今宮高校3年4組の同級生が7人集まり、ミニ同窓会をしました。
40数年ぶりの再会のクラスメートもいて、2時から「ワイワイ」と盛り上がり、気付けば5時でした。
女性お二人は、年を経て益々品格高潔な麗人に成られ、会に大輪の花を添えてくれました。男性陣も年相応の風格と貫録がありました。
ただ、老いの気配も、1人を除いては、致し方ない事ですがまた感じられました。
1人だけ、年齢詐称ではないかと思うくらい「お若い」のです。
頭髪は真っ黒で、マジックインクで描いたのではないかと疑っています。
その黒髪をオールバックになでつけて、青年が羽織るカジアルスーツの出で立ちです。キット彼は学年違いの同窓会に出てきたのだと思います。
盛沢山な話題の中で、出身地の話がでました。
水彩画の妙手、趣味の域をはるかに超えた書き手である同級生のオリジンが「喜界島」で俊寛の末裔、との話が出ました。
あり得ない事ではありません。
芥川龍之介は、小説「俊寛」で「現地妻との隠遁生活」を書いています。
その龍之介がヒントを得たと思われる菊池寛の小説「『俊寛』では、 俊寛は島の娘と結婚し、健康に暮らしていたという、ロビンソンクルーソーのような話を書いています。
我々のイメージは、平家物語の「足摺」や倉田百三の戯曲『俊寛』 (有王から俊寛の家族はみな死に絶えたと聞き、俊寛は岩に頭をぶつけて自殺する)と云う悲惨なものがありますが、案外、龍之介や菊池寛の小説の方が史実に近いのかもしれません。
そうすると、同級生が冗談交じりで云った「俊寛の末裔」と云うのも強ち冗談ではないのかもしれません。
時代は新しくなりますが、西郷隆盛の事が思い浮かびます。
西郷には三度の結婚経験がある。
1度目は嘉永5年28歳のとき「須賀」と結婚した。
2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。
35歳の安政7年1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。
この子供たちは庶子として扱われた。
文久元年末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。
愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。
3度目の妻は慶応元年岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。
寅太郎(侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。
第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。
階級制度・身分制度の時代には、「血の正当性」が最大の正義ですから、雄略天皇の後継者抹殺で皇統が途絶えようとした時、「血の純血」故に播磨から「顯宗天皇、允恭天皇」を見付出したり、その皇統も危うくなった時「越前三国より継体天皇」を、これまた「血の正当性」を持って迎えた事があります。
貴種が、何らかの事情で地方に下向して土着しても、貴種故の「血の正当性」は現在のわれわれの想像以上に尊ばれたのは事実だと思います。
写真は「小田岳堂作・平家物語(連作の内) 足摺」50号屏風仕立て
40数年ぶりの再会のクラスメートもいて、2時から「ワイワイ」と盛り上がり、気付けば5時でした。
女性お二人は、年を経て益々品格高潔な麗人に成られ、会に大輪の花を添えてくれました。男性陣も年相応の風格と貫録がありました。
ただ、老いの気配も、1人を除いては、致し方ない事ですがまた感じられました。
1人だけ、年齢詐称ではないかと思うくらい「お若い」のです。
頭髪は真っ黒で、マジックインクで描いたのではないかと疑っています。
その黒髪をオールバックになでつけて、青年が羽織るカジアルスーツの出で立ちです。キット彼は学年違いの同窓会に出てきたのだと思います。
盛沢山な話題の中で、出身地の話がでました。
水彩画の妙手、趣味の域をはるかに超えた書き手である同級生のオリジンが「喜界島」で俊寛の末裔、との話が出ました。
あり得ない事ではありません。
芥川龍之介は、小説「俊寛」で「現地妻との隠遁生活」を書いています。
その龍之介がヒントを得たと思われる菊池寛の小説「『俊寛』では、 俊寛は島の娘と結婚し、健康に暮らしていたという、ロビンソンクルーソーのような話を書いています。
我々のイメージは、平家物語の「足摺」や倉田百三の戯曲『俊寛』 (有王から俊寛の家族はみな死に絶えたと聞き、俊寛は岩に頭をぶつけて自殺する)と云う悲惨なものがありますが、案外、龍之介や菊池寛の小説の方が史実に近いのかもしれません。
そうすると、同級生が冗談交じりで云った「俊寛の末裔」と云うのも強ち冗談ではないのかもしれません。
時代は新しくなりますが、西郷隆盛の事が思い浮かびます。
西郷には三度の結婚経験がある。
1度目は嘉永5年28歳のとき「須賀」と結婚した。
2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。
35歳の安政7年1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。
この子供たちは庶子として扱われた。
文久元年末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。
愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。
3度目の妻は慶応元年岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。
寅太郎(侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。
第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。
階級制度・身分制度の時代には、「血の正当性」が最大の正義ですから、雄略天皇の後継者抹殺で皇統が途絶えようとした時、「血の純血」故に播磨から「顯宗天皇、允恭天皇」を見付出したり、その皇統も危うくなった時「越前三国より継体天皇」を、これまた「血の正当性」を持って迎えた事があります。
貴種が、何らかの事情で地方に下向して土着しても、貴種故の「血の正当性」は現在のわれわれの想像以上に尊ばれたのは事実だと思います。
写真は「小田岳堂作・平家物語(連作の内) 足摺」50号屏風仕立て
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