kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

どうする家康 最終回(48)神の君へ

2023-12-22 12:47:44 | どうする家康

 

 

どうする家康、最終回から5日経ちました

 

すうっと浮かんでくる場面は

 

寝所で真っ白な着物の家康が

座った状態で手を床に付きゆっくりお辞儀する

 

生と死のはざまにいる家康は

鯉のハプニングの中にいた

 

若い頃家臣たちに、ひと芝居打たれ

本人、もう信長に殺される~と

切羽詰まった時のこと

 

家臣たちは、殿ならこれ位の嘘で

自分たちをどうこうするはずがなかろうと

 

「皆、分かっておりました

殿というお方を、そのお心を」

 

とか何とか言って信長の鯉を食べたことを白状した

 

 

 

ひとりひとり殿に礼を申し述べる

何もかも殿のおかげ

ありがとうございました、と

 

「こちらこそじゃ」

 

彼らの車座の中心で家康はゆっくりと

お辞儀を返した

まだ若さ溢れる自分が今の自分に戻っていた

 

家康の表情は、穏やかで多少の笑みも浮かべ

 

そのまま、迎えに来た瀬名と一緒に旅立った

 

 

 

 

前半

キューっと胸が痛くなる場面が何度も迫ってきて

辛かったです

 

 

後半

勢いあるキラキラした

若鮎の様な德川家臣団が笑わせてくれました

 

 

大坂夏の陣終焉間近

 家康は自ずから敵を引き付けるように

「家康はここじゃー

共に行こうぞー」

 

真田信繁がすぐそこで討ち死に

 

家康は喜びの色も見せない

 

大坂城では豊臣秀頼、大野治長、家臣団も

そして最後に茶々も自刃

 

 

「正々堂々と戦わず人目を気にし

陰でのみあざけり妬む卑屈でか弱き者の国」

 

茶々は日の本をこう言い表し逝った

 

今の世の中も…

 

 

 

本多正信は最後まで家康のそばに居た

家康の心中をこう思っていたのですね

 

「また生き延びてしまいましたな

とうとう終わるんですな、長い乱世が」

 

大坂夏の陣を最後に戦さはなくなったという

 

 

 

ドラマを振り返れば、家康は

「いくさなき世を」と何度も願った

 

奇跡のようなことだったのでしょうね

 

こんな奇跡を起こしてくれる人が

今、出て来てくれないかなあ~

 

作者の古沢良太さんも家康と同じ気持ちのような

 

 

大河ドラマはファンタジー 私はそう思って

楽しんでいます

400年以上も前のお話

今の世に自分の目で見てきた人など

いませんよね、いる?

 

何が起きても

No  problem

 

 

 

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どうする家康 第46~47回大坂の陣~乱世の亡霊

2023-12-16 16:54:41 | どうする家康

 

 

🔔「国家安康」

方広寺鐘銘事件が原因で「大阪冬の陣」が勃発

 

 

片桐且元

徳川と豊臣の間の橋渡し役として働く

*德川方→豊臣へ伝えた条件は

 

・大坂を退去し国替え

・秀頼は江戸屋敷に参勤交代

・茶々を人質にして江戸詰め

 

三択でしたが結果は決裂、片桐の働きも虚しく

 

戦はもう逃れることが出来ない、家康はそう思った

 

家康

德川が汚名をかぶる戦となる地獄を背負いあの世へ行く

それが最期の役目じゃ

 

正信

それがしもお供いたしますかのお~

 

家康

いやな、連れじゃのお

 

 

過去に裏切る正信を何度も許した家康の

最後の連れは悪友です、最後はすてきな悪友です

 

今までどうして、正信が最後まで家康のそばに居たのか

不思議でしたが、その理由が何となく分かりました

 

 

慶長十九年十一月 「大坂冬の陣」

 

家康本陣:大坂城から南へ一里の「茶臼山」

 

茶臼山は、ちょっと寂しそうな所でした

 

 

 

茶臼山近くにある「天王寺動物園」

 

 

動物園の中から見た通天閣

 

 

 

冬の陣では真田信繁は大坂城の出丸、

「真田丸」で徳川をむかえ討ちました

 

 

 

 

 

 

大坂城への抜け道と言われています

 

安居天満宮(大阪天王寺区)

 

12月、徳川軍が真田丸を攻めるも

真田の鉄砲隊により甚大な被害が出た

 

とうとう家康は大砲を使う命を出し

一日中放たれる砲弾に、天主閣も崩れた

 

家康は和睦のため、阿茶を京へ向かわせ

そこで初と交渉をした

茶々、初、江 三姉妹は複雑な立場になりました

 

家康の出した条件

(豊臣秀頼と茶々の身を守ること)

(本領の安堵)

(牢人の罪を問わない)

(惣構えの堀を埋める

更に約束にない

二の丸三の丸の堀まで埋めた

 

慶長二十年(1615)五月

夏の陣が始まる

 

豊臣秀頼は

「信じる者を決して裏切らず、

我が身の危険を顧みず人に尽くす

これが秀頼の真である

戦場でこの命燃やし尽くしたい

共に乱世の夢を見ようぞ」

 

千姫は、おじい様家康を待っていたのでしょうね

でも、秀頼の力強い自ずからの言葉に

私は豊臣の人間、と強く自覚したようで、

 

千姫「德川を倒しましょう」

 

と驚くほどの強い言葉を言い放った

 

そういえば

幕末の天璋院さんと言い和宮さんと言い

薩摩や朝廷にはつかず徳川幕府に尽くしましたね

「家」に縛られたのではなく、自ずからの意志で

 

 

 

大坂夏の陣図屏風

 

左隻

 

 

右隻

(ブログに挙げましたこの2枚は写真でポスターです

数年前に、大阪城内で買い求めました

くるくる巻いて仕舞ってたので真っ直ぐするのに苦労しました

結局今も、くるくるです)

 

重要文化財(大阪城天守閣蔵)

大坂夏の陣図屏風  六曲一双

(右隻の左端の天守閣が中央になる)

 

慶長二十年(元和元年・1615)の大坂夏の陣

とくに五月七日の決戦は大坂城から南に連なる上町台地一帯に

くり広げられた大規模な激戦であった

 

 

東軍十五万五千人、西軍五万五千人

合計二十一万人もの大軍が

四時間余り死闘を展開した

 

その中には真田丸を出て茶臼山辺りで死闘を繰り広げた

真田信繁の姿もあった

 

 

この屏風は、夏の陣に参戦した東軍の黒田長政が

戦後まもなく参戦の記念に描かせたと伝わるもので

五月七日の城南の決戦の火ぶたが切られた直後の様子を

克明に描いた右半双と、

敗残兵や戦火を必死に逃れる市民たちの様子を

極めてリアルに描いた左半双とからなっている

 

 

 

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どうする家康 第45回 二人のプリンス

2023-12-03 15:46:00 | どうする家康

 

 

 

京都市東山区にある豊国神社と同じ境内にある

方広寺の鐘の鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」の文字は

この様に白線で囲ってあります

 

 

 

 

 

豊国神社の外周りの石垣はとても大きいです

当時のものと思われます

 

 

耳塚

 

 

 

 

二人のプリンス

 

豊臣秀頼 と 徳川秀忠

 

方や3K

 高収入、高学歴、高身長

 

方や

大いなる凡庸

松山千春さんの歌にも曲名「凡庸」あります

 

蛇足ですが、最近は

4T

低姿勢、低リスク、低依存、低燃費だそうです

 

 

政は徳川が仕切っているのですが、ここより一歩

前に進みたい

双方、そんな思いのような

 

家康方、秀頼に二条城訪問を言って出ましたね

 

結果、徳川の思うようには行かず

 

上段に誰が座ったか

 

秀頼が家康に上段を渡し、丁重なる挨拶を述べた

 

世間では、家康は恥知らず、秀頼はご立派と

噂が立った

 

家康「まんまと、してやられた」

 

阿茶は秀頼はどんなだったかと尋ねると家康は

 

「すずやかな様子の…秀吉じゃ」

 

なるほど、上手にまとめましたね♪

 

二人のプリンスのことを本多正信はどう言ったのか

 

「偉大なる凡庸、すべなし」

 

秀忠は、父家康が上段に座り秀頼が平伏したことを

あんなに喜んでましたから…

 

 

思いがけない訪問者が

 

どこでどう暮らしていたのか

すっかり忘れてた存在です、私には

 

氏真「成長した、王道の治世を成してくれ」

 

家康「平気で人を殺せるようになっただけ

戦は無くならん、生涯ずっと戦をし続けて…」

 

氏真は、家康を抱きしめ優しく労ってくれた

 

「弟よ、弱音をはきたい時は、この兄が聞いてやる

おぬしに助けられた命のあることを忘れるな

本当のおぬしに戻れる時も、きっとある」

 

そう言えば、氏真を捉えても遠くへ逃れさせたことが

ありましたね

 

正直なところ、兄弟のように暮らした今川のもと

氏真は嫉妬心もったこともあった

家康は父の様に育ててくれた今川義元を敬い

氏真を兄として接していた、一歩下がっていたことも

 

あの時代は、人質とはいえ家康にとっては

たくさんの教養、武道を学ばせてもらった時でしたね

義元が存命してたなら、

家康の道も変わっていたかもしれませんね

 

家康にとって、氏真との再会は

心癒され、戦なき世への意欲も戻ったかもしれません

 

一方、プリンス豊臣

…あれ?トヨトミ・プリンセスみたいな題名の映画

ありましたよね、確か堤真一さんが…

ま、いいか

 

プリンス豊臣は巷でも人気がどんどん上がるし

父い秀吉の供養のための開眼供養をあげましたが

 

德川と豊臣の戦へと続く一本道をつくることになる

その端を発したのが、

 

慶長一九年(1614) 「大仏鐘銘事件」だ

大仏の大鐘は 重量  82トン超え

その鐘の銘文の中に

   

「国家安康」「君臣豊楽

 

これは、家康を呪うものだ

とクレーム

 

本多正信、家康の傍らで言った

 

「おそらく戦は避けられませんな」

 

豊臣の鐘の偶然か、企みか

 

德川方の解釈は、こう

「国家安康」 家康を裂いている

「君主豊楽」 豊臣を君主として楽しむ

 

豊臣は

国の政治が安定している

君主から民衆に至るまで豊か、楽しい

 

との思いからこの銘文奉納したのか

それとも相手に喧嘩を売ったのか

 

何百年も前のことです

 

今となっては、ピンポ~ンな解答は分かりません

 

この大仏殿、方広寺は

秀吉が関白になった時(天正一三年・1585)

天下統一目前の勢いある秀吉が

 

「京都に日本一の大仏を!」

 

前例では東大寺では20年かけて造ったが

自分は、5年で造る!の意気込み

なんと、実際には天正14年~16年

但し、金銅仏を鋳造では遅い

「木心乾漆」づくり

大坂城には、秀吉の遺産がどっさり

金銀で82万両をつぎ込んだとか

 

その後、何度か地震や火災に合っていた

 

でも鐘はいまも残っています

トラブルメーカーの銘文もそのままに…

 

 

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どうする家康 第44回 徳川幕府誕生

2023-11-25 16:32:07 | どうする家康

 

 

 

辞世の句

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

井伊直政 

 

慶長七年(1602)三月二十四日江戸にて死去

 

他にも

たちそふる千代の緑の色ふかき松の齢を君もへぬべし

 

 

 

関ヶ原にて、島津軍の敵前突破からの逃走を深追いし

銃に当たる

その傷の影響かその後死去

 

慶長五年(1600)九月二十七日

家康、大坂城へ戦勝報告に参じる

 

七歳の豊臣秀頼と盃をかわしてましたけど

七歳でお酒飲んだんですか

 

豊臣秀吉の遺言、秀頼と千姫の婚儀は

 

狐と狸の化かし合い

 

その場を離れれば、双方痛烈な言葉を吐き出している

 

この豊臣VS徳川のもつれた関係に

一手を打ってみましょうぞ、という訳でしょうか

本田正信、さすが策士

将軍になれば如何かと、家康に提案

 

家康「豊臣は公家、徳川は武家の統領

住み分け易くなるかもしれんな」

 

 

この頃「幕府」は足利家がちゃんとしてないので

「将軍職」は消えてしまっていた

 

「征夷大将軍」認定

これはどういう手続きを踏めばいいんでしょうね

 

慶長八年(1603)二月

朝廷より宣下を受けた

朝廷のお墨付きを受ければいいのですね

 

≪≪≪ 徳川幕府誕生 ≫≫≫

慶長八年(1603)二月

 

家康は、戦なき世をつくるために

知恵のある若い人材を全国より集めた

 

以前、漂流して日本に上陸した

ウイリアム・アダムスもそのひとり

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ウイリアム・アダムスの履歴

1564年英国生まれ

父は船員

12歳 ロンドン北岸で造船術・航海術を学ぶ

1588年 海軍入隊

1589年 結婚

バーバリー貿易会社に移り船長に

オランダ船団に入団

1598年 ロッテルダムから極東へ航海

しかし

5隻の船は、だ捕、沈没、帰港など

 

1600年 ウイリアムの乗っていたリーフデ号だけが

豊後国黒島に漂着

大坂に護送、家康と引見数回

江戸に招かれ、南蛮船を造る

他にも数学や地理学を家康らに教えた

外交顧問ともなる

海外貿易振興と色々家康に日本に尽力した

のちに武士となった、名前は三浦按針

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

こちらも若き知恵者

本田正信の長男正純は若い文官たちのまとめ役

父とは反対の真面目で働き者のようです

「跡継ぎ」が整いました

 

 

本多忠勝

武勇に長けたものの、戦なき世の日々

出番はありませんよね

追い打ちをかけるように「老い」が忍び寄っています

 

榊原康政ははらわたを病んでいるという

 

ふたりは「引き際」も考えなければならなくて

 

家康はまだ隠居はさせないと言った

自分同様に老いたふたりを奮起させるのと

今までの数々の功に対する賞賛と聞こえました

 

忠勝は殿を守って死ぬのが夢

確かに若い時からそう言っていたのを覚えています

 

しかし願いは叶わなかった

 

これで四天王は皆、旅立ってしまいました

 

榊原康政 慶長十一年(1606) 死没

本多忠勝 慶長十五年(1610) 死没

 

忠勝の言葉としてこんなのが

 

「わが本多の家人は志からではなく見た目の形から

武士の正道に入るべし」

 

今も形から入る人は幾人もおられると思いますよ

 

かつて我が家にも居たような…

 

 

 

豊臣秀頼 立派に十九歳となる

家康 「時は満ちた」

 

どうするんでしょう、家康

 

 

 

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どうする家康 第43回 関ヶ原

2023-11-19 16:58:02 | どうする家康
 
 
 
 
戦なき世をつくるための戦が終わった
 
そして、その願いは叶えられたのでしょうか
 
 
 
 
自らの信念を曲げず、秀吉への忠義を貫いた三成
 
「大一大万大吉」
 
一人は万民のため、万民は一人のために尽くせば
 
天下の人々は幸福(吉)になれる
 
 
ワンフォーオール オールフォーワン
 
 
 
 
 
 
はるか昔の私の先祖は湖北に暮らし、
 
明治の初めまで彦根にその後京都へ
 
 
生まれ育った京都を離れ滋賀を終焉の地に選んだ
 
そんな私の偏見を
 
「たあけ~」とお叱りください
 
 
 
 
「どうする家康」 まもなく最終回ですね
 
ここまで見て、やはり家康は…
 
 
家康はすごいと思います
 
 一貫して「待つわ」なのですね
 
 
切羽詰まり、家来たちが殺気立っても
 
「待て」
 
 
 
 
 
こういう考え方の殿が、
 
あの血気盛んな井伊直政や本多忠勝を導いた
 
また、本多正信のような裏表のある信用しにくい人物を
 
上手く使いこなした
 
上司として、今もお手本になる人なのかもしれません
 
 
 
亡き夫の愛読本?積読本? こんなのがあります
 
童門冬二「戦国武将 人心掌握の極意」
 
徳川家康 天下人の人のつかい方
(もくじ部分を引用します)
 
 
*自分だけ目立とうという人間は首にしろ
 
*明日はどんな悪口を書くのか、楽しみだ
 
*おしんこは、辛いままにしておけ
 
*私の宝物は部下です
 
*部下の手柄で今日の私がある
 
*部下に苦労させるのは、私が悪いからだ
 
*公私のケジメをハッキリさせる
 
*人事異動のモノサシ
 
*昔の恩を忘れない
 
以上です
 
もくじだけでは、どういうことなのか?
 
分からないのもあります(^-^;
 
 
武田信玄、織田信長が載ってない、なぜ
 
 
<<<<<<<<<<<<>>>>>>>>>>>
 
 
絶対服従させる、信長
 
気前がいい、秀吉
 
待つ、家康
 
アッ! 「鳴くまで待とう時鳥」がありました!
 
そうでした
 
言い尽くされた家康感でした、忘れてました
 
 
 
 
 
関ヶ原の合戦で三成は敗北
 
佐和山城を目指しましたが、途中で捕まってしまった
 
かなりの距離ですよね
 
 
 
町を引き回されのち、六条河原にて斬首の刑でした
 
 
 
 
昨日、所用で祇園四条へ行き、用事を終えて
 
その辺りを歩きました
 
六条河原、ここから近いなあ~三成の最期の場所
 
と、感慨深かったです
 
 
土壇場の裏切り者、許せないなあ
 
 
 
滋賀県、岐阜県にはどれだけの戦死者が
 
葬られているのでしょうか
 
JRに乗っても名神高速を走っても
 
関ヶ原、賤ケ岳、これからは手を合わせます
 
 
 
 
 
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どうする家康 第42回 天下分け目

2023-11-12 16:51:49 | どうする家康

 

 

「家康、天下を治むるに能わず、

多くの者がそう申しておる

民の声か、天の声か」

 

三成が挙兵した

毛利輝元

宇喜多秀家

小西行長

徳善院

増田長盛

長束正家

その他にも、大坂入り多数

 

それを聞いて家康は

「逆臣に仕立てられたか」

と顔が曇る

 

家康断罪の書状が出回っていた

三成軍は今や、超大軍になっていた

家康は、天下人にそぐわないと言われたようで

落ち込んでいた

大坂城の阿茶、伏見城の鳥居元忠はどうなっただろうか

 

真田や上杉は思うようにならず…

 

「ここを勝って乗り越えれば天下を取れる」

本多忠勝が、殿、家康にエールを送る

 

家康は

大きな命令を出しました

「このままでは乱世に逆戻りだ

孤立無援になろうとも戦う

安寧な世は我らの手にかかっておる」

 

 

*井伊直政・福島正則

東海道を西へと進軍

 

*秀忠初陣 三万の兵

本多正信、榊原康政を伴い、信濃の真田を

従わせること

 

*結城秀康(家康の次男)

上杉は私が引き受けまする

家康の側室のお万は母

母の願いは「いつか家康の助けになれる人に育てる」

しっかり、現実にしましたね、えらい!

平岩親吉が従います

 

そして、殿

今は内府殿と呼ばれていますね

江戸へ

 

一方、石田三成は総大将となった

大坂城を離れ、美濃大垣城に入る

 

ここで、進められたこと

この様なことは知らなかったです、私

家康、三成、両人がそれぞれ全力で行ったこと

 

なんと、味方を獲得するための

書状を書く

毎日毎日、机に向かい

取り敢えず、相手への腹立ちを抑え書き続けたという

ご両人共がです

日本全体にです

いったい何通くらいの書状が日本を飛び交ったのでしょうか

JPもない時代

一説によると、手紙は現存をはるかに上回る数であった

その中で恐らく三成の書状は残されていないだろう

勝った家康の書状だけが残ったのだろう

そのようなことだそうです

さて、人心掌握の文章力への軍配はどちらに

 

 

天下分け目の序の章と言ってもいいでしょうか

先陣の井伊直政、本多忠勝、福島正則

あっという間に福島は岐阜城を落としました

 

「落とすのが早過ぎる」

 

だそうです

このまま進軍すれば、本軍なしでの

三成軍(大垣城)との戦になってしまう

そこで、秀忠には真田の居る信濃には行かず

美濃赤坂を目指せ、しかも期限付き9月9日までに

 

 

家康も江戸から美濃赤坂に急いだ

 

だが秀忠がまだここに着いていないことを知る

 

まんまと三成に導かれた騙されたと

家康も康政も正信も思った

導かれているのは

そこは天下分け目の戦の最終の地

三成の心の内を家康は察した

 

「関ケ原」

 

その頃三成も「関ケ原」に夢を見ていた

 

家康と三成は同じこころを持っていたのですね

でも、どこかで行き違った…

 

 

 

 

 

千代さん、見事な最期でしたよ、さようなら

 

 

彦殿(中央)かっこよかったですよ

千代さんと一緒に逝ってしまわれました

せめてもの仏さんの計らいなのか…

 

長らく登場のおふたりでした、ありがとう

 

 

 

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どうする家康 第41回逆襲の三成

2023-11-05 14:08:58 | どうする家康

 

 

石田三成

 

近江の国坂田郡石田村で誕生

(現在は、滋賀県長浜市石田町)

 

 

長浜市は琵琶湖岸の北の方、

琵琶湖の肩にどっかと乗ったような感じです

 

信長に仕えていた頃の秀吉は長浜城主となった

その頃から三成の父、兄が秀吉に仕え三成も小姓として仕えた

 

信長没後、秀吉の側近となる

 

治部、治部と呼ばれている三成

秀吉が関白に任ぜられたと共に

三成は、従五位下治部少輔(じゅごいげじぶのしょう)に

(おさむるつかさのすなきすけ)

 

それで「治部」はどんな役目なんでしょうか

*朝廷の部署で元は外交、戸籍、儀礼を担当だったが

時代と共に役目も減り

戦国時代、このような官職の役目はなくなり

名誉職でした

治部は名のみの実の無さよ~ってとこだったようです

 

治部も家康も同じことを考えていました

「戦のない世を」

 

ふたりで星を見ていたことがありましたね

好奇心旺盛なふたり、いいことです、はい

 

家康と三成、似たもん同志のように思えました

 

余談ですが、中村七之助さんと松本潤さんは同級生だとか

仲も良いのだとか

以上です(>_<)

 

 

前回で三成は所領の佐和山城へ隠居しました

 

「佐和山城」

この名前、優しくて好きなんです

 

星空を一緒に見た日からふたりは

上手くいくと思っていたのですけど…

 

三成は完全に、決裂してます

 

一方、家康は三成の実力を買っていて取り立てたいと

ただですね、「狸」らしいですし

何がほんとだか、信じられません

 

やはり家康は秀吉亡き後の政権を握りたい

豊臣秀頼の政権を支える、は建前だな~

 

そして石田三成は、一旦隠居したものの

豊臣の天下を守るというのですから

 

戦も否めないですね

いよいよ関ケ原ですか

 

 

 

以前彦根の「天寧寺」という所に行きました

五百羅漢さんがおられることで有名なお寺です

 

確かお寺さんの関係の方だったと思うのですが

 

「佐和山城に居た人が追い詰められ、山の崖から

飛び降りて命を絶った人が大勢いた」

 

と聞きました

まるで昨日のことのように…

 

三成や佐和山城を深く愛しておられるんだなあ~と

思いました

 

何度か私のブログに、白い朝顔の写真をあげていますが

この天寧寺近くの道沿いの草むらで

摘んだ種からなんです

花好きな友達が、野生種やな、と言ってました

 

この辺りから、佐和山城の方角を見上げたこと

覚えています

彦根の町から坂道を登ったはずです

 

「関ケ原」という映画がありました

 

家康の正妻築山殿を演じられた有村架純さんも出演で

伊賀忍者、初芽の役柄

 

三成は、岡田准一さん

 

はじめは家康が三成を探るため送り込んだ間者

ところが三成の”犬”として忠誠を貫く

 

家康が裏切られたことになりますね

初芽は三成に思いを寄せていたということです

 

初芽は実在しない人

司馬遼太郎の歴史小説「関ケ原」

の中に登場だそうで、私は読んでませんが(^-^;

 

 

映画「関ケ原」での石田三成

幼い時に豊臣秀吉に認められ忠誠を誓った

が、秀吉のように利害を求めるのでなく

正しく戦のない世の中にしようとした

 

おなじく徳川家康

言葉巧みに武将たちを引き寄せていく人物

そんな映画

 

 

 

さて、ふたりのここまでの歩みですが

 

ずるさも少し感じますが

家康はやっぱり大変な苦労をしている

幼い時から人質暮らし

あの獣のような信長のもとでどれだけ怯える日々だったか

 

三成は、それは無かったような

秀吉の家臣となって、出世街道スタスタと

挫折を家康ほど知らないのではないでしょうか

 

 

大名たちによく思われなくなっていった

 

「太閤検地」に関しても大名たちは三成を恨んでいたらしいです

とにかく殿下に認められ

重要なポストに任ぜられていた三成ですから

周りの者には承服できない采配が有ったかもしれません

 

出る杭は打たれる

 

秀吉が、やりっぱなしで亡くなって

家臣は皆、さんざんな目にあいました

三成も総司令官として足元がぐらつき始めたよう

「しくじり」による「しくじり」になりました

 

 

隠居生活から、また一線に出てこようとしています

 

関ケ原

武器は刀や銃だけではなく

頭脳戦、特に裏工作が多い様な

駆け引きを制すものが勝つ、天下分け目の合戦

 

地元民としては、三成がんばれなのですが…

 

自宅から関ヶ原駅まで

JRにて所要時間は約1時間

関ヶ原駅から岐阜関ケ原古戦場まで徒歩10分

 

遠くからでもあちこちに幟が立っていてよく分かります

 

いつか行ってみたいです

 

「どうする家康」 の関ケ原の合戦

 

NHKはどうする?

 

 

 

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どうする家康 第40回天下人家康

2023-10-29 17:26:39 | どうする家康

 

 

豊臣秀吉、亡きあと

 

新しい政治の形は合議制で進められた

 

石田三成は、秀吉の遺言を守ること、と

意気込み充分です

 

【五奉行】

石田三成

徳善院玄以

浅野長政

増田長盛

長束正家

 

【五大老】

徳川家康

前田利家

毛利輝元

上杉景勝

宇喜田秀家

 

この方々、十人衆が常に合議をして秀頼を支える

これが太閤秀吉の遺言

 

 

 

前田利家は一目置かれてるようですが

実力総合的には家康が一番でしょうか

 

家康は頑張るようにと三成に声をかけ

かけられた三成は意気揚々とした顔

一方

上杉景勝は三成にこっそり言いました

 

「徳川殿は狸と心得ておくがよい」

 

三成、まさかの言葉に心が揺れたようですが

ここは家康を信じることにしました

 

 

朝鮮から筑前博多に武将や兵が戻る

これで、朝鮮戦争は終焉を迎えたことになるのかな?

 

 

加藤清正、黒田長政らに

三成は労をねぎらったつもりだったのだろうが

選んだ言葉が悪かった

 

「戦のしくじり」 という

 

戦地で生死のはざまをくぐって来た者は

 

「奉行たちの無策」 という

 

どちらも引きません

 

 

三成は石部健吉さんかな?

 

三成がその場を下がって、寧々がため息をついた

「治部がうまく出来なければ

力ある者にやってもらうほかないと、思うておる」

 

暗黙のうちに家康が、と言っているようだ

 

 

この頃すでに家康はそう言われていたのですね、私も

そう思います、やっぱり

 

 

 

 

五奉行五大老と、話し合っている時も

(重臣の家族と勝手に婚姻を結んだことについて)

 

家康「言うことを聞かんやつが…

わしも手を焼いておるのじゃ」

 

なんて、白々しいと思いましたよ、家康のこと

座るのも、斜に構え、笑いをかみ殺すような

まことしやかに、困ったふりして

 

知らないことが多いのですが、本多正信は

常時家康のそばにいて、あれこれアドバイスをする

そういう位置づけだったのですね

追放された時もあったけれど

地位を獲得のため頑張られたのですね

 

その正信のアドバイスが、やっぱり狸です

この辺りの心理作戦は

家康 & 正信 の共同作業だった?

 

 

ついに、三成は家康を見限るというか、

もう信じなくなりましたね

 

**家康は勝手に加藤、黒田、福島と縁組をした**

 

三成の言い分

「太閤殿下の遺言に反するので、謹慎を」

 

家康の言い分

「ほんの行き違い、そなたの味方である、誤解を解きたい

一時、政務を預かりたい」

 

そうそう、御大、前田利家の鶴の一声も効きましたものね

その言葉に家康は助けられてました

 

 

三成

「天下、さん奪の野心あり

とみてようございますな!

私の味方と言うのなら

不埒な諸将を取り潰してくだされば!

殿下に任じられた務めを全うするのみ」

 

もう、戻りませんね…

 

 

加藤ら奉行たちが三成の館を攻めてきた

話し合うだけとは言っているが

 

 

三成は家康に覚悟を示した

「すべての所領から身を引き

我が所領,佐和山へ隠居いたします

私は間違ったことはしておりません

殿下のご遺命に誰よりも忠実であったと

自負しております

 

私と家康殿とは、違う星を見ていた様で

ございます

もうお会いすることもございますまい」

 

 

 

 

 

すでに、家康には天下を取る覚悟が

出来ていたはず

寧々、家臣達の後押しもあり

 

機は熟した

 

薬研を動かす家康は、ほんの少し侘しさを感じさせましたね

 

乱世の中で義を貫いた一本気の三成

 

合いませんかね…

 

 

 

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どうする家康 第39回太閤、 くたばる

2023-10-22 00:54:51 | どうする家康

 

 

 

大坂城で茶々が産んだ第二子は、男児

 

秀吉の喜び様は想像が付きます

 

名は「拾・ひろい」

 

子供の健康な成長を願う当時の祈願として、

赤ちゃんをいったん捨てた形にして、家臣が拾って来る

なので「拾」

 

亡くなりましたが、一番目の子の鶴松も生まれた時は

「捨・すて」でした

 

男児誕生に、秀吉は元気になりました

そして

「明国の征服は先送り」

だが

「明国の皇女を帝の妃に

朝鮮の南半分の領地はもらう」

 

こんなむちゃくちゃな和平が明国に

承諾されるわけがない

と、三成らの五奉行は途方に暮れた

 

どうするのでしょうね

秀吉は、拾の生まれたことで

元気を取り戻し、跡継ぎにと動き出しています

 

多少の落ち着きを

世の中に感じられるようになったのか

家康は、三男の「徳川秀忠」に祝言をあげさせた

まだ幼く見えましたね

のちの江戸幕府第二代将軍ですね

 

妻となったのは「江・ごう」

茶々の娘、お市の方の孫

信長の血を引くということですか

 

家康は秀忠を連れて京の

酒井左衛門督忠次、海老すくいのあの人、の所へ

 

今は七十歳、目が見えなくなって妻の登与と

静かに隠居生活をしている

 

忠次「ここまでよく耐え忍ばれましたな

よくぞのりこえて参られた」

 

德川家臣の第一人者酒井忠次

このあと亡くなりました

 

 

徳川四天王の一人であった方で

おっとりされているようで、ここぞ

という時の活躍は目を見張るものがありましたね

どうぞ、やすらかに…

 

 

 

 

 

文禄五年(1596)9月1日

明国の使節と秀吉、和議を結ぶ

 

明が受け入れることなどないと思われた約定が

通ったのだ

 

しばらくして、三成が伏見にある徳川屋敷に来た

 

太閤殿下に読み上げた国書は、偽物

小西行長と明の役人が示し合わせ偽造したもの

 

なぜなら、今は和議を結ぶことが大事と判断し

明も秀吉もどちらをも、だましたという

 

秀吉は、小西を切り、朝鮮出兵を再開すると

怒っているという

 

そら、怒りますよね

よくまあ偽の国書なんてものを

 

そして、第二次朝鮮出兵となってしまった

 

 

世の中は、秀吉への不満がどんどん大きくなった

京の治安の乱れ

朝鮮兵への残虐行為

 

耳や鼻をそぎ落とすと言ってましたが

そう言えば、京都市東山区にある

「豊国神社」と「方広寺」の近くに

「耳塚」という小さな古墳のようなのを見たことがあります

どっちが起こした行為なのかよく分かりませんでしたが

「朝鮮」「耳塚」ということばは見ました

 

この朝鮮出兵の時の事だったかもしれません

今度行く機会があれば誰かに教えてもらおう

 

 

秀吉が倒れた

元服した拾、改め、秀頼と遊んでいた時のことだった

 

三日三晩、意識が無かった

遺言をしたいと石田三成に言った

 

「わしが死んだあと、誰が天下人になる?」

 

三成「天下人は無用かと

豊臣家へ忠義と知恵のある者が話し合いで政をし

皆で秀頼様を支えます」

 

秀吉の容態は悪化の一途

家康を呼んだ

 

「ただただ、秀頼が無事で幸せに暮らせるなら

戦のことも世の安寧も

豊臣の天下すらどうでもいい

そうよ、なんもかも皆放り投げてわしはくたばる

あとは、おめえがどうにかせえ~」

 

言い方!

 

家康「情けない、この日の本めちゃくちゃにして

放り出すのか!」

 

秀吉「うまくやりなされや…」

 

慶長三年(1598)八月十八日 この世を去る

 

「天下をお取りなされ」

 

酒井左衛門督忠次の家康への最後のお願いを

家康は思い出したのでした

 

さあ、信長も秀吉も亡くなってしまいました

 

戦国の世の生き残り合戦

家康を越える人物は想像できませんが

 

豊臣政権は続きます

実務を行う大名や奉行が集まります

 

秀次が自害に追いやられた事がありましたが

その頃、政が危うくならぬようにと秀吉が定めたものが基本で

 

【五大老】

前田利家

毛利輝元

上杉景勝

宇喜田秀家

徳川家康

 

【五奉行】

石田三成

前田玄以

浅野長政

増田長盛

長束正家

 

全員合わせて「十人衆」

秀吉の遺言、どんなのがあったのか?

それを実現するために、ひとつとなり…

 

と、石田三成は元気いっぱい

十人衆は協力的なんでしょうか

 

 

 

以前、長浜に行った時駅前に三成君

旗印は

 

 

大一大万大吉

万民が一人のために、一人が万民のために尽くす

 

オールフォーワン ワンフォーオールですか?

 

近江の佐和山城の城主だった

 

関ケ原の合戦、辛いなあ…

 

 

 

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どうする家康 第38回 唐入り

2023-10-15 17:14:39 | どうする家康

 

 

どうする家康

 

なにをする秀吉

 

母にまで欲望の怪物と言わしめる程の、果てしない欲ばりになった

 

茶々との間の鶴松が病死した悲しみを埋めるつもりなのか

博多の隣の小さな漁村に名護屋城を築き

周りには、家康はじめ

前田利家、大谷吉継、伊達政宗

石田三成、直江兼続、小西行長

らの陣屋が置かれ

全国からは、160もの名立たる武将が集結した

 

唐入りを命じた秀吉

服属を拒否してきた朝鮮の都、漢城(はんそん)を

あっという間に落としたが

 

見回りの服部半蔵が島津の陣屋から持って来た情報は

決して気を許せるものではなかった

 

「藤堂高虎の水軍が朝鮮にやられた」

 

家康は、本営にいる石田三成に戦場の事実を聞く

 

実は三成は、秀吉にも皆にも事実は言ってなかったようだ

家康、聡明な三成と話し合い

秀吉に唐入りを思い留ませようと決めた

だが、秀吉の唐入りの野望は固かった

 

家康は最後の手段を出す

 

「どうしてもということであれば

この家康、腹を切りまする

殿下のお代わりは殿下しかおりませぬ」

 

 

 

なんのかんのと言っても

秀吉は家康を信頼しているというのが分かるシーンでした

 

信長と家康のやり取りから見えた間柄と

似たところがありますね

 

秀吉の母、仲が亡くなった

傍で仲を見届けた秀吉の正妻の寧々

 

「これ以上何がほしい 

この世の果てまで、この世の誰よりも

才あるお方と信じ、一緒になった…」

 

秀吉が茶々、茶々と言うのもさることながら

仲と同じく、秀吉の行く道の危うさを憂うのは当然ですよね

 

素晴らしい奥様がありながら、何してんの、秀吉!

 

秀吉が唐入りを、一旦留まったのは

意外なこの方だったかもしれない

 

元、足利義昭、出家して今は昌山

 

茶々のことで家康と秀吉が言い争っている時

お酒に有りつこうとやって来た

そして自分のことを語りだした

 

昌山「高い所にいて何もかも分かっていると思っていた

ところがほんとは霞がかかって何も分かっとら

周りが良いことしか言わんからじゃ

てっぺんはひとりぼっちじゃ

信用する者を間違えてはならんぞ」

 

文禄二年(1593)五月

 

石田三成ら朝鮮奉行たちが、民国の使者を伴い帰国

民国との和睦調整が始まる

 

しばらく、平穏な世が続く…

皆がそう思っただろう

しかし、その時茶々からの文が来、

茶々がみごもった、とのこと

 

秀吉は声高に笑う、気がふれたかのように

笑い続ける

 

この様子に、家康の顔が曇る

 

どうやらまだ、朝鮮や民国との和睦は遠いのでしょうか

 

 

 

 

ところで、秀吉のワンマン政治のなか、

家康以外に、抵抗を見せた重臣がいましたね

 

✽ 浅野長政

「正気の沙汰とは思えませぬ!」

 

ここまで秀吉に言えるなんて

どういう方だったのでしょうか

 

秀吉から重用されていたのは間違いなくて

豊臣政権末期、秀吉遺言覚書体制に基づき定められた

「五奉行」のひとりでした

 

≪≫五奉行の筆頭≪≫

 

浅野長政 司法担当   22万石

 

  前田玄以 宗教担当    5万石

 

石田三成 行政担当   19万石

 

 増田長盛  土木担当   22万石 

 

長束正家  財政担当   5万石 

 

 

余談ですが、こうして石高を見ますと

やっぱり加賀百万石は、とてつもなく大きかったのですね~

 

 

浅野長政に戻って

 

若い頃は織田信長の家臣でした

出生時は安井姓

 

のちに、織田信長の家臣の浅野長勝の養子となる

長勝は長政の母の兄だった(おじさんにあたるのですね♪)

身分の高い家に養子入りなのでした

 

浅野長勝にはふたりの養女

浅野長政はそのうちのひとり「やや」の婿に

そしてもひとりは豊臣秀吉の正室「ねね・北政所」に

すごいですね

 

 

なんかややこしいのですが、秀吉と親戚になった

ということですね

 

それで、強いことも秀吉に言えた訳ですね

 

 

当時、京の禁裏や門跡に関する問題が多く、

浅井長政の教養によって難問解決にあたったそうです

あの「太閤検地」へと繋げたのもこの人とは

 

この方、代々仕えた主君はバラエティに富んでます

と言えば失礼に当たるかな

 

織田信長

豊臣秀吉

秀頼

徳川家康

秀忠

でした

 

浅井長政と一文字違いでややこしや~

 

秀吉の天下、

ここまで駆け足で見せてもらったようですが

すでに頂点より下り始めたような

 

徳川家康

出過ぎず、隠れ過ぎず

主君のうしろにぴたーっとついて…

虎視眈々と?

 

家康の干支問題

寅年か 卯年か

なんだか近頃、諸説あるような

 

 

 

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