(1963/ラルフ・ネルソン監督・製作/シドニー・ポワチエ、リリア・スカラ、リサ・マン、アイサ・クリノ、スタンリー・アダムス/94分)
前記事ポートレイト問題の俳優さんがオスカーを獲った作品の監督が、この「野のユリ」も作ったラルフ・ネルソンであります。つまり「野のユリ」関連のデータを確認している過程でポートレイト問題を思いついたという次第。
ラルフ・ネルソン。1916年、ニューヨーク市生まれ。主に活躍した60~70年代はコメディから西部劇、シリアスドラマにサスペンスも作る中堅監督という印象で、特に演出家としての栄誉に浴することはなかったようですが、主演オスカー俳優を二人も出したのですから、それなりに優れた演出力を持っていたのでしょうな。
この映画にも印象的なショットがありました。
序盤、アメリカ南西部の田舎道を土煙を上げながら走っていた主人公ホーマー・スミス(ポアチエ)の車が、ラジエーターの水が少なくなって停車。折良く見つけた一軒の家に立ち寄ると、そこはヨーロッパから渡ってきた尼さん達が布教のために暮らしている修道院で、院長のマザーマリア(スカラ)はホーマーに井戸の水を与える。院長以外には4人のシスターが居て、乳牛や鶏を飼い、荒れた敷地を開墾して畑も作っているが、アメリカに来たばかりで言葉の習得もおぼつかなく、隣に建っていただろうレンガ造りの建物も今は土台だけを残して無残な姿を晒していた。
車から降りてきたホーマーを見たマザーマリアは彼こそは神が使わした者であると信じ、思わず彼の前で神への感謝の言葉を呟く。
『あなたにうってつけの仕事があります』
マザーマリアの呟きを小耳にはさんだホーマーは自分は唯の旅人だとやんわりと断り、ラジエーターに水を入れると、シスター達にも会釈を返しながら車に乗り込む。
もと来た道に戻ろうと車をバックさせるホーマー。フロントガラスの向こうには彼を見送ろうとシスター達が近づいて来る。見送るというよりは『行かないで』と懇願しているような風情。
このバックしている車の中のホーマーの主観カメラによるシスター達を撮す移動ショットが、この後修道院に残り、最終的には教会作りに主体的に関わっていく彼の心を動かしたであろう、大変印象的な映像でした。
一旦車を反転させて元の道路に帰ろうとしたホーマーは、シスター達の様子が気になったのか、再び車を修道院の横に着け、雇ってくれるなら一日だけ仕事を手伝いましょうとマザーに申し出る。
4人のシスターは殆ど英語が話せないがマザーだけは少し英語が分かるという設定で、ところが、このおとぼけマザーが“雇う”とは明言しないままホーマーに仕事をさせます。後で分かることですが、賃金を払おうにも修道院にはお金が無かったのでした。
ちょっぴりお人好しな黒人青年が、マザーの強引さに辟易しながらも、質素で過酷な生活に耐えている修道女の為に教会を無報酬で建てるというお話。寓話的なムードがしますが、キリスト教には疎いので良く分かりません。
ウィリアム・E・バレットの書いた小説が原作で、脚色はジェームズ・ポー(「ひとりぼっちの青春」(1969))。
序盤から黒人霊歌“♪Amen”のメロディーを使ったほんわかとしたムードがあり、ホーマーとマザーのやりとりにも掛け合い漫才のような可笑しさがある。リリア・スカラの気の強いおとぼけ演技も面白いし、若いポアチエの黒人版ジェームズ・スチュワートのような溌剌としたユーモラスな演技は主演オスカーが納得のはまり役でした。
ホーマーが無償で教会作りに至る過程は、マザーの強引さに負けただけではなく、建築技術で飯を食っている風来坊の意地のようなものも作用していたのでしょう。
村人の協力を拒むことも出来ず、独りで教会を建てるという夢は叶いませんでしたが、みんなに喜ばれる教会が建ちました。しかし、それでもホーマーは浮かない顔。
終盤の浮かない顔のホーマーの気持ちはなんだったんでしょう?
教会建設が彼の中でどれだけの思いを残したのかが良く分からないし、ラストの解釈も色々なので、個人的には素直に余韻に浸れないもどかしさがあります。爽やかな温かさは伝わりますがね。
「野のユリ(原題:Lilies of The Field)」は、聖書の中にある言葉の一つで、代金を払ってくれないマザーに対してホーマーが聖書の一節を用いて請求の正当性を訴えたのに対して、マザーが同じく聖書の中から「野のユリ」を含む一節を返したのでした。
マタイによる福音書第6章。28節と29節をマザーは示しましたが、ある聖書関連のサイトで25節から34節までを口語でまとめたものがありましたのでコチラを引用します。
<それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。撒くことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上良くしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。>
「野の花」と書かれている部分が、映画では「野のユリ」と語られています。
不心得者にはスーッと心の底に落ちていくようには理解できない言葉ですが、これを聞いたホーマーは持っていた請求書のメモを諦めたように破いて捨てます。
映画に出てくる神父やマザーは概して口先だけの現実的な力のない人が多く、この映画に出てくる神父もトレーラーハウスを使った移動ミサに嫌気がさしているアイルランド人の酒飲みだし、マザーのホーマーに対する態度も誉められたものではありません。宗教は肯定しているようですが、この映画も聖職者についてはご他聞に洩れず些か懐疑的ではあるようですね。
ホーマーが週に二日だけ働くことになる地元の建設会社、アシュトンの社長役で出演していたのが監督のラルフ・ネルソンだそうです。なかなかどうして、様になっておりましたな。
1963年アカデミー賞では作品賞、助演女優賞(スカラ)、脚色賞、白黒撮影賞(アーネスト・ホーラー)にノミネート。前述のとおり、シドニー・ポワチエは黒人として史上初の主演男優賞に輝いたほか、ベルリン国際映画祭、ゴールデン・グローブ賞でも男優賞を受賞したそうです。
音楽は大御所のジェリー・ゴールドスミスです。
映画の中からポアチエが「♪Amen」を唄う動画を持ってきました。ラストシーンなので、未見の方は“ネタバレ要注意”です。
【2020.10.05(月) 加筆】
終盤のホーマーの心情解釈についてオカピーさんからコメントを頂き、改めて十年ぶりに再鑑賞してみました。
何の違和感もなくコメント通りの受け止め方が出来、スッキリしました。考え過ぎてしまった理由も何となく分かり追加記事としますが、結末に繋がるので未見の方は“ネタバレ注意”です。
▼(ネタバレ注意)
終盤のホーマーの浮かない顔は、教会が完成して明日が初めてのミサが行われる前の晩のことでした。
単純に言えばホーマーは修道院を去る頃合いだと考えていたんでしょう。去りがたい気持ちもあるけれど、ホーマーはカソリックではないし、村の人々にお礼を言われるのも性に合わないとかそんな気持ちがあったに違いありません。そんなこんなのあの表情だったんだと理解しました。
実にいい話なんですが、僕が考え過ぎてしまった理由らしきものについても書いておきます。
教会が完成した日、マザーマリアは例の酒飲みのアイルランド人神父を連れてきます。新しい教会が建つなど夢のまた夢と思っていた神父は嬉しさに我を忘れてしまうようでしたが、感激している神父を写していたカメラがその後ホーマーの方に視点を移すとそこにはさっきまでいた彼の姿がありません。
この時のカメラワークには聖職者(神父)について懐疑的な姿勢と言うのが見て取れますね。このカメラワークがその後のホーマーの浮かない表情に影響しているんだろうと思い込んだんだろうと思います。つまり、ホーマーの宗教的な不満を表していたのかなと・・。
いやぁ、映画って実に面白いですなぁ。
▲(解除)
前記事ポートレイト問題の俳優さんがオスカーを獲った作品の監督が、この「野のユリ」も作ったラルフ・ネルソンであります。つまり「野のユリ」関連のデータを確認している過程でポートレイト問題を思いついたという次第。
ラルフ・ネルソン。1916年、ニューヨーク市生まれ。主に活躍した60~70年代はコメディから西部劇、シリアスドラマにサスペンスも作る中堅監督という印象で、特に演出家としての栄誉に浴することはなかったようですが、主演オスカー俳優を二人も出したのですから、それなりに優れた演出力を持っていたのでしょうな。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/f5/f3d0243ad4e83d084c908112fbaeef3a.jpg)
序盤、アメリカ南西部の田舎道を土煙を上げながら走っていた主人公ホーマー・スミス(ポアチエ)の車が、ラジエーターの水が少なくなって停車。折良く見つけた一軒の家に立ち寄ると、そこはヨーロッパから渡ってきた尼さん達が布教のために暮らしている修道院で、院長のマザーマリア(スカラ)はホーマーに井戸の水を与える。院長以外には4人のシスターが居て、乳牛や鶏を飼い、荒れた敷地を開墾して畑も作っているが、アメリカに来たばかりで言葉の習得もおぼつかなく、隣に建っていただろうレンガ造りの建物も今は土台だけを残して無残な姿を晒していた。
車から降りてきたホーマーを見たマザーマリアは彼こそは神が使わした者であると信じ、思わず彼の前で神への感謝の言葉を呟く。
『あなたにうってつけの仕事があります』
マザーマリアの呟きを小耳にはさんだホーマーは自分は唯の旅人だとやんわりと断り、ラジエーターに水を入れると、シスター達にも会釈を返しながら車に乗り込む。
もと来た道に戻ろうと車をバックさせるホーマー。フロントガラスの向こうには彼を見送ろうとシスター達が近づいて来る。見送るというよりは『行かないで』と懇願しているような風情。
このバックしている車の中のホーマーの主観カメラによるシスター達を撮す移動ショットが、この後修道院に残り、最終的には教会作りに主体的に関わっていく彼の心を動かしたであろう、大変印象的な映像でした。
一旦車を反転させて元の道路に帰ろうとしたホーマーは、シスター達の様子が気になったのか、再び車を修道院の横に着け、雇ってくれるなら一日だけ仕事を手伝いましょうとマザーに申し出る。
4人のシスターは殆ど英語が話せないがマザーだけは少し英語が分かるという設定で、ところが、このおとぼけマザーが“雇う”とは明言しないままホーマーに仕事をさせます。後で分かることですが、賃金を払おうにも修道院にはお金が無かったのでした。
ちょっぴりお人好しな黒人青年が、マザーの強引さに辟易しながらも、質素で過酷な生活に耐えている修道女の為に教会を無報酬で建てるというお話。寓話的なムードがしますが、キリスト教には疎いので良く分かりません。
ウィリアム・E・バレットの書いた小説が原作で、脚色はジェームズ・ポー(「ひとりぼっちの青春」(1969))。
序盤から黒人霊歌“♪Amen”のメロディーを使ったほんわかとしたムードがあり、ホーマーとマザーのやりとりにも掛け合い漫才のような可笑しさがある。リリア・スカラの気の強いおとぼけ演技も面白いし、若いポアチエの黒人版ジェームズ・スチュワートのような溌剌としたユーモラスな演技は主演オスカーが納得のはまり役でした。
ホーマーが無償で教会作りに至る過程は、マザーの強引さに負けただけではなく、建築技術で飯を食っている風来坊の意地のようなものも作用していたのでしょう。
村人の協力を拒むことも出来ず、独りで教会を建てるという夢は叶いませんでしたが、みんなに喜ばれる教会が建ちました。しかし、それでもホーマーは浮かない顔。
終盤の浮かない顔のホーマーの気持ちはなんだったんでしょう?
教会建設が彼の中でどれだけの思いを残したのかが良く分からないし、ラストの解釈も色々なので、個人的には素直に余韻に浸れないもどかしさがあります。爽やかな温かさは伝わりますがね。
「野のユリ(原題:Lilies of The Field)」は、聖書の中にある言葉の一つで、代金を払ってくれないマザーに対してホーマーが聖書の一節を用いて請求の正当性を訴えたのに対して、マザーが同じく聖書の中から「野のユリ」を含む一節を返したのでした。
マタイによる福音書第6章。28節と29節をマザーは示しましたが、ある聖書関連のサイトで25節から34節までを口語でまとめたものがありましたのでコチラを引用します。
<それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。撒くことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上良くしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。>
「野の花」と書かれている部分が、映画では「野のユリ」と語られています。
不心得者にはスーッと心の底に落ちていくようには理解できない言葉ですが、これを聞いたホーマーは持っていた請求書のメモを諦めたように破いて捨てます。
映画に出てくる神父やマザーは概して口先だけの現実的な力のない人が多く、この映画に出てくる神父もトレーラーハウスを使った移動ミサに嫌気がさしているアイルランド人の酒飲みだし、マザーのホーマーに対する態度も誉められたものではありません。宗教は肯定しているようですが、この映画も聖職者についてはご他聞に洩れず些か懐疑的ではあるようですね。
ホーマーが週に二日だけ働くことになる地元の建設会社、アシュトンの社長役で出演していたのが監督のラルフ・ネルソンだそうです。なかなかどうして、様になっておりましたな。
1963年アカデミー賞では作品賞、助演女優賞(スカラ)、脚色賞、白黒撮影賞(アーネスト・ホーラー)にノミネート。前述のとおり、シドニー・ポワチエは黒人として史上初の主演男優賞に輝いたほか、ベルリン国際映画祭、ゴールデン・グローブ賞でも男優賞を受賞したそうです。
音楽は大御所のジェリー・ゴールドスミスです。
映画の中からポアチエが「♪Amen」を唄う動画を持ってきました。ラストシーンなので、未見の方は“ネタバレ要注意”です。
【2020.10.05(月) 加筆】
終盤のホーマーの心情解釈についてオカピーさんからコメントを頂き、改めて十年ぶりに再鑑賞してみました。
何の違和感もなくコメント通りの受け止め方が出来、スッキリしました。考え過ぎてしまった理由も何となく分かり追加記事としますが、結末に繋がるので未見の方は“ネタバレ注意”です。
▼(ネタバレ注意)
終盤のホーマーの浮かない顔は、教会が完成して明日が初めてのミサが行われる前の晩のことでした。
単純に言えばホーマーは修道院を去る頃合いだと考えていたんでしょう。去りがたい気持ちもあるけれど、ホーマーはカソリックではないし、村の人々にお礼を言われるのも性に合わないとかそんな気持ちがあったに違いありません。そんなこんなのあの表情だったんだと理解しました。
実にいい話なんですが、僕が考え過ぎてしまった理由らしきものについても書いておきます。
教会が完成した日、マザーマリアは例の酒飲みのアイルランド人神父を連れてきます。新しい教会が建つなど夢のまた夢と思っていた神父は嬉しさに我を忘れてしまうようでしたが、感激している神父を写していたカメラがその後ホーマーの方に視点を移すとそこにはさっきまでいた彼の姿がありません。
この時のカメラワークには聖職者(神父)について懐疑的な姿勢と言うのが見て取れますね。このカメラワークがその後のホーマーの浮かない表情に影響しているんだろうと思い込んだんだろうと思います。つまり、ホーマーの宗教的な不満を表していたのかなと・・。
いやぁ、映画って実に面白いですなぁ。
▲(解除)
・お薦め度【★★★=一見の価値あり】 ![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
![テアトル十瑠](http://8seasons.life.coocan.jp/img/TJ-1.jpg)
終盤の意味深な表情も、やはり気になります。宗教に疎いとわからない感情なのかな・・・。
おとぼけマザーをみていたら、「天使にラブソングを…」を思い出しました。
この作品から着想を得たんですかね~?
♪Amenはやっぱし流れるんですかね?
YouTubeを探すと、教会で合唱しているモノとか色々とありました。
>終盤の意味深な表情
建物が完成して放心状態というのでもないみたいだし、もう少しヒントが欲しい気がしましたね。
>終盤の浮かない顔のホーマーの気持ちはなんだったんでしょう?
結構謎ですよねえ。
宗教絡みではないと思いますが、よく解りません。
もしかしたら寅さん的な心境かな?
ここに定着したいけれど、仕事が終えた以上はまたデラシネに戻らねばならない、というディレンマなのかなあ。
マザーが最後の仕上げについて色々と訊くのが、もう彼のやることはないということを最終確認する作劇上の効果があったように思います。すると、旅立ちへの思いと定着への憧れという彼のディレンマを導く文脈と解釈できないこともありません。全くの推測ですが。
半世紀近く前に“日曜洋画劇場”でこの作品を解説したらしい淀川先生ならどう分析するでしょうかねえ。
仰る通り、別れの寂しさをおぼえていた、というのが正解でしょうね。
十年ぶりでも一見の価値ある温かい映画でした。
エイメン