本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

明智憲三郎氏の奇説(呉座勇一説)

2018年03月17日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 ほら、来た、来た! 呉座勇一著『陰謀の日本中世史』に「明智憲三郎氏の奇説」の見出し。藤本正行著『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』2010年の「光秀の子孫が唱える奇説」の焼き直しです。十数ページ書いていただいていますが、歴史の専門家でも片手間のにわか勉強で書いたためか、残念ながら内容に乏しく、藤本氏の「油断説」の踏襲で見るべきものがありません。加えて「明智氏は家康黒幕説の代表的論者」と決めつけているのだから開いた口がふさがらない。『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』文芸者文庫をお読みいただければ、呉座氏の信奉する怨恨説・野望説の方が奇説であることがご理解いただける。呉座氏のような定説護持学者からの批判への反論を先取りして出版したのが『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』なので、読み比べていただくとそのことがよく見えてくると思います。読み比べて、どちらが奇説であるかを是非ご判断いただきたい。
 >>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
 >>> 隠蔽された謀反の動機

 
>>> 「光秀の子孫が唱えた奇説」を切る
 >>> 武田信玄の重臣は家康討ちを予測していた
 >>> 明智説? 違和感あり!
 >>> 徳川家康は黒幕ではない!
 >>> 明智憲三郎批判が気になる方へ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
 >>> 呉座勇一氏の本

 さらに、「信長が光秀を使って家康を謀殺しようとしたところ、光秀に逆用されてしまったというアイデイアも藤田達生氏が披露してる」と書いている。いかにもアイデア盗用でオリジナリティがないという言いようである。藤田氏が初めて提示したアイデアであることは2009年の拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』で私が次のように書いています。
 「藤田達生氏は『本能寺の変の群像』の中で、その兵の証言から信長の「家康討ち」を「大胆な仮説」としていますが、大胆どころか的を射た説だったわけです。」

 藤田氏はアイデアのみでそれ以上の踏み込みはありませんでした。私は兵の証言を「証拠」と考えたのではなく、「仮説」と考えました。その「仮説」に立つと全ての証拠の辻褄が合うかどうかを検証したのです。こういった本質的なことも見えていない、まことに残念な書評でした。呉座氏の本を読んだ方は、ぜひ、拙著『「本能寺の変」は変だ! 435年目の真実』と読み比べてみてください

 それでもなぜ呉座氏はこのような主張しているのでしょうか? 私が定説(学界の先輩教授が主張しているもの)を証拠をあげて具体的に否定しているからです。呉座氏は学界の権威を守ることが自分の使命と考えているようです。本当は真実を究明するのが研究者だと思うのですが?

 『本能寺の変 431年目の真実』の読者の分析を以下にご紹介します。
 戦国時代は「兵は詭道なり」、すなわち陰謀が大前提でしょう。武将たちの陰謀や策謀を抜きにして戦国を語るのには限界があり、だから桶狭間や本能寺を偶然とか幸運とかで片付けてしまうのでしょう。
呉座氏が明智憲三郎氏を批判する6章と終章を読みましたが、「家康黒幕説」と言う時点で明智氏の著作を読んでいないことがわかってしまう残念な代物でした。明智氏のデータフロー分析を無視して、明智説の一部分を切り取って「想像に想像を重ねた推理」とか「一目で荒唐無稽と分かるような話」などといい加減な評価をする姿勢に、呉座氏はまったく信頼の置けない人だと思いました。他の根拠に乏しい怨恨説や野望説、黒幕説とざっくり同列に扱って明智説を相対化しようとする呉座氏の陰謀が見え隠れします。呉座氏ご自身の首にも鈴をつけておきましょう。
愛宕百韻の連歌の規則、順慶と忠興の上洛命令無視、吉田兼見6月1日不参、日記の改竄、家康の伊賀越えから東陣西陣の二方面作戦、旧武田領の織田軍切り崩しに至るまでの周到な準備、津嶋への陣替え、秀吉による細川藤孝と松井康之の論功行賞、安国寺恵瓊の処遇等々、本能寺の変は光秀だけを見ていては何も見えてこないです。『431年目の真実』が40万部売れたのは、明智説に他に類を見ない確からしさ、蓋然性、網羅性の高さを読み取ったからに他なりません。40万人の読者はフェイクに惑わされないでしょう。

 
 勝谷誠彦氏絶賛の『「本能寺の変」は変だ!』が文庫本で読みやすくなって2月3日に発売されました。コアな歴史ファン向けの付録を追加しました。
 >>> カツヤマサヒコSHOWで激賞
 >>> 『「本能寺の変」は変だ!』エピローグ

amazonカスタマーレビュー第1号「本能寺の変,って,変って思ったらこれ」。
既存の説を切りまくってます。これだけ,証拠を挙げられたら,切られた方,歯ぎしりしそう。」
それだけに切られた方からの反発もすごいです。呉座氏もその一例です。

amazonカスタマーレビュー:「一気に読めました
「本能寺の変」と軍記物との怪しげな関係。その軍記物依存症という切り口は腑に落ちる。著者が明智光秀の末裔であってもなくても関係ない。我々が教わった歴史を見直すべく意義のある内容と思います。タイトルの再審請求の意味も納得、歴史を科学的・論理的に解く興味深い本。読みやすかったです。(amazonカスタマーレビューより)

amazonカスタマーレビュー:「なぜ日向守光秀なのか?
 未読の読者の方のために内容を明かすことはできませんが、我々(マジョリティ)がいかに小説やドラマの1シーンを疑うことはあれ、概ねそれを信じ込んでいるという事実に恥じらいと驚愕を覚えました。書籍の内容はリアルの講義で拝聴してはいますが、改めて日常のすべてについて、これは本当なのかというスタンスが、生きるうえで必要不可欠であると反省した次第であります。
※現在の情報は一種のマインドコントロールです。
 少々事例を挙げさせていただくと、なぜ「明智日向守光秀」なのか?なぜ「羽柴筑前守秀吉」なのか?小学生のころから疑問に思っても、それを追及してこなかった、自身の時間の使い方に疑問を感じます。
 個人的に先生の書籍から最優先すべきと考えるものは、戦国武将の教訓を今の我々が生きるうえで修得すべきであるということです。例えば成功の見込みがないものについては、あえて行動をすべきではないということです。何を根拠に生きるのかも考えさせられる書籍です。
 考えてみればそういう生き方こそワクワクして面白いし、たとえずっこえけても家族の命を取られるわけではないのです。新たな発想でロジカルな検証を行い、且つ信長や光秀達の生きざまを追いかけた視線は、単に歴史の読み物としてではなく、生きる智慧として必ず役に立つということを推奨させていただきます。


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8 コメント

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呉座勇一の先生に対する言動について、国際日本文化センターに通告すべきです (天下一品)
2018-07-27 21:11:50
 呉座勇一がSNSで先生の誹謗中傷、罵倒を繰り返していますが、あれはあまりにひどすぎます。限度を超えています。所属する国際日本文化センターの所長あてに内容証明を送るべきです。
飲み会の戯言 (明智憲三郎)
2018-08-16 14:11:16
 SNSの投稿は見れないので何とも言えませんが、支持者の仲間内での飲み会の戯言と同じレベルですので、論評に値しません。反論を受ける心配がないと、気持ちよくお話になっているのでしょう。
Unknown (Unknown)
2018-10-13 22:40:00
明智先生は呉座先生のSNSに反論投稿はなされないのでしょうか?
Unknown (Unknown)
2018-11-01 08:53:25
信長は家康を討つため、6月2日に本能寺へ来るようにと命令を出したそうです。
しかし今井宗久の日記を読むとそのような命令が出ていたようには見えません。

『今井宗久茶湯日記書抜』5月29日条
「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」

5月29日、今井宗久は堺に到着した家康と面会します。
その日の日記には「…服などをいただいた。来月3日、自宅で茶を差し上げることを申し上げておいた」と書かれています。
家康の返答は書かれていませんが二人が6月3日の予定を話し合ったなら招集命令は出ていないことになります。
(信長の招集命令は細川忠興の移動日があるのでこの数日前には出ていたそうです)

「431年目の真実」のレビューでも複数の指摘をしました。
『家忠日記』には「家康御下候者、西国へ御陣可有」と家康の西国出陣準備が書かれていて毛利攻めに出陣する予定でした。
信長は敢えて本能寺を手薄にしたとしていますが、実際には信長はよく少人数で上洛しており『信長公記』や公家の日記に書かれています。特に天正3年は「小姓衆5、6人」で上洛しています。
信長から6月2日に京都へ来いと命じられたという家康と筒井順慶は記録では6月2日朝はまだ離れた場所にいたので間に合いません。そして6月3日は今井宗久が家康を茶会に誘ったと書いています。
これらの記録から信長が家康らを6月2日に招集したという説は成立せず、家康殺害計画はなかったと思われます。

また秀吉は光秀の決起を誘導したという主張ですが、実際には明智勢が長浜城を攻撃していて秀吉の妻ねねは城を脱出しています(手助けをした地侍 広瀬兵庫助へ宛てた秀吉の感謝状が発見されています)。秀吉が黒幕で全てを知っていたなら戦火となる近江に家族を残して置くことはありません。
sns? (明地憲三郎)
2018-11-09 10:55:26
 「学会論文ではなく商業出版はけしからん」とSNSに書いておられるとのこと。SNSに書いたことに反論するのは失礼だと思うので、やめておきます。
unknownさんへ (明智憲三郎)
2018-11-23 09:38:14
 呉座氏の奇説主張には具体的なことが何も書かれておらず、何が奇説なのかも明確ではありません。それに対して、具体的な史実を列挙しての反論は、蓋然性を向上させて議論を前に進めるうえで、大変すばらしいことと考えます。規定では投稿者名を書かないコメントは掲載しないことにしていますが、敢えて掲載させていただきました。
 本願寺門主の祐筆でる宇野主水の日記には、二日朝に家康一行が「信長が火急に上洛したとの知らせがあった」と言ってあたふたと出発したことが書かれています。家康は上洛する計画を秘密にしていたわけですので、当然、今井早久にもそのように対応したでしょう。
 家忠日記に書かれていることは「出陣準備をせよ」という命令が届いたということであり、その目的を「光秀支援」と家康が書けるわけもなく、「西國出陣」と書いたと考えられます。
 堺から京都までおよそ60km。1時間5kmの歩行で12時間。朝5時に出発すれば夕5時頃に着ける計算です。そのような距離の移動に途中宿泊するのは大仰なことなので避けたでしょう。関係者の日記類にも宿泊のことは一行も書かれていません。
 秀吉の家族が無事であったということは、何等か対策が事前にとられていたからではないでしょうか?
反論 (明智憲三郎)
2019-02-17 11:55:14
 呉座氏がなぜ、あのように論理性のない主張を本に書いたのかという疑問を感じて調べた結果、呉座氏の論法が歴史修正主義者(ヘイト・スピーカー)と共通するものであることが判明しました。彼らには説服しかなく、議論を通じて答えに至るという考え方もないので、反論はしないことにしました。
とうとう馬脚が (明智憲三郎)
2021-04-25 13:19:22
 どうやら調子に乗りすぎて馬脚を現したようです。要はネトウヨと同類の歴史修正主義者だったということのようです。手口はネトウヨそのものでしたね。
https://www.asahi.com/articles/ASP3R73MXP3RUCVL014.html?fbclid=IwAR0c3ENurwt21nmQth0KLLdivKMpav4-51IeeyNHXqYGRPYs5hi27VNgr8U

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