脳機能からみた認知症

エイジングライフ研究所が蓄積してきた、脳機能という物差しからアルツハイマー型認知症を理解し、予防する!

法話発表会―禅語は外国語?

2019年10月18日 | 左脳の働き・失語症
近所のお寺で、お若いお坊様方が集まって法話研修会が開かれ、その発表会に出席させていただく機会をいただきました。
法話の内容に関してもプレゼンテーションについても感想を求められましたので、そのつもりで出席しました。
さあスタートです。自己紹介をなさった後で法話が始まりました。
「シドウ?ム?ブ・・・?ユイケン?・・・シャク?」
アラアラとあたふたしてしまいましたが、すぐにそばのホワイトボードに用意された紙を貼ってくださいました。
「至道無難(シドウブナン) 唯嫌揀択 (ユイケンレンジャク)」これで一安心。

法話会なので、「お話を聞く」心づもりでスタンバイ。そこに飛び込んできたのが、言葉ではなく音だったのです。
言葉は意味が分からなければ、音なのです。まるで感覚性失語症の世界です。
感覚性失語症の体験ーアナと雪の女王から
ぜひ挿入してあるユーチューブを聞いてください。
「Let It Go」が流れてきます。流れてくる「音」のうちメロディは右脳で聞きますからちゃんと「Let It Go」と分かります。
歌詞は全然わかりません。この全然わからない他言語の歌詞を聞いているときが感覚性失語症の状態。もちろん松たか子さんが歌う日本語だけは、わかりますよね。日本語を聞いていても他言語のように聞こえ、理解できない状態が感覚性失語症です。

禅語でも知っているものだと、音を聞いただけで意味も字も浮かんできます。私は茶道を教えていただきましたから、なじんでいる禅語もあるのです。一期一会、和敬清寂、喫茶去、平常心是道、日日是好日、本来無一物、独座大雄峰、行雲流水、柳緑花紅、明歴々露堂々・・・うわー先生のお顔やお声が聞こえてくるようです。

話は戻りますが、言葉の音が聞こえて、意味につながってくれると、さらに「聞く」体制が深まってきます。
法話に集中できて、次にお話になることに対して興味津々という状態ができあがるからです。
ところで、「状況を理解して法話を聞く」という状況に自分をもっていくのは前頭葉ですが、この前頭葉機能は注意を集中させる働きも担っています。
残念なことに、この注意集中力は年齢とともにだんだん低下していくので、聴衆の年齢によって配慮が変わることになります。高齢者が多いとゆっくり話さないと理解ができません。若い人たちだと、ゆっくり過ぎるとむしろ理解しにくい・・・

もうひとつお話しておきましょう。
状況を理解するのは前頭葉の大切な働きですが、その時論理的にアプローチする左脳タイプと、感覚的で大雑把な右脳タイプがあるようなのです。もちろんどちらか一方しかないというのではなく、どちらが優勢かということです。状況によっても変わりますね。
結婚記念日ー左脳と右脳のせめぎあい
左脳タイプの人たちにとっては、論理が通ってさえいれば自然に理解への道筋が開けてくるのです。
右脳タイプの人たちにとっては、論理が通るかどうかよりも感覚的に納得できるかどうかの方が重要なファクターになるので、情緒的な訴えが不可欠です。その具体的方法は、声の強弱、表情や身振りを取り入れるということですが、法話にはおのずから限界があると思います。「伝えたい内容に対する真摯な思い」があれば、どうにかなるものではないでしょうか。

法話には禅語がつきものだと思います。
禅語は、私のような一般の人たちにとっては、左脳から入って、どこかでコペルニクス的転回があって胸にストンと落ちるもののような気がします。論理的に考えていきながら、「あ、そういうふうにも考えられるんだ」と気づかされるのです。
(これは茶道の先生から教えていただいた時の感想です)

私は「言葉の意味」を重視した考え方を書いてきたのですが、般若心経を絵解きしながら文字が読めない人達に教えた絵心経に触れないわけにはいかないでしょう。
絵心経で般若心経を唱えることはできますが、意味は分かりません。とここまで書いて、文字がわかる私でもほとんど同じように意味は分かっていないまま唱えていることに気づきました。
意味を超えて「唱えること」、そのものに意味があるということなのでしょうか。
ウーン。私たちが生きている、どうしても意味を追求する日常生活の尺度と、全く違う尺度があるということですね。
法話会に出席させていただいて、最後にはこんな感想を持ちました。
フロク。

(フェリシモマスキングテープセットより拝借しました)




台風19号

2019年10月17日 | 前頭葉の働き
9月の台風15号に続き、10月の台風19号。甚大な被害をもたらして去っていきました。次々に入ってくる被害状況には言葉もありません。
このブログを読んでくださっている皆さまのご無事を祈りながら筆をとっています。
19号は私の住んでいる伊豆半島直撃のコースでしたから、たくさんのご心配のメールやお電話をいただきました。
繰り返し報じられる「未曽有の規模・最大級のレベルのつもりで準備するように!」という言葉。915ヘクトパスカルという見ることのない低い数値。先の狩野川台風の惨状。
それらにあおられるように、台風対策をしなくてはと焦ります。知らないものに対して準備をしなくてはいけないというのは、本当に難しいもので、行動を決定するためには、いくら乏しくても自分の体験(前頭葉)こそがそのベースを作るものだと実感しました。
台風が過ぎたイガイガ根(これは去年の写真)

あふれるばかりの情報は左脳にダイレクトに入ってきます。新聞や雑誌。ネットや伝聞から得た情報。この「知識(知っている)」は、もちろんないことに比べると有効なのですが、かといって「知識」があると、どんな状況でも切り抜けられるものでもありません。状況をくぐり抜けるのは、自分の前頭葉だけが頼りです。
私は東日本大震災の時、岩手県にいました。避難所ではなく知人のお宅に泊めていただきました。自家発電機まであるというとんでもなく恵まれた環境でしたが、それでも電気と水がない生活は、生活上の不便と精神的な大変さがともに起きてくることを実感しました。
乏しい体験と前述しました。
これは訂正が必要でしょう。台風と地震という差はありましたが極限に近い生活を体験したことがあるのは、私の武器でもあります。このような体験があると、左脳ベースの「知識」に血肉がついてくるのです。前頭葉が吸収した、体験することによって身につけることができた「知恵(実行できる)」とでもいえばいいのでしょうか。とにかく「知識」が「使える」状態になります。

かといって、災害の現場に行き合わせることは、めったにないでしょうし、またできれば避けたいことでもありますね。
「知識」は大切です。それをどのように有効化させればいいのか…
たしかに、今回の大惨事につながってしまった種々の条件が解明、解説されて私たちの理解を深めてくれました。新聞報道にしろテレビ放送にしろ、この納得への道は、左脳の力なくしては無理なのです。
一方でさまざまな台風による惨状が、何度もテレビ放送されました。言葉だけよりも映像。それも写真よりも動画。その順に実体験に近づいてきます。
ライブ映像の持つ訴える力は、結果の惨状を伝えるものに比し圧倒的です。
この影響力というか教育力を考えるとき、自分のいるところの危険性の判断から始まって、何が見逃がしたらいけない兆しであり、どういうふうに変化していくか、どこが分岐点になるかなどなど、災害に対処し、安全につなげるときに必要な情報の視点で、ビジュアルを使って再報道されなくてはいけないのではないかと思います。

「今」だけ報道を過熱させる方向ではなく、落ち着いてから惨事がもたらした教訓を、まさに教育的配慮をもって報道していただきたいと思います。
今回たくさんの友人とやり取りをしましたが、こんな話を聞きましたのでまとめておきます。
堤防が決壊した町の保健師さんの話(避難所を担当したそうです)
「非常持ち出し品は一応用意もしてたけど、さて避難所に行くとなると何を持っていくけばいいのか、私でも悩んでしまった。避難所に行くのと非常持ち出しとは違うでしょ?
実際に避難所を担当してみるといろんなものがあるといいなあって思った。
例えば、食べるもの。配給があるといっても最低限なので、嗜好物を含めて。カセットコンロと鍋があるといろいろできるし。寒くなるので着るもの。毛布か寝袋。ティッシュや濡れティッシュ・・・」

思いがけないものが次々に出てきます。避難所に行ったことがないので、それこそテレビ報道が頼りです。公民館の一室もあるでしょうし体育館のようなところもありますね。避難するタイミングによっても差が出るでしょう。
状況はさまざまに違うでしょうが、今回このような「生」の情報を聞いたことは私にはとても参考になりました。

私の報告です。おかげさまで、風雨は確かに今までで一番だったかもしれませんが、特段の被害はありませんでした。
ご心配くださって、ほんとうにありがとうございました。






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