先週の「江」は江や秀忠の思いとは異なり、大坂冬の陣へと至るお話でした。その過程で秀忠が秀頼に書状を書いて、自分が将軍、秀頼が関白として二人で並び立って泰平の世を築きたいと伝えた話が出てきました。これはもちろん脚本家の創作です。インターネット上にも「脚本家による歴史の捏造」という批判が出ているようです。
この批判は当然のことです。
ところが同じような歴史の捏造が行われながら、いつの間にか学者も認める歴史事実となってしまったことがいろいろあります。それが江戸時代に書かれた物語「軍記物」が捏造したさまざまな本能寺の変に関するエピソードです。現代の本能寺の変の通説・定説はそのオンパレードです。具体例は以下のページを参照いただきたいですが、光秀は朝倉義景に仕官されていたことにされ、天下を取る野望を抱き、信長にいじめられて恨んだことにされました。
★ 本能寺の変:定説の根拠を斬る!シリーズ紹介
この捏造の結果の恐ろしいのは歴史学界が定説として認知してしまっていることです。これによって戦国史の研究は歪められているのです。その一端は以下のページでもご紹介した通りです。
★ NHK・BS歴史館「本能寺の変の謎」
【信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤うシリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
さて、最近付け加えられたひとつの「捏造」があります。小さな話なのですが無視できない広がりができているように思います。
それは「本能寺で信長の遺体が見つからなかった謎」です。
この謎を作り出したのは小説家加藤廣氏です。小泉首相が激賞してベストセラーとなった小説『信長の棺』の中でこの謎を提示しました。この本は小説であり、著者本人はまったく歴史を捏造したつもりはありません。しかし、この本を読んだ読者の間に「信長の遺体が見つからなかった謎」が本能寺の変を解く鍵と見てさまざまな推論が行われるようになっています。私も某研究家から拙著に対して「この謎に対する答がない」と指摘する手紙を受け取りました。
ところが、焼死体は損傷が激しく、現代でもDNA鑑定を行わないと身元が判明しません。信長の遺体があったとしても、それを信長と認めることは誰もできません。つまり、信長の遺体がみつからないのは謎でも何でもなく、単なる科学現象なのです。
こうしてみると、江戸時代の軍記物作家も歴史を捏造する気はさらさらなかったのでしょう。話を面白おかしくするために書いたエピソードを後世の人々(特に歴史学者)が「歴史」に祀り上げてしまったのです。加藤廣氏に罪がないように軍記物作家にも罪はないのです。「江」の秀忠の書状の話も同じ構図であり、脚本家に罪はないのであって、それを受け止める人々の受け止め方の問題です。とはいえ、大きな危険をはらんでいることは確かです。百年後には秀忠が秀頼に書状を出したことが史実となっているかもしれません。参考文献として「NHK大河ドラマ 江」などと堂々と論文に書かれる時代がこないとも限らない、というと笑い話に聞こえるでしょうが、現代の歴史研究書に参考文献として川角太閤記、明智軍記、甫庵信長記、甫庵太閤記などが堂々と書かれている笑い話が現実にあるのです。(参考文献名を出さずに、軍記物の記述を史実として引用してしまっている「たちの悪い例」は枚挙にいとまがありませんが)
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【定説の根拠を斬る!シリーズ】
通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
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この批判は当然のことです。
ところが同じような歴史の捏造が行われながら、いつの間にか学者も認める歴史事実となってしまったことがいろいろあります。それが江戸時代に書かれた物語「軍記物」が捏造したさまざまな本能寺の変に関するエピソードです。現代の本能寺の変の通説・定説はそのオンパレードです。具体例は以下のページを参照いただきたいですが、光秀は朝倉義景に仕官されていたことにされ、天下を取る野望を抱き、信長にいじめられて恨んだことにされました。
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さて、最近付け加えられたひとつの「捏造」があります。小さな話なのですが無視できない広がりができているように思います。
それは「本能寺で信長の遺体が見つからなかった謎」です。
この謎を作り出したのは小説家加藤廣氏です。小泉首相が激賞してベストセラーとなった小説『信長の棺』の中でこの謎を提示しました。この本は小説であり、著者本人はまったく歴史を捏造したつもりはありません。しかし、この本を読んだ読者の間に「信長の遺体が見つからなかった謎」が本能寺の変を解く鍵と見てさまざまな推論が行われるようになっています。私も某研究家から拙著に対して「この謎に対する答がない」と指摘する手紙を受け取りました。
ところが、焼死体は損傷が激しく、現代でもDNA鑑定を行わないと身元が判明しません。信長の遺体があったとしても、それを信長と認めることは誰もできません。つまり、信長の遺体がみつからないのは謎でも何でもなく、単なる科学現象なのです。
こうしてみると、江戸時代の軍記物作家も歴史を捏造する気はさらさらなかったのでしょう。話を面白おかしくするために書いたエピソードを後世の人々(特に歴史学者)が「歴史」に祀り上げてしまったのです。加藤廣氏に罪がないように軍記物作家にも罪はないのです。「江」の秀忠の書状の話も同じ構図であり、脚本家に罪はないのであって、それを受け止める人々の受け止め方の問題です。とはいえ、大きな危険をはらんでいることは確かです。百年後には秀忠が秀頼に書状を出したことが史実となっているかもしれません。参考文献として「NHK大河ドラマ 江」などと堂々と論文に書かれる時代がこないとも限らない、というと笑い話に聞こえるでしょうが、現代の歴史研究書に参考文献として川角太閤記、明智軍記、甫庵信長記、甫庵太閤記などが堂々と書かれている笑い話が現実にあるのです。(参考文献名を出さずに、軍記物の記述を史実として引用してしまっている「たちの悪い例」は枚挙にいとまがありませんが)
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