愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

体罰=暴力に頼らない指導のあり方の国民的議論の土台は憲法しかないことをマスコミは声を大に!

2013-01-28 | 日記

今日も体罰=暴力の記事を書かざるを得ないのは、残念です。愛国者の邪論を駆り立てるのは、未来の社会に生きる彼らの幸福を願うからに他なりません。同時に彼ら一人ひとりが、人権と民主主義の大切さを自覚し、これらの人類的課題を担ってほしいからです。

 一人の幸せは、皆の幸せにつながり、皆の幸せは一人の幸せにつながる、どちらも支えあっているのです。どちらか一方が強調されれば、どちらも失うからです。学校で使われている有名なスローガン、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を子どもの心に刻み込んでほしいと思うからです。

 ところが、この考え方を憲法的視点から、なかなか捉えようとしないことも、また事実なのです。何故でしょうか?日本は国家の最高法規を何故軽視するのでしょうか?今回の時間の根っこのところに憲法軽視があるように思います。

 以下の2つの社説を読むと、憲法的視点が学校に貫かれていないことが判ります。部活動とは「民主主義を学ぶ場」、何と素晴らしいフレーズでしょうか?「『児童生徒の自主性』を前提とする運動部活動」、これまた素晴らしいフレーズです。

 しかし、これらの原則が必ずしも具体化されない事情がたくさんあることを社説は指摘しています。何故でしょうか?憲法的視点を学校という職場、教室に、そして学校を取り巻く社会に徹底させてこなかった戦後自民党の教育政策、憲法改悪政策に根本があるように思いますが、如何でしょうか?

 先生たちの置かれている事情、先生たちを研修で磨いていく行政のあり方、先生たち自身の自主性を尊重しない行政などなどがあります。最近では少人数学級を放棄した安倍自公政権が象徴的です。先生たちをバッシングするだけで、解決しないことは明らかなのに、バッシングで溜飲を下げているのも事実です。

 こうした構造を改めない限り、仲間内で傷口に塩を塗りつけているようなことをしている限り、子どもの未来は、晴れやかなものになることは難しいと思うのですが、如何でしょうか?

 毎日新聞社説:視点・スポーツ指導 暴力は文明化への逆行=落合博 01月27日 02時30分

http://mainichi.jp/opinion/news/20130127k0000m070102000c.html

 知り合いの高校教諭が話していた。「体罰という言い方には違和感がある。彼はどんな罪を犯したのか」。これに答えられる人はいるだろうか。 大阪市立桜宮高でバスケットボール部の顧問教諭から日常的に暴力を振るわれていた男子生徒が自殺した。生徒は前日の練習試合でも顔を平手打ちされていた。通夜の席で顧問教諭は生徒の母親に「体罰」だったことを認めたという。

 ある団体競技の日本代表経験者によると、「見せしめ」によって恐怖を植え付けて子どもたちを追い込むような指導は一定の効果があるという。だが、それで本物の競技力が身につくはずはなく、自主性をはじめ失うものは限りなく大きいと指摘したうえで、「スポーツ指導者は選手を兵士に仕立て上げてはならない」と訴えている。 一生懸命にプレーしてもスポーツにミスはつきものだ。プロ野球の3割打者は3打席のうち2打席は凡退している。心身ともに成長過程にある高校生が失敗するのは当たり前と考えるべきで、試合や練習でのミスは決して「罪」ではない。

 運動部活動において顧問と生徒は絶対的な上下関係にある。自殺した生徒の父親が顧問教諭を暴行容疑で告訴したように桜宮高の「体罰」は「暴力」であり、「虐待」であることをおさえておかなければならない。 男性優位の文化として始まったスポーツは荒々しさを伴い、流血も珍しくはなかった。歴史社会学者のノルベルト・エリアスは18〜19世紀の英国でスポーツが発生する過程と議会制度の発生の過程が相関関係にあることを指摘している(「スポーツと文明化」)。武力を否定して議論によって物事を決める議会制度の発展とともに、野蛮な身体の闘争は非暴力化のルールを整えることで近代スポーツとして社会の中で位置を得た。 だが、自己抑制できなければ、スポーツは容易に暴力化する。一時の感情に駆られた指導者による子どもたちへの暴力が「文明化の過程」に逆行することは言うまでもない。 そのスポーツを好きな子どもたちが集まる部活動とはどんな場なのか。もっとうまくなること以上に重要なことがある。ルールに従い、対戦相手を尊重する。学ぶのは民主主義の基本であり、暴力ではない。 学校で教科として体育・スポーツを教えるのはフェアプレーをはじめ次世代に伝えていくべき価値を含んでいるからだ。勝敗、順位、記録など競争原理に支配されがちなスポーツのあり方を見直さなければならない。(論説委員)(引用ここまで)

 熊本日日新聞 運動部活動の体罰 「仕方ない」が問題生む土壌 2013年01月28日

http://kumanichi.com/syasetsu/kiji/20130128001.shtml

 大阪市の市立桜宮高バスケットボール部主将が顧問による体罰を受けた後に自殺した問題が、大きな波紋を広げている。自民党の「いじめ防止対策基本法案(仮称)」の骨子案は、「教諭による体罰もいじめ」と位置付けた。表面化しづらい体罰の実態へメスを入れる狙いがある。 文部科学省の調査によれば、体罰で処分を受けた全国の教職員数は過去10年間、400人前後で推移している。最も多いのは授業中だが、このうち4分の1以上は部活動に絡んだ事例。熊本県内ではこの10年間で24人が処分され、うち部活動での処分は6件。ただ、問題化しないケースもあると見るのが自然だろう。 問題の高校では、保護者を集めた説明会で顧問を擁護する意見も出たという。運動部を全国の強豪校に押し上げるような顧問教師は生徒の進路選択にも“顔”がきく。保護者の期待は大きく、部の強化のためには体罰も仕方ないとの空気が漂う。 熊本県内の何人かの公・私立校運動部顧問教師に聞いてみると、「大阪のケースはひどい」と受け止めている一方で、指導中に「つい手が出ることはある」「正直なところ、体罰があってもいいのではと思う」といった答えが返ってきた。ある30代の教師は「体罰を行うこともある」と認めた上で、「自分はプライベートの時間を削っても、家族との時間を犠牲にしても、部活動の指導で生徒たちと真剣に向き合っている」と、その自負を語る。しかしそれが、大阪の一件ですべて否定されるような複雑な思いも口にする。 一般に運動部活動の顧問はどうやって決まるのか。「まず保健体育以外の教師に希望を聞いてお願いし、最後に運営が大変な部は保健体育の教師が務めることが多い」との声が聞かれる。強豪校では土、日曜に遠征試合を組むことが多い。だが、練習試合は出張とはみなされず、経費を自前で賄う指導者もいる。負担は大きく、敬遠する教師も多い。 「児童生徒の自主性」を前提とする運動部活動ではあるが、現実には管理と指導に顧問教師の存在が不可欠。勤務時間外も“ボランティア”で携わる顧問の裁量は大きい。学習指導要領で「教育活動の一環」と位置付けられてはいるものの、あくまで「教育課程外」。その曖昧さが、運動部活動への関わりの難しさを生んでいる。 熊本県教委は「運動部活動指導の手引」で「担当顧問の意思のみで行われることなく、学校教育活動の一環として校長を中心とした責任体制のもと、学校の指導方針に沿って行う」と指導している。しかしこの趣旨が徹底されているとは言い難い。 「子どもに規律を守らせるためには多少の体罰は仕方ない」と考える教師はいまだに多い。そこにこの問題がなくならない根深さがある。しかし一方で、問題を生む土壌には、運動部活動の管理責任を顧問教師に任せっきりにする学校と、「勝利」を求める保護者という、二つの存在があることも忘れてはならない。 大阪の一件をスポーツ強豪校の行き過ぎた事例と済ますわけにはいかない。顧問教師だけでなく、学校も保護者も当事者として運動部活動の在り方を考える必要がある。(引用ここまで)

入試中止や予算停止に反対上回る 産経・FNN世論調査 2013.1.28 11:59 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130128/waf13012812020005-n1.htm

ここにみられる国民的意識の最大の特徴は、三つあると思います。

一つは、「体罰」容認の土壌です。

二つ目は、橋下市長の体質、本質を系統的に報道しないマスコミ、すなわち「体罰」容認と「命令」で「服従」させることで、物事を「決める」手法に対する無批判的土壌、「成果主義」温存体質です。

第三には、国民的不満・不安の鬱積を捻じ曲げて「解決」させるがごとくに「溜飲を下げさせる」手法、そのことによって巨悪を免罪する土壌です。

こうした手法の温存にもかかわらず、橋下市長の手法に対して批判的な世論が半数に達していることは、国民の中に憲法的感覚が根付いていることも事実と言えます。しかし、それでは憲法を生かしていくという点では不十分です。それは以下の発言に象徴的です。

橋下徹市長は同日午前、市役所で記者団に対し「賛否が拮抗しているのはうれしい」と述べた。

ここに戦後の到達点、安倍自公政権の存在できる局面があるのだと思います。こうした状況を国民的世論で凌駕していかなければ、憲法危うし!という状況も生まれるでしょう。

あの大正デモクラシー運動の後にファシズムが到来したことを教訓にしなければなりません。同じようなことが繰り返されるという意味ではありませんが、進歩と反動のジグザグをできるだけ排除して歴史を前にすすめていく、このことが、子らへの大人の責任であるように思うのです。



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