テアトル十瑠

1920年代のサイレント映画から21世紀の最新映像まで、僕の映画備忘録。そして日々の雑感も。

2012-03-05 | ドラマ
(1954/フェデリコ・フェリーニ監督・共同脚本/アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベースハート、アルド・シルヴァーニ、マルセーラ・ロヴェーレ/115分)


(↓Twitter on 十瑠 から

週末にフェリーニの「道」を観た。何年ぶりだろう。ところで、前半のジェルソミーナのシーンで、彼女の傍を馬が通るシーンがあるんだけど、向こうの映画には裸馬が突然出てくるシーンがあるよね。「灰とダイアモンド」とか。「ミッシング」にも。アレってキリスト教と何か関連あるのかね?
 [ 2月06日 ]

今月の始めに何十年かぶりに再見したフェリーニの「道」について呟いてみる。失って分かる自分にとってかけがえの無いもの、居なくなって気付く大事な人、ラストでそんな思いがしてくるはずだったのに、久しぶりに観たザンパーノのラストの慟哭はホントにそれだけで泣いてるの?と思わせるものだった。
 [ 2月26日 (以下同じ)]

砂浜で泣き出す前にザンパーノは夜空を見上げるんだよね。あの時に何を思ったんだろうねぇ。ジェルソミーナの事を思い出したのか?今回は、なんとなく曖昧に感じたなぁ。ソレまでのヤツの描き方にジェルソミーナに対する隠れた愛着とか、憎からず思う気持ちとかが無かったから。

むしろ、少し気がふれたか弱い女性を置き去りにして、結果死なせてしまった、その事の罪深さに恐れおののいたんじゃないのかな?自分の罪深さにね。歳もとって、老い先の短さもあるし。

そういう意味では、僕がアレン版「道」と紹介した「ギター弾きの恋」は、あれは完全に去っていった女性への思慕の念が沸々と湧いてきた男の慟哭だったよね。去っていったというか、捨てていった女だね。

「道」の終盤で、ザンパーノがジェルソミーナを捨てる時に、寝ている彼女の傍にお金を置いていくシーンがある。「ギター弾きの恋」でも、エメットが寝ているハッティの枕元にお札を置いて出て行くんだよね。「道」のそのシーンを見ながら、アレンはここも盛り込んでたのかと思ったね。

「道」を観てて、もう一つ思い出す映画が「カビリアの夜」だね。勿論、ジュリエッタ・マシーナがどっちにも出てて、どちらもお人好しのちょっとオツムの弱い女性の役だからだけど、「道」のジェルソミーナはあまりに人が良すぎて、人間ドラマのヒロインとしては「カビリア」程魅力的ではないんだよね。
 [ 2月27日 (以下同じ)]

「道」の主人公はザンパーノであり、ジェルソミーナの悲劇を描く事によって彼(つまり人間)の愚かさをあぶり出した映画。「カビリアの夜」の主人公はカビリアで、男にだまされても明日を信じようとする女性を描いた映画。ジェルソミーナよりより生身の人間らしいカビリアの方が魅力的なのは仕方ない。

「道」について記事を挙げたけど、リチャード・ベースハートについて書いてなかったので、追加呟きしてみよ。
 [ 3月5日 (以下同じ)]

リチャード・ベースハートというと、1950年代生まれのモノにとってはSFTVドラマ「原子力潜水艦シービュー号」のネルソン提督の方が馴染みがあるよね。僕もネルソン提督の方を先に観ていて、その後「道」に出ているのを知ったんだよね。「シービュー号」の前には「白鯨」も観てたんだけど。

ベースハートの役名について、大昔に観た時には確か「キ印」とかいう仇名で呼ばれていたと記憶してるんだけど、今回のNHKの衛星版にはその呼び方は字幕になってなかった。IMDbを見ると「The Fool」って書かれているから、大昔の字幕は正確に訳してたんだな。

「道端の石ころでも存在する意味はある。君にだって生きる価値はあるんだ」。自分は何の役にも立ってないと自分を卑下するジェルソミーナに「キ印」はそう言った。粗野で下品なザンパーノにジェルソミーナが付いていったのは、君はザンパーノに付いててやれと「キ印」に言われたからなんだよね。





 1956年のアカデミー賞、NY批評家協会賞で外国語映画賞を受賞。アカデミー賞では脚本賞(トゥリオ・ピネッリ、フェリーニ)にもノミネートされたそうです。
 1954年のヴェネチア国際映画祭でサン・マルコ銀獅子賞受賞作品でもあります。

・お薦め度【★★★★=友達にも薦めてネ】 テアトル十瑠

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