涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

118日目 説明⑩“賢愚経”

2022-04-20 14:20:03 | 宗教
 賢愚経については、112日目に“尼提(にでい)”の話で触れた。続いて、『浄土への道標』の中の“難陀の一灯”と“女召使い”のタイトルの記事も、以前と同じ日蓮正宗さんのブログで、賢愚経の現代語訳をみつけることが出来た。しかし他人さまのネット上の訳をそのまま引用するのも芸がないので調べたところ、『国訳一切経 本縁部 七』に賢愚経と百喩経の両方が所載されていることを発見。昭和5年発刊のものを、ネット「日本の古本屋」で1,000円で購入できた。“難陀の一灯”は“貧者、難陀の品”に、“女召使い”は“迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品”といタイトルになっている。

【難陀の一灯】
  “貧者、難陀の品”の話も長いので、これも下に要約する。(なお『阿闍世王授決経』にも同じような話あり)

・舎衛国での話。貧窮孤独で乞匈(がい)し自活する女人・難陀は、人々が仏を供養するのを見て、「自分は宿罪(前世の罪)のため貧しく、福田(福徳を生み出す田)に遭っても種子(福徳の種)がない」と悔いて、一日を終えてから一銭を持って油屋に行った。
・憐れに思った油屋は、倍々増しで油を与え、それを持って世尊に奉上した難陀は「来世は智慧の照らしを得て、一切衆生の垢闇(けがれた闇)を滅除せしめよ」と誓願した。
・夜が明けるようになった頃、他の灯は消えるも、難陀の一灯だけが燃えていた。
・白日ではもったいないと思った目連尊者が衣で煽っても、灯は消えず。
・これを見た仏は、「この灯は、四大海水でも嵐風でも消せない。広く済う(救う)大心をおこした人の施した物なるが故」と目連に語る。
・難陀が仏に來詣したとき、仏は「汝、来世二阿僧祇百劫の中当に仏となる。名を灯光という」と告げ、難陀は出家をした。これを見た阿難と目連は、難陀が貧窮である理由を聞いた。
・「昔、迦葉という仏あり。貧女の願いに先に応じたことで、仏に不平を言った長者の妻は、これ以降五百世中恒に渡って貧賤乞匈の家に生まれることになった。」と仏は言った。
・これを聞いた衆生は、祇洹(祇園精舎)を灯で満たしたが、阿難は再度、この灯供の果報の過去世での善根を尋ねた。
・釈迦は、二阿僧祇九十一劫むかしの自分の過去世を語った。波塞奇(はそくき)という名の大王の王子は出家して仏となったが、大王の娘・牟尼は、毎日城に入って長者などに油・灯心を求める比丘・聖友の姿を見る。仏・僧のために灯を布施するためとの理由を聞いて、牟尼が油・灯心を精舎に送ることとした。
・比丘・聖友は「来世阿僧祇劫に仏となる。名を定光という」と仏に言われ、王女・牟尼も聞きに行ったところ「二阿僧祇九十一劫に仏となり、釈迦牟尼と名づく」と言われ、よろこびのあまり男子に変身した。昔の灯明の因により今の報を受けると釈迦は説明した。

 さて、“難陀の一灯”は、昭和8年7月26日午後2時から語られている。量子の妹が嫁ぎ先に帰ろうとし、その前に御仏壇に燈を上げ拝礼していた。祖父も拝んで、「一燈か」と言った。それについて、今朝お話を仏より聞いたが忘れていたものを、思い出したとて「長者の万灯、貧者の一灯」と言って話が始まっている。この時も目は開いたままであった。
 内容は、上記の“貧者、難陀の品”と前半部分はほぼ同じと思うが、後半部分については、112日目の“尼提”の話と同様、前世からの因果についての話は語られていない。時間の関係というよりは、前半だけで話を終えているように見える。


【女召使い】
 賢愚経の“迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品”も短くはないので要約した。

・阿梨提(ありでい)国の話。横暴な長者に仕える年老いた婢がいた。瓶を持って川に行き、貧しさや死ぬに死ねないことを哀しみ、声をあげて泣いていた。
・居合わせた迦旃延が事情を聞き、「貧、実に売るべし」と三度勧め、川で老婆の身体を清めさせてから「汝、当に布施すべし」と伝えた。
・老婆に、迦旃延の持つ鉢に水を汲ませ、受けて呪願を為し、仏の種々の功徳を念ずるようい教えた。そして次のように伝えた。「汝、好く心を持ち共勤に走り使し嫌恨を生すること莫れ、自ら大家の一切臥しおわるを伺ひ密に其の戸を開き戸の曲内(かたはし)に於て浄草の座を敷き思惟し仏を観じ悪念を生すること莫れ」と。
・老婆、教えの通り実行して、夜半過ぎに命終り、忉利天に生まれた。しかし亡骸を見た主人は、寒林の中に遺体を捨ててしまった。
・舎利弗は、老婆が天に生まれたのは迦旃延に由るを知り、老婆と500人の天子を寒林に連れて行き、亡骸を供養して、布施・持戒・生天の論・欲不浄の法よりの出離を説いた。天子たちは法眼浄(智慧の目)を得た。

 “女召使い”は、昭和6年7月7日午後8時10分より20分の間で語られている。清書版の書き出しは、「本日稍不快にて(風気味)学校より帰宅 種々手当をなし夕食は何時より遅く8時10分終了と間もなく鶴田町2丁目(妻量子の実家)の下座敷にて横臥せられ量子一人座辺?になり」とある。
 「賢愚禄の中に・・・」で話が始まっている。内容は上記の話とよく似ているが、老婆→中年の女となっており、迦旃延から諭しを受けたあとの行動も大分違う。賢愚経では、長者の家に戻ってすぐに亡くなったようであるが、“女召使い”の話では「念仏の日を暮らした」となっている。どちらも“布施”を重視しているところは共通している。同じような話は、今昔物語にもあり、賢愚経から引用したのは確かなのであろうが、祖父の話では“念仏”を強調しているように見える。法話を重視し、それに役立つように賢愚経を引用したように見えるが、この辺りにも前に説明した“法華経”でみられた同様な傾向があるように思う。

 “女召使い”の話の最後の部分は、「韋提希夫人、釈尊に『清浄業の国(正しくは清浄業処)を教え給え』とお願いになった。其の時、世尊眉間の光を放ち給いしかば其の光、金色にして普ねく十方世界をお照らしになってあらゆる国土が眼前に表われ何れの国土も結構なるが、とりわけ西方阿弥陀仏の在す極楽浄土こそ」と終っている。「韋提希夫人・・・お願いになった」以下のところは、祖母の量子は聞き落としたと清書版には書かれており、その当時まだ同居していた父の窪田安治(私の曾祖父)に聞いている。その内容が続けて記載されているが、これは概ね観無量寿経に書かれているところ(『浄土真宗聖典』P90、岩波文庫『浄土三部経(下)』P47)と一致する。日本赤十字社に勤務し、浄土真宗檀家であったと思われる曾祖父は、この位の知識(韋提希夫人の清浄業の国の話を聞いて、観無量寿経を指摘するほどの知識)を有していたことを示している。


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