kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

どうする家康 最終回(48)神の君へ

2023-12-22 12:47:44 | どうする家康

 

 

どうする家康、最終回から5日経ちました

 

すうっと浮かんでくる場面は

 

寝所で真っ白な着物の家康が

座った状態で手を床に付きゆっくりお辞儀する

 

生と死のはざまにいる家康は

鯉のハプニングの中にいた

 

若い頃家臣たちに、ひと芝居打たれ

本人、もう信長に殺される~と

切羽詰まった時のこと

 

家臣たちは、殿ならこれ位の嘘で

自分たちをどうこうするはずがなかろうと

 

「皆、分かっておりました

殿というお方を、そのお心を」

 

とか何とか言って信長の鯉を食べたことを白状した

 

 

 

ひとりひとり殿に礼を申し述べる

何もかも殿のおかげ

ありがとうございました、と

 

「こちらこそじゃ」

 

彼らの車座の中心で家康はゆっくりと

お辞儀を返した

まだ若さ溢れる自分が今の自分に戻っていた

 

家康の表情は、穏やかで多少の笑みも浮かべ

 

そのまま、迎えに来た瀬名と一緒に旅立った

 

 

 

 

前半

キューっと胸が痛くなる場面が何度も迫ってきて

辛かったです

 

 

後半

勢いあるキラキラした

若鮎の様な德川家臣団が笑わせてくれました

 

 

大坂夏の陣終焉間近

 家康は自ずから敵を引き付けるように

「家康はここじゃー

共に行こうぞー」

 

真田信繁がすぐそこで討ち死に

 

家康は喜びの色も見せない

 

大坂城では豊臣秀頼、大野治長、家臣団も

そして最後に茶々も自刃

 

 

「正々堂々と戦わず人目を気にし

陰でのみあざけり妬む卑屈でか弱き者の国」

 

茶々は日の本をこう言い表し逝った

 

今の世の中も…

 

 

 

本多正信は最後まで家康のそばに居た

家康の心中をこう思っていたのですね

 

「また生き延びてしまいましたな

とうとう終わるんですな、長い乱世が」

 

大坂夏の陣を最後に戦さはなくなったという

 

 

 

ドラマを振り返れば、家康は

「いくさなき世を」と何度も願った

 

奇跡のようなことだったのでしょうね

 

こんな奇跡を起こしてくれる人が

今、出て来てくれないかなあ~

 

作者の古沢良太さんも家康と同じ気持ちのような

 

 

大河ドラマはファンタジー 私はそう思って

楽しんでいます

400年以上も前のお話

今の世に自分の目で見てきた人など

いませんよね、いる?

 

何が起きても

No  problem

 

 

 

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どうする家康 第46~47回大坂の陣~乱世の亡霊

2023-12-16 16:54:41 | どうする家康

 

 

🔔「国家安康」

方広寺鐘銘事件が原因で「大阪冬の陣」が勃発

 

 

片桐且元

徳川と豊臣の間の橋渡し役として働く

*德川方→豊臣へ伝えた条件は

 

・大坂を退去し国替え

・秀頼は江戸屋敷に参勤交代

・茶々を人質にして江戸詰め

 

三択でしたが結果は決裂、片桐の働きも虚しく

 

戦はもう逃れることが出来ない、家康はそう思った

 

家康

德川が汚名をかぶる戦となる地獄を背負いあの世へ行く

それが最期の役目じゃ

 

正信

それがしもお供いたしますかのお~

 

家康

いやな、連れじゃのお

 

 

過去に裏切る正信を何度も許した家康の

最後の連れは悪友です、最後はすてきな悪友です

 

今までどうして、正信が最後まで家康のそばに居たのか

不思議でしたが、その理由が何となく分かりました

 

 

慶長十九年十一月 「大坂冬の陣」

 

家康本陣:大坂城から南へ一里の「茶臼山」

 

茶臼山は、ちょっと寂しそうな所でした

 

 

 

茶臼山近くにある「天王寺動物園」

 

 

動物園の中から見た通天閣

 

 

 

冬の陣では真田信繁は大坂城の出丸、

「真田丸」で徳川をむかえ討ちました

 

 

 

 

 

 

大坂城への抜け道と言われています

 

安居天満宮(大阪天王寺区)

 

12月、徳川軍が真田丸を攻めるも

真田の鉄砲隊により甚大な被害が出た

 

とうとう家康は大砲を使う命を出し

一日中放たれる砲弾に、天主閣も崩れた

 

家康は和睦のため、阿茶を京へ向かわせ

そこで初と交渉をした

茶々、初、江 三姉妹は複雑な立場になりました

 

家康の出した条件

(豊臣秀頼と茶々の身を守ること)

(本領の安堵)

(牢人の罪を問わない)

(惣構えの堀を埋める

更に約束にない

二の丸三の丸の堀まで埋めた

 

慶長二十年(1615)五月

夏の陣が始まる

 

豊臣秀頼は

「信じる者を決して裏切らず、

我が身の危険を顧みず人に尽くす

これが秀頼の真である

戦場でこの命燃やし尽くしたい

共に乱世の夢を見ようぞ」

 

千姫は、おじい様家康を待っていたのでしょうね

でも、秀頼の力強い自ずからの言葉に

私は豊臣の人間、と強く自覚したようで、

 

千姫「德川を倒しましょう」

 

と驚くほどの強い言葉を言い放った

 

そういえば

幕末の天璋院さんと言い和宮さんと言い

薩摩や朝廷にはつかず徳川幕府に尽くしましたね

「家」に縛られたのではなく、自ずからの意志で

 

 

 

大坂夏の陣図屏風

 

左隻

 

 

右隻

(ブログに挙げましたこの2枚は写真でポスターです

数年前に、大阪城内で買い求めました

くるくる巻いて仕舞ってたので真っ直ぐするのに苦労しました

結局今も、くるくるです)

 

重要文化財(大阪城天守閣蔵)

大坂夏の陣図屏風  六曲一双

(右隻の左端の天守閣が中央になる)

 

慶長二十年(元和元年・1615)の大坂夏の陣

とくに五月七日の決戦は大坂城から南に連なる上町台地一帯に

くり広げられた大規模な激戦であった

 

 

東軍十五万五千人、西軍五万五千人

合計二十一万人もの大軍が

四時間余り死闘を展開した

 

その中には真田丸を出て茶臼山辺りで死闘を繰り広げた

真田信繁の姿もあった

 

 

この屏風は、夏の陣に参戦した東軍の黒田長政が

戦後まもなく参戦の記念に描かせたと伝わるもので

五月七日の城南の決戦の火ぶたが切られた直後の様子を

克明に描いた右半双と、

敗残兵や戦火を必死に逃れる市民たちの様子を

極めてリアルに描いた左半双とからなっている

 

 

 

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クラブハリエの「ラ コリーナ」に行きました

2023-12-15 17:16:07 | 散策

 

 

 

「草原に立つファクトリー」

という感じです敷地は甲子園3つ分

周りは笹原、雑木林、田畑、遠くには八幡山

関連の建物が増えてました

 

工場はガラス張りで、ほとんど中が見えます

 

バームクーヘンのカフェとどら焼きのカフェがありました

私はどちらも利用しなかったけど

おみやげはゲット、生どら焼おいしかったです♪

 

ファクトリーの記念館が上階にあるということで

これは、探検ファクトリーしなくては

 

 

照明をすこし落としてシックな感じです

 

 

うえの階の展示室に行きました

クラブハリエのバームクーヘンは50周年記念

パッケージは200種類を数えるそうです

 

 

 

⇑左の列の一番下に「2023タイガース優勝」のパッケージが 

 

 

向かって右の列の一番上のピンク大きな輪の柄が第一号の箱

 

 

バームクーヘンを焼いた1号機

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当初、とても印象的だった芝生でふさふさした屋根が

長く続く風景は、

周りにいろんなものが建ったことで

目立たなくなってしまい、残念

以前のすっきりした草原的なほうがよかったなあ

 

でも、生どら焼き白あずき餡はとてもおいしかったです♪

 

以上、町内の遠足の様子でした

 

 

 

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俳誌12月号が来ました

2023-12-14 20:02:49 | 俳句・和歌

 

 

師走もすでに中半

 

ほんとにあっという間です

 

どんどん月日が過ぎ去って行きます

 

これは年を取ると動作が遅くなり

 

ひとつ事にかかる時間が長くなるからでしょうか

 

とにかく時間が足りない

 

来年はも少し、どうにかならないかなあ~

 

~~~~~~~~~~

 

 

12月号より

 

街あかり途切れ広がる虫の闇

稔り田に大波小波シンフォニー

英霊の古りたる墓や曼殊沙華

晩秋の町を見守る彦根城

 

 

 

吟行もありました

残念ながら、スマホを持って行くの忘れまして

写真は一枚もなしです

 

近江八幡の

八幡堀、日牟礼神社、村雲御所、八幡山城跡

を散策して、というより石段がすごいので

気分は山登りでした

 

俳句のはの字も浮かばないまま昼食へ

和食のお膳をおいしく頂きました

 

あとは大慌てで

 

で、にわか仕立ての俳句は

 

秀次の夢の城跡石蕗の花

格子戸の陽を浴び句会冬ぬくし

 

 

石蕗の花…

 

枯れすすきがありました

紅葉も散り始めてました

思考力は…ありませんでした

 

 

 

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南座でOSK歌劇それから八坂神社へ

2023-12-07 16:09:55 | 京都

 



OSK日本歌劇団

 

 

南座

 

 

(これは来年のポスターです)

 

 

11月に南座に行きました

 

朝ドラの「ブギウギ」に出演されてた

 

翼和希さんも出演

 

男役がかっこよかった

 

残念ながら、館内は撮影禁止でして

 

パンフレットとチラシだけなんです

 

 

(市バスがひっきりなしに通ってました)

 

年末の顔見世のまねきは

この時はまだ上がっていませんでしたが

「吉例顔見世」は12月1日から始まっていますね

 

 

母は宝塚歌劇がとても好きでした

それで小6くらいまで

毎年宝塚へ連れてもらってましたが

それ以来、全く行ってないと思います

 

南座で今回見たのは

70分強、続けさまに、怒涛のダンス、歌、お芝居

感動しました

 

翼和希さんはトップではないけど人気がありました

南座には来年の7月にまた来られるとか

また見たいなあ

 

ここまで来たんですしと、八坂神社にお詣りに行きました

 

 

八坂神社

四条通のどんつきから西向きに建つ

「西楼門」

 

西楼門をくぐり、境内へと

 

 

本殿(国宝)

 

蛭子神社

八坂神社の境内にあります

 

 

 

円山公園の枝垂れ桜

紅葉も散ってしまって

 

 

祇園祭に巡行する山と鉾が

解体してこの中に納められてます

 

 

円山公園

 

 

円山公園内

 

私が5年生の時、邦子ちゃんと言いまして

ひとつ年上でとなりの家の幼なじみと一緒に

円山公園へ、植物採集に行きました

夏休みの自由研究が切羽詰まって、行きました

 

その時、円山公園の中を多少、登ったはずなんです

そんな記憶があるんです、で、その場所を

突き止めようとしたのですが、

その入り口は分かりませんでした

 

時間ももう遅いので帰ろうと

三条通にある地下鉄のりば目指して歩きました

 

その日の歩数 9232歩

疲れましたあ⤵

 

 

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どうする家康 第45回 二人のプリンス

2023-12-03 15:46:00 | どうする家康

 

 

 

京都市東山区にある豊国神社と同じ境内にある

方広寺の鐘の鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」の文字は

この様に白線で囲ってあります

 

 

 

 

 

豊国神社の外周りの石垣はとても大きいです

当時のものと思われます

 

 

耳塚

 

 

 

 

二人のプリンス

 

豊臣秀頼 と 徳川秀忠

 

方や3K

 高収入、高学歴、高身長

 

方や

大いなる凡庸

松山千春さんの歌にも曲名「凡庸」あります

 

蛇足ですが、最近は

4T

低姿勢、低リスク、低依存、低燃費だそうです

 

 

政は徳川が仕切っているのですが、ここより一歩

前に進みたい

双方、そんな思いのような

 

家康方、秀頼に二条城訪問を言って出ましたね

 

結果、徳川の思うようには行かず

 

上段に誰が座ったか

 

秀頼が家康に上段を渡し、丁重なる挨拶を述べた

 

世間では、家康は恥知らず、秀頼はご立派と

噂が立った

 

家康「まんまと、してやられた」

 

阿茶は秀頼はどんなだったかと尋ねると家康は

 

「すずやかな様子の…秀吉じゃ」

 

なるほど、上手にまとめましたね♪

 

二人のプリンスのことを本多正信はどう言ったのか

 

「偉大なる凡庸、すべなし」

 

秀忠は、父家康が上段に座り秀頼が平伏したことを

あんなに喜んでましたから…

 

 

思いがけない訪問者が

 

どこでどう暮らしていたのか

すっかり忘れてた存在です、私には

 

氏真「成長した、王道の治世を成してくれ」

 

家康「平気で人を殺せるようになっただけ

戦は無くならん、生涯ずっと戦をし続けて…」

 

氏真は、家康を抱きしめ優しく労ってくれた

 

「弟よ、弱音をはきたい時は、この兄が聞いてやる

おぬしに助けられた命のあることを忘れるな

本当のおぬしに戻れる時も、きっとある」

 

そう言えば、氏真を捉えても遠くへ逃れさせたことが

ありましたね

 

正直なところ、兄弟のように暮らした今川のもと

氏真は嫉妬心もったこともあった

家康は父の様に育ててくれた今川義元を敬い

氏真を兄として接していた、一歩下がっていたことも

 

あの時代は、人質とはいえ家康にとっては

たくさんの教養、武道を学ばせてもらった時でしたね

義元が存命してたなら、

家康の道も変わっていたかもしれませんね

 

家康にとって、氏真との再会は

心癒され、戦なき世への意欲も戻ったかもしれません

 

一方、プリンス豊臣

…あれ?トヨトミ・プリンセスみたいな題名の映画

ありましたよね、確か堤真一さんが…

ま、いいか

 

プリンス豊臣は巷でも人気がどんどん上がるし

父い秀吉の供養のための開眼供養をあげましたが

 

德川と豊臣の戦へと続く一本道をつくることになる

その端を発したのが、

 

慶長一九年(1614) 「大仏鐘銘事件」だ

大仏の大鐘は 重量  82トン超え

その鐘の銘文の中に

   

「国家安康」「君臣豊楽

 

これは、家康を呪うものだ

とクレーム

 

本多正信、家康の傍らで言った

 

「おそらく戦は避けられませんな」

 

豊臣の鐘の偶然か、企みか

 

德川方の解釈は、こう

「国家安康」 家康を裂いている

「君主豊楽」 豊臣を君主として楽しむ

 

豊臣は

国の政治が安定している

君主から民衆に至るまで豊か、楽しい

 

との思いからこの銘文奉納したのか

それとも相手に喧嘩を売ったのか

 

何百年も前のことです

 

今となっては、ピンポ~ンな解答は分かりません

 

この大仏殿、方広寺は

秀吉が関白になった時(天正一三年・1585)

天下統一目前の勢いある秀吉が

 

「京都に日本一の大仏を!」

 

前例では東大寺では20年かけて造ったが

自分は、5年で造る!の意気込み

なんと、実際には天正14年~16年

但し、金銅仏を鋳造では遅い

「木心乾漆」づくり

大坂城には、秀吉の遺産がどっさり

金銀で82万両をつぎ込んだとか

 

その後、何度か地震や火災に合っていた

 

でも鐘はいまも残っています

トラブルメーカーの銘文もそのままに…

 

 

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