テアトル十瑠

1920年代のサイレント映画から21世紀の最新映像まで、僕の映画備忘録。

■ YouTube Selection (予告編)



you've got to ask one question:"do I feel lucky ? " Well, do ya, punk ?

2015-11-09 | 十瑠の見方
 youtubeを観てたら、「ダーティハリー」の序盤の名シーンが。
 ン?名シーン?って思われるかもしれないけれど、こんなホンの序盤の、ハリーの簡単な紹介シーンだからこそ、名監督の手腕の高さが如実に表れるんですな。

 本筋の犯人スコルピオンがビルの屋上のプールで泳いでいる美女を殺害するプロローグで事件の紹介をした後、今度は主役のハリーを紹介するシーンであります。

 軽食屋でホットドッグを頬張っていると、近くの銀行から警報が。ハリーは警報の音を聞いた途端に「シット」と舌打ちをしますから、あれが銀行強盗を知らせるベルであると分かってるんですね。で、マグナム44を取り出しながら、警報が鳴っている建物に近づく。口にはさっきのホットドッグが入っているので、まだもぐもぐしている。
 すると件の建物からライフルらしき銃を持った黒人が後ろ向きに出てくる。
 「ホールド!」
 要するに手を挙げろって、ハリーはその黒人に言ってます。この時もホットドッグが入っているのでパン屑がちょっとこぼれる。このなんとも緊張感のないというか、豪胆というか。この感じは後の日本のTVの刑事ものなんかに影響を与えたように思いますね。
 強盗は複数犯で、車で逃げようとする奴らもハリーがバーンってやっつけます。車は路肩の給水栓にぶつかって横転し、そこから激しい水柱が吹き上がる。
 普通の昼日中なので、あちこちで悲鳴は聞こえるは、道端に座り込む人がいるわ、上の方からはビルを塗装中の作業員が見ているわ・・・。

 複数のカメラを使って同時撮影したのでしょうが、それが見事に編集で一つのシーンとして出来上がっている。それもただ単につなぎ合わせたというんじゃなくて、ショットの間が物事の流れの緩急を表現していて、実に素晴らしいですよね。

 そして、最後は最初に倒した黒人のもとに近づくハリー。お口はいまだにモグモグしてて、片手にはマグナム44。
 男は肩に銃弾を受けて仰向けに倒れているが、手を伸ばせばすぐに届くところに銃が転がっている。

 と、このシーンは「ダーティハリー」を観た事のある人なら誰もが知っているのでこの後は動画でどうぞ。
 そしてこれもご存じでしょうが、この時のハリーのキメ台詞がラストシーンのスコルピオンとの対決で繰り返されるんですよね。

 クリント本人の声で聴きたかったけど、これは故山田康雄氏の吹き替え版でした。
 犯人役の黒人、顔はドン・チードルに似てますけど、1971年にチードルさんは小学生ですからちゃいますね。



(Dirty Harry Do You ( I ) Feel Lucky Punk? ( high quality ))


<I know what you're thinking. Did he fire six or only five ? Well, to tell you the truth, in all this excitement I've kind of lost track myself. But being this is a 44 magnum, the most poweful handgun in the world, and would blow your head clean off... you've got to ask one question:"do I feel lucky ? " Well, do ya, punk ? >

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フラッシュ・バック(映画技法用語)

2014-02-21 | 十瑠の見方
 心理現象として過去のショッキングな経験などが映像を伴って思い出されることをフラッシュバックと言いますが、映画用語にもあるんですよね、フラッシュ・バック。

 ウィキペディアの「映画用語」では、クロス・カッティングの一技法としてこう説明されていました。

<フラッシュバック(Flashback)は、クロスカッティングとカットバックのバリエーションの一つで、非常に短い間隔で異なる場面のシーンを切り返すことである。フラッシュバックを多用(重用)し、独自のスタイルを築き上げた作家としてサム・ペキンパーなどが有名である>

 また、「映画≠日誌」さんの映画用語集では・・・

<映画の物語において、「現在」のシーンにインサートされる「過去」のシーンあるはシークエンス(時には映画全体)。フラッシュ・バックは映画の過去形である。サイレント期のフランスでは、素早い画面転換の連続を指して用いられ、日本にもフランス経由で入り、リズミカルなモンタージュを指してフラッシュ・バックと呼んだ時代もあった>とのこと。

 更に、「K'z Home Page」さんの映画用語事典では・・・

<あるシーンに回想場面や違う場所のシーンを唐突に挿入して、映画のリズムを変える編集技法。「フォレスト・ガンプ」では効果的に使われた>などと書かれていました。

 ウィキと「K'z Home Page」さんはほぼ同じ説明ですね。イメージとしては短いショットの挿入或るいは連続ということ。ところが「映画≠日誌」さんの説明では短いショットの編集としてのフラッシュ・バックは過去の技法であり、寧ろその内容は心理現象用語と似ていて要するに過去のシーンを挿入することを指しているようです。
 前者の説明のように短いショットの挿入、切り返しは今でも使われているし、決して“過去の技法”ではないと思うんですがねぇ。

 フラッシュ・バック=カメラのフラッシュのようにパッ、パッと挿入される短いショット、単純に言えばそういうことでしょうか。僕の考えではフラッシュ&バックと言う方が当たっているような気がします。つまり、シーンの中にフラッシュのように短いショットを入れては元の画面に戻す技法ですね。

 フラッシュ・バックの例としてまず思い出すのは、アメリカン・ニューシネマの代表作の一つ「イージー・ライダー」。
 この映画ではフラッシュ・バックがシーンの繋がりに使われているというのも特徴的でした。あるシーンの終了間際に突然次のシーンの最初の方が2度ほどフラッシュされて、その後にシーンが切り替わるんです。こんな使い方は後にも先にもこの映画しか知りませんね。何か嫌な事、怖い事がこの先に起こりそうな予感を覚えさせる使い方でした。

 アメリカン・ニューシネマでいえば、「真夜中のカーボーイ」にもフラッシュ・バックが使われていました。
 短いショットのフラッシュ・バックについては“「真夜中のカーボーイ」におけるカットバックの妙”というタイトルで書いていますのでソチラをお読み下さい。この作品は中古DVDを(なんと!)1コインで買っていますので、何度目かになりますが、再見が楽しみなんです。
 尚、この映画では過去の思い出が蘇えるという意味のフラッシュバックも使われていましたネ。

 アメリカン・ニューシネマの萌芽を予感させる傑作といわれているシドニー・ルメットの「質屋」にも印象的なフラッシュ・バックが使われているようです。
 第二次世界大戦でナチスの収容所から辛くも生還した元大学教授の質屋の話で、未見なので、ブログ友達のオカピーさんの作品評で想像するだけなんですが、映画的でさぞかし面白かろうと思わせる使い方です。
 曰く、<この作品で最も強烈な印象を残すのはフラッシュバックの使い方である。捕えられた時の情景や家畜車で収容所へ送られる苦い思い出が事あるごとに主人公の脳裏を過る。主人公にとってのフラッシュバックは、我々観客にとっては彼の過去を語る説明になる。最初はサブリミナル的なフラッシュバックが現在とクロスカッティングする度に徐々に長くなっていく箇所の感覚は今でも斬新である>

 1964年のフランス映画「幸福(しあわせ)」にもフラッシュ・バックがありました。
 不倫夫が不倫相手のアパートに初めて訪れるシーンで、女の部屋の様子を見ている男の主観ショットをフラッシュバックで挿入して、二人の緊張感が観客にも伝わってくる巧い使い方でした。
 後、妻の死亡を知った時の夫の脳裏に浮かんだであろう池で溺れている妻のショットもフラッシュで挿入されて、観客にはショッキングな印象を残しましたね。


 お茶の間のTVドラマなどでは使いにくいフラッシュ・バックですが、映画では結構使われている技法だと思います。使い方で印象も違いますし、今後も新しいフラッシュ・バックが出てくるやも知れません。新しいフラッシュ・バック見つけたら、また記事にしたいと思います。
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僕が映画を2回以上観るわけ

2012-11-27 | 十瑠の見方
 映画は2回観ることにしている。DVDレンタルがあっている今の時代だけではない。40年前の十代の頃から自然とそうしていたのだ。
 映画は2本同時上映が常識の昔から、2本目を観た後には、レコードでいえばA面に当たる作品は、どうしても最初の方がおさらいしたくなって、結局最後まで観てしまうことが多かった。「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」、「ウエストサイド物語」、「屋根の上のバイオリン弾き」などの長尺モノは単独上映で、これらを観る時は正に至福の一日、朝から夕方までスクリーンを見つめ続けたわけである。

 子供の頃は映画雑誌である程度事前情報を得てから観る事が多かったが、最近は出演者や監督の情報は知っていても内容は知らずに観る事が多い。その場合、大抵は一度目よりも2度目の方が印象がよくなることが多い。作品への純粋な理解度が増すのでそういう結果になるんだと思う。
 事前情報を何も持っていない場合(又は少し持っていても)観客としては一度目の鑑賞にはストーリーの流れに対する予測や期待が生まれ、それが外れた場合の残念な思いとか、そんなアレコレが作品の印象にも影響を与えてしまう。そういうのって、作品を正確に評価するのに不必要な部分だと思うんだな。
 そういう初めて見た時の印象というのも、それぞれの作品に1回しかないものだから貴重なモノだとは思うが、やはり作品の真の評価というか、正確な把握というのは2回目以降の方が当たっていると思う。

 映画としての体を成していないような呆れた作品は2度目を観ることはないが、作り手の意図が表出しているような作品はこれからも2回以上観るだろう。
 子供の頃には映画雑誌を観ながら、映画についてアレコレ書くのが面白そうに思ったもんだが、こうして2回以上観なければ書けないならば、とてもじゃないが新作を見て次々と批評を書くなんて事は僕には出来なかったな。


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面白シーン from 「卒業 (1967)」

2012-10-25 | 十瑠の見方
 Youtubeには色々な映画の面白シーンを切り取ったものがありまして、前回記事の「旅情」についてもいくつかあったので2つ程映像テクニックを吟味しながら見直してみたわけです。「旅情」以外にも沢山ありそうなので、今後もYoutube動画で面白いシーンを見つけたら、再鑑賞しながら面白テクニック等も解説してみたいと思っております。
 ということで、早速、これも色々と関連動画がアップされている、1967年製作のアメリカン・ニューシネマの秀作「卒業」から拾ってみましょうか。

*

 東部の大学を優秀な成績で卒業しながら、将来計画も展望も浮かばないという不安を抱えている主人公ベンジャミン・ブラドックは、両親が祝ってくれたパーティーの夜に、父親のビジネスパートナーであるロビンソン氏の奥方に誘惑されるという椿事に出くわす。最初は相手にしなかったものの、いつまでも甘やかしてくれる両親にも些かうんざりしてきたし、好奇心も手伝って刺激的な人妻との性の冒険に飛び込んでみようと思うのだが・・・という序盤の、いよいよベンジャミンとミセス・ロビンソンの密会が始まるシーンでありますな。

 シーンの冒頭は、ベンジャミンがスキューバ・ダイビングの格好をして自宅のプールの底に佇んでいる映像。しかし、流れている音声はベンジャミンがホテルの公衆電話からミセス・ロビンソンに連絡をとっているものでした。
 最近はあまり見かけないですが、ニューシネマの頃にはこういう映像と音声のタイムラグをシーンの切り替えに使うことが多かったんですよね。普通はほんの一瞬の音とかが多いんですが、このシーンは結構長めに前後のシーンがラップしています。つまり、前のシーンのプールに潜っている時に人妻との情事を決行してみようと思いついたという表現にもなっているんですね。

 ベンジャミンは、『もしよろしかったら1杯飲みませんか・・・』なんて言っているのですが、向こうのミセス・ロビンソンは『今何処?わかった。1時間で行くわ』と、まことに素早い決断をしてサッと電話も切ってしまいます。この辺の演出も二人の心情や関係が憎いほど伝わってきますね。
 「卒業」は、大学を卒業した若者と周囲の大人とのギクシャクした関係を、辛辣なユーモアを交えて描いたコメディなので、特に前半はクスクスと笑ってしまうシーンが多いのですが、特に今回のシーンは若者の初心者感があちこちに現れて可笑しさが満載なのです。

 1時間待たされることになったベンジャミンは、ホテルの中に入っていく。ドアを開けたとたんにゾロゾロとお年寄り達がやって来て、まるでドアボーイのような役割を担わされるというのも彼のお人よし加減が滲み出るシーンです。
 その後ベンジャミンは受付カウンターに近づいていくのですが、この後のシーンで少し気になるモンタージュがあるので書いておきます。
 カメラは歩いているベンジャミンの主観ショットに変わって、カウンターの中のホテルマンをフォーカスしながらハンディ・カメラで移動していき、ホテルマンは近づいてきた主観カメラに向かって『何か御用でしょうか?』と問いかけます。直前まで観客はベンジャミンの主観だと思って映画を観ているので、次のショットは当然カメラに向かってしゃべりかけたホテルマンの主観ショットに変わると思うのですが、今度はベンジャミンを(ホテルマンの視点ではない)客観ショットで捉えているんですね。よく見直すと、ベンジャミンの主観カメラだと思っていた移動ショットが途中で主観から客観にすりかわっていると見るしかないのですが、この辺りでカットが一つ抜けている感じがします。

 ブースの中で立ち働いているのは、この映画の脚本を書いたバック・ヘンリー。このホテルマンとベンジャミンとのやり取りは、この後も何回かあって、どれも抱腹絶倒とまではいかなくともかなり笑えるシーンであります。

 動画が始まって4分後くらいにミセス・ロビンソンが登場します。ベンジャミンはホテルの中のバーで一人酒を飲んでいる。ここも相当笑えるシーンです。
 落ち着かないベンジャミンは彼女の飲み物さえも言われて注文するくらいで、その注文もかっこよくとはいかず、結局ミセスロビンソンが堂々とウェイターにマティーニを注文する。
 『緊張しないで』
 『こんな場面で緊張しないなんて無理です』
 『部屋は取ったの?』
 『いえ。今すぐがイイですか?』
 『私が取る?』

 『いや、私が取りますよ』と椅子から立ち上がる時にテーブルの角に膝をぶつけてしまうのも笑えるし、その後のバック・ヘンリーとのやり取りも頗るオカシイ。

 なんとか、偽名を使ってシングルルームを確保する。
 と、次のショットはバーの中のミセス・ロビンソンに電話がかかって来て、ウェイターが受話器をテーブルまで持ってくるシーン。ロビンソン夫人が出ると、なんと電話の主はベンジャミン。受付カウンターの男が疑っているので、電話でお知らせしたというわけ。
 このシーンでも緊張のあまり情事の相手に大事な伝言を忘れて受話器を切ろうとするという若者の描写が、情けなくも可笑しいものとなっています。






 この後のホテルの一室でのシーンも別の動画でアップされていて、こちらも面白いシーンでした。
 尚、この時点のベンジャミンは童貞という設定だと解釈されているようですが、少なくとも原作ではこのシーンの前に放浪の旅に出た彼が父親に対してコールガールとも遊んだと告白するので女性は初めてではなかったと考えるのが妥当です。


 肝心のyoutubeが削除されたようなので、別途探してみましたところ、幾つか細切れですが当該シーンの動画が見つかりました。コピペします。(2016.07.12)






 
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ズーム&ドリー(映画技法用語)

2012-10-19 | 十瑠の見方
 ズームについては、以前デビッド・リーンの「旅情(1955)」の1シーンの動画を参考に書きましたが、今回も同じ「旅情」から別の動画のズーム及びドリーショットのシーンを観ながら書いてみました。

 今回のシーンは、前回のシーンの数日後くらいの設定だったと思います。前回での初対面の後、骨董屋さんで再会して少し言葉を交わした後ではなかったでしょうか。

 イタリア、ベニス。ハンサムな骨董屋の主人レナート(ロッサノ・ブラッツィ)と逢ったアメリカのオールドミス、ジェーン(キャサリン・ヘプバーン)が、もう一度その男に逢いたくなってサンマルコ広場のカフェにやって来る。初めて会った時はあわてて帰ってしまったけれど、今度は気軽に話が出来るかもしれないから。
 もしや彼がいないかしらとソワソワと周りを気にしながら、先日と似たような場所のテーブルに座り、コーヒーを注文する。大勢の観光客で賑やかしい広場では、人々が談笑しながら行き来していたが、彼の姿はなかった。

 そんなに上手く再会出来るわけはないわよねぇと、ジェーンのドキドキしていた心臓が落ち着いた頃、カメラはスーッと手前に引いていき、広場の向こう端まで写るようになる。と、そこへレナートがおもむろに登場するわけです。但し、ここはワンカットで撮られているのでこの時点でのレナートはロングの画面の端っこに小さく写っているだけ。ですから観る方もこれからの展開が気になって集中できるんですね。



(Katharine Hepburn (Summertime, 1955): a lost opportunity... )


 レナートがジェーンに気付かぬまま近づいてきたところで、一度カットが変わります。その時、何気なくジェーンは後ろを振り向いていて、正面に向き直ったところで、チラと眼の片隅を横切ったのが彼ではないかと二度見するわけです。で、二人はお互いを確認して、挨拶を交わします。
 ジェーンとしては待ってましたとばかりの気持ちなんですが、実は、コーヒーが来た頃にテーブルに付いていたもう一つの椅子の端をテーブルに立てかけていたんですね。これは、先客がいますよ、空席ではないですよという意味なんでしょうか、その椅子を見たレナートは、失礼、とばかりに立ち去ってしまうんです。

 あわてたジェーンの、悲しそうな顔をカメラは捉えながらスーッと手前に引いていきます。このカメラは去っていくレナートの背中なんでしょうか。
 ズームアップは観客の集中力を高める効果がありますが、ズームアウト(及びドリーアウト)は、緊張感を緩めるだけではない様々な効果をもたらす気がしますね。

 
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ヴァーティゴ【映画用語】

2011-10-17 | 十瑠の見方

 「ジョーズ」再見記事で、なんと呼ぶのか知らない印象的なショットについて書きましたが(↓)、このたび「ヴァーティゴ(Vertigo)」というのだと知りました。

<何十年経っても忘れない、とても印象的なショットもありました。
 ブロディ署長や海洋学者フーパーの言うことを聞かない市長が無理矢理に海開きをして、最初の犠牲者が出るシーンです。

 事故が気になるブロディは非番にも関わらず砂浜で監視をしている。妻も二人の息子を連れて浜辺に来ている。大勢の海水浴客が泳いでいて、先ずは海に投げ込まれた木切れを取りに行った黒い犬が姿を消す。そして、一人で板状の浮き輪に乗っていた少年が突然襲われる。

 この少年が襲われるのを目撃したブロディの青ざめていく顔を捉えたショットが強烈でしたね。
 カメラはブロディをバスト・ショットで正面から捉えていて、事故が起こった瞬間に何故か背景だけがグ~ンと遠ざかっていく。するとカメラがブロディに寄っているわけではないのに、ズームアップしているような効果がある。観てると、ブロディの血の気が引いていってる感じがあるんですよね。(撮影:ビル・バトラー)
 このショット、珍しい手法だと思うんですが、どこか専門的な説明をしているサイトはないですかねぇ>

*

 アマゾンで買った「映画技法完全レファレンス」という本に載っていました。

 「ドリー・ズーム」とも呼ばれるらしく、ズームアウトしながらカメラを前方に移動したり、ズームインしながらカメラを後退させる手法で、いずれも画面の中央にあるフォーカスされたもの或いは人物のサイズは変わらないんです。
 目眩、混乱、恍惚、退屈、驚きなどの効果を狙って使われるとの事でした。

 因みに、【Vertigo】は、ヒッチコックの「めまい」の原題で、その他ジム・キャリー主演の「マスク」やデ・ニーロの「グッド・フェローズ」なんかにも使われているそうです。
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「真夜中のカーボーイ」におけるカットバックの妙

2011-07-09 | 十瑠の見方
 [2011年02月24日(木) Twitter on 十瑠 から]

真夜中のカーボーイ」、後半を観る。終盤でラッツォが弱り切り、ジョーは相棒の願いを叶うべくフロリダに向かう。フロリダへのバス賃の為にホモの老人から金を盗むが、そのシーンとNYの汚いアパートから出てくるジョー達のシーンがカットバックで編集されている。一種の時間軸の操作。編集の妙。

*

 約5ヶ月前、今年の2月に呟いたものですけど、ブログにも書いたつもりだったのに忘れていたので。

 このシーン、マゾっ気のあるゲイの老人を殴ってバス賃をなんとか工面しようとしているジョーと、(その後)肺病のために歩くのもやっとのラッツォを抱えて汚いアパートを出て行くジョーの、二つの時間軸を交互に短いスパンで切り返して編集したことにより、慌てているジョーの心情が表現出来ていたので強く印象に残っています。
 カットバックがサスペンスだけのものでないことが良く分かりますね。

 該当シーンの動画は無かったので、トレーラーを(↓)。




 
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吹き替えの効果、ふこうか(つぶやきみたいなモノ)

2011-06-24 | 十瑠の見方
 映画は映像芸術なので、トーキーといえどもサイレントで観ると、また独自の印象が生まれるかも知れない。なんてことを思いながら実行したことは希なんだけど、「グラン・トリノ」のレンタルDVDはまだ返さなくても良いので、何年ぶりか分からないけどやってみました。
 ま、予想通りですが、この映画はじっくりと語られた作品なので、特に変化は無し。きちんと作られていることが改めて分かった、そんな印象です。
 なので、“消音”鑑賞は早々に取り止めて、“音出し”したら自動で吹き替え版になっていて、イーストウッドの声が本人よりもう少しあたたかい柔らかな印象の声になっていたので、ついそのまま観てしまいました。

 取っ付きやすい声なので観ている内に主人公ウォルト・コワルスキーの印象も変わってきて、オリジナルを観た時とは違い、なんだか可哀想なオヤジさんに見えてきました。仕事人間で子供は奥さんに任せっぱなし、夜も仲間とバーで時間を潰してばかりで、気が付いたら子供たちも思春期を過ぎ、互いを認め合う精神的繋がりも築けないままに40年以上も過ぎてしまった、そんなオヤジです。哀れと言ったら言い過ぎですが、前半はそんな気分にもなりましたね。なんとなく僕の大正生まれの頑固オヤジを思い出すような、ネ。
 オリジナルではポーカーフェイス気味に見えていたイーストウッドの表情も、頑固爺らしさが良く出てるそんな印象に変わってくるから不思議なもんです。但し、そうなると、今度は家族との繋がりが再生する、或いは再生の可能性を感じさせる、そんな展開への期待が生まれてくるので困ったもんです。
 ご存じのように、後半は暴力との対決へと軸は移っていって、吹き替え版の印象は、頑固爺さんは自身の寿命を意識し、自己犠牲により隣人の救済と心の傷の癒しの両方を得ようとする。「ミリオンダラー・ベイビー」もそうだったけど、本当の家族よりも他人と家族らしい繋がりを作る人が主人公なんですね。別の脚本家が書けば、後半は全然別のストーリーにも出来ると思うけど。

 吹き替え版だと中盤くらいまでは★四つくらいにしたくなるけど、上に書いたとおり、筋は家族の再生ではなくて暴力の落とし前(過去の自身の暴力も含めて)の付け方、不器用な男の死に様がテーマだから、お薦め度は悩ましいけどあがらない。

 吹き替えの声優さんを調べたら、NHKテレビの「事件記者」が懐かしい滝田裕介さんでした。イーストウッドと同じ1930年の半年遅れの11月が誕生月。全く同じ年代だもの、気合いが入ったでしょうねぇ。
 ということで、滝田さんの若い頃の映像を(↓)。最初の方に少しだけですけど、その他にも懐かしい人、懐かしい番組が出てくるので、オジさんオバさんはどうぞ~。





 さて、吹き替えの影響を認識したところで、今レンタルしている「スラムドッグ$ミリオネア」についても観てみました。ドキュメンタリータッチのコチラでは、吹き替えが客観性を薄めてしまい、軽い印象に変えていたのですぐに止めました。やはり、オリジナルを観るべきですね。


テアトル十瑠
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マクガフィン(映画用語)

2011-06-17 | 十瑠の見方
(↓Twitter on 十瑠 から

「シャレード」の25万ドルの行方がマクガフィンだというコメントのやりとりをしたけれど、最初は“マクガフィン擬き”と書いたんだよね。というのも、マクガフィンって、結構解釈が難しいんだ。定義はウィキペディアのを持ってくる人が多いけど、実例を挙げるとなると、これが巾が広いんだよね。
 [Jun 15th webで:以下同]

<登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる仕掛けのひとつである>という定義から、ケイリー・グラントが人違いから事件に巻き込まれる『北北西に進路を取れ』の、<「ジョージ・キャプラン」という名前こそがマクガフィン>という人がいる。僕は部分的マクガフィンと呼びたいけど。

インディ・ジョーンズシリーズの、「クリスタル・スカル」だとか「アーク」だとかをマクガフィンと呼ぶ人もいる。「プライベート・ライアン」の「ライアン二等兵」もそうだとか。こうなると、マクガフィンも単なる動機付けや話のきっかけではなく、ストーリーの軸となる要素と言うことになる。

「シャレード」の25万ドルは、インディジョーンズの「スカル」や「アーク」のような存在で、そういう意味でのマクガフィンですね。要するに、マクガフィンにも色々あると言うことです。

*

 前回の記事「シャレード」のコメントのやりとりの中で“マクガフィン”について云々しましたが、ネット(つまり巷)ではその解釈にかなり巾がありそうなので調べてみました。

 ウィキペディアによると、その概要は・・・
<マクガフィン(MacGuffin, McGuffin)とは、何かしらの物語を構成する上で、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる、仕掛けのひとつである。登場人物たちの視点あるいは読者・観客などからは重要なものだが、作品の構造から言えば他のものに置き換えが可能な物であり、泥棒が狙う宝石や、スパイが狙う重要書類など、そのジャンルでは陳腐なものである>

 このサイトは随時書き直されるので、少し古いバージョンでは後半が、<作品の登場人物は非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されなかったり、説明されたとしても価値が疑わしいような「なにか」のことである>となっていたらしい。

 元々はイギリスのスパイ物を得意とした小説家が使っていた言葉とのことで、映画関係ではヒッチコックが自身の作品を紹介する際に使っていたので有名です。
 トリュフォーがヒッチコックへのインタビューを纏めた本「ヒッチコック 映画術/トリュフォー」(山田宏一・蓮實重彦訳/晶文社)の中で、ヒッチコックが自作の中のマクガフィンの例として上げたのが、「汚名 (1946)」の中の「ウラニウムの入ったワインの瓶」や「北北西に進路を取れ (1959)」の「ジョージ・キャプランという名の男」など。

 「映画術」でのやりとりを綴ったwebページがあったので転載してみます。

*   *   *   *

【トリュフォー】 <マクガフィン>という暗号は単にプロットのためのきっかけというか口実にすぎないのではありませんか。

【ヒッチコック】 そう、たしかに<マクガフィン>はひとつの<手>だ。仕掛けだ。しかし、これにはおもしろい由来がある。
 君も知ってのとおり、ラディヤード・キップリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で原地人とたたかうイギリスの軍人の話ばかり書いていた。
 この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことを<マクガフィン>と言ったんだよ。つまり、冒険小説や活劇の用語で、密書とか重要書類を盗みだすことを言うんだ。それ以上の意味はない。
 だから、へんに理屈っぽいやつが<マクガフィン>の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ。わたし自身はいつもこう考えている。砦の地図とか密書とか書類は物語の人物たちには確かに命と同じように貴重なものに違いない。しかし、ストーリーの語り手としてのわたし個人にとってはなんの意味もないものだ、とね。
 ところで、この<マクガフィン>という言葉そのものの由来は何なのか。たぶんスコットランド人の名前から来ているんじゃないかと思う。こんなコントがあるんだよ。

 ふたりの男が汽車のなかでこんな対話をかわした。
 「棚の上の荷物はなんだね」とひとりがきくと、
 もうひとりが答えるには、「ああ、あれか。あれはマクガフィンさ」。
 「マクガフィンだって?そりゃ、なんだね」
 「高地地方(ハイランド)でライオンをつかまえる道具だよ」
 「ライオンだって?高地地方(ハイランド)にはライオンなんかいないぞ」。
 すると、相手は
 「そうか、それじゃ、あれはマクガフィンじゃないな!」と言ったというんだよ。

 この小話は<マクガフィン>というのはじつはなんでもないということを言っているわけだ。

*   *   *   *


 プロットのためのきっかけ、或いは口実、そんな所からでしょうか、今や“マクガフィン”はかなり広義に解釈がなされているようです。改めて「映画術」のヒッチコックの話を聞いていると、ヒッチコックの考えたモノは既に狭義の“マクガフィン”となっているような気もします。

 英語版のウィキペディアに挙げられた“マクガフィン”の具体例は以下の通り。
 『三十九夜』の国家機密
 『マルタの鷹』の鷹の彫像
 『カサブランカ』の通行許可証
 『北北西に進路を取れ』の国家機密
 『シャレード』の****(=ネタバレだったので伏せ字にしました。“25万ドル”の事で良いです)
 『キッスで殺せ』の白熱する光を放つ箱
 『レイダース』の聖櫃(アーク)
 『レポマン』の車のトランクに入ってたモノ
 『パルプ・フィクション』のブリーフケース
 『RONIN』のスーツケース
 『スパニッシュ・プリズナー』の“プロセス”
 『グリーン・デスティニー』の碧銘剣
 『M:I Ⅲ』の“ラビット・フット”
 『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』のデッドマンズ・チェスト
 『トゥモロー・ワールド』の妊婦
 『トランスフォーマー』のオールスパーク・キューブ

 MYブログでリンク中の「映画≠日誌」さんでは、「マクガフィン」の説明で、<アルフレッド・ヒッチコックの用語で、特にサスペンス映画で観客の注意を引きつけたり、プロットの論理を作動させたりする仕掛け、あるいはプロットの一部を指す。ヒッチコックにしたがえば、マクガフィンは目的を達したらすぐに無視されてよい。その例として『北北西に進路をとれ』のはじめの部分人違いと、『サイコ』におけるジャネット・リーの副筋全体が挙げられる。>と、プロットの一部もそうだと仰有る。
 なかなか手強いですな。

 別のサイトでは、「インディ・ジョーンズ・クリスタル・スカルの王国」のプログラム内の文章として、脚本家のデビッド・コープが「このシリーズでは、実際にある神話を基にして、自分たちの物語に組み込むことが大切なんだ。マクガフィンとして、クリスタル・スカルは素晴らしいよ。なぜなら説得力があり、明確にどこからきたという説明もなく、自分たちでそれを作り上げることが出来るからね」と語ったと紹介しており、更に、ジョージ・ルーカスも「スカルに関しては多くの伝説が世界中にある。今回、インディ・ジョーンズが追うのには完璧なマクガフィンだと思ったよ」と言ったよし。
 ルーカスもそうくるか、ってなもんですネ。

 ことほど左様に“マクガフィン”の解釈はボーダーラインが曖昧になっているようです。ヒッチコックは経験から“マクガフィン”は極力無意味であることを良しとしてきましたが、後輩達は、登場人物への動機付けや話を進めるための“仕掛け”として積極的な意味合いを持たせる傾向にあるようです。いずれにしても、「インディ・ジョーンズ」の関連でルーカスまでもがああいった発言をすると言うことは、ハリウッドの“マクガフィン”の解釈は上記の英語版ウィキペディアの具体例のレベルが共通認識になっていると考えた方がよいのでしょうね。

 既述したモノ以外の“マクガフィン”を考えた時に、パッと僕が思いついたのは、「暗くなるまで待って」の「ヘロイン入りの人形」、「おしゃれ泥棒」の「チェリーニのビーナス」、「スタンド・バイ・ミー」の「森の中の死体」、「ブロークン・フラワーズ」の「手紙の送り主、或いは息子」など。

 さて最後に、“マクガフィン”に関連して、僕ら観客の鑑賞態度として注意しなければいけないのは、“マクガフィン”があるか無いか・・・では勿論無くて(笑うところです)、“マクガフィン”でしかないのに、その説明が不十分であると作者の怠慢を酷評する事。ま、そこが気になるのは肝心なところが巧く作られていないという事でもありますがね。
 最近の広義の“マクガフィン”には物語の軸となるモノもあるようです。しかし“マクガフィン”はあくまでも“仕掛け”。作者の狙いは“枝葉”にあるのです。軸をぶらさずに、枝葉をどれだけ充実させているか、そこを観るべきでしょう。だって、美しい花や美味しい実は、枝葉につくものですから。
 
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「間違えられた男」 ~「定本 ヒチコック映画術」/トリュフォーより

2010-06-24 | 十瑠の見方
 以前、ヒチコックの「間違えられた男」の紹介記事をアップした時に、気になったコメントがあった。それは、ヒチコック本人がこの映画について「駄作」と言ったということ。それとトリュフォーが或る部分の演出について、全編セミ・ドキュメンタリー的なタッチの中で異質な処理がしてあるのが失敗ではないかというような指摘をしたということ。
 「定本 映画術」を買ったら、絶対にソコは確認しておこうと思っていた。

 まず、「駄作」の件。
 確かにインタビューの最後にヒチコックが、この映画は『ヒチコック映画としては駄作の部類に入る』としゃべっているが、すぐ後に『それでケリをつけよう』と続けている。つまり、ヒチコックは心底から駄作と思っているのではなく、トリュフォーの「間違えられた男」に関するインタビューを早く切り上げる口実としてそう言ったような感じがするんだ。元々、経営が傾きかけたワーナー・ブラザーズの為に無報酬で引き受けた作品らしく、トリュフォーの指摘したマイナス点を必死で弁護するほどの愛着もなかったようだが、さりとて駄作と言ったのを額面通りには受け取れない気がするのだが。

 「或る部分の演出」の件。
 この映画は実話を元に作られた作品で、その他のヒチコック映画のように派手な事件は無く、たまたま真犯人と顔が似ていたというだけで犯人に間違われる男を主人公にしている。僕は<ヒチコック流リアリズム>と表現したが、トリュフォーに言わせると、<フィクションとドキュメンタリーが水と油のように反撥しあっている>らしい。
 例えば、ヘンリー・フォンダ扮する無実の男が逮捕され、独房に入れられた時、恐怖と混乱に陥りそうな彼の心境を表してか、カメラの前で壁がグルグル回る。この演出が全体のトーンであるリアリズムと合わないと言うのである。
 そもそも「間違えられた男」に関するインタビューは、ヒチコックとトリュフォーの会話に微妙なくい違いが感じられるもので、二人共にこの作品に不満を持っているんだが、ヒチコックが考えるソレとトリュフォーの思うマイナス点とは違っている。

 ヒチコックは、<真実から離れまいとして、映画として必要なドラマチックな遊びを施すのをあまりに恐れた嫌いがある>と思っているのに対し、トリュフォーは、現実というのは決して様式化できないのにヒチコックの演出は既に劇映画として完璧に様式化されているというのである。
 ヒチコックが言うように、「間違えられた男」は劇場用商業映画であってドキュメンタリーではない。

 <わたしは、この事件をすべて、無実の罪を負わされた男の視点から描いてみたら、興味深い映画になるだろうと考えた。>

 この言葉の通り、ヒチコックはヘンリー・フォンダ扮する冤罪のために苦しめられる男の心理を描こうとしたのであって、客観的なドキュメンタリー作品を狙ったわけではない。ドキュメンタリー的というのは、説明的な映像以外の主観カメラの描写がない映画のことを言うのであって、例えばヘンリー・フォンダが連行される時に警察の車のリアウィンドウ越しに遠ざかる我が家を見つめるシーンなど、主観カメラの映像が織り込まれており、トリュフォーの言うドキュメンタリー云々というのは見当違いのような気がするのだが・・・。

 TVの字幕放送を録画したDVDがあったはずなのに、今回捜しきれなかった。本当は、もう一度観てから書きたかった。



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