、どの会社かは、はっきりとは、このブログの世界では、書けないのだが、ファイナルファンタジーをコンテンツとして持っている会社だとは思う)と、その背後に、CIAエージェントと、三田会が、総力を挙げて、仕組んだあの罠を、最終段階まで、解き明かすことが出来なくなったのです。残念ですね。非常に頭の良い人たちとの虚々実々の駆け引きは、大変面白かったのにですよ。ざーん、ねーん。尚、三田会が関与しているのは、水沢勉氏の、軽口が、発端となって、カリタス小通学バス襲撃事件が、水沢氏を守るために起こされたというシリーズや、ちなみに水沢氏は、慶応卒です。

 日吉の小田歯科医院の、院長先生が、大昔の話であるお孫さんが、鎌倉学園、立教中学、慶応普通部の参考に合格したと言う事を、いじめの一つとして、二年にわたって繰り返されたというケースや、マダム優美のご主人が現在慶応大学の理事であると、言う、、

 だけど、こちら雪ノ下の種々様々な悪も、いずれ分析しようと考えて居たところなので、これは、結構、天がお味方してくださったと言うことかもしれないのです。逆説的に言うわけですが、攻撃をてこにして、前田家一族のあれこれを書く事が出来るからです。

 前田祝一・清子夫妻、そして、ご長男の三人が、今、やっていることなど、平木家の、一万倍ぐらいあざとくて、あくどいです。ずっと後で、と考えて居たのに、急にそのチャンスが巡ってきたのですから、これは、天の配剤かもしれません。乗りましょう。ここで、のっても、勝てるとか、平安が来るとか言う保証はないです。だけど、書くのに、多大な労働時間を必要とする・・・・はするものの、いずれ、整理して、書いておかないといけないことだったので、今というチャンスはありがたかったとも言えるのでした。もう、81歳ですから、今、書いておく方がいいとも言えます。

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副題2、『小さな話ですが、どうしても気になっていることを初出として書きます。PTA三役とは、女性の中で、特に専業主婦の中では、勝ち組とみなされます。で、女性とは内心では、嫉妬心が強いので、PTA三役に就任しても、お子様が、良い高校とか、良い大学に入れないと、ひそかな嘲笑の種になります。そんなことは北久里浜で、きちんとご近所付き合いをしていて、大勢の知己が居たので、実際の知識として、わかっていました。

 そして、私は、自分からは、そういう目立つ職につこうとは思っていないのですよ。しかし、どうしてか目立ってしまうらしいのです。で、81歳の今は、その特徴がすべて消えてしまったので、かえってはっきりと語りますが、私が、「どうして、いじめられるのでしょう」と、30歳も年上の女流画家に質問をすると、答えとして「あなたって、如何にも育ちが良いとわかるからよ。そういうものは、努力で、獲得できるものではないから、それを持って居ない人は悔しいのよ」ですって。自分では目立とうとしていないのに目立ってしまう。で、上から、役職を命令をされてしまうのです。幼稚園のPTA会長は、園長から、鎌倉市立御成中学校の広報委員長は、PTA会長から指名をされました。

 これはね。茨城県で、中学生のきれいなドレスで、ピアノを弾いている映像が、ニュースに出てきました。このお嬢さんが、いじめで自殺をしました。でね。両親が、茨城県の対応に不満があって、文部科学省に、直訴したのです。お父さんもお母さんも、非常にかっこよくてね。ああ、筑波学園都市に勤めている東大卒のお父さんと音大卒のお母さんの組み合わせですね。担任が、お母さんへ、嫉妬して、お嬢さんがいじめられるのを誘導したり、または、いじめられている姿を、看過しましたねと、感じました。うちの父が、「人生の要諦は、嫉妬を招かない様にすることだ」と言っていました。それは、父自身に向けての言葉であり、私は関係がないと思っていたので、用心すると、言う気分が全くなかったのですが、嫉妬の対象になっていた、三十年ぐらいがあったので、女性というものを、とことんに理解しているつもりはあります。

 &&&&&&&&&&この罫線から、次のこの罫線までは、以前に語ってきたことです。しかし、次の&&&&&より先は初出のことなので、どうか、聞いてくださいませ。または、読んでやってくださいませ。

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&6

 私は、この雪の下の谷戸に、1984年の8月に引っ越してきたわけですが、その七か月後に、PTAの広報委員長に命令をされて、受容しました。『娘の方の役員だし、男の子の母親程、注目されないだろうし、肝心の、娘は、まだ、中二だから、高校受験には関係がないので、大丈夫でしょう』と考えて引き受けたのです。

 ただし、PTA会長の命令の仕方が、ちょっと悪かったのです。「川崎さんは、うちの家内と名前が同じ千恵子だから、広報委員長を引き受けてください」と言われてね。PTA会長は、実は私が、ICU卒であることを知っておられました。ICUって、本当に知る人が少ない大学でしたが、上流階級には、すでに、有名な大学だったのです。でね。入学するのが、非常に難しいと言う事でも有名でした。一般的な入試と違うからです。試験問題が全問・英語で出されます。それにね。私は、高校は、お茶大付属高校卒す。そこの高校からの編入生は、定員36人で、神奈川県からは、毎年一人だけ入学できるのでした。それが私です。その上、お茶大付属に入る前は、横浜国立大学付属中学です。それが、本牧立野の丘(今、神奈川県一東大入学者が多いと言われる星光のご近所様です)に在ったころで、私立より、国立の方が上だった時代です。しかも入学式総代+卒業式総代ですから、同じ教室にいる、50人程度の、鎌倉の名流婦人たるお母さまたちの中で、自分の学歴が一番上だとは、ひそかに自負していました。その上大卒新卒時の職業が東大の教務職です。これは、一番下っ端ではあるが、事務員ではない、教える方です。だから、その50人の中で、自分が、一番、偏差値的な頭脳の上で、優秀だと言う事を微塵も疑いませんでした。だから、引き受けたのです。その50人の中に、もしかすると高浜虚子のお孫さんも入っていたかもしれません。が、書類や、名簿をすべて破棄したので、覚えておりませんが。ともかく、自信満々のお母様方の中で、全く負けていないという自負はありました。

 ところが第一回目の会合の時に、目の前の机に座った、Z・Z・Z夫人から、一から十まで、反発をされたのです。このZ・Z・Z夫人の実名ですが、彼女本人からも聞いたことがあるし、他の人からも聞いたことがあるのに、全く覚えられません。それほどに嫌な仕打ちを受けたのです。

 私は、中学時代から学校新聞を作っていましたし、横須賀でも、広報委員の経験がありました。委員長は、(本当は向いていないが、兄が、有名人島田章三で、父親が、元、横須賀市議会議長なので、学校側から任命をされていた)大沼嘉津江さんです。そこでも、大沼さんから頼りにされていたほど、その種の仕事には、実力があるのです。でね。タイムスケデュールも決めて、仕事の内容も人数分で区切って、誰が、それを担当するかまで、決定するつもりで、第一回、会合に出席しました。処が課題1から、Z・Z・Z夫人の反発を受けて、決まりません。誰が担当するかまで、進みません。課題2も、同じであり、課題3も同じでした。

 で、課題3あたりまでで、15分経過したでしょうか? 普通、広報委員会というのは、毎週一回、一時から、四時まで、三時間は仕事をします。でも、私は、15分経たところで、来週どうすべきかと、それを考え始めました。顔には出しませんよ。でね、こういうタイプのママが居るのは、幼稚園のPTA会長をしていた時に、気が付いていて、それを、覆すのは、容易ではないことも気が付いていました。幼稚園のPTAの場合、最終段階で、豪華な打ち上げ式が、用意されていて、そこで、かくし芸を披露すると、こっちが勝てたのです。つまり、お歌を歌うと言う事。私のおうたって、普通ではないのです。全然レベルが違うそうです。

:::::::::ここで、挿入ですが、朝日新聞社屋の、二階の廊下で、午後四時から六時まで、ブログの推敲をしていたと、語っていますね。後註1、それは、今回の黒岩知事を使ったいじめにつながったのかもしれません。というのも前田さんの長男って、一時期朝日新聞の専売所を経営していた可能性があるのですが、今は、朝日新聞の正社員だと、思います。

 私の方は、長男が、12歳の時に、私立の中堅校・二校を受験して不合格になっています。日能研の先生は、絶対に合格すると請け負ってくださっていました。あの時私が、騒いで、答え合わせをすればよかったと、今では、思っています。かわいそうなことをしました。本当にかわいそうなことをしました。これはですね。北久里浜の水道山がタダで、ある個人に渡った、地積変更届という、書類上は正しくても、実際の内容は、大詐欺事件である、事に、私が巻き込まれて、真実を知ってしまった事で、私は、首謀者の、益山重夫の妻、智恵子夫人に車で、轢き殺そうとされたのです。すぐさま電話で、弁護士さんに報告をしました。しかも、自宅の電話は盗聴をされているのを知っていたので、他の公衆電話も使いました。この日、益山重夫は、急死したのです。

 私があまりにも強い大物であることを見誤ってしまったからです。北久里浜の我が家の西隣の原正芳家は、大昔から、この山の地形を熟知しているので騙せないと思ったらしくて、この仕組みに巻き込まないために、敷地全体を青地という国有地で囲っていました。我が家もそうすればよかったのです。私の方が原家(戦前からの地主で、長兄は、横須賀市会議員であり、次兄は、歯科医院の経営者、自宅=本宅は、【CIマンション根岸】辺りだった可能性が高い)より、実は大モノで、怖いの人なのですよ。というのも、私ほど、すべての真実を見抜く人はいないからです。しかも、それを文章で表す能力を持って居ます。私を安易に騙そう何って、やってもいいですが、必ず、書きます。小さなことから書き始めますので、黒岩知事も、自分は安泰だと思っているでしょう。だけど、本当に最後まで(=棺のふたを覆うまで、)大丈夫かなあ? いつかはすべての真実を黒岩知事に限っても書くでしょうから。

 益山重夫の親友が、陸軍中野学校で、共に学んだ、瀬島龍三です。益山重夫は、海軍参謀で、瀬島龍三は、陸軍参謀です。そして、瀬島龍三は、戦後は最大級のCIAエージェントとなりました。ああ、そういう人に敷地のことで騙されそうになったので、防衛をしたら、ありとあらゆる彼らの悪のことが見えてきてしまったのです。だから、私をつぶすために、私の子供に復讐をしたのです。

 そして、彼らの謀略に基づいて、安野智紗夫人とか前田清子さんに協力している、平木夫人のご長男は、18差愛の時の、10月にはもう、「あなたは、来年の四月から、東大へ、入学できます」というお知らせを頂いて居て、大喜びで、ショパンの【英雄】をジャンじゃか、ジャンじゃか、弾いていたのでした。それ以前にもそれ以降も電子ピアノの音量があれほど大きかったことはありません。又ね。たまたま、私は、そのタイトルが不安定で、自信がなかったのです。ショパンは、嫌いなので、そうなります。情感が溢れすぎていて、自分と近すぎるから嫌いなのです。

 で、ジャンじゃか、ジャンじゃか、弾いているお坊ちゃまが、たまたま、そばを通った時に、直接、「あなたの今弾いている曲はなあに?」と、聞いたら、「英雄です」と答えてもらいました。だが、その夜というか次の日から、パタッと、ピアノの音は、聞こえなくなったのです。それは、東大へ推薦入学が出来たことを秘密にしなければならない事情が平木家側にあったと言うくぁえでしょう。また、東大の入学式は、ひときわ遅くて、4月の12日だったのですが、11日の午後に、平木家のメンバーは、三々五々、目立たないように出発していきました。ホテルに泊まって、次の日に備えたのでしょう。

 平木家は、CIA=安野智紗夫人=に協力をすることで、これほどのメリットを受けました。我が家とは正反対です。

 ところで、平木家は、ご近所住まいなので、事情がすべてわかりました。ところが、前田家は、ご長男もお嬢様も独立していて、遠くに住んでいるので、事情は分かりません。しかし、遊びに来る時の車で、職業が知れました。ピカピカのオートバイに朝日新聞専売所と書いてあったのです。夜、8時ごろで、集金の人のオートバイとも思われませんでした。別の日には、これもピカピカの、SUV(大型だった)で遊びに来ていたのですが、車体のどこかに朝日新聞専売所と書いてあったのを覚えています。

 それがですね。いつの間にか、朝日新聞本社の正社員になっていると、言う可能性を感じ取っています。新卒時、採用ではなくても、出世させてもらえるのです。これは、不確かな事で、あまり広言はできないのですが、「朝日新聞社に、二時間もいましたよ」と、このブログで、書いたら、急に黒岩知事が動いたからでした。そのチラシは、20日に我が家のポストに入れ込まれていたのですが、神奈川県から大金が、今は、前田家の長男のものになっている旧中谷家に降りたのです。

 伊藤玄二郎とか、いまだ生きている、井上ひさしとか成岡庸司君とか、石塚雅彦さんという人々は、まるで、ゲームのような感覚で、ひとをいたぶるのです。「お、朝日新聞本社社屋内で、ブログを、修正しただなんて言っているぞ。それなら、ここで、前田君に大金を付与すれば、彼女(=私の事)は、裏側にある委細を、飲み込んで悔しがるに決まっている。したがって、ほら、はやく死んでほしいとねがっている点で、死のタイミングが早まるのではないかな?」と、笑いさざめきながら、決行をしたのだと、思います。

 ところで、本当に語りたかったことは、浜離宮朝日ホールでの、音楽会でした。行きたいなあと、思っていたのですが、予約券を買っている暇がなかったのです。ところが、最近、三年間、音楽会によく言っているのですが、当日券もある模様です。で、それを知ったので、当日会場に出かけてみたのです。有りました。で、入ったのです。演奏は、ドイツの男性四重唱団【クアルトナル】・・・アカペラで、クリスマス・・・を歌うでした。24曲+アンコールで、25曲歌ったのです。子供の時から、少年合唱団に所属していたそうで、日本でいうとダークダックスとかボニージャックスにあたるのですが、全く違うのです。編曲が複雑で、クラシック曲なのに、こぶしの連続、装飾音の連続で、中性的なのですね。男性的な荒々しさとか、太い声は、全くないのです。繊細、繊細の極みです。私は、13曲目のオーシャンゼリゼとか、19曲目の、サンタが街にやって売るとか、22曲目のホワイトクリスマスでは、一緒にちいさい声で歌ってしまいました。でも、誰からも注意を受けなかったのです。しかし、前の席(第8列)のお客が、あいさつをしている四人をスマホで、撮り始めたのでした。すると、後ろ(第10列)の、お客、夫婦らしい二人組が、「あら、、嫌だ、写真を撮っている。いけないのよね」と、言い始めました。スマホがカシャッという本当に小さな音にも敏感に反応する、そのご夫婦は、私が歌っている時には、何も注意しなかったのです。アンコールは、【きよしこの夜】でした。この曲だけは、それほど複雑な編曲はせず、で、大体メロディライン通りだったので、さらにまご頃を込めて、一緒に歌ってしまいました。だけど今度もまた、誰も注意はしなかったのです。浜離宮朝日ホールの第九列というのは前の方です。で、下手側の扉を出ると廊下になります。で、廊下を出ると、私はさらに、” I'm dreaming of a white Chrismas " と、更に歌い続けます。だけど、前後左右誰も振り返らないのです。この日のお客さんは、私みたいに、音楽、特にお歌は好きな人が多いでしょう。そして、合唱団等に入っていると思います。だから、私の様に歌う事は出来たと思います。だけど、私に場を譲ってくれたのです。ここは貴方が一人で歌ってもいいわよと。寒い日でクロークの前は、長蛇の列でした。私は最後尾で、待ちながら、同じ様に歌い続けました。しかし、後ろを振り返る人は誰もいなかったのです。これは、40年以上前、夜8時ごろの京急の立錐の余地もない中で、トスカを小声で、歌ったとき以来のはなしでした。ただ、高揚感だけではなかったのですよ。悲哀の気持ちもありました。私は、いろいろな先生から、声の質については、褒めていただいています。松前澄子東海大学学長夫人からは、「まあるくて、明るい良い声です」と言って頂いています。あの頃の私の声は、はちみつの様な声でした。透明で密度の高い声。しかし、声はいいのですが、歌い方はだめでした。ぎこちなくて、自由度がまるでない歌い方でした。しかし、今は違います。自由自在に表現できます。松前先生に聞いていただきたいなあと思います。が、もう、お弟子はとらないでいらっしゃるでしょう。

 そして、私の声が変わりました。昔ははちみつみたいな透明な声だったのに、今はマシュマロみたいな声です。つやがない。透明感がない。中に空気を含んでいます。でも、他者にとっては、聞きやすい声なのかもしれません。悲哀の気持ちとは、これを生かす機会がなかったという事です。金を稼ぐ手段としては、使わなかったという事です。

 さて、やっと、PTA活動に戻ります。そこが不倫セックスの牙城となっていると、言う週刊誌の記事を見出しだけみました。私が、PTA活動をしていた、1970年代と、1980年代には、そういう雰囲気はなかったですよ。だけど、女性が、どれほど、嫉妬心が強いかという事は身をもって学びましたね。だから、目の前で、反抗だけをしてくる、Z・Z・Z夫人に圧倒をされたわけではないのです。あ、デジャブーがある、この種のタイプって。と、思っただけです。

 だけど、来週までに、この雰囲気をどうにか変えないといけない。彼女に尊敬してもらえるのは、私にとっては宴会芸だけである。お歌を歌う事だけだ。お歌を歌えば、普通の人とは、全く違う。上を行っていると、わかってもらえる。で、鎌倉市立御成中学校のPTAの打ち上げ会が、無礼講のどんちゃん騒ぎの宴会であるのかどうかを知らなかった。もし、PTA会長をしていあ幼稚園の打ち上げ会と同じものだったら、名誉を挽回切る。ただ、そこまでの一年間をどうする? このZZZ夫人をどういう風に指導できる。他の役員をどう把握できる?、と、考えると無理だと判断をした。来週が出来なかったら、一年間通して無理だ。

 さて、四時になってしまいました。ので、寝ますが、これから先、すごい話が出てきます。

 前田清子さんと、このZZZ夫人との関係。そして、前田清子さんが、共産党員であり、共産党が、CIAの協力者であると言う事も、ここから、読めてくるのでした。そこがまた、胸突き八丁で、書くのが、大変なので、ここで、寝ます。生き続けないといけないので。sorry , sorry, I 'm sorry.

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今、脳が半分しか動きませんが?!? 黒岩神奈川県知事と、伊藤玄二郎の為にそう成っています

2023-12-21 22:25:08 | 政治

副題1、『さて、最初に話すことは、大変かいつまんだ情報ですが、また、また、伊藤玄二郎達、鎌倉エージェント(=CIAエージェント)が、新しい攻撃策を、準備し始めていると、言う事です。で、私の脳は、それに対する防御策とか、いろいろ、ブログで、格にしても準備が必要で、脳の半分がそちらに取られてしまったので、自由が利きません。

 この攻撃ですが、アイデアそのものは、ずっと、前から、彼らは温めていたでしょう。それは、すべての彼らの謀略行為で、通底する要素です。が、実際に動き始めたのは、一か月以上前で、11月17日頃だったでしょう。しかし、私が神奈川県藤沢土木事務所などに電話をかけて、土木事務所は、「そういう動きをしていない」と、言っていました。だから、その時点では嘘だったのです。そこをね。嘘を本当にする様に動き始めたのでした。

 一か月以内に、前言を翻すのは、藤沢土木事務所にとっては、恥ずかしい事でしょう。でも、上司にあたる、黒岩神奈川県知事が、圧力をかけたから急に平然と、態度を翻したのでしょう。でね。私が、「たった、一か月で、事情が変わったのは、黒岩知事から、命令をされたからですか?」という新しい内容の電話をかけても、「はい、そうです」と返事が来るはずもないので、その方向は、今のところ、放ってあります。ただ、黒岩知事が動いたのは、伊藤玄二郎から、依頼をされたからでしょう。なぜかと言うと、

 マダム優美の、だまし討ち(彼女がどこまで関与していたかは知りませんが、もし、彼女のお誘い通り、2011年11月16日に歌舞伎座に行ったと仮定すると、その玄関で、4,500人の優美な奥様方を前にして、私は逮捕されたかもしれないのです)が、関係しているでしょう。

 このマダム優美の案件については、前報を始め、(後註1)数多いブログで、書いていますので、ここでは繰り返しません。でね。前田家を幇助し、また、数百万円、または、数十万円の県費を使うという今回の事案は、伊藤玄二郎が、マダム優美の罠に私が引っかかるはずだと考えて、こっちが勝ったわけだから、自信満々と、勝利感に酔って、さらに、重層的に攻撃しようとしたのか?(これを私の考察Aとします) それとも反対に、マダム優美を使った罠が、私にばれていて、正しい事情を把握されてしまったので、それをブログ化されない様に、新しい脅かしをかけて来たのか?(こちらを考察Bとします) それが、どちらかは、今のところ、わかりません。

 で、一か月前には、藤沢土木事務所は、そんな事案はありませんよと言っていたのに、急に反転したのは、黒岩知事が、上司ちゅうの上司として、そちらに、「こういう風に動きなさい」と、命令をしたからでしょう。それは、むろんのこと、伊藤玄二郎からの依頼でしょう。となると、マダム優美の罠も、伊藤玄二郎+(いまだ、本当は生きている)井上ひさしが、発案したものだと、言う事になります。まあ、そんなことは、非常に早くからわかっていましたよ。11月15日には、決定的にわかっていました。ただ、マダム優美の、おぼっちゃまが、東工大の教授だと、言う風に彼女本人から聞いているので、真実を書くのを、抑えに抑えていただけです。母親が、そんな、あくどい罠を仕掛けて来たなんて言う事になると、坊ちゃまの名誉や信用を棄損しますから。だから、最初から、母親の方の実名を出していません。私にしては珍しいことです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『この件は、前田清子さんと、その長男を有利にする事案で、もしかすると、私が、17日(2023年12月のですが)に、朝日新聞社の、二階の廊下で、二時間ぐらいブログの補正をしていたと、書いたために始まったことかもしれません。彼らが、引き金を引く際には、結構、ちゃちな、理由で引き金を引くからです。

 どういうことかというと、前田家のご長男は、現在53歳の筈ですが、日大農獣医学部出身です。大学新卒時に、どういう勤務先に就職されたかは知りませんが、学生結婚である模様です。お孫さんが、非常に早く、しかも三人も、生まれていますので。で、お嫁さんですが、如何にも”りけじょ”という感じで、地味目な人です。でも、農獣医学部で、知り合った学生結婚だと仮定すると、奥さんになった女性は、動物が好きで、獣医学部を選んだと考えられます。一方、坊ちゃんの方は、獣医という職が好きではなくて、親の希望が、医学部なのだけれど、医学部が無理だったので、受験科目が似ている獣医学部を選んだと、言う感じでしょう。前田清子さんの当時の私に対する態度で、それが、わかりました。彼女は、とてもイライラしていたのです。当時彼女は、町内会長・前田祝一氏の奥様でしたから、町内会に関する質問には、答える義務があります。ところが、「今、気分が悪いからダメ」ですって。驚きました。

 が、私には、坊ちゃんが、医学部へ不合格だったから、イライラしていたというのは、瞬時にわかりました。清子さんは、PTA総会で、挙手をして、質問をするほど、自分は、ひとの上に立っているのだと、考える女性です。PTA三役もやっていました。これは、子供が東大医学部へ、入学できると、信じている親でないと、引き受けてはいけない立場です。特に男の子の親だと、そうなります。女の子の方は、それほどに目立ちませんが、男の子の親は、PTA三役が、他の母親より、優越していると、みなされる立場なので、子供も優越していないとだめなのです。子供が幼稚園とか、小学校時代の、PTAだと、そこまでシビアではないのですが、子供の中学時代というのは、そういう時期で、親は、相当に、気をつけないといけないのです。子供の年齢によって、親が取るべき態度も変わってきます。これが、中高一貫私立などに入れていると、これが、また、全く違ってきますが、公立中学に子供を通わせている場合は、地域社会と連動していますので、親の選択次第で、子供が心理的に、迷惑をこうむります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『ここで、ちょっとだけ林真理子に触れます。彼女が、日大理事長としてPHENIXを廃部にもっていったのが、この12月15日でした。これは、対私のブログという意味では、私の完敗です。でも、だから、林真理子について、書くのをやめたわけではありません。ただ、私の脳と、時間と、指先が、林真理子に、今は、向いていないと言うだけです。でも、本日だけ、ちょっと、必要なので、彼女に戻ります。

 彼女が、【8050】を書いたのは、いまだ生きている井上ひさしから、そのテーマで、書くように示唆されたか? または、彼女自身が、私のブログを読んでいて、あ、これは、面白いテーマだと、考えた可能性があります。ただし、最近の様に激しく彼女を糾弾し始めると、彼女は、もう、このブログを読んでいないでしょう。私の批判を受け止めるほど、太っ腹ではないと思いますよ。

 私の大学同期のお友達に、お子様が、引きこもり状態になった方が居ます。この人について、私は、何度も触れてきています。が、やはり、お子様が関係しているので、仮名で、書いていて、彼女のことを便宜上、8050ママと呼んでいます。で、今年の、10月ぐらいだったと思うけれど、笠松敦子さん(在宅編集者として、失われた時を求めてとか、その他、数々の箱入り上製本の、編集を担ってきた人・・・・そして、今では、私が・・・・彼女は、礼儀正しい人だが、内面を言うと、完璧に敵側の人間だったのだなあ・・・・と、考えて居る女性)から、「8050ママ(電話内では、仮名ではない形で、私と彼女は話し合ったのだが、ここでは、仮名を用いる)から、年賀欠礼が来ていたのよ。お名前は、ご主人ではなかったけれど」と、告げられました。8050ママの、ご主人は、テニス部の部長として、有名人だったし、当時のICUって、一学年300人程度だったので、その苗字も、下の名前も、誰もが、知っているのです。でも、念のために、「あなたは、テニス部だったの?」と聞くと、「ええ、そうよ」と彼女は答えます。しばしの沈黙を置いて、私が、「その後、電話をかけた?」と聞くと、「いえ、かけてはいないわ」と、彼女は答えます。で、それで、電話を終わりました。だが、私も彼女も、その当該の、故人が問題の引きこもり坊ちゃんだった可能性を感じ取っているのです。

 しかも、私の方は、・・・・・笠松さんは、それを私に知らせる事を、任務・・・・・と考えて居るのだ。誰かから、それを頼まれている・・・・・とまで、思いました。で、何を狙って誰が、それを、司令しているのかな?と、考えると、私に、『自分が恥ずかしい』と思わせることが狙いですねと、わかってくるのです。私は、自分を道徳的に正しいと信じています。あそこの家の問題は、奥様(=8050ママ)が、自分以外の誰も愛していないと言う事なのです。

 で、黒岩知事から離れすぎるので、簡単にまとめると、彼女について、二度目の文章を書いた時に、新しい怒りに満ちていたのは確かです。どうして直接知らせてくれないの。無論、また、喧嘩になるでしょう。「うちの子は、あなたが、独立させなさいと、言ったから、独立させたのだけれど、生活力がないから、餓死したの。あなたのせいよ」と、詰問をされる。そう言う種類の喧嘩になるかも知れない。でも、そうなってもいいのです。そう言われても、私は動揺しなかったと思います。

 ただね。ここで、私と、彼女の両方を知る人に向けて言っておきたいのですが、私が、二度目の文章を書いた時に、年賀欠礼の、主役が、坊ちゃんではないと、考えて居たわけではないと、言う事です。亡くなったのが、坊ちゃんであるかもしれない。と、わかっていても、一度目と、論調も筆法も変えないで、8050ママを、糾弾しています。

 確かに救えなかったのは残念です。1975年に気が付いた、彼女の、ご長男への間違った接し方は、とうとう、育て治す機会を失ったのだ。それは、残念だけど、彼女に対する同情心とか、坊ちゃんに対する同情心(それも、各種の本に書いてあるマニュアル通りの物だろうが)から、私を残酷な人間だと、規定をする輩が出てきたとしても、私は、全く動揺しないのです。・・・・・という吐露を入れて、まず、林真理子に戻ります。

 林真理子が、8050を書いた時に、私は内心で、「これで、彼女の下降ラインが始まりましたね」と考えた。だけど、もちろん失礼なことだから、ブログには書いて居ない。しかし、【奇跡】が出版されたときに、「これで、彼女の命運もつきましたね」とブログで書いた。私のブログを隅から隅まで、読んでいるだろう、いまだ生きている井上ひさしは、代理人の代理人として、林真理子を使役しているので、『これで、命運が付きましたね』と、雨宮舜(本名、川崎千恵子)ごときに言われてなるものかと、思い至って、彼女のために準備して置いた第二のテクニック=日大理事長にするを、実行をしました。

 ここで、私が、思い出すのは、関西学院大学、アメフト部の、2020年時のコーチと監督です。激しい勢いで、日大PHENIX指導者たちを糾弾していました。だが、それもまた、いまだ、生きている井上ひさしが案出した、プロット上の一演技者役を担わされていたのだと、私が、言ったら、どうお考えでしょう。林真理子は、やがて総理大臣になるでしょう。それが、日本の政治をおもちゃの政治として、持っていく最大の、勝利ポイントだと、考えて居ますのでね。で、あなた方は、あの怒り満杯の記者会見で、林真理子を、総理大臣にもっていく、一里塚の、登場人物として、テレビ移りの良い正義はを、演じられたのでした。その結果、日大PHENIXは、廃部とされました。宮川泰介選手の違法タックルを、再び、日本人が思い出せない様にするためです。

 で、林真理子は、このくらいにして、やっとですが、前田清子さんに戻ります。

 彼女が感情をむき出しにする人である。また、瞬間湯沸かし器みたいに、怒ることもあると、言う点が、我が家の土地が盗まれるに至った最大の、原因だからです。

 我が家の土地が盗まれてしまったのは、前田清子さんと、我が家の北隣に住んでいた、藤本悌子夫人の大げんかが、始まりでした。藤本邸は、すでに、売り払われ、そこに、498日の難工事というタイトルで、テレビ東京が、2016年7月18日(月)に二時間特番を組んだ、石井秀樹邸が今では、建っています。だが、これは、1984年の話です。昔、昔の話です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『ゼンリンの地図を詳細に調べた結果、前田家は、この山に、1983年に引っ越してきたと推察される。という事は、先住民として、また、20歳以上は年令が上の、藤本夫人を一定の尊敬を持って遇しなければならないのだが、前田清子さんは、それをしなかった。藤本悌子さんから、直接聞いたのだが、「前田清子さんって、常に、私をにらみつけるの。それに倣って、他の人も挨拶をしないのよ。ただ、井上さんだけは、いつもきちんと挨拶をしてくださるの」と。

 井上さんというのは、それこそ、関西学院大学卒の教養の深い人で、岸田淳平というペンネームで、絵も描いている人気の画家だが、別に、お歌か、著作かで、ヒット作を出した、金銭的にも教養のレベルでも、余裕のある人だった。だから、すべてをわかったうえで、藤本夫人をスケープゴートには、していなかった。私は、1985年、中谷共二氏から、突然に、東北の山(=崖)を無断で、切り崩され、道路の私道部分をコンクリート打ちをされると、言う超違法な措置を受けるのだが(これは、北久里浜における横須賀市所有の水道山をめぐる大・実質的詐欺事件(表向きには、地積変更届という形式が整えられているので、告訴などはできない。ただし、1200坪が無償で、ある個人に手渡ったことは、事実だ。そちらの方の、首謀者の一人、瀬島龍三から、中谷知二氏が、依頼をされているので、やったことだった。中谷氏は、帰米二世であり、戦時中は、CIA側または、アメリカ側として、動いた人であろう。

 これは、全くの途中です。しかし、午前二時になったので、寝ます。明日昼間、この件で、急に呼び出しが来るかもしれないので、寝ます。お許しを。

 ただ、これから書く事の予定を言えば

 前田祝一氏が、集団訴訟の原告になっていたことがあるので、あの夫妻が、共産党員である可能性を感じ取っている事。共産党は、CIAが手兵として、使っている二大組織の一つであること。ひとつは、警察であり、もう一つは、共産党である事。

 で、共産党員の中で、大学院まで、出ている女性は、数少ないので、前田清子さんは、お姫様もしくは、女王様扱いを受けてきているので、頭が高いと、言うレベルでも足りないほど、頭が高い。というか、威張りまくっていて、成熟度が足りない。40過ぎで、中学生とか、高校生の母であるとはとても思えないほどの子供っぽい態度をとる。

 ただ、前の住まいのあった場所が、大規模公団住宅状の形式だと、彼女の様な考え方は、一般の専業主婦からは、受け入れられないので、はみだしとして、ボス主婦から、いじめられてきた可能性は、感じている。そのわだちを踏むまいと、考えているのだろう。この山では、異様なほど、安野夫人に近づいて、その庇護のもとに入ろうとしている。

 で、この山に安野夫人が実質的に主役=ボスとなる、ヒエラーキーが出現する。そこにCIAが乗り込んできて・・・・・・

 

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緒方貞子、瓜南直子、千葉景子、宇都宮和代、マダム優美、レオスカラックス、樋口恵子、瀬木慎一

2023-12-19 01:36:46 | 政治

 これは、最初の総タイトルを、【汐留、築地、京橋と敵に、振り回され切った17日だったが、それでも26時間は起き続けたのだった。音楽の力で】としておりました。それで、貫きたいのです。が、20日の早朝になっているのに、まだ、4分の1ほどしか書けていないのです。それなのに、又、寝ないといけない感じです。したがってタイトルを変更いたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題1、『17日は朝二時に起きた。で、長い間の懸案だった、松竹へのお手紙に午前三時から取り組み始めた。で、午前11時から、外出。その時、外出先で、お手紙を推敲するつもりで、ノートパソコンと、スマホを持って出た。どこでも、スマホがあれば、インターネットができるということを、横浜駅西口にできた、TOM CAT(という山崎製パンの最上級クラス・カフェ)で、隣の、青年紳士に教えて貰った。何と彼は驚くべきことに、彼は、何にも注文をしないのに、プラグ、2個を占拠し、スマホ二台を開けて、かつ、ノートパソコンを開けて、仕事をしていた。顔もいい。体格もいい。洋服もいい。ウールのこげ茶のグレンチェックの一そろい。で、エリートとは、自信があるせいで、ずいぶんと、ずうずうしいものだと、びっくりしたが、テザリングの手法を教えて貰ったので、彼には足を向けてはねられない。わたくしは、普段若い人との会話がないので、内心で、批判をしながらも、表向きは、ほめまくって、「随分、たくさん、お仕事をなさっておられるのですね」と、言ってほめておいら、見返りがテザリングの教習だった。このお店では、wifiが使えないのに、相当難しい仕事をしているので、どうして、それが、可能なのですか_?」と質問をして教えて貰ったのだった。このカフェh、閉鎖空間ではなくて、CIALという駅ビルの中の、小さな改札口へ向かっている通路を利用する形で、テーブルが置かれている上に、店員さんが、忙しいので、監視がないので、こういうことができるのだった。

 このエリート青年の図々しさを見習って、朝日新聞社内廊下で、私は、4時から、6時まで、二時間も、ブログの修正をしていたのだった。あ、は。は。朝日新聞は、ヘラルドトリビューンと、合併(?)して以来、CIAに偏りすぎている、などと、批判をしているのに、二時間もカフェ代わりに、使わせてもらった。あ、は、は。

 天下の朝日新聞も日曜日なので、社員の出入りがない。ガードマンは、監視役として一人いたが、廊下には、ベンチが三連ほど、置いてあったので、使わせてもらっていた。どうして、そうしたかというと汐留カレッタビル(または、日テレビル)の地下三階にある、KInko's

で、プリントアウトをしたかったからだった。

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副題2、『私の妹は、千葉大薬学部卒のあと、医家向け薬品を作る鳥居薬品で、新薬の宣伝を担当していた。医学会へ出向きそこで、医家向け新薬の広報宣伝をしていたので、いったん鳥居をやめた後でも、ICU及び、高校での、私の知り合いを使って、ヘッドハンティングをされ、世界第三位の広告会社JWトンプソンに、再就職をした。驚くべき事に、新薬の宣伝は、今では、広告会社に、任せられる時代になったらしい。各企業の、新薬を守るという秘密体制は、どうなっているのだろう? でも、塩野義とか、三共とか、武田という規模の会社は、やはり、自社で宣伝を行っていると私は、考えている。

 この新薬の宣伝というのが、美麗な紙を使うパンフレットを作るし、ある程度以上の部数を作るので、或る分野での儲け仕事となっていて、私が常に、葉っぱちゃんという仮名を使う大学時代の、友人も、勤務先の、オックスフォード出版会でも、それを、今では引き受けていると、言っていた。悪い紙を使って、コミック雑誌を大部数出版している、大企業の、正反対の生き方と、言っておこう。

 この妹のヘッドハンティングだけど、私が本を自分で作り始めたので、妹にも再就職をさせて、妹の仕事の方が立派であると、いう形に持って行って、ライバル関係を設定し、私をへこませる役目があった。だから、妹から・・・・私が、ウィンドーズ版で、本の印刷機械にかける直前までの、データづくりをしているのを、・・・・・「いやだ。バッカみたい。だって、ウィンドーズって、汎用ソフトでしょう」と小ばかにされたものだった。「汎用でしょう」という言葉は、「それっておもちゃでしょう?」と、いうことの同義だ。アップル社のマッキントッシュの方が上だという印刷や出版業界の認識があるらしい。だけど、私は、ウィンドーズ版の方が、ヴァージョンXまでは、ショートカットを多用していないので、手間がかかるが、壊れた時、とか、バグが入れ込められたときに、治すやり方が、わかりやすいと思ている。したがって、敵との、対応がしやすいので、あれで、よかったのだと、思っている。そういう裏側もすべてわかっているから説明はしないものの、妹を恨んだり敵視したことはない。

 しかし、私は妹ほど、ぺらぺらと、口が回らない。これは、私が馬鹿だということではなくて、すべて、与えられてきたので、自分の口で、要求する必要がなかったからだと、思っている。しかし、パリで、または、ニューヨークで二回、合計三回の海外一人暮らしをして、特に日本人の、住民しているアーチストにいじめられて戦った経験は、私の会話能力を相当に高めた。それでも、勤務という形で、大勢の人に接している女性には、負けるのだった。長期間、一人で、制作と創作を続けて来た私には、子育て時代に培った、対人応用力はあるものの、子供が中学生になった時以来、一人で、孤独で生きて来た。で、ずっと、勤務していて、大勢の不特定多数との、交渉をやって来た働く女性には、負ける。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『私の会話能力が足りないために、マダム優美に、誤解をされたことがある。あれは、何時だっただろうか? 殺人事件でもないので、日にちが限定できないが五月だったのは確かだ。私たち日吉台小学校、1955年卒の一行は、結局のところ、綱島の元田んぼの中に建設されているレストランオークラの宴会場・棟へ、落ち着いて、クラス会を開くことになった。このレストランは、日吉駅まで、シャトルバスで、迎えに来てくれて、帰りは綱島駅まで、送ってくれる。そのシャトルバスの停車地まで歩いている最中のことだった。私はマダム優美の洋服が非常に高価なものだけれど、だいぶ古いものであることに気が付いた。だけど、それをほめたいと思った。

 私は最近終活をしていて、やっと洋服の整理が終わったところだ。忙しかったこの20年、洋服の整理をしないで、必要なの物を買い続けたので、春・夏、秋、冬、組み合わせるのに、夫々、7組以上ある事に気が付いた。「うわー参ったなあ。これを着古すまで、あと10年は、生きないといけませんね」と思い至る。捨てればいいと言う人もいるだろう。だけど、元来は画家だ。それで、高い洋服を着て居なくても、上下の色を合わせると他人から見て、美しく見えるのを知っている。中間色を、ちゃんと、合わせる為には、数が、必要で、だから、捨てられない。グレーだって、ピンクだって、何十種類もの色があって、その組み合わせ如何で、上品にも見えるし、みっともなくも見える。そして、その数多い洋服を整理しながら、やっぱり、天然繊維が一番ね。この頃ポリエステルも、冬物は、暖かくなったけれど、それでも夏、それを着ていると冷房が寒く感じたりするから、夏は木綿か麻ですねと、納得をしている。で、私は、色だけは大切で、それ以外の要素、流行色と、流行のスタイルは追わないことにしている。値段も今は、高いものは買わない。

 ただし、緒方貞子さんに横須賀線内で、出会ったときは参った。普通はグリーン車愛用の筈だが、大船から乗って来た彼女は、普通車に乗り、かつ、私の顔を知っていた。あの時思い切って話しかけてしまえばよかったのだけれど、夜の10時過ぎだったので、鎌倉駅周辺には、7つのカフェがあるが、方さんと一緒に入って行かれるほどの高級カフェは、すべて、既に閉店していた。

 緒方さんの姿は、黒一色で、素材も縫製も最高の冬支度だった。ちょっと、気おされてしまったのだ。だけど、緒方さん以外の人だったら、誰が、高価なお洋服を着て居ようとも、自分との勝ち負けは、気にしていない。

 ところで、マダム優美の洋服だったが、五月だから、選ぶのが難しい時期ではある。ブラウスにカーディガンというのが、最高の気温調節機能が有る服装だが、マダム優美は、ジャケット姿だった。ジャケットとなると、買っても、注文をしても、10万円近くか、それ以上になる。他の主婦たちとは、ゼロが一つ違う服装である。

 その時に、私が、本当に言いたかったことは、こうである。『うわ、ちょっと古い形だけど、素材がいいから素敵ね』だった。今のマダム優美は、サラリーマンの妻である級友たちとは、けた違いの富裕層だけれど、5年ぐらい前に買った、10万円以上はするであろうジャケットを、捨てないで置くのはいい事だった。モノというのも何でも、人間以外の命を殺して作られている。だから、簡単に、捨ててはいけないのだ。しかし、彼女は、私のセリフを全部は聞かず、瞬時に、怒り出してしまった。「千恵子ちゃん、失礼よ。全然気分を害したわ。女性に対して、面と向かってお洋服を、けなすなんて」と。私はあっけにとられた。私なりに褒めるつもりだった。薄いブルーかグリーンを含んだ、しろで、初夏には、ピッタリのジャケットだった。ところが、彼女は、数秒で、キリキリと怒り出した。それは、彼女自身、ひそかに、形が、すでに、流行おくれだと、言う事に気が付いていたからだった。そこを突いたと誤解をされてしまった。その時に、フォローをしようかどうか迷った。本当は、「違うのよ。スタイルが古くても、素敵だと、言いたかったの、いいものは、いいのよ」と、修正しようかなあと、迷ったのだ。だが、中原街道、東側の日吉から綱島へ向かう歩道は狭く、先を行く、マダム優美は、怒ったせいか歩みを早め、ぐんぐん先を急いで、振り返りもしなかった。その日、私は宴会を、全然楽しめなかった。さすがに、彼女は、洋服が原因だと、他の友達には、言わなかったとは思うが、つんつんしている具合は、最終場面まで、消えなかったからだ。

 これは、アメリカから、帰った後だったと思うのに、実践的な場面で、レベルアップしたと、自分では考えて居る会話能力を、発揮できなかった場面だった。でも、その陰に、私の高い分析能力も加味していると、言わせていただきたい。マダム優美が、自分が今、優越している事を、事あるごとに、他のメンバーにも、見せつけるので、他のメンバーは、いささか辟易しているところだった。だが、そういう私以外の人の渋い表情を見ながら、『ああ、マダム優美は、子供のころの復讐をしているのよ』と、考えて、どちらにも見方をしないで、置いたのだった。渋い表情をした女性と、私は、このクラスの中で、四人だけいたマダム森川の私塾のメンバーだった。マダム森川は、ご主人が、商船に乗っていて普段家に不在なのと、戦前の日本女子大を出ていると、言う学歴を、梃子にして、日吉台小学校で、成績が良くて、親が私立中学受験をもくろんでいるお子様方を、三3クラス全部から、3~5人ずつ、集中的に自宅へ招いて、受験用お勉強を見ていたのだった。そこから、男の子は、慶応普通部、女の子はフェリス、東洋英和、青山学院などへ、合格していった。1950年代、まだ、中学受験用塾は、それほど、流行していなかった。だから、私達、そこのメンバーは、特別に恵まれている方だった。結果、私は、当時はエリート校だった、横浜国立大学付属中学に合格した。しかも入試成績が、他と50点差をつけて一番だと言う事だった。森川家のお嬢様は、フェリス合格。

 私は、子供のころから、その苦悩が判っていた。マダム優美が、絶対に、愚痴を言わないし、表情にも出さないものの、父親が居ない自分は、私立受験をしないと言うのを、悲しがっている・・・・という事には、子供ながらにわかっていた。だから、大人になったマダム優美がことさらに、『自分は、今、あなた達よりも数段上の場所にいるのよ』と、誇示するのは、仕方がないと思っている。だけど、あの日、私が、「それって、スタイルは古いけれど‥‥」と、言いかけたまま、そのあとを、彼女の怒りに吹っ飛ばされて、続けなかったことを根に持って居るのだろうか? 確かめようがないが、それが、根っこにあって、今般の歌舞伎座入り口で、私がえん罪逮捕でもしかねないと言う罠を、彼女が張ったとしたら、女性のおしゃれに対する、発言には、よほど気をつけないといけないと言う事になる。

 今、この歌舞伎座玄関前のえん罪逮捕に至るほどの、だまし討ちに至る、大きな、案件全体のせめてもの救いは、森川家のお嬢様が母親を批判していた事だろう。「うちのママって、よその人ばかりに親切なの。こまっちゃう」と。華やかな活動をしている奥様の家の子供って大変なのだ。それは、それなりに。マダム優美家だけは、大ママ=ばあば、役の、1950年代に、すでに、未亡人だった、母君が、特別に賢かったと、言っておこう。で、娘さんの塾がうまくいくように、大きくサポートをしたと、考えて居る。

 ところで、先へ進みたいのだが、私の頭は、ここで、千葉景子さんとの、二度の、横須賀線、内での邂逅へ、向かっていく。

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副題4、『私は、2009年から、2010年にかけて、7冊目の本として、【消された映画】というのを準備していた。それの中で、レオスカラックス監督が、大変なしかも、恐ろしいレベルでの侮日映画を作ったことを批判している。それは、映画TOKYOの第二部で、プロットは、井上ひさしが、2007年ごろ作り上げ、『後は、自由に』とレオスカラックスに依頼をしたと、思われる。その映画のプログラムの中で、文化庁が、この映画に、助成金、800万円を出していると、言う事が書いてあり、それ以降、文化庁を尋ねて、これを質問しようと、私はずっと考えてきている。それで、まず、文化庁は、文化庁自身が助成金を出すのではなくて、芸術文化振興会という、半官、半民の組織を作り、そこが、お金を出すと言う形に変更をしてしまった。

 これが、瓜南直子さん、の早世の一原因でもある。我が家から、映画のプログラムを盗んだ、CIA連中は、直子さんに、【always 三丁目の夕日】の映画プログラムについて、フェイスブックで、あれこれ、投稿をさせた。それは、映画のプログラムが、【靖国】と、【TOKYO】と、二冊も盗まれていることを知って悲しんでいる私の心をさらにえぐるものだった。

 瓜南直子さんは、私の絵を見たこともないし、文章を一行も読んだことがないのだろう。だから、平気で、伊藤玄二郎や、酒井忠康氏の命令のままに動いていた。彼女のフェイスブック上の投稿は、全日本あすハガレンを始め、毎日、毎日、私を心理的に苦しめていたのだった。特に豊島屋の源平巻きを種にした、執事を名乗る金田佑子さんとのやり取りは、佑子さんが、私をスパイする役目が、立ち消えになったのへの謝罪の意味での、直子さんから、佑子さんへのプレゼントだったし、さらに、それを種に、卑猥なジョークを交わす、二人の投稿を見つけてから(それは、2011年11月18日だったが)、激怒した私は、瓜南直子さんの投稿を一切読まないことにした。それ以来、直子さんは急速に衰えたそうである。他の人のブログを見ると、直子さんは、2011年の12月には、すでに、止まり木に座っていることもできず、【日暮文庫=居酒屋】で、ソファーに、横たわっていたそうである。体は、やせ細っていて。私は、自分が切り捨てたとたんに、直子さんが、その様に弱体化して、しかも次の年に、この地上から消え去ったので、・・・・・ああ、やはり、神様はいるのだ‥・・・と確信をした。

 渡辺豊重さんも、1994年あたりでは、私とは、仲良しだったのに、2005年に、急に敵対してきて、変だなあと思っていたら、酒井忠康氏が、2023年の鶴岡八幡宮のぼんぼりに、珍しく似顔絵を描いて、とよしげさんを、しのんでおられたので、ああ、とよしげさんから2005年に見せつけられた突然の離反は、裏に酒井氏が居たわけですねと、納得をした。2005年から数えれば、18年は過ぎているが、この様にして、得たいと思って居る真実は、私の場合は、必ず、手に入る。

 千葉景子さんに戻ろう。レオスカラックス監督の映画、TOKYO第二部には、死刑執行の場面が出て来る。死刑は、フランスではないそうで、したがって、カラックス監督が、その場面を含めて、日本をバカに仕切った映画を撮ったわけで、私は、そういう侮日映画に、オマージュをささげている文化人たち(映画のプログラムで、発言をしている)への批判と、文化庁への批判を、その書物中に取り上げている。

 これは、私にしては、初めての、政治を主題にした著書だった。で、今まで以上に弾圧が激しかった。これを準備中に山口みつ子さんが、殺された。しかも自殺だなんて、大変侮辱的な、広報が毎日と、読売に、あった。絶対に他殺です。(この件については、2017年に入って、五月に、詳細に書いているので、そのリンク先を後で、探しておきます。)

 そして、お茶の水女子大付属高校卒の先輩、樋口恵子さんを使って、舞台は、覚園寺信徒会館三階で、引っ掛けが行われた。尚、大切なメンターと言っているのは、樋口恵子さんではない。昭和、31年卒の先輩、旧姓西大寺さんだ。その人との、井上ひさし考案による、2003年から、2005年にかけてのわかれを、再度えぐってきたのが、安倍晋三元総理大臣の、殺害事件だった。安倍晋三さんには、殺される由縁はない。山上てつやの伯父が、弁護士だそうだ。

 ここで、横浜に事務所を置き、永田町で、法務大臣をも務めた、千葉景子さんが、登場する。NHKニュースでもだが、個人的に、私を威圧するために登場したのだった。

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副題5、『千葉景子さんが、横須賀線先頭車両に登場したことと、相当後日になってから、横須賀線、後方車両に乗ろうとして、横浜駅9番ホームに立っていた時の変化は、私にベートーヴェンの第九の歌詞を思い起こさせた。

 つまり、上で言っている、【消された映画】を出版させないと言うために、まず、千葉景子当時の法務大臣に、メディアに向けて、死刑場を公開させた。私が、その本の中で、カラックス監督は、たった、2週間で、これを撮影し「皆様に感謝します」と言って、帰国をした。それは、そうでしょう。一橋蓮司ほかのキャストも、ビートたけし(の芸大横浜支部)を使って、撮影の協力したスタッフも、編集後の実物を見て仰天をしたと思う。尚、この映画は、三部作で、第一部と、第三部には、問題がない。

 この時の対私いじめとは、山口みつ子さんが殺された事(*1)我が家に外人が、ピストルをもって乗り込んできた事(*2)上にあげた樋口さんの覚園寺の講演(*3)、二階堂のきっさん店で、パソコンの仕事をしていた私に、如何にも、本の注文を自分たちに、依頼させようとする、伊藤玄二郎の悪口を言う二人組が現れた事(*4)、その帰途、清泉小学校横を家に向かって歩いている私の後ろから、音もない形で、ゆっくりと、神奈川県警の、灰色の装甲車(超小型車)が、追いかけてきた事(*5)、exibit Live and Moris での、個展を2月に、オーナーから、委嘱をされた事(*6・・・・・これは、準備中の本の出版を阻止させてやろうとする忙しさを演出する為)、しかし、それが、4月に伸びて、山本容子と、同じ週になり、すべての画廊オーナーに、私の方には、行かない様にという指令が下っていた模様である事(*7)、2010年4月3日、準備に行く私が、北鎌倉を出たところで、一時間半、電車が止まった事(*8)、オーナー森さんが展示を私の意図から滅茶苦茶に変更してしまった事(*9)、せっかく見に来てくれた、画廊スタッフ=三岸節子の画廊に雇われている人)を森さんが追い返したこと。(*10)、4月5日に、「六か月前に、受信した、ご主人の、がん検診の結果を教えます」と、額田病院から電話がかかってきた事(*11…これはね。その日に画廊に見に行ってもらっていた主人がもし癌だったら、個展など、やっていられないでしょう‥・・・そういう意味で、私への脅かし行為なのです)、

 同じ書物内で、取り上げているマイケルムーア監督が断筆宣言をしたこと(*12)、マイケルムーア監督が来日した事(*13・・・・・私が、2011=2012にかけて言動を批判した映画人が、マイケルムーア親衛隊として、登場した事)、

 佐々木俊尚が、朝日新聞書評欄の、【売れている本、堤未果】篇で、マイケルムーア監督の名を出して、暗に私をネトウヨと、規定をしたこと  *14)、瀬木慎一が、2010年4月5日着で、「あんたを告訴する」という手紙をよこしたこと(*15)・・・・・など、ものすごい攻撃の山に出会います。

 ちょうどそのころ母が死にそうだったのです。私は、本づくりには、激しい消耗をするのです。自宅がパソコンを邪魔され続けて仕事ができない場所へと変化するので、外で、仕事をするので、大きく、大きく消耗をするのです。でね、2010年の本づくりは、直前まで、準備ができていたのにもかかわらず、工業的・印刷製本にまでは、回していません。その後も並行して、次から次へとデータは、作るものの、実際の出版へは、回していません。それでね。伊藤玄二郎と、井上ひさしは、すっかり味を占めてしまったのです。脅かせば、彼女=私の事=は、仕事をやめると。そうですね。彼らにとって、最も恐ろしいのは、私の紙の本です。

 で、それを、抑圧する方法を見つけたと、大喜びをしたのです。でね。千葉景子さんを勝利のあかしとして使いました。たまたま、横須賀線の先頭車両に乗っていた私を脅かすために、千葉景子さんが、横浜駅から、乗ってきたのです。したがって、この時点では、私は、彼女の住まいがどこに在るのかは知りません。

 彼女は、その後も何前回と繰り返される、私がブログに書いた人物が目の前に現れたら、私がビビるはずだと、言う手法に準じて目の前に現れたのでした。それは、実際には、大きな特権を握っているくせに、背後にCIAが居ればこそですから、非常に憶病な井上ひさしと、伊藤玄二郎の、自分たちの心の中を投影しているだけの現象ですが、その日は、千葉景子さんが、利用をされたのです。でね。彼女に、「川崎千恵子は、貧乏です。必死で、おしゃれこいていますが、実際には、貧乏なのです。だから、できるだけ富裕であることを見せつけてやってください」と、情報を事前にもらっていたらしいのです。

 でね。顔は、ファウンデーションを厚さ1㎜程度に塗りたくり、お洋服は絹の、アンサンブルでした。ただ、私はね。私より、10cm以上背が低くて、体重は、53キロぐらい。ずんぐりむっくりで、テレビで見るよりもずっとスタイルが悪いなあと、見おろしていただけなのです。それからね。お洋服の絹ですが、買うときは高いでしょう。それと着ている時に楽です。軽くて暖かいです。しかしメインテナンスが大変です。すぐ黄ばんで来ます。そしてアイロンが難しいです。テレテレカンをなくすのは、素人では、難しいです。でね。お姫様用衣装、または、宮中、正餐用ドレスなどではなくて、普段用の、アンサンブル程度で、絹を美しく着こなすのは、至難の業です。そして、平沼高校卒でしょう。で、平沼も、岸恵子が卒業したころは、しゃんとした女性を生み出していたでしょうに、なあに、このずんぐりもっくりは‥・・・という様な形で、文章を終えています。それほど、伊藤玄二郎と、井上ひさしには、ひどい目にあわされていますので、そちらに加担している人物に、同情の余地はないのです。

 ところが山尾志桜里について調べて居た時のことです。彼女と神津李きお氏が、学芸大学付属世田谷高校卒だと知りました。(私が子供のころは、学芸大学付属は三校あったはずです)で、そこから、千葉景子さんもそこの出身だと知り、さらに、中学まで、ウィキペディアに書いてあったのです。すると、住所は、保土ヶ谷駅西側の丘で、しかも、中学の後輩だと、わかりました。なんていう事。でも、彼女みたいな厚化粧の女性は、わが1958年卒には居ないですけれど。ええっと。じゃあ、井田倉先生の私塾に通っていて、付属に入りましたか?などと、いろいろなことが判り、仰天しました。で、修正ブログを書いた後の事です。偶然横浜駅で出会ったのです。彼女は、ボックス型の席に座るために9番ホームの後ろの方で、待っていたのです。そこへ、北改札口から上がって来た私は目が合いました。

 彼女は、私を覚えていました。で、今度は、ふてぶてしさが消えておりあの脂ぎったお化粧もなかったのです。で、私は、声はかけないものの、おーフロイデ、と、なんか、第九のシラーの歌詞を思い出し、良かった、今日は普通で」と、思ったものです。彼女は、弁護士なら、それでしょうね。という風なお洋服で、以前より背が高く見えましたよ。つまり、少しやせたみたいでした。

 でね。マダム優美は、実は、歌舞伎座前で、逮捕(冤罪ですよ)されるかもしれないと言うほどの罠に引っ掛けてきたかもしれない、この度の、11月8日の電話ですが、千葉景子さんと同じく、普通の人として、小さいころと同じレベルで、仲良くなったのかと喜んだのです。

 

 しかし、この12月14日に日大アメフト部PHNIXの廃部が、けっていし、その日の林真理子のふてぶてしい顔を、見たとたんに、あ、ちがうようだ。マダム優美も私をひっかけるために、あれほどの、お芝居をしたのだろうし、千葉景子さんも、山上てつやの伯父を説得しに、奈良県にまで、行った使者だったのかもしれないし・・・・・

大変に嫌な方向ですが、PHENIXの廃部とは、そこまでと、連動をしている模様ですよ。

 ここで、20日の午前五時は、終わりとしておきます。

::::::::::

@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

 ところが、妹の方は、3人兄弟の真ん中として、小さいころから、精神的にネグレクトされていると、考えていた可能性がある。で、弟については、父も母もべたべたに愛していたので、それを、敵視すると、自分が損だと、考えていて、両親から、愛されているかどうかはわからないものの、アリと、あらゆる保護を受けていた、私の方をライバル視するさまになった。妹は、父の意を呈して【りけじょ】として、国立大学へ入ったものの、兄弟のうちで、特別に情感が豊かだった様に思われる。飯田深幸さんに、絹地で作る増加を習って居たり、社交ダンス(特にラテン)は、月に10万円の月謝を払って、馬車道まで、通っていた、

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汐留、築地、京橋と敵に、振り回され切った17日だったが、それでも26時間は起き続けたのだった。音楽の力で

2023-12-19 01:36:46 | 政治

副題1、『17日は朝二時に起きた。で、長い間の懸案だった、松竹へのお手紙に午前三時から取り組み始めた。で、午前11時から、外出。その時、外出先で、お手紙を推敲するつもりで、ノートパソコンと、スマホを持って出た。どこでも、スマホがあれば、インターネットができるということを、横浜駅西口にできた、TOM CAT(という山崎製パンの最上級クラス・カフェ)で、隣の、青年紳士に教えて貰った。何と彼は驚くべきことに、何にも注文をしないのに、プラグ、2個を占拠し、スマホ2台を開けて、かつ、ノートパソコンを開けて、ケーブルを何本もテーブルの上に這わせて、仕事をしていた。顔もいい。体格もいい。洋服もいい。ウールのこげ茶のグレンチェックの一そろい。で、エリートだとわかる。若いけれど高収入だとわかる。こういう種族は、自信があるせいで、ずいぶんと、ずうずうしいものだと、びっくりしたが、テザリングの手法を教えて貰ったので、彼には足を向けてはねられない。わたくしは、普段若い人との会話がないので、内心で、批判をしながらも、表向きは、ほめまくって、「随分、たくさん、お仕事をなさっておられるのですね」と、言ったら、見返りがテザリングの教習だった。このお店では、wifiが使えないのに、相当難しい仕事をしているので、「どうして、それが、可能なのですか_?」と質問をして教えて貰ったのだった。このカフェは、閉鎖空間ではなくて、CIALという駅ビルの中の、横須賀線専用みたいな、小さな改札口へ向かっている通路を利用する形で、テーブルが置かれている。その上に、店員さんが、忙しいので、監視がない。ので、こういうことができるのだった。

 このエリート青年の図々しさを見習って、朝日新聞社内廊下で、私は、2023年12月17日、午後4時から、6時まで、二時間も、ブログの修正をしていたのだった。あ、は。は。「朝日新聞は、ヘラルドトリビューンと、合併(?)して以来、CIAに偏りすぎている」、などと、批判をしているのに、二時間もカフェ代わりに、使わせてもらった。あ、は、は。電源もWi-Fiも使いませんでしたよ。念のために申し上げておきます。天下の朝日新聞様。

 天下の朝日新聞も日曜日なので、社員の出入りがない。ガードマンは、監視役として一人いたが、廊下には、ベンチが三連ほど、置いてあったので、使わせてもらっていた。どうして、そうしたかというと汐留カレッタビル(または、日テレビル)の地下三階にある、KInko's

 で、プリントアウトをしたかったからだった。その手紙は宛名は、個人名である。だけど、ほぼ、100%政治的闘争の道具だから、このブログの方にも転用をさせてもらっている。だからこそ、最低限の礼儀として、その17日のうちに松竹側へ、投函をしたかった。朝自宅で、プリントアウトをしたいと思ったら、プリンターが言う事を聞かない。

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日大PHENIX 廃部の報道を受けて、松竹に出す手紙。初台新国立劇場に入場可能かどうか?を問い合わせたくて

2023-12-17 11:22:17 | 政治

 今、私は東京へ出かけようとして居るところです。出掛けに主人に今日の予定を手紙に書いて置きました。内容は、以下です。「予定がはっきり言えない。横須賀線が遅延をすると、切符が買えないから、早く帰るし、買えたら、遅くなる」と。そういう手紙を置いて、出掛けたのですが、その時に書いた理由そのままに、横須賀線が遅延をしました。これは歌舞伎座に行く時に必ず、見舞われるいじめ行為です。五年ぐらい前だったか? 武蔵小杉駅の手前か、過ぎた辺りで、他の路線を利用できない場所で一時間半 停車した事もあります。で、本日、朝早く準備した、歌舞伎座さんへのお手紙を、ここに使う事で、ずっと休んでいた更新を果たしたいと思います。

 中身は松竹定款という残酷無比ないじめ装置が国立劇場でも、機能をするかどうかを問い合わせているものです。内容はそうですが、手書きにしたいと、一週間前には、思っておりました。しかし、初台の、切符を買う予定日が過ぎていて、もう、安い切符は手に入りません。で、高い切符を買うのに、2023年11月4日と、15日みたいに切符を持っているのに入れないとか、それを払い戻しもしないとなると、非常に困るので、問い合わせをしているところです。しかし、ある意味で、億劫な手紙です。どういう文章にしたらよいかを迷います。それで、予定より遅れてしまいました。で、特に遅れたので、パソコン入力で書きます。

 お手紙というものは、非公開にすべきですよね。ただし、パソコンを使って作文をすると、あっという間に、大勢の人に、読み取られます。ネットに乗せないで、非公開にしているつもりでも、まったく同じです。したがって、松竹さんは、内容をすでに知っていると思います。ので、ブログに使わせていただきます。

 この手紙を書くのが、しんどい仕事だったので、ブログを更新できませんでした。恐れ入ります。

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松竹株式会社 小川純一課長 様

  私は日本の昔からの箴言とか、諺とか、慣用句というものは知っております。で、それらに連なる、文章として、「日本人は、物事をあいまいにしておくのが好きだ」というのがありますね。白、黒をはっきりさせないままに放って置くという事が好きで、やがて、葛藤の当事者両者にとって、両方が納得ができるところに落としどころを見つけて、なんとなく、物事を解決にもっていくという手法です。私は、最近身辺に起きている、・・歌舞伎座の定款云々トラブル・・に関しては、それを信じようと思っています。

 それは、私の信念の一つです。他にも信念はいくつかあります。一つ目とは、正反対の方向をもつ、二つ目の信念があります。それも、後でここに書き加えますが、上にあげた一つ目の方は、普段はあまり、使わない信念の一つです。しかし「歌舞伎座に入れないのです」と、あなたがおっしゃぅた日(2023年11月4日+15日)以降のなりゆきについては、珍しく、こちらの方を信じました。

  それはですね。マダム優美という仮名で貴方にお伝えする日吉台小学校時代の、友人が、「2023年11月16日分の、私が持って居る切符で、一緒に歌舞伎座へ行きましょう」と、11月8日にお電話をかけてくれたからです。その後、二人の間には、三回の電話によるやり取り、二回の宅急便(手紙+お菓子類)のやり取りがありました。表向きは、大変親切なお申し出です。しかも、私は彼女のご主人が歌舞伎座にとって、大切な人物であるとも、推察しているのです。ご主人のビジネス界でのお名前(生まれた時から、結婚時まで、使っていたお名前を引き続き現在でも使っておられると推察しています。戸籍上のお名前は、奥様の実家へ婿養子として入籍されているので、マダム優美ですが)を知らないでいるのですが、そのご主人の方が、菊之助に、ファイナルファンタジーXの歌舞伎化を許可し、協力した会社の、トップ、または、重役であると、推察しています。で、奥様の方も、歌舞伎座の最高ランクの会員でしょう。メディアに、載る人物としては、林真理子・現・日大理事長が、歌舞伎座ファンとして、有名ですが、マダム優美は、テレビには出ない人で、表向きの肩書は、専業主婦ですが、歌舞伎座への貢献度と、歌舞伎座側の扱いは、林真理子女史にも、劣らないレベルで、大切にされている人物だと思っています。

  一年前のことですが、たまたま、歌舞伎座のエレベーター内で一緒になった時に、「桜姫東文章よかったわね。私、あれを四回も見たのよ」と、彼女が私に告げました。で、普通の場合だと、一回目の切符は、前月に買います。しかし、二回目の切符はなかなか、手に入れにくいものです。特にあれは、人気が高くて、私は、切符が買えなくて、一回も見て居ません。が、彼女が四回も見たという事は、一等席、または、二等席が余っていたのでしょうか? 私の場合は「一等も二等も、売り切れで買えません」単純に高額な席が余っていたという事でもないだろうと、推察しています。一等席などが、もし、余っていたのなら、お金を出せば買えますが、私は、彼女は、歌舞伎座側から、特別な便宜を図ってもらっている人で、だからこそ、『あら、いいわね。もう一回見たいわ』と思えば、そのための便宜を歌舞伎座から図ってもらえるのだと、感じました。

   どうしてそう考えたかというと、歌舞伎座は、有力な人に関しては、特別待遇を与えるのです。例えば、大向こうを、吉右衛門に対して、かける人の三階座席傍の立ち見などを許すのです。(永谷園の社長ではないかなあと、推察しましたが?)

 今般のごたごたの端緒は、2023年10月16日に四階の階段に座っていたのを三階、下手側に椅子をこちら側に向けて、監視をしている女性が、見とがめて、四階ロビーで、大騒ぎになったわけですが、三階で立って見ることを許されている人が居る一方で、四階での、私の場合ですが、既に着席している外人に迷惑をかけたくない(横須賀線がわざと、遅延をするので、そうなるのですよ。私が、だらしがなくて、遅刻をしているわけではないのですよ。私は、言論主張者として、激しく弾圧をされている人で、歌舞伎座の切符を持って居る日には、必ず、横須賀線が遅延するのです)上に、ぜったいに地震などの大災害が、起こりえない状況であり、しかも時間がたった15分以内でも、私は、大変なおとがめを受けて、その日も大騒ぎでしたが、のちに、歌舞伎座玄関前で、あなたから、「ここは、松竹の敷地だから入るな」と、言われるのです。凄い侮辱。

 特に私は、体が弱いのです。1965年のトルエン類を使った化学実験のせいで、1979年など、トルコ・イスタンブールで、四時間も気絶していて、シェラトンホテルが、内部に待機させている医療チームに蘇生術を施す様にてはいをしてくれて、やっと、四時間後に蘇ったほど、体が大変弱いのです。だから、階段に座ったのですが、そんな小さなことで、急に(特に、その日以降のたった3日間で)定款が準備され、「その監視役の女性の写真を、2022年4月25日、及び、27日の)ブログから、引っ込めろと言われたのは、裏に別の問題が隠されていると感じており、松竹さん(特に歌舞伎座)から、ひどいいじめを受けるいわれはないと、信じているものであり、・・・・・・ともかく、いずれ、この松竹定款云々トラブルは、いつの間にか、雲散霧消をするものだと、信じていたのでした。

   特にマダム優美の親切行動がですね。私の方ではその表向きの姿そのままに、私を支援してくれるものだと信じて居たので、近日中に呪縛は解けると確信をして居たのです。理由というか根拠は、彼女のご主人は、ファイナルファンタジーを、歌舞伎座に提供した大物であると、私は、信じているのですが、それとともに、慶応大学の理事職を任じている人だからでした。これは、お添えの情報ですが、松竹の正社員、特に歌舞伎座関係者には、慶応出身の人が多いのではないですか? そうではないかと、推察していますし。

 私はね。その表向きの方の情報を、正しいものとして、11月26日までは信じていました。ただし、その26日に彼女がくれた電話の到着時刻がおかしいのです。スマホが、電車に乗る直前、エスカレーター上に乗っている時に鳴ったのでした。わざと取りにくい時間にかかって来た・・・と、言うポイントと、林真理子・日大・理事長が、他の委員たちを牽引してPHENIX廃部を決めたと、言うニュースが、12月15日に流れてからは、・・ウーム、松竹側は、私が、信じる方向には、動かないのかもしれない・・と、考える様になりました。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 となると、今、この手紙を書いても、全くの無駄骨になるであろうと考えます。しかし、私が、このお手紙を書こうと決意したのは、12月7日頃でした。中村梅枝が、松竹が、歌舞伎美人で、情報を公開している、どこの劇場にも、出ていないのです。12月も2024年1月にも出ていないと、知り、その日は、珍しく、ネット上での探索をつづけたのです。すると、初台の新国立劇場(中劇場)で、菊五郎劇団が、1月に公演をすると言う情報を見つけ、ぜひ見たいと思いました。その劇場は、松竹の物ではありません。だから、はいれるはずです。

 しかし、あの2023年11月20日に、あなたから、手渡しされた松竹定款を丁寧に、22日に読んだのですが、10月31日までに、あの監視役女性の写真をブログから、引っ込めないと、これから先、松竹が提供するコンテンツには、一切触れさせないと、書いてありました。スキャンして、保存をしてあります。もちろん、忘れません。初台の劇場は国立だから、入場可能でしょう。しかし、舞台の上で、活動する役者さん達は、一応松竹が管理している人たちなのでしょうね。よくわからないけれど、そうなのでしょう。また、演目(戯曲)は、どうなのでしょうか? 江戸時代のものがあれば、それは、松竹管理とは言えないだろうし。・・・・後で、詳細に、検討してみます。

  でね、あの松竹定款を厳密に、厳密に考えると、初台の、新国立劇場の入り口に、小川さん、または、別の松竹株式会社の社員が待っていて「あなたは、本日は入れません」という可能性が有りますね。これは、以前にも経験している事です。

 同じく中村梅枝が出演した、巡業を、江戸川区の区立会館に見に行った際に、座席案内の女性から、ひどい措置を受けて、結果、見られなかったのです。で幕間に「その任務の女性たちがひどい」と、江戸川区に文句を言ったら、「あれは、サントリーから派遣をされている女性たちです。江戸川区の職員ではありません」と言われました。劇場を使用料を払って借りているという形であり、・・・・長いさらしを、器用に処理する・・・・・と、言う事で、有名な所作事【出雲のお兼】を見ることが出来なかったのです。でね。今回の初台も、座席案内の女性が、松竹から依頼を受けた、派遣会社勤務の女性かもしれません。すると松竹側の意向を受けて、「あなたは、入れません」というかもしれません。

 私は、すでに、2023年11月4日の一幕見の切符と、11月15日の三階の切符、それから、「あなたのために使いましょう」と言ってくれていたマダム優美が、持って居た、16日三階の切符(それは、彼女に「行けない」と断ったので、無駄になりました。で、申し訳ないので、菓子折りをご自宅に自分が持って行って届けています。6千円相当になる様に二種類です。で、すでに、一万円を無駄遣いとして、天空に捨てています。

 その上、2024年の一月に入って、さらに、8千円を無駄遣いさせられるのは、とてもつらいのです。あなたは、高給取りだから、私の気持ちは全くご理解されず、ただ、あざ笑うだけでしょう。だけど、私は、その8千円を無駄遣いしないために、このお手紙を書いています。もし、初台にも入れないのなら、早急にお知らせ下さい。

 2023年11月16日の菓子折りは、電車を三本乗り継いで、ご自宅に届けています。彼女と一緒に行っても、彼女に恥をかかせるだけだろうから、それを忌避したいと思ったからでした。

 だが、さらに、後日の状況を加味して詳しいことを言っておくと、単純にお友達に恥をかかせると言うだけではなかったかもしれません。林真理子・日大・理事長の、12月4日の記者会見を見たり、その後、記者会見は、無かったものの、大きなニュースとして、15日【金曜日】に日大PHENIXを廃部にもっていったいきさつ(及びNHKニュース)を見ていると、

 マダム優美を使って油断をさせておいて、16日、午後四時前後、歌舞伎座の玄関が開く際に、400人から、500人の、早めに来たお客さんを前にして、私が逮捕される、可能性まで、感じ取ってきています。もちろん、えん罪逮捕という種類のものですよ。

 だって、一年半も、自由に放っておかれた、歌舞伎座下手壁を写した写真


が、どうして、今、問題になるのか? 不思議ですよね。絶対に納得が出来ません。ただ、深層を、推察すると、私のブログをつぶしたい人間が、裏で動いたから、こういう残酷なことが計画をされたのでしょう。

 誰が、そこまで企図しているかというと、築地警察署の生活安全課の課長とか、いまだ、生きている、井上ひさしでしょうね。彼・発のアイデアを、伊藤玄二郎・鎌倉春秋社社長が、受け取って松竹側の誰かを、洗脳して言う事を聞かせているので、その二者が、もっとも大きな震源地だと、推察しています。最近小津監督の特集が、NHKで、放映をされています。小津映画のプロデューサーは山内静夫さんと言って、里見頓の、四男です。(これは、小津映画の字幕では、静夫さんですが、最近では、よく静雄という表記を見かけます。で、両方を付記しておきます。

 伊藤玄二郎は、対、私いじめで、200ぐらいのアイデアをすでに、実行をしているので、自分の身を守るために、このブログをつぶしたいと、考えて居ます。その手法の一つとして、ノイローゼにさせて、精神病院へ入院をさせてしまおうと言うのがあり、それに役立つ【措置入院】という語彙を、世間一般に広めるための、盛り上げ事項が・・【やまゆり園事件】でした。その一年後、正しいことを書いている私を脅かすために、私の妹を、殺しました。そして、朝ドラ【スカーレット】の主人公に、妹の名前【喜美子】を使ったり、

 当時、真相を調べるために江戸川区清新町に、何度も出かけて、ある晩など川沿いの公園を歩いて、樹木が茂っているのに驚いて、かつ迷ってしまって一文を書いているのですが、だからこそ、都知事は、代々木公園と江戸川区の公園の樹木を伐採したのでした。代々木が、1500本で、江戸川が400本だそうです。東京都民が、何万人署名を出そうとも、わたくし一人のブログを、消し去る(というのも樹木がなくなってしまえば、その文章は、嘘を書いているということになりますね)ために、都民は、置き去りです。小池都知事は自民党内の、無視または、看過作戦への、反発力をほめてあげているのに、その私を攻撃するために、都民からの要請を無視したのでした。何度目かのことです。

 ところで、なぜ、警察(特に松竹を支配しているのは築地警察署だと思いますが)が動くかというと、+1)保美死刑囚がやったとされている、平成の八墓村事件、*2)山田浩二死刑囚がやったとされている、寝屋川のアーケードで、真夜中に遊んでいた、中一二児童殺し、他の数多い、異様な事件が、実際は、警察の特殊部隊が殺人を実行している、謀略事件であると、書いているからです。築地警察署の上には、警視庁が居て、その上には、警察庁が居るでしょう。

 ともかく、その文章が真実であるために、ブログ全体をつぶそうとしているのが、井上ひさし(いまだ、実際には生きていますよ)と、伊藤玄二郎が、主役としてその組織を握っている鎌倉エージェントです。鎌倉エージェントと、私が、穏便に名付けていますが、所謂、CIAエージェントで、1945年の日本の敗戦後、ありと、あらゆるところで、頭の良い人間を見つけては、つぶして行っている組織です。

 私は、1965年大学(=ICU)在学中に、ただ、眉をひそめただけで、アメリカ人エリート大学生ベイカーさんから、頭が良いことを見つけられてしまって、その後、合計六回ぐらい暗殺されそうになっています。日本でだけではなくて、パリ・バスティーユでも、1998年9月4日には、外人に拉致されそうになっています。だから、瞬時に、敵の狙いが判る人間です。今回の松竹定款問題も、松竹を隠れ蓑として利用をしているだけで、井上ひさしと、伊藤玄二郎と、警察庁(CIAの手下として動く、実働部隊です)の三者が合体して、作り上げた攻撃手法だと考えて居ます。

 しかし、松竹定款の上に来るのが、日本国憲法でしょう。それには、日本国民である限り、平和な生活を送ることができると、書いてあり、文化的利益も享受もできると書いてあります。だから、日本が真実の独立国なら、私は、松竹定款の行使など、全く気にする必要もないのですよ。

 だから、本来なら歌舞伎座にも堂々と入れるわけだし、初台にもはいれるはずです。ところが、11月15日にあなたに、ひどい扱いを受けたわけです。でも、それでも、その後の、私のブログ文を勘案した、敵さん連中は、反省しており、何の心配もなく、初台の劇場に入れるだろうと、言うのが、真正面から、私がとらえて居る真実です。

 ところが、林真理子・日大理事長が、PHOENIXを廃部にもっていった、事実(=2023年12月15日)を見ると、この日本では、原理原則よりも人間関係が重要なのだと、何度目かの事として、認識しています。でね、寝た子を起こすの典型ですが、こういう長い手紙を書いたというわけです。

 伊藤玄二郎と親しい松竹さんは、彼からの依頼を最重要項目としてお考えなのでしょうね。すると、私が推察するに、新国立劇場の入り口ででも、入場を阻止される可能性が出てきました。そこで、わたくしが三度目の恥をかけば、絶望感を強めて、早く精神病院へ入るだろうと、考えて居るからだろうと、推察しています。すると、そうなります。

 伊藤亥二郎とは、鎌倉ペンクラブの会長です。東京の春秋社の社長の愛顧を得ていることは、いろいろなところで、発表をしていますが、鎌倉市内では、里見頓氏と結びついていることは、有名です。彼は、いま80歳なので、最晩年の里見頓氏と、知り合うことができたのでしょう。そして、里見頓の、四男なんである、山内静雄(または、静夫)氏とも懇意にしてもらっていたと、考えられます。

 最近、NHKテレビでは盛んに、小津安二郎特集を組んでいます。山内静雄(または、静夫)さんは小津映画のプロデューサーですね。映画の字幕では、静夫と、夫という漢字が使ってありますが、最近のネット情報では、雄が使われていますが、わたくしが意味するのは、同一人物です。里見頓の四男で、鎌田撮影所、または、大船撮影所で、小津映画を撮影するサポートをした人物です。小川さんは、現代の松竹で、出世頭なのでしょう。対・私交渉に駆り出されるとは、大物のはずです。だけど、小川さんにとっても、歌舞伎座支配人にとっても、松竹社長にとっても、山内静雄(静夫)氏は、祖父世代に当たり、かつ、年齢だけではない尊敬の対象だと、推察しています。その人物と親しい伊藤亥治郎から、何かを依頼されると、原理原則を離れて、いうことをお聞きになるのでしょう。

 というわけで、

 小川さんは、新国立劇場の、入り口で、私を阻止するおつもりですか? イエスか、ノーかを、お問い合わせをしたいと思っています。郵便がなかなかおかしいので(ああ、電話もそうなのです)で、恐れ入りますが、同封のレターパックで、ご返信下されば幸いです。

 

2023年12月17日 川崎千恵子

248-0005 鎌倉市雪ノ下1-3-7 Tel 0467-24-9018

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私が、館野泉と藤田真央に集中しているこの二日間に、CIAajentは日大PHENIXを廃部におい込んでしまった

2023-12-14 22:20:17 | 政治

 今は、15日の、夜九時ですが、やっと、終わりました。この章です。わたくしが美しいものに拘泥しているうちに、鎌倉エージェントは、あくどい行為を完成させました。日大アメフトPHENIXの廃部は、すきを突く、わたくしへの、大攻撃でした。まあ、仕方がないですね。わたくしにはメディアの協力がないのですから。だけど、以前から書いていることを、どうか、振り返ってみてください。わたくしの言っていることがすべて正しいのですよ。だから、すきをついてきたのです。 

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わたくしは連続したテーマのものを二日間書いていません。もし

かすると、三日だったりして。しかし、今、悩んでいるから、そうしているわけではありません。むしろ、まったく悩みがないほどです。で、こういう時こそ苦手なことをしようとしているわけです。大きくまとめると、終活ですが、まあ、あれこれ、用事のある事、ある事。

 で、頭をそちらに向けていて、BS103の予約を消そうとしていたら

 本日=2023年12月14日の深夜(実際には、15日の午前1時15分から)ETV(地上波2ch)で、館野泉特集=【鬼が弾く】があるのに目が留まりました。これ、わたくしは、実際には、ずいぶん前に見ています。だから、再放送のはずです。しかし、59分拡大版となっていて、以前のものよりも、長いかもしれません。

 で、何かが増えているはずです。それが、何かはわかりません。が、むろん、見てみるつもりです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それで、皆様に、情報をおすそわけするわけですが、館野泉が、共演者として、藤田真央を招いています。ずっと、昔(多分、1年半か、2年前です)のことですが、

 その日の番組では、新曲【鬼の学校】の紹介が主で、鬼が主題なので、わたくしとしては、美しいなだらかなものが、好きなので、あれっと、いう感じの演奏会ではありました。

 ここまでの文章に、急に14時間後、挿入を入れます。というのも、14日は、」くたびれ切って、寝落ちした後で、7時間の睡眠後起きて、録画を見ているのですが、どうも、番組が作り直されている模様です。たぶん、ダイニングキッチン部分が以前と違うので、作り直されていると思います。以前は、館野さんが、ダイニングキッチンで、ご自分で、コーフィーだったかを、淹れるところから録画されていました。おやかんを、ガス台から食卓へ移動をさせてね。しかし、今回は、そのお茶の種類が見えないのです。日本茶かコーフィーかがわからない。

 その代り、以前は気が付かなかった、部分がありました。白ワインをNHK取材班の人と一緒に一日の終わりとして、飲まれる場面が出てきました。そのときに館野さんは、ご自分で歩いて、ワインを取っていらっしゃったのですが、そのワイン用の棚のある台所が、以前とは、違うのです。だから、おうちの中を部分的にリフォームされたのだと思います。書斎というか、ピアノが置いてある部屋は、昔通り、昭和の面影を残す箪笥とか障子とかがある部屋なのですが、ダイニングキッチンが違う。

 館野夫人は、ヘルシンキに残っておられるのです。で、泉氏は、半年だけ、日本、半年は、ヘルシンキ。

 以前、河野多恵子さんが、半年は、日本で、一人暮らし、半年はニューヨークで夫(画家)と一緒の暮らしと、いうのを、送っているというのを、知って非常にうらやましいと思いました。創作をする人にとって、一人暮らしは、絶対に必要だからです。演奏家は、文筆家とか絵描きとは違うのでしょう。だけど、考える時間が必要だというのは、演奏家も同じです。館野泉氏の、日本での一人暮らしは、絶対に、良い影響を館野泉さんに与えているでしょう。

 わたくしが、この鎌倉ユキノシタ二丁目に引っ越してきてから、形としては、専業主婦ですが、ご近所づきあいを、一切しないと決めて、引っ越してきたのも、北久里浜からの転居を機に、創作をする人としていきたいと願ったからでした。つまり、夜は、普通の主婦、しかし、昼間は河野多恵子風、または、館野泉風に暮らしたかったのです。

 :::::::しかし、1984年8月10日に、転入後、一か月後に、まったく付き合っていないのに、玄関ベルを押して、「お砂糖を貸してください」という依頼に訪れる・・・・・そういう主婦がご近所にいたのです。ビックリでした。その時、42歳でしたが、そこまでの一生で、そういう主婦には、遭ったことがありません。船橋市塚田駅周辺でもであったことがないし、日吉でも出会ったことがないし、北久里浜でもであったことがないからでした。・・・・・このユキノシタ二丁目(鶯が谷)って、なんなの? どうして、そういう風に江戸時代に、戻ったみたいに、長屋風なの?・・・・・って、ひどくおどろきました。・・・・・一戸建ての住宅街なのに、そして、我が家は、鶴岡八幡宮の地境地主なのに、どうして、こういうタイプの主婦がいるの? ここはインテリが住んでいるところだと、その二年前に、別の家を売り出そうとしていた大学教授から、聞いていたのに、どうしたんだろう?・・・・・と、本当に驚きました。

 が、そういう生活ぶりこそが、或る種の専業主婦のパターンなのです。特にご近所主婦同士の階級を決めたがる主婦のパターンなのです。他人の生活の内容を知りたがる主婦のパターンです。で、非常に硬く、門戸を閉ざしていないと、考察を中断させられるのは、防ぎようがない事なのです。子供が小さいうちは、そういう形式で、生きていくことはできないのですが、子供が中学生になってから、引っ越してきたので、それが、通じると思っていたのでした。

 それなのに、その「お砂糖を貸してください」といった主婦に、CIAが取り付いて、ありとあらゆる別の攻撃をなされているのが、その転入後も、38年間も続く現況です。下のほうで現れる泥棒の被害☛へ、ここから続きます。というのも、この山の実働15か、16軒のうち、二軒に我が家の合いかぎを渡してあるからです。だれから、渡されたの?といえば、CIAの、実質的な家来である、警察からです。非常におかしい、変質的な日本政治は、このユキノシタ二丁目のお砂糖を借りに来た主婦から、始まっていることでした。彼女の名前は、安野智紗夫人といいます。::::::::::

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 館野泉さんの、自由が丘での、一人暮らしに戻ります。50年間、それが続いているそうです。最初は、ご両親が生きていらっしゃったと思いますよ。で、お料理とかは、母君のお世話で、暮らしていらっしゃったけれど、ある時期から、家事も一人で、なさっているでしょう。自由が丘の古い八百屋(スーパーではない)で、柿を三つ、買っていらっしゃる映像ができました。神のごとき、演奏家も、生きる技術と生きるための労働時間は、必要です。

 そういえば、昨日わたくしが、買ってきた、藤田真央の【指先で旅をする】も、彼がベルリンで、一人暮らしを始めた時からの記録となっています。そして、彼もまた、ベルリンで、お料理を作っているそうです。えらい。そして、おいしいものとおいしくないものの差がわかるらしい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここで、14日の夜に書き始めた初稿に戻ります。

 しかし、なぜ、本日、急にこの番組が放映をされるのですか? と不思議です。しかも、どうも先週もあって、今週が再放送という形でもなさそうです。

 でね。これも小さなミステリーですが、なぜ、いま、急にと、思うと、それは、藤田真央のほうに、原因とか理由があるのではないかと思い当たりました。

 今週の、朝日新聞(23-12-9 第25面・・読書)で、(著者に会いたい)という記事が原因ではないかと、思い当たったのです。

 それは、藤田真央著(?)の、【指先から旅をする】に関連して吉田純子の署名入りで、インタビューが乗っていて、これを読んだNHKの誰かが、急に、この館野泉の、去年の放映分を、思い出して、深夜に突っ込んだのではないかしら?

 しかし、15日の午前中、実際にそれを見た感想を言えば、以前、わたくしが見たのとは、作り直されているものでした。が? なぜ深夜とは、本当に不思議です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 上の❓マークから、ここへ続く。

 一方のわたくしですが、最近、ブログで、書いていませんが、引き続き泥棒被害には、悩まされています。ただし、この悩まされている、は、以前ほどの、揺らぎではなくて、徹底的に、相手方を小ばかにしていますので、心理的には、悩んでいないのですよ。ただ、手当てをしないといけません。

 税務申告に関して、困らせてやろうとする泥棒行為があって、最近新しく買ったノートパソコンの、領収書が、盗まれました。泥棒行為は、2007年から、気が付いていて、この山の人間が、どれほど、威張っていて、わたくしを見下そうとしても、この山の人間のうち二人が、明瞭に合いかぎをもって、侵入しているのですから、ほかの人のことも激しく軽蔑をしているわけです。というのも合いかぎを持っている人間が、この山のボスですからね。

 渡辺賢司・マキ夫妻が挨拶をしないで追い抜いていこうと、だれが何をしようとしても、全体に、だれもが、わたくしに対して威張っているわけですが、そして、嘘も平気でつくわけですが、わたくしのほうは、内心で、激しく、激しく軽蔑をしていると、いいましょうね。前田夫人からか、安野夫人からか、白井夫人からか、だれかに命令されて、それに協調する人間に対しては、内心でですけれど、激しく軽蔑をしています。まあ、ほぼ全員だけれど、深い深い軽蔑の対象となっています。

 ノートパソコンを新しく買ったのは一台壊れたからですが、あたらしく買う前に、一応壊れれたDYNABOOKの修理をヨドバシ上大岡店に依頼しました。そこの修理担当部門の人が頭がいいのを知っているからでした。

:::::::::ここで、重要な挿入に入ります。

その人が、「これは、ここでは治りません」というので、預けてきました。すると、亜l機葉原のヨドバシ本店から帰ってきたダイナブック側の修理の見積が、48万円ですって。そりゃあ、断りますよね。ただ、ヨドバシ秋葉原本店まで行って、帰ってきたDYNABOOK 13インチは、おどろくほど、きれいに、なって帰ってきました。それには大感謝です。

 ただ、普通のレベルでは、使えない状況です。電池がおかしいのです。でも、保持は、しておきますが、念のために、もう一台買いました。いつ残っているほうが、壊されるかがわからないからです。ところが、思いがけなく安かったのですが、それでも領収書が盗まれています。今、アパートの入居者がいなくなって、ほぼ、100万円年収から減ったわたくしにとって、税務申告用の領収書は、大切です。しかし、ですね。ここで、泥棒が登場する。泥棒が、この領収書を盗む機会が、二回あり盗まれたのです。泥棒は四種類います。だが、チューリップの球根を掘り起こすのは、ご近所様でしょう。合いかぎも持っているし、庭にも室内にも悪さをしています。

 と、同時に、ネットで、石原伸晃氏が、100円から300円までの、領収書は捨てるべきだと、いったらしいですね。だけど、わたくしには、それらも大切な領収書です。

 領収書を再発行をしてもらいに、横浜駅周辺にまで、いってきたのですが、時間と労働力という意味で、大いに無駄をさせられるのですが、せっかく横浜まで、いったので、ついでに、みずほ証券横浜西口支店が移転をしたというので、その、新店舗を確認に行ったのです。むろん、しまっている時間帯に、なってしまっています。ですが、シェラトンタワーにあると、書いてあったので、その記憶を頼りに行ったのですが、エレヴェーターでも、ビル内の案内板でも、二階が空白になっていて、何も書いていないのでした。だが、すぐ近所にある古い店舗には、引っ越しましたと、夜目遠目で、見える形でポスターがはってあるので(そっちは行っていませんが)引っ越したはずなのに、引っ越し先に、何の掲示もないというのは、どういうことだろうと思って、シェラトンホテルの、クロークを訪ねたのです。

:::::::::ここで、挿入の挿入を入れます。実は、マダム優美夫妻の立ち位置を考えていて、虎ノ門ステーションタワーの完工で、内覧会などがあったとすればあの夫妻はお招きを受けていたのではないかと思うのでした。お金、お金の世の中ですが、新しい名所が開かれたときに内覧会に招かれるかどうかが、その人が、エリート(または、上流階級であるかどうかの差)の証明だと思うのでした。だから、規模が、まったく小さな移転ですが、自分が内覧会には招かれなかった、みずほ証券、横浜西口支店が、どんな規模で、設立されているか、できるだけ早い時期に、訪問をして確かめておこうと思ったのでした。しかし、ビル内に、その痕跡が全くないのです。それで、ビル全体の本体であるシェラトンホテルに向かいました。

 するとロビーのインテリアが全く変わっていて、豪華になっていたのです。どうしてかなあと、思いました。以前、関西旅行をしたときに、金沢とか、大阪梅田の、高級ホテルのロビーだけ入ったことがあるのですが、豪華でしたよ。あれと比べて、引けを取らないほどの、豪華さです。東京のホテルを全部見たわけではないが、インテリアが、最近の建材を使って、リフォームをなされると、豪華さが薄れるのですよね。

 ホテルオークラリフォーム後のロビーには、本当にがっかりです。以前、大階段があって、中島健三さんが、そこを降りてきた姿を、昨日のことのように鮮明に覚えています。が、そのころのホテルオークラは、わかりやすい豪華さがありました。1967年でした。国際会議のお手伝いで、出入りしていた、そのころに比較をすると、無機質になってしまっています。

 ホテルオークラのロビーって、最近では、ものすごく広いし、生花の、オブジェはあります。高さ4m,直径5mぐらいのオブジェが、飾られていて、あれ、二週間に一度は、活け替えるはずだから、お金は、かけてるのでしょうが、

 それ以外の部分が地味なのです。

 シェラトンホテルに戻ります。このロビーに円形のソファーが置いてあって、そこを目印にして、よく友達と、待ち合わせをしたものです。友達だけではなくて、親戚ともそうしていたのですが、それが、10年ぐらい前から、始まって、五年ぐらい前に終わっていたのかな? ともかく、五年間は、訪問をしていなかったら、まったく変わっていたのでした。

 ウオールナットなどを多用した、茶色のインテリアの中に、現代アートの、金色の立体が、飾ってあるのです。もちろん、金メッキでしょう。

 その現代アートの、金ぴかの立体は、扱い方によっては、下品になるでしょう。しかし、全体に、茶色のインテリアだから、まあ、まあ、色のコンビネーションは、許せるという程度に、美しいのです。

 それとね。ところどころに、棚が作ってあって、陶器が、飾られているのです。古いものではないと思うのですが、ともかく、棚ごとに、特徴をまとめて、美しいです。全部で、60個ぐらいあります。

 わたくしね、相鉄って、お金があるらしいけれど、それが、不思議だと思うのです。二つの新線を作ったのですよ。武蔵小杉を通ってJR横須賀線(プラス湘南新宿ライン)に乗り入れる線と、新横浜を通って、東横線に、乗り入れる線。

 東武鉄道が、スカイツリーを作っているころ、東上線のときわ台駅のトイレが、古くてね。お金を回していないなあと、思ったものです。

 東急は渋谷に、相鉄は新線建設、大きく、資本投下をしているのに、大丈夫なのでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これは、まだ、国民が、みんなが知っていることでもなさそうなので、わたくしも強く主張はできず、うわさで、聞いたのですが、という程度の段階ですが・・・・・タワーマンションを建設する場合、半分は、国家が、お金を出すそうです。でも、120~200坪程度の敷地に、個人でビルを建てる人には、国家は財政援助はしないのでしょう。おかしいですね。嘘がいっぱい蔓延しているこの国です。

 上の節は、マダム優美夫妻が、大富豪になっている今、自分との比較をした章でした。

 ところでシェラトンホテルに行ったのは、泥棒が盗んでいった領収書の再発行をお願いに行った帰りでした。泥棒が、それを盗んだのは、12月4日に夫婦そろって外出した時だったと思います。8時間ぐらい外にいて、自宅に誰もいなかったので、盗まれたのです。

 で、シェラトンホテルのロビーで聞いたのですが、女性担当者は、はっきりとは知りませんでした。変なの?と、思いますが、わたくしの周辺には、異常なことがいっぱい起きるので、B1に降りる方法だけ聞いて、・・・・・そんなの良く知っているはずですが、念のために、聞いてみたのでした。

 下(ダイヤモンド地下街・・・・・これも、わたくしが何度もブログに登場させた名前なので、今は、名称変更をされて、ジョイナスとなっています。ジョイナスのほうが歴史が古い商店街で、より単価の高いお店が入っていて、ダイヤモンド地下街は、より後発で、単価の低いものを売っているお店が入っていると、わたくしは、記憶をしていたのですが、二つの商店街が、両方とも相鉄の支配下にあるのだと、いう、しるしが発露されたのです。

 シェラトンタワーから、地下一階に降りると、その場所に、有隣堂があるのでした。この有隣堂が、ここに移転をしたのも、わたくしはダメな選択だと思っています。昔は、ダイヤモンド地下街の中に、小さなスペースを持っていました。今は、秋葉原の、ヨドバシ本店などに、出店をしています。だから、発展をしている様に見えます。だが、横浜店です。広くなったのはいいのですが、横浜駅の各線のホームから、相当遠くなったので、60歳以上のお金をまだ持っている人にとっては、行きにくくなりました。東海道線、川崎駅西口のラゾーナ内、丸善のほうが、行くのに楽ですね。若い人は、すでに、お金をあまり持っておらず、かつ、紙の本を買うよりも、スマホや、ノートパソコンなどで、電子書籍を読む時代でしょう。書店の未来は、どうなるのか?

 ところで、せっかく、有隣堂に来たので、9日の朝日新聞25面に乗っていた、【著者に会いたい】の藤田真央の、【指先で、旅をする】を買いました。そのときに、これも、最近の生きる手法ですが、自分で探さずに、有隣堂のスタッフに聞いたのです。「ありますか?」と。先程、シェラトンホテルで、地下へ降りるやり方を知っているのに、聞いたのと同じ手法です。あまり、頑張らないと、いう手法を身に着けたのです。

 で、有隣堂のスタッフが、パソコンで探してくれて、「6日に発刊をされています」というので、ひどく驚きました。6日に発刊をされて、9日に、朝日新聞で、印刷をされている。まあ、発刊日より前の、店頭に並ぶ書物もあるしと、思ったのですよ。だが、買って次の日に、ほとんど、読了に近い姿で、読み終えると、謎が解けました。

 実は、この書物の原文は、WEB 文芸春秋別冊で、2022年2月から、2023年11月まで、連載をされていたそうです。黒田里奈さんというライターをトップにしたチームが、藤田真央を、ヨーロッパ国内にまで、取材旅行まで、して、取材して、しかも、WEBで連載をしていたのですって。これは、本を作るのに、文章と写真がすでにあるわけで、しかも、ほぼ、頁デザインも住んでいるわけで、紙の本へ直すのに、最短距離で、進めるという話です。非常に大勢のファンが、作り上げた書物だったのです。そして、読みやすいです。写真もいっぱいだし。

 NHKで、館野泉の、【鬼が弾く】を急に、火曜日の深夜入れ込んだ人も、その連載を読んでいて、かつ、朝日新聞の9日の(著者に会いたい)も読んでいて、その企画を通したのだと思います。

 ところで、一年前に、同じピアノ演奏家と、その世界の内部を描いた【鍵盤の、天皇】中丸美絵も、すぐ買ったのに、読了しないうちに盗まれてしまっています。そちらのほうが登場人物が多いし、内容が、数十年にわたっているしで、簡単には読めなかったのでした。

 指先で、旅をするに戻ります。

 巻末に地図がついているのですよ。それを見ていると、初期キリスト教で、キリストの弟子パウロが、伝道旅行をした地図を思い出しました。

 この本の、どこかに書いてあったと思いますが、藤田真央は、21か国121回の演奏会を、たった、二年のうちに行っているのです。巻末に、その詳細が書いてあるのですが、二頁数えただけで、もう頭が痛くなってやめました。

 これで、この長い文章を終わらせたいと思います。しかし、藤田真央に拘泥しているうちに、

 すきを見て、やっちゃえと、いう形で、日大アメフトPHENIXの廃部が決まったらしいです。自分が林真理子論を続けていれば、もっと先だったかもしれませんね。だけど、まあ、わたくしが書いていることは、すべて正しいといわせてくださいませ。

 平木さんが、昨日の今日も二階の天井灯をカーテンを開けて、煌々とつけています。

 つまり、歌舞伎座の松竹定款問題。

 日大の林真理子理事長就任、日大アメフト廃部問題、

 永田町における安倍派一掃問題は、すべて、連動をしているのです。

 雪の下黒物語の、三つは、すべて、連動をしているのです。

 すべては、まだ、実際には生きている井上ひさしの頭の中で、組み立てられた、企画が、通っているということです。伊藤源次郎 や、警察ほかの手下を使ってですがね。

 でも、日大を愛するすべての人に言いたいです。我が家のご近所住人・安野智紗夫人というのが、井上ひさしの対わたくし・いじめ用企画の最大の、実行者ですが、それに大きく協力している平木夫人プラス旦那(家)のご長男は、その両親の行為の、見返りご褒美として、2020年のうちに、東大へ、推薦入学が決まったのですよ。ああ、なんという偏波でしょう。

 神様、どうか、正義をお通しくださいませ。と、祈るのみです。

 

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23-12-13のブログ、現在書きかけ中

2023-12-13 10:49:29 | 政治

 これは、あっちこっちへ移動をしますので、総タイトルも、今(2020-12-13の午前11)は決められません。そして、完成もひどく遅くなるはずです。しかし、文章を書くことを邪魔されるかもしれないので、ほんの少し書けたところで、公開すると、言う形式で、書かせてい頂きたいと存じます。

 さて、今NHKニュースで、大騒ぎの項目は自民党の裏金作りです。特に安倍派が、たたかれています。しかし、それは、結局のところ、私が書いた、林真理子を総理大臣にする予定があり、そのために、違法タックルも謀略として起こされており(宮川泰介選手の個人的な行動ではない)

 次に日大アメフト部PHENIXに所属していた学生が、大麻や、覚せい剤を隠し持っていたというのも、誰かから、わざと渡されたもので、こちらもシャーシャーとして学生が逮捕され裁判に応じると言う形を見せたので、謀略であると、断言しています。それらの謀略によって、まず、林真理子を二度の記者会見に立たせ、偉そうに見せるのが、CIAエージェントたちの狙いでした。

 で、林真理子を総理大臣にしていくためのワンステップとして、日大理事長職があり、彼女が2023年8月8日と、12月4日に記者会見を開くと言う事、それが二歩目の、国民洗脳のステップだったのです。だが、それを、私が喝破したので、・・・・・慌てまくったのですね。誰がと言えば、伊藤玄二郎・鎌倉春秋社社長と、その裏に隠れている、いまだ実際には生きている、井上ひさしがです。で、慌てて、自分たちのアイデアの強化を図ったのが、自民党・安倍派のパーティ券をたくさん売った際に、党への納金を少なくして、ご本人の裏金作り問題でした。

 本年(=2023年)12月28か、29日ごろから、大炎上ニュースとして盛り上がってきました。

 で、私としては、自民党となると、国会ですよね。それはね。衆議院と、参議院合わせて、千人以上の代議士が所属して居るわけです。だから、さすがの井上ひさしたちにも、早々は、動かせないだろうと思っていたら、激しく動かされて、なんと、30日の土曜日には岸田総理大臣が、官房長官を罷免すると、言う方向で、NHKニュースが、報道をいたしました。

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副題2、『私が考えるに、これは、事実であろう。・・・・・しかし、この時点で、急に情報が大反乱をして、国会にもかけないで、岸田・総理大臣が、自分の内閣の主要閣僚四、五人の罷免を命じるとは、おかしい。それほどに、井上ひさしたちの権力が強くなっては困る‥・・・・という事でした。

 特に嵐の様なNHKの報道姿勢によって、突然に、岸田総理大臣が安倍派、一掃を図るとしたら、それは、習近平をも、しのぐ暗黒政治です。無論、北朝鮮並みと言ってよいでしょう。本当に暗黒も暗黒の独裁政治です。しかし、正しい表現をすると、岸田総理大臣が独裁者なのではないのですよ。

 公的には、2010年4月9日(木)NHKニュースをハイジャックして、自分を死んだことにした、井上ひさしが現代日本、最大の独裁者なのです。自分を死んだことにしていますが、実際には、生きています。三女の麻矢さんと妻のゆりさん、息子、そして、伊藤玄二郎、宮沢りえ、林真理子の6人は、100%のレベルで、それを知っており、時々というか、事が紛糾すれば、毎日、メールとか電話で、連絡を取っているでしょう。

 後、NHK編成局他、の中の誰か? 松竹株式会社の中の誰か?、それから、日本俳優協会(歌舞伎役者が参加している組織)の中の誰か、それから、桜田門の中の誰か? 朝日新聞社内の誰か? 新潮社内の誰か? 個人名が特定できない、重要人物は、井上ひさしと直接交流をとっている可能性があります。

 岸田総理大臣、谷垣禎一氏、新浪氏、川名昭宣(編集者)、見城徹氏、大宅映子、大島孝康氏などは、誰かを通して、連絡を受けていると思いますが、直接、電話とか、メールを交わしてはいないでしょう。うっすらと、井上ひさしが生きていることを感じ取っているところかなあ?

 ビートたけし、高村薫、宮田亮平(元芸大学長にして、文化庁長官)、が、どうなのかは、知りませんが、相当に近いはずです。

 さて、ここに名前を含めなかった、石塚雅彦さん、成岡庸司君、飯田隆さん、酒井忠康氏、中谷共二氏の次男の五人は、私を苦しめると言う形で、連携があるので、もしかすると、直接井上ひさしから指導を受けているかもしれません。後、鎌倉警察署・署長、生活安全課の課長(これは、サラリーマンで、転職の可能性があるので)には、直接の連絡は取っていないと思いますが、わかりません。

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副題2、『井上ひさし、文芸春秋社(立花隆)、朝日新聞社、マガジンハウス社が、合体して、林真理子を、大物にして行ったのですが、彼女に相当な自由は与えていたでしょうね。それでも、彼女は、うまくやるだろうと、井上ひさしは、考えて居たのです。

 ところが、私が珍しく、【奇跡】を買いました。それを読了して、あきれ返って、徹底的に、批判をするのを開始しています。「これで、林真理子の命運も尽きただろう」と言っています。そのうえ、8050をも買いました。これは、まだ、読了をしていないのですが、初めの部分を最後の部分を呼んだ限りでは、全く、だめです。うわっ滑りも、うわっすべりです。

 彼女は、女の子一人しか育てて居ません。また、週刊文春のエッセー内で、あれこれ、個人的な感想を書いているので、彼女に悪口を言われることを恐れて、周辺がちやほやするし、夫たる男性が、割と、年取ってから、生まれたお嬢さんなので、相当に、面倒を見ている可能性が高いのです。でね。子育てに何の苦労もしていません。だが、私が、【8050ママ】と呼ぶ、大学時代の級友との切ない、せつない、やり取りを、長文で、書いています。見つけられないのですが、2021年だったでしょう。それの出来が良いので、

 すみません。何の御断りもなく、ここで、書きやめてしまって、14時間パソコンを開くことができませんでした。悩んだり困ったりしていたわけではないのですよ。ニュースの結果を待っていたわけでもないです。

 ともかく、終活と、暮、そしてお正月の用意とあって、精神的に気分の良い時ほど、そういうことをやるのです。雑事というか、家事は苦手なほうなので、気分の良い時ほど、苦手なことをやるのです。ごめんなさいね。続きは、明日書きましょう。お待ちいただきたく存じます。

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私の・・・CIAは林真理子を総理大臣にしようとしている・・・という説と、安倍派一掃金券問題のリンク

2023-12-11 00:17:45 | 政治

 今は、初稿公開後、14時間後の、11日、午後2時です。主人が、NHK総合チャンネルの国会中継を聞いています。すると、松野官房長官をやめさせる、云々という、昨日までの、NHKニュースの大さわぎは、静まっている模様です。これは鎌倉エージェントがこのブログが、間違っているといいたいので、急遽方針転換をしたのだと、考えます。でも、それで、いいのです。昨日までの、あまりにも派手な、自民党安倍派追放作戦は、基地外字見ていましたから、それが、沈静化したのは、永田町の、権威が、回復したということと同義で、わたくしは、喜んでいます。元から、永田町がおもちゃの政治をやっているとは、言っています。しかし、井上ひさし(まだ、実際には、生きていますよ)等、たった一人の人間に、永田町が支配されることは避けないといけないからです。

 

 このブログは、最初に写真を置くことにしています。これは、チョコレートで森永製ですが、特に歌舞伎座一階東側横にあるお土産ショップで、売っていたものでしょう。私が買ったものではなくて、私の小学校時代の友人が買って送ってくれたものです。私が、15日に彼女にかけた電話で、11月のプログラム(筋書きと呼ぶ)を、買って送ってくださいと頼んでおいたことへの、同封のお土産として、いれてくれたものです。これが届いたのは、18日だったと思います。で、本当に仲良しとしてのお手紙が入っていました。また、歌舞伎座の特別会員である人とか、歌舞伎座の株主さんへ送付される、フリーペーパーも数か月分入っていました。また、その写真を使う日もあるでしょう。で、私は、すぐさま、二度目の返礼品を途中まで書いたお手紙と一緒に送っています。一度目の物は、16日、彼女が歌舞伎を見に行っている間に、留守宅に、送ってあります。準備してくれた切符代を「一緒にはいきません」と言う形で、無駄にしたことへのお詫びとして、同等の額のお菓子(豊島屋本店でしか売っていないもの)と井上蒲鉾のさつま揚げ類を、届けています。するとすぐ返礼のお手紙が来たので、私は、また、お手紙を書いて、それに添えて、ニュージャーマンのクッキーを、送っています。私は、15日のうちに二回電話をかけて、彼女からは、15日のうちに一回、17日に一回、そして、20日に一回もらっています。でも、17日と、20日には私の方が取りませんでした。

 もうあの親切さは、だまし討ちの為ではなかったかと、推察し始めて、居て、そっちがキツネとして、私は、もう、タヌキの役は嫌ですと、言う意思表示だったのです。でね、11月20日以降、12月7日までは、ブログに書きませんでした。だが、下の副題2で言っている通り、自民党の金券問題、余剰金還元問題が起きて、あ、これは、例のマダム優美とのやり取りをブログで、書かないことによって、私がバカであると、誤解を受けていますね。これは、ちゃんといきさつを書かないといけませんと、心が変化したのです。

 で、くねくねと曲がりくねったいきさつを、副題3から語り始めます。最高難易度の、いじめというか、引っ掛けでしたね。お互いに頭がいいので、そうなります。(あ、は、は)

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副題1、『マダム優美と仮名で呼ぶ日吉台小学校時代の友は、2023-11-8には.

 敵だったのか? 味方だったのか? 8日に電話がかかって来てから、一か月後には、結局敵だったのだ・・・・・と結論付けているが、その間私の心は揺れに揺らされた。まあ、それだけ、彼女が頭がよかったという事であろう。だが、私もバカではない。十分に防衛を果たして置いた。

 ところで、それが、ミステリーを書くものとしては、まったくもったいないし、残念なことなのだけれど、結論を言ってしまうと、彼女の優美なるお誘いは、最悪の場合、歌舞伎座玄関で、400人から500人の人々の目撃の中で、私が・・・・・松竹の定款違反で、冤罪逮捕されることが目的として、計画をされていたのではないかとまでの、結論に達している。

 だが、そこまでの悪は企画されていなかったとしても、2023年11月16日に、彼女のお誘いに乗って日吉駅で上りホームの一番南側で午後2時に待ち合わせて、銀座のどこかのレストランで、お食事を一緒にとって、四時の歌舞伎座・玄関・開場の15分前ぐらいに、そこに到着すると、・・・・・ともかく、11月15日にその玄関前で、そうであった様に・・・・スーツ姿の男が、7人ぐらい、ガードマンが四人ぐらいいて、激しい形で、とうせんぼをして、切符を持って居るのに入れてくれなかったのだから、次の日も同じ事をやられる可能性は、大きかった。それは、えん罪逮捕ではなくても、マダム優美の目には、恥ずかしいこと、と、移り、その後「千恵子ちゃんて、何をしたのかしらね? 何か、悪いことをしたのよ」と、小学校時代の、クラス会で、吹聴される可能性がある‥‥そういう損失事項だった。

 それをわかっていて、【マダム優美】夫妻は、私を16日に誘ったのか、どうかが問題となる。だが、そこまでの結論は少し後で書くことにして、今は、そこは、しばらく放っておいて、それ以前の経緯を丁寧に語ろう。ただ、一つここで、お断りをして置きたいのは、ここで夫妻と書くのは、私が直接接触したのは、細君だけなのだけれど、彼女が、こういう風に動いたのは、夫君の命令であることが確実だからだ。そして、夫君の影には慶応三田会(横浜支部、または、神奈川県支部)を上げて、水沢勉氏を守ろうとする動きが有る。

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副題2、『私がバカな人間で、何も本当のことはわかっていないと、思われることによって、鎌倉エージェントは、警察(または、検察)を動かして、安倍派一掃を図っている。

 誰か、自民党議員の中で、特に安倍派の中で、私のブログを読んでいる人間はいないのだろうか? 抵抗するべきだと思う。このまま流されると、私の予言通り、林真理子総理大臣が、出来してしまうだろう。特に私の予測より早くである。

 まあ、現在日本で、CIAエージェントとして、対・私・担当者である、いまだ、実際には、生きている井上ひさしは、直木賞を与えた、林真理子を子分中の子分として、使っているので、彼女を自分の代理として、総理大臣にしたいとは、考えて居る筈だ。その時期を早める為の安倍派一掃であろう。

 林真理子が総理大臣になると、それは、陰にいる鎌倉エージェントの独裁政治と同じことで、金正恩政治とか習近平政治と同じことになるので、それは、阻止したい。絶対に、阻止したい。

 だが、鎌倉エージェントは、私が正しいことを書くと、それを打ち消すために、きちがいのごとく、燃え上がるのだった。

 無論、CIAの、実質的子分であり、実働部隊である桜田門の、IT技術はすでに、高度であり、自民党安倍派の金券問題は、すべて真実だと思う。桜田門は、永田町よりもCIAエージェントを大切にする様に訓練を受けているので、その意にかなうなら、ありとあらゆるスパコンに侵入する権利を持って居ると考えて居て、電話も盗聴され、録音されているだろうし、日本人の中で、ある程度以上の収入と地位を占めている人は誰もが、訴追されるほどの、証拠を桜田門に握られていると考えた方がよい。

 セックスも、優先事項である、現代日本では、ハニートラップも横行しているが、若い時に、そういう思考を持ち、写真を撮ったりした、男性は、自分が偉くなった時に、それが、利用される可能性はあると覚悟をした方がよい。

 ところで安倍派一掃問題へ戻る。これは、私が語っている、鎌倉エージェント(=CIAのエージェント)は、林真理子を総理大臣にしたいと考えて居る(後註1)と、言う説が正しかったので、焦って、早くそれを実現したいと焦っている結果だ。普通は打ち消す方向で、動くのだが、あまりに的を得ていたので、打ち消すよりも早く、実現をした方がいいと、言う方向で、動き始めたのだった。岸田総理大臣というのは、CIAの、これまた、かわい子ちゃん中のかわい子ちゃんであるので、解散、総選挙をするかもしれない。彼は、青少年期にアメリカで、暮らしているので、

 相当な名誉とお金をもらえるのなら、アメリカ他で、暮らすのも悪くないと、考えて居るだろう。だから、総選挙はありだ。

 それで、自民党が議席を減らせば、林真理子総理大臣実現は早まる。鎌倉エージェントの伊藤玄二郎と、いまだ、生きている井上ひさしは、あまり、待っていると、林真理子の化けの皮がはがれる可能性があるとも気が付いているだろう。林真理子とは、まるで、風船のごとく、実態からかけ離れて、偉大さとか人気の高さをメディアの力で、演出されている。だからこそ、ほんのちょっとしたきっかけで、パーンと、破裂する可能性はあるのだ。

 マダム優美と、私との間に起きた、11月8日から、11月20日までの、歌舞伎座11月公演をめぐる交流 は、とても政治的な問題なのだ。女性同士の好き嫌いの話ではない。それと、私の頭脳が、敵さんに、どういう風に判断をされているかも大問題だ。どうも、バカだと判断をされているらしい。それは、見事にマダム優美に騙されていると、敵さん達が判断をしているからだと、考える。で、自民党の、パーティ券・余裕金・還元問題で、安倍派が一掃されようとしているのも、私のブログと関係がある様に思えて来た。で、私が、決してバカではないと、言う必要が出てきたのだった。

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副題3、『歌舞伎座、特に小川純一松竹の課長と私との関係をここで、まとめておきたい』

 その戦いがあるからこそ、心理的にやっつけるために、マダム優美の眼前で、私が歌舞伎座に入れないと、言う芝居を彼女他に見せつける必要があった。ただ、すでに何回かに分けて書いているので、リンク先を見つけて置きたい。で、それは、後でやりたい。今は、マダム優美とのあれこれを書きたいと思っている。それは、ご了承いただきたい。

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副題4、『11月15日、私はだいぶ前(=10月16日)に買った予約券を持って居るのにもかかわらず、本当に恐ろしい形で、玄関前から、追い払われた。これは、11月4日に続いて二度目の事だったが、あまり、ショックは受けなかった。その日は、16日の前日だった。マダム優美が、とりなしてくれて16日は、歌舞伎座に入れると、考えて居た。ので、15日も当然入れるはずだと、考えて居た。二回見てもいいと思っていた。それほど、梅枝の鎌倉三代記を見たかったのだ。だから、行ってみたのだった。一抹の懸念があるから、スマホをもっていかなかったのだけれど、悪い方の想定が当たって、入れなかった。』

 で、次の日の午後二時に、東横線日吉駅のホームに来てもらうと困るので、それをさせないための一心で、銀座三越アネックスの9階に置いてある公衆電話からマダム優美に電話をかけた。<<<<<<スマホを持って居ると、そのGPS機能を使って、私が歌舞伎座に向かっているのが敵さんにわかるだろう。そうなると悪い方へ準備をさせてしまう筈だ。それは、まずいね>>>>>と思っていたので、家に、スマホを置いて出ていた。

 マダム優美に対しては、こちらから、接触するのは自著が、出版出来た時だけで、普段は、連絡を取らない間柄だった。それは、前報、後註2、とか、前々報、後註3で、語っている通り、既に二回も、嫌な形でのいじめを受けているからだった。だから、スマホも固定電話も番号など覚えていない。で、まず、自宅の主人に電話をして、「一階のベッドの枕元に、私のスマホが置いてあって、〇瀬〇美子さんの電話番号が入れてあるのよ。教えてと頼んだ。マダム優美の電話番号を入れてあったのは、16日、日吉駅のホームで待ち合わせるにしても、連絡が取れなかった時の用心のために入れておいたのだった。そして、スマホが身辺にある時は、私は会話の内容を用心して限定する。だから、マダム優美と一緒に歌舞伎座に行く日は、スマホを持って出る覚悟だったが、その前日は持って出ていなかったのだ。

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副題5、『電話は固定電話も、スマホも、非常に大きな妨害を受ける。公衆電話も同じなのだ』

 で、銀座三越の9階というのは、さして、騒音が大きい場所ではないのに、相手の声が聞こえない。これは、築地警察署か桜田門が妨害をしているのだとすぐ推察が出来る。大体今公衆電話を使う人が少ない。で、全国的に(または、東京と神奈川で)公衆電話を使う際には、それが、必ず、桜田門に盗聴をされていると考えてほしい。私が秘密裡に何らかの重要人物と連絡を取ると、それを見過ごすわけにはいかないからだ。特に三越9階の公衆電話は私が過去に何度も使ったので、それが、盗聴の対象になることは、理解が出来た。そして、大切な電話こそ、音量が極端に下げられてしまって、よくコミュニケーションが取れないのも、主人を相手にして、何十回もすでに経験をしている事だった。で、ジェラート(全農の提供品だが、とてもおいしい)を食べて、心を落ち着かせて、日比谷線に乗った。東急の全線切符を持って居たからだった。

 で、中目黒で、乗り換えがあるがその時んふと考えた。パソコンの、妨害と同じで、普段使っていない公衆電話だと、気が付かれずに済んで、音量が小さくされることがないだろうと。で、試してみると、その通りだった。で、中目黒駅では、銀座三越よりはるかに、騒音が大きいにもかかわらず、彼女と上手に会話ができた。で、「今日ね。歌舞伎座に入れなかったのよ。で、明日は、行かれないので、東横線のホームで、二時に待つのはやめて」と、一番大切だったことを言ってみる。すると彼女は納得をしない。「どうして、どうしてなの? 千恵子ちゃん、何か、悪い事でもしたの?」と、言う。

 この瞬間、彼女が誘ったのは、私の恥を目撃する為だと、わかった。ただし、正しく情報を伝えられているわけではなくて、歌舞伎座側=松竹側≒築地警察署側≒桜田門側≒井上ひさし側が、伝える彼らにとって、都合の良い真実(と彼らが考えて居るもの)だけを、聞かされていると考えた。

 で、急に<<<、もう、真実を話しても、良いわ>>>と、腹をくくって、あのね。この間、あ貴女が電話をくださった日ね。あの時、すでに、悶着はあったの。でも、一緒に行きましょうと答えたのは、あなたが間を取り持ってくださってね。で、トラブルが解消できているだろうと考えたのよ。だから、お誘いに乗りました」と、答えると、彼女は瞬時沈黙をした。で、私の方が続けて「だって、あなたのご主人って、ファイナルファンタジーを松竹に提供しているでしょう?」といった。「だから、松竹に、力を及ぼせるわね」と、言おうとしたら、それより早く、彼女は「違うわよ。うちの主人を巻き込まないで」と、恐ろしい剣幕で言って来た。

 その途端に、私が図星をついたと分かった。私が。その人物の、予想を超えて頭がいいとわかると、たいていの人間はパニックに陥って、激しい攻撃をしてくるのだった。それは高校同期の宇都宮和代さんが、2014年11月【豆腐屋うかい】というレストランで、開かれたクラス会でひどい罠を仕掛けてきた、その夜9時ごろ、たぶん、栗田玲子さんに命令をされたのだろうと思って、「あなた、栗田玲子さんを知っている?」と電話で質問をしたところ、電話の向こうで、「しらないーっ」て怒鳴った時と似ていた。【マダム優美】の方が和代さんより、優雅だったのだけれど、とてもよく似ていた。

 それに、菊之助が、ファイナルファンタジーXの歌舞伎化をするという情報が、耳に入ったのちに、歌舞伎座四階のエレベーターに、夜の八時40分ごろ突然乗り込んできた、【マダム優美】のあれこれの言動を書いている。彼女は一緒に日吉まで、帰りましょうよ」と提案した私に対して、「知人が四丁目の方で、待っているから、できないわ」と断ってきた。私はその時、『知人ではなくて、ご主人でしょう。だって、いいとこの奥様が、入ってお茶できる様なカフェなんて、もうしまっているわ。ご主人が待っているのよね。そのご主人って、ファイナルファンタジーを歌舞伎座に提供することで、交渉に来ていたのでしょう」と、書いている。あの時に訂正の要請がどこからも来なかったのだから、これは、正しい推察だった。だからこそ、もし、方向が反対を向いて居たら、マダム優雅夫妻は、私を救済することができるのだった。で、

 私が、近々、手打ち式が行われるでしょうと、書いた(後註4)のは、20~50%で正しかったのだった。ただただ、水沢勉氏を助けるために、私を殺す方向で、慶応三田会がまとまっているので、方向が真逆になっているだけだった。さじ加減一つなのだけれど、そういう風になっている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『この夕方、もう一つのウソを、彼女はついた。私に対して、直面している人が、目の前で、嘘をつくのには、慣れている。西隣の白井達雄夫人が、道路で、「わたくしは、東大卒ではありません」と、怒鳴ったのは、本当に嫌なウソだった。だって鶴岡八幡宮が、命令した伐採業者、湘南環工の現場監督とか、八幡宮の神官とかが、いる場所での、広言だった。それは、2019年4月15日のことで、忘れらえないいやな思い出だった。マダム優美のウソに戻ろう。この日(=202年11月15日)の、11日前には、それこそ、とろける様に甘い、甘い、優雅な会話を交わしている私は、内心で、がっくり来たのも、事実だった』

 前節の、副題5の中で、わたくしは、彼女の電話内で、二つのウソを見つけてしまったと、書いています。私の場合は、たいていの場合は、喧嘩にはもっていかないのです。だから彼女に対して「それって嘘でしょう」などという返事は、せず、ただ、引くつもりで、こういいました。「あのね。今、わたくしは、中目黒の駅構内から電話をかけているの? 環境が悪くて、落ち着かないので、家に帰ってから、もう一度電話を掛けます」と。

 すると、彼女がこういった。「あのね。次の電話ですが、8時過ぎにかけてね。私仕事があるの。生徒が来るのよ」と。私は、それも嘘だと感じた。彼女の家を、6冊目を届けるために訪れている。

 その時、家の正確な番地を知らなかったので、あっちこっちで、人に尋ねた。すると、彼女が、自宅とは別に、2DK(50m²が、前後・・家賃10万円程度だと思う)が、10戸ぐらい内包されている美麗なアパートを持っているのをご近所人間から、教えられていて、『おや、すでに、富裕なのに、こういう安全策も、用意されているのですね。おお、頭がよいこと。多分、母上が頭がよかったのね』と、気が付いてしまっていたたのだ。

 彼女は、すでに小学生の時に、父君が亡くなっていた。で、級友のうち、10人は私立中学を受験するのに、彼女は、お勉強ができるのに、公立中学に行った。その当時、慶応普通部が、設立されていたばかりだったので、それと、比較をされて公立中学の方は、「たんなか中学」と言って、軽蔑をされていた。

 その私立中学を受験するか、しないかの差は、M夫人の私塾のメンバーに招かれるか、招かれないかと、言う形で、さらに差別を助長していた。M家というのは、お父さんが商船に乗っていて、毎日は、家にいない家庭だったし、お母さんが戦前に日本女子大を出ているので(1950年代、当時としては、ひときわのインテリ女性だったので)私塾を経営していたのだった。この塾だが、M夫人は、ご自分のお子様が、お勉強を好きになってくれること、と、私立中高一貫校に合格することを願って、作ったと思う。実際にM家のお嬢様はフェリスに入学した。だが、印象深いのは、彼女が、私に、「うちのママって、他人にばかり親切なの。いやだわ」と打ち明けてくれたことだった。というわけで、私塾という小さな形でも、母親が、仕事を持つということが、子供に、大きな負担を与えているとは理解ができた。

 その点、昔から未亡人である、マダム優美の母君は、ずっと肝っ玉が据わっていて、娘が、横浜国立大学に入学したことを、きっかけにして、塾を開き、娘に対して、掃除、食事作り、のちには、お子様の養育等、大きく、ヘルプをしたし、マダム優美ほど、華やかではない妹さんには、家事見習いという形で、姉のサポートを長年にわたって、引き受けさせたと思う。

 そうだ。私は福島瑞穂さんに青山ウィメンズクラブで、いじめられたことがあり、それ以降、彼女について、グーグル検索を開始したのだが、弁護士、代議士、お子様養育と、多方向に活動をしているのは、在日の組織から選ばれた、優秀で、秘密を守るお手伝いさんがいるからであろうと、その時から、推察していた。

 【マダム優美】の場合は、在日組織などの、応援はないが、家族が結束をして、マダム優美をサポートをして、塾を成功に導いたと思っている。私の母は自宅で、父の仕事(主に経理)を担当していたが、結構、人を使うことが上手な人で、お手伝いさんとか、時間パートで、経理の仕事を手伝ってくれる、主婦を見つけてあって、家庭の主婦と、母親業と、仕事を両立させていた。しかし、妹に対しては、精神的に、ネグレクトに近い状態だったと思う。忙しいというよりは、三人の子供がいると、どうしても真ん中の子へ、注意が向かないという通例の一つだったと思う。

 私は、母と違って、他人を使うことが気質的にできないタイプだし、親せきや親族の支援がないので、とても大変で疲労困憊をしている。まあ、「好きなことだけをやっていたら、お金はもうからないわよ」の典型だと思ってあきらめているが、目の前で、マダム優美に嘘をつかれると、何か、大昔のことから、いろいろ、考察を始めてしまうのだった。

 彼女は、私に限らず、級友たちに、自分が今富裕であることを誇示するので、みんないささか辟易していた。たとえば、クラス会を、エスクワイヤクラブで、開きましょう。「私(もしくはご主人)が、会員なので、使えるのよと、言ったりする。しかし、夜しか使えないので、専業主婦が多い、クラスメートには、不評だった。男性は、音に聞く、バニーガール(ウサギを模した上半身と、網タイツだけの下半身の姿が有名)を、見ることができるので、開始前は、楽しみにしていたかもしれないが、会費1万円では、自由に飲むこともできず、不満は、残ったと思う。

 わたくしは、これらのポイントでは、別に、ダメージは受けなかった。また、10年前にレストランオークラまで、車で、連れて行ってもらったときにも、彼女にその富裕ぶりを、聞かされたが、その時もダメージは受けなかった。たとえば、「主人の会社が株を上場したときに大金が入ったので、妹に、ポンと、500万円を上げたの?」とか、「あの家って、息子が全部手配をしてくれたの。旭化成に頼んでいるのよ」と、言うことなど。全部、『ああ、そうですか!』で済ませていた。

 しかし、別に探偵をするつもりはなくて、ただ、自著を上げたくて、訪問をした彼女の自宅だけど、それを知っているということが、彼女の三つ目のウソに、気が付く根拠だった。その家は、総坪数56坪(=180m²)以上と見える二所帯住宅で、二階に住む、息子さん用の、書斎(東工大教授だから)もあるだろうし、一階にも、ゲームメーカーの重役か社長であるご主人用の書斎があるだろうし、一家のメンバーが共有する、接客用応接間があるだろうと考えた。こういう家だと、夫も妻も、子供も、暮らしやすいはずだった。急なお客があっても、散らかった居間を片付ける必要はないし、男どもにとっては、遮音の利いた書斎で、沈思黙考に励めるだろうし。

 でも、その家に、生徒が来て、マダム優美が、いまだに、何かを教えているとは、全く考えられない家だった。がっちりとして、かつ、しっかりとしていて、どこが玄関なのかも、簡単にはわからない。そんな家に、中学生が、バッグに教材を詰めてやってくるとは、まったくあり得なかった。また、昔生徒だった、人間が大人になっているのに、英会話等を教えると仮定しても、それはあり得ない時間帯だった。主婦にとって、夜6時半から、8時までなんて、外出しにくい時間帯だった。

 私は、この3つ目のウソは、ご主人が、どこかに電話をかけて、これ以降の処理を質問をして、指導を仰ぐための時間稼ぎだと、考えた。しかし、この時も、彼ら、CIAエージェントが、私を、16日の、午後4時前後に、歌舞伎座の玄関前で、冤罪逮捕すると、言う悪辣な仕組みが、裏で、進行しいることにまでは、気が付かなかった。

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水沢勉氏とカリタス小通学バス襲撃事件、妹喜美子を殺した後江戸川公園の樹木を伐採する

2023-12-09 11:25:52 | 政治

   皆様、これは、前報の100%の続きです。69年間も、友達であった女性を使ってきた伊藤玄二郎と、まだ、本当は生きている井上ひさしの悪辣さを分析する章なのです。ものすごく込み入ったわなを仕掛けてくる彼らの分析は、日大アメフトPHENIX廃部の裏と通底します。だから、書いているのです。ただし、常にそれらの攻撃はミステリーとして現れるので、書く私も大量のエネルギーを必要とするし、お読みになる方にもそれを使うことを強要していると思います。それは、申し訳ございませんが、日本という国に住む、一般人1億2千万人のうちの90%を守るためなので、ご容赦くださいませ。

 なおこの章は、最初の総タイトルを、【マダム優美の声を聞いている内に、之は松竹との手打ち式を設定してくれている?と、一旦は考えた私だったが】として書き始めています。下書きを20時間、その総タイトルで、書き進めました。しかし、それは、文学としては、好ましいものですが、政治の分析としては、ふさわしくないので、総タイトルを変えていきます。二番目のものが、【水沢勉氏とカリタス小通学バス襲撃事件、妹喜美子を殺した後江戸川公園の樹木を伐採する】ですが、さらに変更する可能性もあります。

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副題1,『電話がかかってきた午前11時、わたくしの座っている居間は、大変美しい環境の中にあった。その上、彼女の声の明るくて、美しいこと。我が家のご近所マダムとは、まったく違う様式で、暮らしている彼女の気配が、すっと、日吉から、こちら鎌倉雪ノ下に飛び込んで来て、わたくしは、頭上の黒い雲が晴れ渡った様に感じたものだった』

 ここから先、少しマダム優美の普段の生活について述べます。彼女は、日吉で、成功した塾を経営して、そこから得た人間関係を駆使して、81歳の今でも、華やかな社交生活を繰り広げている存在です。日吉から、東京へは地下鉄を駆使すると近いです。で、週に一回は、木挽町(歌舞伎座)または、虎ノ門などの話題の、新エリアに出かけていて、その帰途も含めれば、週に二回は、渋谷ヒカリエで、お茶か、お食事を、(違う苗字の)お友達と楽しんでいるでしょう。

 私は、ヒカリエの中で、お友達と歩いている彼女を見かけたことがあるので、これは、確かなことです。雪ノ下の方ですが、花輪夫人や、渡辺マキさんなどが、どれほどに「高いのですよ。このお洋服は、」と、誇ろうとも、この【マダム優美】と、同じ様な華やかな外出行動はしていません。で、マダム優美と、同レベルの女性を、30人は、知っている私は、雪ノ下の主婦たちが威張れば威張るほど、こっちが穴に入りたいと思うほど、気恥ずかしくなってしまうのでした。

 別にお金があることが最上の価値ではないですよ。でも、社会的地位と信用と、お金の両方または、子供の地位という三方での、勝利感を持っている彼女が、その優美さを全開して、電話をかけてきたら、その気配に包まれることも、確かなことでした。で、彼女が、「ね。千恵子ちゃん、11月16日の夜の部、一緒に歌舞伎座へ行きましょう」といったときに、乗りに乗って、「午後二時に、日吉駅の上りホームの最も横浜寄りで、待ち合わせをしましょう。一時間使って、銀座でお茶か、お食事をとって。それから、歌舞伎座に入りましょうね」とか「帰りは、鎌倉ではなくて私は反町に泊まるのよ。主人が病気後早く寝るのでね。泥棒が入るので、寝るときには、チェーンをかけてもらうの。だから、たまたま空いているアパートで寝るのよ。で、日比谷線で、日吉まで、一緒に帰りましょう」などと、私から提案をしたものでした。

 その時に、わたくしは、内心で、彼女のご主人が、【ファイナルファンタジー】を菊之助に、提供した、人物だと、思い込んでいたので、・・・・・ああ、これは、松竹が折れてくれたのだ。私が、11月4日以降に書いた文章が、効果を上げましたね・・・・・と、考えました。彼女には、それは、言っておりませんよ。だけど、そう考えて、明るい気分になりました。

 で、その時、居間で、書いていたブログに、それを書き込みました。

 たった四日間で、自分の文章力の効果が表れたのです。電話は、8日にかかってきていますので。

 で、その時、居間で、書いていたブログに、それを書き込みました。しかし、一時間後には、一抹の不安が頭を持ち上げて、そのブログを、非公開にもっていきました。ただ、12月9日に再び公開にもっていっています。それが、以下の文章です。

演劇界の廃刊の裏にあるものを調査中の私はキリキリ緊張しきっているのだが、23-11-8日の鎌倉は秋晴れで美しく、それを久しぶりに楽しんでいる私に或る電話がかかって来て???     2023-11-08 11:54:09 | 政治

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副題2、『変だなと、思った。お互いの子供の間に、社会的地位と、収入の面において、激しい差が出たことを、意地悪気にえぐってきたのは、つい、一年前だった。

 それは、前報

猿之助復帰と私を囲む新しくかつ厄介な罠‥‥日大PHENIX廃部問題‥‥林真理子と宮沢りえに共通する役割     2023-12-09 01:45:34 | 政治

の最後に書いています。しかし、それを公開したのは、2023年12月9日であって、23-11-8日にかかってきた歌舞伎座へのお誘いの電話も、昔のいじめの電話も、このブログの世界では、その日まで、30日間も、語って来ては、いません。どっちとも判断のつかないところがあったからです。

 ともかく、一年前までは激しい感じで、いじめムードで、終始していた【マダム優美】です。それが、どうしてこれほど、変化したの?と、不思議でした。

 しかし、彼女の、70年間にわたって、続いている、私(=千恵子ちゃんと彼女は呼ぶのだが)を、上にたてる雰囲気の会話が、12年ぶりに聞いて、とても、心地よくて、つい、乗りに乗ってしまったのでした。わが日吉の家は、別のお友達が「お里を知っているので、お互いに安心よね」というほどに、戦後建てた家としては、美意識に満ちていました。外見は普通の木造住宅なのだけれど、1965年に我が家に来てくれた、フェリス出身の女性が、「なんてきれいな家なの」というほどに、中が、清潔で、ミニマルアートチックな家でした。こういう家は、日本では、どこにもほかには見たことがないといえる、そういう家でした。桂離宮とも、新喜楽ともまったく違うのでした。

そして、霞が関で、事件が起きたので、官僚を係長レベルで、やめてしまっていた父でしたが、その社会的後遺症というか文化的レベルはキープしていて、日吉でも、中流の上を、行っていたと思います。そして子供が三人とも、学業の上で、非常に優秀でした。弟なんて、どこの塾にも通わなくても麻布中学にすっと入学できましたからね。だから、1999年までは、【マダム優美】は、わたくしの方を上に置いていてくれてたのでした。

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副題3、『ここで、挿入として、語らないといけないのだが、カリタス小襲撃事件は水沢勉・葉山美術館館長が、日吉在住の姉君に不用意な発言をしたことが原因で、水沢氏を守ることを目的に起案をされた謀略だったということを。その水沢氏と酒井忠康氏と開発チエさんが慶応卒であること。で、【マダム優美】もご主人が、慶応の理事なので、その同窓会である三田会つながりで、今般動いた・・・・または、うごかされたのだった』

 妹が・・・・・・わたくしが、やまゆり園事件について、その一周忌に、真実をまた書くだろうと、みなされていて、それをさせないという、私への脅かしのために、・・・・・・殺された2017年、夏以降、激しい逆転が起きていて、それは、カリタス小通学バス襲撃事件が起きてから、特にひどかったのです。👉

::::::重要な挿入となりますが、妹が他殺である証拠を、握るために、わたくしは何度も清新町を訪れて、帰りに夜の江戸川公園で、迷ったことがあるのです。この一件が都知事が代々木公園の樹木と江戸川公園の樹木を伐採することへつながっていくのですよ。私の指先が、世間のニュースを引き起こすのでした。ただし、この件に触れ始めると、また、50万字が必要なので、ここでは、示唆程度で、先へ進みます。::::::::::

 👉それは、日吉の実家のご近所住民、水沢家の長男である、水沢勉、現・神奈川県立近代美術館・葉山美術館・館長(だから、彼は、日吉には住んでいないのだが、時々、日吉を訪れているのだと、推察している)の、おっちょこちょいな発言====姉の悦ちゃんに向けて、礒部の喜美子ちゃんは自殺したんですよ=====が、原因でしたが、あまりにも恐ろしい事件=カリタス小襲撃事件に結びついていったので、わたくしは、そちらについても、真実を書こうとしているところでした。

 妹は他殺です。その証拠を調べ抜いている日々を書いているブログがあって、その中で、・・・・・江戸川公園で迷った・・・・・非常に縦長の公園で、樹木がいっぱいあるので、それには、驚いたが・・・・・と書いているので、江戸川公園の樹木が伐採されたのでした。また、朝ドラのスカーレットの主人公の名前は、喜美子でしたね。本当に、メディアを利用して、からかわれ切っている私です。

 水沢家の悦ちゃんと、(塩野義のゾフルーザ問題がそこから起こされた)沢野家のひろしちゃんと、わが妹の喜美子は、日吉台小学校同期卒なのです。そして、半径60m以内に、小田歯科医院と、お子様をカリタスに通学させていた、寺沢家(母が深く信頼していた賢婦人がいる家)などが、すべて、収まるのでした。

 で、ここから、また、新たな謀略行為、(斎藤某という青年が起こしたことになっている)飯能市の外人一家三人殺しが起きています。だが、外人一家三人は、生きているでしょう。そして、斎藤某は、斎藤実・東大名誉教授にして、元東京女子大学長でもあり、ICU教授でもある学者のまごでもありましょう。だから、委細を含めて、犯人役を引き受けていると、見ています。だが、それは、伊藤玄二郎たちに、密着しすぎる、話となるので、彼らの本当の悪辣さが暴露されてしまうなあと、おそれた鎌倉エージェントは、打ち消すのに必死だったのです。それのいきさつを書いている私のブログを、打ち消すためには、私を殺すしかないと、考えて、ありとあらゆる手立てを打ってきている最中ですが、マダム優美が、変節していったのも、そのせいでした。

 で、水沢勉さんの卒業した慶応大学のライン=三田会メンバー=を駆使して、対、私攻撃活動が、活発に起きている時期でした。つまり、55年間にわたる、肉体そのものを滅ぼす行為・・・・後ろから首を絞めるとか、車で、ひき殺すとか、ピストルで、打ち殺すという仕組み・・・・がことごとく、失敗に終わっているので、最後の手段として、精神的な自滅を狙われていて、それに現在も寄与しているのが、雪ノ下では、渡辺賢司・マキ夫妻です。日吉では、小田歯科医院の院長も、ほぼ慶応大学の一支部であるとみなされている東京歯科大卒業なので、三田会のメンバーとは、水沢さん以外とも、付き合いがある可能性もありました。だから、一方で赤ひげ先生と慕われていながら、わたくしに対しては、変節してこられて、私立中学受験の問題で、いじめ切って来たのでした。

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副題4、『で、心理的につぶすという攻撃の、うち、・・・・挨拶をしてやらないぞ。常に無視してやろうぜ・・・・・という攻撃が、すでに、数千回にわたって行われているのだが、2022年にマダム優美からも、それが行われたのだった。場所は、歌舞伎座四階専用、エレベーター内だった』

 人間の欲求のうち、自己承認の欲求とは相当に上位にあるそうです。渡辺夫妻の攻撃とは、すれ違う時も追い抜くときも挨拶をしないという形だが、なんとも、そのいやみ・オーラ全開で、非常にきつく感じてしまうのです。とても悪意が、強くて、気にかかる現象です。ただし、マイナスばかりでもないですよ。日大の裏側は、彼ら夫妻の、悪意発露のタイミングと、自分が今何を書いているかを、照らし合わせると、裏側が全て読めるからです。

 さて、この挨拶をしないという攻撃は、【マダム優美】からも、2020年に行われる様になっていたのでした。しかも、それが、歌舞伎座内、四階のエレベーターという、絶対に、顔を合わせざるを得ない箱の中で、行われたのでした。それは、すでに書いていますが、彼女の実名が書いてあるので、坊ちゃま(東工大教授)を守るために、リンク先を探さないで新しく、書き直しましょう。

 ここからは、文章体で書いていきます。よろしく。

 歌舞伎座四階席は、コロナ禍前には、一つの演目に150人まで、入れていたと、記憶している。人気が高い演目については、そうしていた。しかし、コロナ禍以降、管理が厳しくなって、総座席数、70席までしか販売しないという仕組みになっている。立ち見は許されない。で、開幕前までに、並んで、切符を持っているかどうかがチェックされる。場所は、四階席だけ用にロビーとして、使っている廊下であり、そこに20人前後を並ばせて、それ以上の人数がたまると、列を折り曲げて、三列ぐらいにして、開幕を待たせる。まあ、奴隷扱いに近いが仕方がない。で、もし四階の立見席に、知人がいたと仮定すると、芝居が始まる前に、私の方が、気が付くはずだった。で、【マダム優美】が、私と一緒にエレベーターに乗り込んできた際には、すぐ、それがいじめ狙いの謀略であり、彼女はわざわざ、夜の八時40分に、四階のエレベーターに乗り込んできたのだった。

 さて、こういういじめを、計画された時にどうするかなのだけれど、わたくしは、毎晩、パソコンを50回ぐらい壊されていた時期がある。特にアドビ関連ソフトが、言うことを利かないのだった。これは、自著の編集と、その後の印刷機にかける直前までの、データづくりをしていた時代で、装丁のデータも何もかも、アドビのソフト(=アプリ)を使うので、まいっていた時期だった。あれこれの無理がかかるので、40台を超える台数のノートパソコンが壊された時期だった。

 その後も10台は壊されているのだけれど、壊される時間の間隔は、伸びている。それは、わたくしの対処能力が向上したからだった。ともかく、壊されたら放っておいてはいけない。瞬時に、やりたい仕事を工夫の限りをしてやり抜く。それが、肝に銘じた要点であって、それは、【マダム優美】の、いじめに対しても適応しないといけない要点だった。

 で、わたくしは、マダム優美にエレベーター内で、話しかけた。数十秒無視されたが、さらにしつこく問いかけた。それを受け止めないのは、人間としておかしいとエレベーター内のすべての人間が、気が付くほど、彼女は、私を無視し続けた。普通の場合、「私?」と、相手が反応をして来る? で、会話が始まって、わたくしが間違っていたら、わたくしが、にっこりわらって「ごめんなさい」という。それで、終わる。ところが不自然に、無視し続けてくる。だからこそ、パソコンを壊されるときと同じ気配があり、瞬時に、うらにCIAエージェントがいることを察知して、戦い始める。4階から直通で、一階に降りる間に、とうとう根負けをした、彼女が、「ええ、そうですよ」と、言う反応を見せたので、「ねえ、私ね、今日は反町に泊まるのよ。日吉まで、一緒に帰らない」と提案すると、「駄目よ。知人と一緒だから。そこで、待ち合わせをするのよ」と、銀座三越方面に、視線を泳がせた。

 で、わたくしもあきらめて、西へ向かう彼女と別れて、東銀座駅へ降りるエスカレーターへ向かうべく、東に向かうと、彼女が、突然、追い打ちをかけてきた。「ねえ、桜姫東文章よかったわね。私四回も見たのよ」という。私は見ていない。

 その演目は玉三郎と仁左衛門が、人生最後の公演として取り組むといって、大評判をとり、チケットは、解禁直後に売り切れた模様で、わたくしは、チケットをとれなかったのだ。だが、「四回も見た」という話は、どういう仕組み?と、怪訝ではあった。普通の人である、わたくしには、解禁日の、三時間後には、全席、かつ、全公演日にわたって、完売だったのだ。どうして、彼女は、二度目として、切符を買えるのだろうか?

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副題5,『2010年~2013年の間に、彼女の自宅を訪ねたことがある。これは、他意は、まったくなくてすべての友達に同じことをしていた時期だった。というのも、それは、六冊目の自著を出版した後だったが、どうも郵便がおかしいのだった。本を誰かに送っても届かないという時期だった。で、葉山のイトーピアに、時田史郎・元福音館社長(わたくしとは、中学時代の同期生)を訪問をしたり、その数日後、水沢勉氏の自宅を訪ねたり、葉山にもう一軒ある、友人(=未就園児時代=50年前のママ友)を訪ねたり、本牧に、慶応三田会横浜支部長・横山和生(この人も中学時代の同期生)、小田急町田駅で降りて、山川亜希子さん(お茶代付属高校時代の同期生)を、訪問していたりした時期だった。

 大変なお金と時間をかけていた時期だった。それほど自分の能力を他人に伝えたいという希望、または、欲望があったのだ。筆力が高いといわれているのに、公的な有名出版社が扱ってくれない。何か裏があると、感じていて、仕方がない。自分で、やろうと決意をしていた時期だった。裏は確かにあったのだ。1965年ICUキャンパス内で、ベイカーさんというイエール大学から来た交換留学生に、わたくしは眉をひそめただけで、頭がいいことを、見つけられてしまった。ベイカーさんは、今でいうCIAエージェントのトップクラスの人間で、

・・・・・被・植民地国家日本には、頭の良い人間は、生かしておいてはいけないのだと、言う使命を持っていた。で、わたくしは、その秋・キャンパス内で後ろから首を絞められて、殺されそうになった。それ以来、何回も殺されそうになっているし、自分の才能を開示することも弾圧をされているのだった。……だけど、それは、もし、日本が、本当の民主主義国で、独立国家なら、やってはいけないkとなので、すべては、ミステリーとして行われる。・・・・・

 そして、この6冊目の著書を配るという行脚も、彼らは、必死に、抑圧しようとしていて、いわゆる尾行が付いていたのだった。マダム優美が長時間待たせるので、わたくしは、ご主人から、何らかの指導を受けていると、感じた。

 で、郵便局を使った弾圧から逃れるために、自著を電車で配って歩いていた時期のはなしなのだ。日吉に住む小学校時代の友人数人を訪問したが、その一環として、マダム優美の自宅を訪ねたのだった。子供のころに一回も訪問をしたことがないうえに、番地も古いものしかないのでもっていかなかった。ただ、ただ、金蔵寺の近所という知識だけで、訪問をした。たまたま昼間だったので、庭仕事をしている人などがいて、無事に彼女の家までたどり着いた。で、玄関先だけで、帰るつもりだった。ところが、「待っていてね」と、言われて、10分以上待たされた。それは、単にお洋服を着かえましょうという待たせ方ではなくて、ご主人から何らかの指導を受けていると感じた。

 マダム優美は、自分の実力も高いのだけれど、夫を大切にするという意味では、古風なところもあるのだった。これは、彼女の母親が賢婦人だったから身についた、行動様式だったと思う。実は、富裕層になったご主人は入り婿なのである。彼女のきょうだいは、女性ばかりなのでお母さんが、その入籍をご主人に頼んだのだと思う。ここで、わたくしは、自分の実祖父が、養子であったことを思い出して、あれこれを書いている。それを巻末に置いた(蛇足1)というところで、語っておきたい。

 私はこの待たされている間に、慶応大学と三田会通じて、自分に投網が、書けられていることを推察した。ただし、それを、マダム優美に告げることはしていない。だから、その10年後の現在も、引き続いてだますことが可能だとみなされている可能性はある。

 やっと出て来た、彼女は、「車を出すわ、これから、お昼を食べに行きましょう」という。私は、そこまでの歓待を望んではいなかった。ただし、これが、三田会直伝の何らかであることを推察し、その内容を知りたいという希望があったために、彼女の言うなりに従った。やはり、思った通りで、会食中の、厳しい話題は、・・・・ブログをやめろというに等しい、話だった。だが、それは想定内だったので、甘受した。彼女は、車をレストランオークラまで、走らせた。日吉周辺で駐車場が、広いということで、有名なレストランである。その車だけど、SUBARUだった。三鷹のICUの隣に、富士重工があって、小さな車を作っているという印象を持っていた私は、超富裕層の彼女が、SUBARUの車を乗り回しているということに驚いて、その後SUBARUの株を何単位か買ったが、EV推奨運動が起こされて、自動車会社の株は、軒並みに下がった。(苦笑)

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副題6,『このレストランオークラでの会合は、ブログを書くことを責められたとしても、タクシーで、行ったと仮定すると、合計5000円ぐらい彼女からおごってもらったわけだから、反論は、一切しないで甘受した。だが、その後、締め付けはどんどん厳しくなる。四階のエレベーターでの、2021年秋のいじめ、それから、わざわざ電話で、知らされた坊ちゃんが、30代で東工大の教授になったという2022年の自慢話。

 今のわたくしに対する攻撃が、主に心理的な打撃を与える方向だから、非常に効果的な攻撃だった。

それなのに、どうして、2023年の秋という今、甘い、甘い声で、しかも明るい調子で、「歌舞伎座に、11月16日に一緒に行きましょう」と、彼女は、言う。これは、どっちなのだ。いじめようの罠か? それとも、歌舞伎座との仲直りを設定してくれる、親切なのか? 私は、11月8日以来、ずっと、悩み続けていたのだった。

 これは、まだ、まだ、続きます。だが、本日は、ここまでに、させてくださいませ。

 

 

(蛇足1)

 ところで、わたくしの祖父も養子だった。しかも、とりことりよめと言って、夫婦ともども、養父母の実子ではない。明治時代か、大正初期に、すでに学卒だった、祖父はそれなりにわがままだったので、養父母とけんかをして、家を出てしまった。で、わたくしの祖母は、気落ちしたのか、病を得て早死にをする。で、母と兄は、叔父、叔母の家で、育っている。

 この祖父だが、わが母の実家八木家を出た後で、秋山という別の家に養子に入り直し、新しい妻との間で、7人もの子供を作った。仕事は、山口県立、柳井商業の校長であり(それを40年間も続けたとのこと)、実は、日吉の家にも訪問をしてくれた過去があり、わたくしは、顔をしっかりと覚えている。

 この実祖父との思い出でのなかで、母は、もっとも悲しかったものとして、【大内(これが、苗字なのか、町名なのかを聞いていない。が)】の家で、葬式があった日のことを語っている。その死者は、母の実祖父母のどちらかにあたるので、母が招かれたのには、資格が十分にある。しかし、自分の実父は、すでに秋山家の人だから甘えることができない。また、秋山夫人はついてきているのに、自分の母は、すでに死んでいるので、ついてきていない。母の兄は、社交的な性格で、母違いの、半兄弟である弟や妹と、活発にはしゃいで、遊ぶのだけれど、母はそれができないタイプだったらしい。で、大広間で、追いかけっこをしている数人の、子供を眺めながら、非常に寂しくて、悲しい思いをしたそうだった。

 この実祖父だが、八木家に残していた二人の子供には、愛情を示している。二人の子供が、旧制中学とか、旧制高女に入ると、そちらの校長先生を通じて、会いに来てくれたそうだった。で、さっきから言っている通り、母の兄は、社交的なタイプなので、その時に、実父である、秋山校長と一緒に記念写真をスタジオで撮っている。しかし、母は、恥ずかしい思いが先に立って、そそくさと、校長室を抜け出して、自分のクラスに戻ったそうだ。ただ、日吉にこの実祖父が訪問をしてきたときには、母はすでに、二人の子供を持つ主婦だったので、自信がついていたのだろう。一家、そろって、この実祖父を歓迎し、わたくしの父も交えて、活発な歓談が繰り返されていた。これは、実祖父の、心を慰安し、母にも、慰安を与えたと思う。傷はできるだけ癒しておいた方がいい。母は死ぬときには、この祖父の思い出も、一緒にあの世にもっていったと思う。

 ただ、家を守るための養子だったら、大人になってから迎えた方がいい。子供時代から、養子になった人には、二つの枝分かれがあって、特別に心の訓練ができた成熟した男性になるケースもあるが、甘やかされて、めちゃくちゃな人格になる人もあるからだ。

 だが、養子になる方の子供の、実父母が、めちゃくちゃで、生活能力がない場合は、小さい時から、養子として育てるのもありだと思う。だけど、実父母の、記録だけは、残していて、本人が知りたがったら、教えた方がいいと思う。

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