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何故「五月山(池田市)」と言うの?・・・地名の話(12)

2009年10月07日 | 地名・地誌
「五月山」地名考
「どうして五月山と言うのですか?」

池田市にある馴染みの喫茶店で、常連客に聞いてみました。
好事家でもない人々に、あまりに唐突な問い掛けは返答に窮する、と云うよりもその場に似合わない白けた雰囲気を醸し出してしまいました。
それでも心優しいゼントルマン諸氏は、多少の戸惑いと怪訝な心持ちをその眼差しに浮かべながらも「皐月が仰山あるからでしゃろ」と応対してくれました。
小林一三翁が池田町に日本で初めての分譲住宅なるものを造った時に、彼の天才的商才で産み出したキャッチコピーに類する地名、と私もその程度に理解していました。

「五月山」は、既に江戸時代の絵図に見られる。
 江戸時代の絵図(摂津国名所舊跡細見大繪圖)には、はっきりと「五月山」が描かれており、またそれに連なる隣の峰を「秦山」とあります。
五月山のある池田市一帯は、「和名類聚抄(和名抄)」によると豊嶋郡に属していました。
 豊嶋郡は「秦上、秦下、駅家、豊嶋、余部、桑津、大明」の七郷(流布本により異同あり)に区分されていますが、池田地域はその内の秦上、秦下、豊嶋の三郷に比定されています。
秦上、秦下は、元々は秦郷であったのが、郷の繁栄に伴い上下に分けたと考えられます。
秦郷は、古代最大の殖産渡来氏族「秦氏」に由来していることは周知の事です。
池田地域での秦氏の繁栄は、今でも池田市内に秦野、畑、西畑、東畑などの地名にその名残を窺い知ることができます。
先程の秦山もその左証でしょうが、「池田町史」には秦山の名は昭和になるまで残っていたらしい、とありますが、先程の喫茶店の常連客で東畑在住の人にお聞きすると「今でも秦山と云っている」とのことです。
秦氏の渡来時期と豊嶋郡へ進出時期は、五世紀頃とするのが有力です。
そうすると池田市域に点在する「秦」地名は、大王家が河内に進出し巨大古墳を造営した時期にまで溯る可能性があります。

「五月山」はじめ箕面、池田、川西の山々は全て「爲奈山(坂根山)」と呼ばれていた。
 五月山と云う呼称が、少なくとも江戸時代から在ったことは明らかになりましたが、それでは「秦」地名の様に来歴を語る材料はないものでしょうか。
 「住吉大社神代記」に「川邊、豊嶋両郡の内の山を惣て爲奈山と號く。別號は坂根山」とあります。「住吉大社神代記」は、元慶3(879)年に書かれた書物で、日本書紀や古事記とは異なる歴史を記録しています。
住吉神社神代記によると神功皇后の時代には五月山を含む川邊、豊嶋郡の山全てを爲奈山或いは坂根山と呼称していとのことです。

 爲奈と云う地名は、古くは万葉集にも詠まれ、延喜式には爲那都比古神社が登載されており、和名抄には河邊郡に爲奈郷があるなどの古代地名で、稲、新稲、稲津、猪名川、稲野などが現存しており、現在でも「イナ」を広域地名として使用することがあります。
「イナ」の領域は、吹田市、箕面市、豊中市、池田市、川西市、伊丹市、尼崎市にまたがる広範囲であったと云われています。

「五月山」は「城邊山」である。
 同じく「住吉大社神代記」に「豊嶋郡の城邊山」とあり、そこには五月山近辺の事が記述されています。
「元、偽賊土蛛(にしものつちぐも)、この山の上に城(き)と塹(ほり)を造作(つく)り居住(すまひ)し、人民(ひと)を略盗(とりこに)す。(略)山の南に広大な野在り。意保呂野(おぼろの)と號(なづ)く。山の北に別に長尾山在り。(略)城邊(きのへ)山と號く由(ゆえ)は、土蛛の城塹(とりで)の界に在るに因りてなり」
城邊の音は、現在の木部(キベ)町である木部が元々「キノベ」と言っていたのに通じます。
「山の南に広大な野在り。意保呂野と號く」は、五月山から池田市街を見渡した情景の描写に外なりません。
また、池田市街に宇保と云う地名があり、意保呂野はなんとなく似ていて関連があるように思えます。

「五月山」は「佐伯山」か?
 俗説として「五月山」は「佐伯山」が転訛したものである、と言われています。
「SAEKI」→「SATUKI」への音韻変化には無理がありますが、音では「え」と「つ」の一音が違うだけと言えば有り得る事かも知れません。
ただ残念なことには、「五月山」を「佐伯山」とした明確な史料は存在しません。
しかし、五月山の地名の由来を解き明かすには、俗説であってもその信憑性を確かめる必要があります。
「日本書紀」仁徳天皇紀に「莵餓野の鹿」の説話があります。
話の概略は、天皇と皇后が莵餓野の鹿の鳴き声を楽しんでいたのに、猪名縣の佐伯部が贄としてその鹿を献上してしまった。
知らぬ事とは云え、天皇が愛していた鹿を捕らえた佐伯部は、天皇の機嫌を損ね安芸国淳田に移住させられた、と云うものです。
仁徳天皇が難波宮を営んだ頃に、猪名縣がありそこに佐伯部が居住していたことになります。そして、佐伯部は苞苴を獻上していたことが分かります。
また、後の時代の史料「西大寺資財流記帳・宝亀11(780)年、大和西大寺文書・建久2(1191)年」にも「豊郡嶋佐伯村」の記述があり、豊嶋郡の何処かに佐伯村が古代から少なくても中世頃まで存在していたことは確かです。

佐伯部の出自と性質

 「日本書紀」景行天皇五一年八月の条に「日本武尊が伊勢神宮に献上した東国の蝦夷を播磨、讃岐、伊豫、安藝、阿波の五カ国に住まわせ、これがこの五カ国の佐伯部になった」とあります。
そして佐伯部は、大王家に平定された蝦夷だったと云われて、兵力としてしかも最も危険な前線の先兵の役割を担っていたと云われています。
「さへき(さへく)」とは、小鳥などが鳴く様を「さへづる」と云い、本来は「意味不明の言葉を騒がしく喋る」ことと説明されています。
或いは「さへく」を「塞ぐ(まつろわぬ)」と解釈する学者もいるそうです。
 これらの説を裏付けるのが「常陸国風土記」茨城郡(うばらのこうり)の条に「山の佐伯、野の佐伯、自ら賊(あた)の長(おさ)と為り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て、国中を横しまに行き、大(いた)く却(かす)め殺しき」との記載があります。
 この様に佐伯部とは、日本武尊の国内統一説話や倭の五王武の上表文にみられる国内平定の戦いで、大王家に服属しなかった集団の人々が、被征服民として奴隷的性格を負わせれ、主に戦闘要員として各地に配置されたと思われます。
 難波の津を擁し、河内、大和と云う大王家の拠点の地の豊嶋郡に佐伯部が居住していたことは寧ろ当然の事と思われます。
戦闘のない平時には、佐伯部は「狩り」をして戦闘員としての資質を高め、同時にその狩りの獲物を苞苴として献上していたと思われます。

 そのことを物語るのが仁徳紀の猪名縣の佐伯部の説話です。
これらのことを斟酌すると、佐伯部の居住地は少なくとも農耕地や邑里ではなく、山間僻地と考えざるを得なくなります。
そうすると猪名縣の佐伯部は、結果として北摂のどこかの山に居住を許されていた、と云うことになります。
また、後の豊嶋郡佐伯村も恐らく山際にあったものと推察されます。

「豊嶋郡の城邊山」は「佐伯山」
「住吉大社神代記」の「豊嶋郡の城邊山」の一文と「常陸国風土記」茨城郡の条の内容が、奇しくも非常に似通っているとは思われませんか。
そのことは、神代記の偽賊土蛛を佐伯に、風土記の佐伯を土蛛に置き換えれば、それで充分です。猪名縣の佐伯部が住んでいた北摂のどこかの山は、景行天皇の時代に、まだ大王家にまつろわぬ土蛛が占有していた城邊山、そして大王家が河内に進出し、国家統一が進み、まつろわぬ民を次々に平定し、被征服民とし支配態勢に組み込み佐伯部として傘下に組み入れられ、仁徳天皇の時代には城邊山は完全に大王家の支配下に入り、佐伯山と呼称されるようになったのです。

現在、五月山に「がんがら火」で有名な愛宕神社が祭られています。

この神社の招請自体はそれ程古いものではなく、江戸時代中期とおもわれますが、この神社には招請地に連綿として残る土着の痕跡、この土地の古代の記憶があるのです。

驚くことには、この愛宕神社は、祭神として「佐伯部祖神」を祀っています。

部の祖神を祀っていることはから、佐伯村はこの五月山近辺にあったと考えても大過はないと考えられます。

「佐伯山」から「五月山」

 上記の事柄を整理してみます。
私たちが住まいするこの北摂の地は、遠く太古の昔から人々が住み着いていましたそれは、考古資料によると旧石器時代にまで溯ります。
(池田市;宮の前、伊居太神社参道。豊中市;蛍池北、桜塚。箕面市;櫻池、宮の原、稲田。吹田市;吉志部。川西市;加茂など)
縄文時代の遺跡も各所に散見されます。(池田市;宮の前、古江、五月山公園、畑、奥、神田北、豊島南、横枕、京中、伊居太神社参道。 豊中市;野畑春日、新免、穂積、原田西、柴原、山の上、小曽根など。
箕面市;粟生間谷、粟生奥、新稲、白島、瀬川など。吹田市;吉志部など。
川西市;加茂、花屋敷、小花など。伊丹市;荒牧、口酒井、小坂田など。)
 そして、これらの遺跡のうち晩期に属するものの中で、伊丹市の口酒井遺跡では炭化米や石包丁がまた、池田市五月山山麓池田城跡の下層横枕遺跡からは籾痕のついた縄文晩期の土器が出土しており、新しい弥生時代を受容するかのようなものもあります。
 弥生時代の最大の特徴は、稲作農耕と金属器を持ったことです。
そして弥生の文化は、よく言われるように「人ともの」がセットで伝わった、と言うことです。即ち、縄文人が稲作農耕や金属器製作の技術を獲得して弥生時代を築いたのではない、と云うことです。
勿論、混血や同化されて行った縄文人もあったでしょうが、文化の先進性と波状的に渡来する数の勢いに、縄文人は弥生人に圧倒され、山へと追いやられました。
列島を模式的に云うならば、縄文人は北海道から沖縄に薄く広く分布していました。
その列島に朝鮮半島から弥生人が北九州から瀬戸内海を経由して近畿地方に流入しました。
縄文人は、関東以北や南九州・沖縄そして弥生人の生活の場でない山岳部に残った状態になりました。
俗説ですが、沖縄の人とアイヌの人の風貌が酷似しているのはその名残と云う人もいます。
極めて大雑把に云うと、東北・北海道の蝦夷、南九州の隼人・熊襲、そして彼らを含めて平定された山の民・佐伯部は縄文の遺児達なのです。
 古代国家での蝦夷、佐伯部と同様隼人もまた、被征服民として国家儀礼の場で「隼人舞」として屈辱的な扱いをされていたことからも理解できます。

 この様な経過からまつろわぬ縄文の民が住処としていた、現在の五月山を「佐伯山」と呼ぶようになるのは、大王家がこの地域を完全に制圧してからのこになります。
それは大王家が大和から河内に進出して来たころ、そして豊嶋に秦氏が住み着いたころ、即ち五世紀以降のことと思われます。
 弥生時代には、数多くの大陸からの渡来がありました。それは波状的に繰り返され、古代国家成立に大きく関係していました。
当然、初期の渡来人と今来の渡来では、この列島での立場、役割などに差があります。
池田市地域で一番早く稲作が開始されたのは、木部遺跡がある一帯とされています。
一般的に弥生の共同体国家の規模は、律令の村或いは郷程度と云われています。
早い時期に渡来して列島に散らばり、開墾をし風土に馴染んで土着した集団が、各地に弥生の国を作りました。
その村は、銅鐸の祭りを行い、村を守る原初的な神社を祭祀していました。
 北摂地域の銅鐸出土は、吹田市吉志部、豊中市原田神社、箕面市如意谷、伊丹市中村、川西市栄根、多田満願寺などがありますが、この銅鐸出土と原初的な神社の祭祀がセットで関連づけられるのは箕面市如意谷しかありません。
 豊嶋郡、川邊郡内の式内社は、豊嶋郡では垂水神社、為那都比古神社、阿比太神社、細川神社、川邊郡には、伊佐具神社、高売布神社、鴨神社、伊居太神社、多太神社、小戸神社、売布神社があります。
 神社が拝殿をなどの建物を持つのは、仏教伝来以後のことで、寺院の堂宇を真似てからのことです。原初的神社は、山丘(大神神社)そのものや巨岩奇岩(花の岩窟)、神木、湧水などを依代、招代として祭祀していました。
個々の論証は省略しますが、上記の式内社の中で原初的祭祀形態を残しているのは為那都比古神社だけです。

 私は曾て「為那都比古神社と猪名の古代史」でこれらの事柄を論考しましたが、簡潔に要点を述べますと、為那都比古神社の元々の鎮座地は、現在は廃社となった大宮神社(箕面市白島)で、その地は如意谷銅鐸出土地と指呼の位置にあり、向背の山麓には古代祭祀跡とされる奇岩「医王岩」があるところです。

 為那、猪名、為奈などと表記される「イナ」は、池田市史によると「鄙の地」の「ヒナ」が転訛して「イナ」となった、としています。
しかし「上代日本語の文法の研究」(橋本増吉)によると為那、猪名、為奈などは「ヰナ」であり「イナ」ではない、として「ヒナ」が「ヰナ」に転訛することはあり得ないとしています。
 考えてみれば「鄙の地」は全国何処にでもある訳だから、「ヒナ」「イナ」地名が全国に分布していているはずであるが、実際は限られていることから、池田市史の説を肯首する訳には行きません。私は、密かに「ヰナ」を縄文古語ではないかと思っています。
 だから「ヰナ」の意味するところは分かりません。それはまさしく縄文人が「ヰナ、ヰナ」と「さえく(き)」のを聞いても、我々大王家と同じ出自の現代日本人には「意味不明の言葉を騒がしく喋る」だけで理解できない訳です。

 その「ヰナ」の土地に弥生人が定着して弥生の村を営みました。
その規模は、律令の郷或いは村程度であったと思われます。
その程度の弥生の村が、あちらこちらにできました。
彼らは、銅鐸をシンボルとする祭りを行っていました。
北・西摂の銅鐸は、一定の距離で出土していますが、それは当時の村落の規模と分布に関係しているのではないでしょうか。

「イナ」と云う地名の分布が、吹田市から尼崎市に及ぶ広範囲になったのは、「イナ」と云う村落共同体が近隣の村々を、その勢力範囲に入れて行ったのではなく、別の事情でそのように拡大して行ったものと思われます。
 即ち、銅鐸をシンボルとする弥生の人々とは異なる今来の弥生人の流入があったと思われます。
彼らは、鏡と剣と勾玉をシンボルとする集団でした。
 銅鐸と銅鏡の戦闘が始まりました。
先進的で征服王朝の性格を持つ銅鏡集団が、西から大挙して攻めて来たのです。
神武東征軍とナガスネヒコとが生駒山山麓で対峙したころのことです。
魏志倭人伝では倭国大乱としたころです。
銅鐸の村々は、連合して防衛に当たりました。
北・西摂の銅鐸の村々の連合の盟主になったのが「ヰナ」で、攻防戦は明石海峡で待ち伏せ、会下山で決着しました。
この時埋められたのが、会下山の銅鐸群です。
銅鐸の村々の敗北です。
銅鐸は、これを境に地中に埋納され、忘れ去られてしまいます。
勝利した側から見れば、吹田市吉志部、豊中市原田神社、、伊丹市中村、川西市栄根、多田満願寺の銅鐸の村々も、一様に盟主の「ヰナ」でしかありません。

 そのような見方から、勝利者側から北・西摂地域は広く「ヰナ」でしかなかったのです。
そして、この北摂の地に多くの今来の渡来人が、蟠居しました。
池田市には、主に秦氏が勢力を伸張させ、秦郷と呼ばれるようになりました。
彼らは、自らの祖神を祀る神社を五月山山麓に作りました。
後の秦上社の始まりです。
箕面市には、物部氏の一派が勢力を培いました。
彼らは、地元慰撫のために、自らを物部氏と名乗ることを避け、土着の伝統と信仰を棄損する事ないように、氏族名を猪名と名乗り、土地の聖地をそのまま受け継ぎそこに氏族の守り神為那都比古神社を奉祭しました。

 池田市は、この間「秦上・秦下」と呼ばれていましたが、鎌倉時代初期のころに渡来氏族漢の系統で河内の土師氏の一族、坂上氏が開発領主として池田市に入って来ました。
坂上氏は、穴織・呉織の伝承を持つ漢氏の後裔のため、秦の地は「呉庭の里」と呼ばれるようになりました。
坂上氏は、自らの守護神を「呉庭の里」に創建しました。
それが呉服神社(秦下社)で、秦氏の奉った五月山山麓の神社を穴織社とし、氏族の伝承を根付かせました。
 やがて、南北朝の動乱で「呉庭の里」に北朝の勢力強化のために美濃国から池田氏が来援して来てやがて土着しました。
池田氏は、塚口村にあった式内社伊居太神社を領地に移すに際して、より歴史の古い五月山山麓の秦上社を選定しました。
延喜式で伊居太神社が川邊郡に登載されているのは、このような経緯があるからです。
 この南北朝と戦国時代の動乱のため、歴史に錯乱が起こり、古代からの佐伯村も何時しか消滅して人々の記憶から消えてしまいました。

この頃、「佐伯山」は「五月山」と呼び慣わすようになったと思われます。
 この様に見て行くと「五月山」は「佐伯山」が転訛した俗説が、案外俗説ではなく歴史の真実かも知れないと思いました。










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