kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

どうする家康 第44回 徳川幕府誕生

2023-11-25 16:32:07 | どうする家康

 

 

 

辞世の句

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

井伊直政 

 

慶長七年(1602)三月二十四日江戸にて死去

 

他にも

たちそふる千代の緑の色ふかき松の齢を君もへぬべし

 

 

 

関ヶ原にて、島津軍の敵前突破からの逃走を深追いし

銃に当たる

その傷の影響かその後死去

 

慶長五年(1600)九月二十七日

家康、大坂城へ戦勝報告に参じる

 

七歳の豊臣秀頼と盃をかわしてましたけど

七歳でお酒飲んだんですか

 

豊臣秀吉の遺言、秀頼と千姫の婚儀は

 

狐と狸の化かし合い

 

その場を離れれば、双方痛烈な言葉を吐き出している

 

この豊臣VS徳川のもつれた関係に

一手を打ってみましょうぞ、という訳でしょうか

本田正信、さすが策士

将軍になれば如何かと、家康に提案

 

家康「豊臣は公家、徳川は武家の統領

住み分け易くなるかもしれんな」

 

 

この頃「幕府」は足利家がちゃんとしてないので

「将軍職」は消えてしまっていた

 

「征夷大将軍」認定

これはどういう手続きを踏めばいいんでしょうね

 

慶長八年(1603)二月

朝廷より宣下を受けた

朝廷のお墨付きを受ければいいのですね

 

≪≪≪ 徳川幕府誕生 ≫≫≫

慶長八年(1603)二月

 

家康は、戦なき世をつくるために

知恵のある若い人材を全国より集めた

 

以前、漂流して日本に上陸した

ウイリアム・アダムスもそのひとり

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ウイリアム・アダムスの履歴

1564年英国生まれ

父は船員

12歳 ロンドン北岸で造船術・航海術を学ぶ

1588年 海軍入隊

1589年 結婚

バーバリー貿易会社に移り船長に

オランダ船団に入団

1598年 ロッテルダムから極東へ航海

しかし

5隻の船は、だ捕、沈没、帰港など

 

1600年 ウイリアムの乗っていたリーフデ号だけが

豊後国黒島に漂着

大坂に護送、家康と引見数回

江戸に招かれ、南蛮船を造る

他にも数学や地理学を家康らに教えた

外交顧問ともなる

海外貿易振興と色々家康に日本に尽力した

のちに武士となった、名前は三浦按針

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

こちらも若き知恵者

本田正信の長男正純は若い文官たちのまとめ役

父とは反対の真面目で働き者のようです

「跡継ぎ」が整いました

 

 

本多忠勝

武勇に長けたものの、戦なき世の日々

出番はありませんよね

追い打ちをかけるように「老い」が忍び寄っています

 

榊原康政ははらわたを病んでいるという

 

ふたりは「引き際」も考えなければならなくて

 

家康はまだ隠居はさせないと言った

自分同様に老いたふたりを奮起させるのと

今までの数々の功に対する賞賛と聞こえました

 

忠勝は殿を守って死ぬのが夢

確かに若い時からそう言っていたのを覚えています

 

しかし願いは叶わなかった

 

これで四天王は皆、旅立ってしまいました

 

榊原康政 慶長十一年(1606) 死没

本多忠勝 慶長十五年(1610) 死没

 

忠勝の言葉としてこんなのが

 

「わが本多の家人は志からではなく見た目の形から

武士の正道に入るべし」

 

今も形から入る人は幾人もおられると思いますよ

 

かつて我が家にも居たような…

 

 

 

豊臣秀頼 立派に十九歳となる

家康 「時は満ちた」

 

どうするんでしょう、家康

 

 

 

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2023/11/25

2023-11-25 10:51:20 | 四季折々に

今朝8時頃、比叡山の上にうっすらですが大きな虹が

11月はよく虹がでますね

母の亡くなった時、
父の亡くなった時
虹見ました

私と違い、実直に生きた両親きっと天国やなあ~
私は…どうだか、地獄行きかなあ

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どうする家康 第43回 関ヶ原

2023-11-19 16:58:02 | どうする家康
 
 
 
 
戦なき世をつくるための戦が終わった
 
そして、その願いは叶えられたのでしょうか
 
 
 
 
自らの信念を曲げず、秀吉への忠義を貫いた三成
 
「大一大万大吉」
 
一人は万民のため、万民は一人のために尽くせば
 
天下の人々は幸福(吉)になれる
 
 
ワンフォーオール オールフォーワン
 
 
 
 
 
 
はるか昔の私の先祖は湖北に暮らし、
 
明治の初めまで彦根にその後京都へ
 
 
生まれ育った京都を離れ滋賀を終焉の地に選んだ
 
そんな私の偏見を
 
「たあけ~」とお叱りください
 
 
 
 
「どうする家康」 まもなく最終回ですね
 
ここまで見て、やはり家康は…
 
 
家康はすごいと思います
 
 一貫して「待つわ」なのですね
 
 
切羽詰まり、家来たちが殺気立っても
 
「待て」
 
 
 
 
 
こういう考え方の殿が、
 
あの血気盛んな井伊直政や本多忠勝を導いた
 
また、本多正信のような裏表のある信用しにくい人物を
 
上手く使いこなした
 
上司として、今もお手本になる人なのかもしれません
 
 
 
亡き夫の愛読本?積読本? こんなのがあります
 
童門冬二「戦国武将 人心掌握の極意」
 
徳川家康 天下人の人のつかい方
(もくじ部分を引用します)
 
 
*自分だけ目立とうという人間は首にしろ
 
*明日はどんな悪口を書くのか、楽しみだ
 
*おしんこは、辛いままにしておけ
 
*私の宝物は部下です
 
*部下の手柄で今日の私がある
 
*部下に苦労させるのは、私が悪いからだ
 
*公私のケジメをハッキリさせる
 
*人事異動のモノサシ
 
*昔の恩を忘れない
 
以上です
 
もくじだけでは、どういうことなのか?
 
分からないのもあります(^-^;
 
 
武田信玄、織田信長が載ってない、なぜ
 
 
<<<<<<<<<<<<>>>>>>>>>>>
 
 
絶対服従させる、信長
 
気前がいい、秀吉
 
待つ、家康
 
アッ! 「鳴くまで待とう時鳥」がありました!
 
そうでした
 
言い尽くされた家康感でした、忘れてました
 
 
 
 
 
関ヶ原の合戦で三成は敗北
 
佐和山城を目指しましたが、途中で捕まってしまった
 
かなりの距離ですよね
 
 
 
町を引き回されのち、六条河原にて斬首の刑でした
 
 
 
 
昨日、所用で祇園四条へ行き、用事を終えて
 
その辺りを歩きました
 
六条河原、ここから近いなあ~三成の最期の場所
 
と、感慨深かったです
 
 
土壇場の裏切り者、許せないなあ
 
 
 
滋賀県、岐阜県にはどれだけの戦死者が
 
葬られているのでしょうか
 
JRに乗っても名神高速を走っても
 
関ヶ原、賤ケ岳、これからは手を合わせます
 
 
 
 
 
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どうする家康 第42回 天下分け目

2023-11-12 16:51:49 | どうする家康

 

 

「家康、天下を治むるに能わず、

多くの者がそう申しておる

民の声か、天の声か」

 

三成が挙兵した

毛利輝元

宇喜多秀家

小西行長

徳善院

増田長盛

長束正家

その他にも、大坂入り多数

 

それを聞いて家康は

「逆臣に仕立てられたか」

と顔が曇る

 

家康断罪の書状が出回っていた

三成軍は今や、超大軍になっていた

家康は、天下人にそぐわないと言われたようで

落ち込んでいた

大坂城の阿茶、伏見城の鳥居元忠はどうなっただろうか

 

真田や上杉は思うようにならず…

 

「ここを勝って乗り越えれば天下を取れる」

本多忠勝が、殿、家康にエールを送る

 

家康は

大きな命令を出しました

「このままでは乱世に逆戻りだ

孤立無援になろうとも戦う

安寧な世は我らの手にかかっておる」

 

 

*井伊直政・福島正則

東海道を西へと進軍

 

*秀忠初陣 三万の兵

本多正信、榊原康政を伴い、信濃の真田を

従わせること

 

*結城秀康(家康の次男)

上杉は私が引き受けまする

家康の側室のお万は母

母の願いは「いつか家康の助けになれる人に育てる」

しっかり、現実にしましたね、えらい!

平岩親吉が従います

 

そして、殿

今は内府殿と呼ばれていますね

江戸へ

 

一方、石田三成は総大将となった

大坂城を離れ、美濃大垣城に入る

 

ここで、進められたこと

この様なことは知らなかったです、私

家康、三成、両人がそれぞれ全力で行ったこと

 

なんと、味方を獲得するための

書状を書く

毎日毎日、机に向かい

取り敢えず、相手への腹立ちを抑え書き続けたという

ご両人共がです

日本全体にです

いったい何通くらいの書状が日本を飛び交ったのでしょうか

JPもない時代

一説によると、手紙は現存をはるかに上回る数であった

その中で恐らく三成の書状は残されていないだろう

勝った家康の書状だけが残ったのだろう

そのようなことだそうです

さて、人心掌握の文章力への軍配はどちらに

 

 

天下分け目の序の章と言ってもいいでしょうか

先陣の井伊直政、本多忠勝、福島正則

あっという間に福島は岐阜城を落としました

 

「落とすのが早過ぎる」

 

だそうです

このまま進軍すれば、本軍なしでの

三成軍(大垣城)との戦になってしまう

そこで、秀忠には真田の居る信濃には行かず

美濃赤坂を目指せ、しかも期限付き9月9日までに

 

 

家康も江戸から美濃赤坂に急いだ

 

だが秀忠がまだここに着いていないことを知る

 

まんまと三成に導かれた騙されたと

家康も康政も正信も思った

導かれているのは

そこは天下分け目の戦の最終の地

三成の心の内を家康は察した

 

「関ケ原」

 

その頃三成も「関ケ原」に夢を見ていた

 

家康と三成は同じこころを持っていたのですね

でも、どこかで行き違った…

 

 

 

 

 

千代さん、見事な最期でしたよ、さようなら

 

 

彦殿(中央)かっこよかったですよ

千代さんと一緒に逝ってしまわれました

せめてもの仏さんの計らいなのか…

 

長らく登場のおふたりでした、ありがとう

 

 

 

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松山千春コンサート・ツアー2023秋

2023-11-10 16:14:38 | 松山千春
 
 
11月8日、松山千春コンサートに行って来ました♪
 
 
 
 
今回は大阪国際会議場グランキューブ大阪にて
 
 
JR大阪駅で環状線(内回り)に乗り換え福島駅で下車しました
 
 
やはり大阪は人も多いです
 
軽く何か食べようと、元パート友達と探しましたが
 
一杯飲み屋さん風は沢山あるのですが…
 
仕方なく、コンビニでおにぎりと、出汁巻き卵を買って
 
会場の横を流れる堂島川の散策路のベンチで
 
もぐもぐ 
 
適度に日が暮れて、顔が差さずに、ほっ(^-^;
 
川沿いには、イルミネーション
 
穏かな川ですね~
 
この辺り中之島なんですね、知らなかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
開演30分前には入場しました
 
グッズ売り場も昔ほど、ワクワクしないのは
 
年のせいです、きっと
 
 
 

デパートでパートをしてた時の仲間と行きました

友達はまだ2回目なのですが

早くも落ちましたね、 松山千春さんに

とにかく、一緒に行ったら皆、ファンになってしまいます

そこで私は先輩面して

あーやこーやと説明する訳です😅

 

20代30代の頃の歌をたくさん歌われました

うれしいなあ~♫

 

印象深かったのが

「あなたが僕を探す時」

 

長く聞いてないCD

セピア感が出て来たりして…

 

 

 

♪ あなたが僕を捜す時

瞳をとじてごらんほら

いつでもそばにいるはずさ

愛しているさいつだって

生きている それだけで 人は皆 幸せさ

 

あなたが僕を捜す時

腹をたてたり笑ったり

たとえ自分を投げ出しても

愛しているさいつだって

 

生きている それだけで 人は皆 幸せさ

 

風のささやき聞こえますか

そそぐ陽差しが感じますか

あなたの道が見えますか

愛しているさいつだって

 

生きている それだけけで 人は皆 幸せさ

生きている それだけで 人は皆 幸せさ

 

ラ~ラ~ララ~ ラ~ラ~ララ~

ラ~ラ~ララ~ ラララララララ~

 

 

あの毒舌を散々ぶちまけたしりから

この甘いメロディを、あの甘い声で

想像してください

 

そんなこんなで

デビューの1977年から今、2023年

 

スターも観客も、ええ年になりました

 

お互い若い頃を懐かしみながらとうとうアンコール

 

会場は総立ちです

この瞬間のためにも、足腰鍛えないと!

 

 

秋のコンサートは、最後の曲には雪を降らせるのですが

この長い夏ですから

今回は降らないと思ったのですが

最後、降りました

北島三郎さんの「風雪流れ旅」には及びませんが

ちらちら 降りました

 

今年もこれで終えられる

いやいや、まだ一か月半あります

どうかどうか、何事もなく2023年を終えられますように

 

 

帰り道はとっぷり日も暮れて

堂島川に、ビルの窓の灯りが写り込んできれいでした

 

 

 

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どうする家康 第41回逆襲の三成

2023-11-05 14:08:58 | どうする家康

 

 

石田三成

 

近江の国坂田郡石田村で誕生

(現在は、滋賀県長浜市石田町)

 

 

長浜市は琵琶湖岸の北の方、

琵琶湖の肩にどっかと乗ったような感じです

 

信長に仕えていた頃の秀吉は長浜城主となった

その頃から三成の父、兄が秀吉に仕え三成も小姓として仕えた

 

信長没後、秀吉の側近となる

 

治部、治部と呼ばれている三成

秀吉が関白に任ぜられたと共に

三成は、従五位下治部少輔(じゅごいげじぶのしょう)に

(おさむるつかさのすなきすけ)

 

それで「治部」はどんな役目なんでしょうか

*朝廷の部署で元は外交、戸籍、儀礼を担当だったが

時代と共に役目も減り

戦国時代、このような官職の役目はなくなり

名誉職でした

治部は名のみの実の無さよ~ってとこだったようです

 

治部も家康も同じことを考えていました

「戦のない世を」

 

ふたりで星を見ていたことがありましたね

好奇心旺盛なふたり、いいことです、はい

 

家康と三成、似たもん同志のように思えました

 

余談ですが、中村七之助さんと松本潤さんは同級生だとか

仲も良いのだとか

以上です(>_<)

 

 

前回で三成は所領の佐和山城へ隠居しました

 

「佐和山城」

この名前、優しくて好きなんです

 

星空を一緒に見た日からふたりは

上手くいくと思っていたのですけど…

 

三成は完全に、決裂してます

 

一方、家康は三成の実力を買っていて取り立てたいと

ただですね、「狸」らしいですし

何がほんとだか、信じられません

 

やはり家康は秀吉亡き後の政権を握りたい

豊臣秀頼の政権を支える、は建前だな~

 

そして石田三成は、一旦隠居したものの

豊臣の天下を守るというのですから

 

戦も否めないですね

いよいよ関ケ原ですか

 

 

 

以前彦根の「天寧寺」という所に行きました

五百羅漢さんがおられることで有名なお寺です

 

確かお寺さんの関係の方だったと思うのですが

 

「佐和山城に居た人が追い詰められ、山の崖から

飛び降りて命を絶った人が大勢いた」

 

と聞きました

まるで昨日のことのように…

 

三成や佐和山城を深く愛しておられるんだなあ~と

思いました

 

何度か私のブログに、白い朝顔の写真をあげていますが

この天寧寺近くの道沿いの草むらで

摘んだ種からなんです

花好きな友達が、野生種やな、と言ってました

 

この辺りから、佐和山城の方角を見上げたこと

覚えています

彦根の町から坂道を登ったはずです

 

「関ケ原」という映画がありました

 

家康の正妻築山殿を演じられた有村架純さんも出演で

伊賀忍者、初芽の役柄

 

三成は、岡田准一さん

 

はじめは家康が三成を探るため送り込んだ間者

ところが三成の”犬”として忠誠を貫く

 

家康が裏切られたことになりますね

初芽は三成に思いを寄せていたということです

 

初芽は実在しない人

司馬遼太郎の歴史小説「関ケ原」

の中に登場だそうで、私は読んでませんが(^-^;

 

 

映画「関ケ原」での石田三成

幼い時に豊臣秀吉に認められ忠誠を誓った

が、秀吉のように利害を求めるのでなく

正しく戦のない世の中にしようとした

 

おなじく徳川家康

言葉巧みに武将たちを引き寄せていく人物

そんな映画

 

 

 

さて、ふたりのここまでの歩みですが

 

ずるさも少し感じますが

家康はやっぱり大変な苦労をしている

幼い時から人質暮らし

あの獣のような信長のもとでどれだけ怯える日々だったか

 

三成は、それは無かったような

秀吉の家臣となって、出世街道スタスタと

挫折を家康ほど知らないのではないでしょうか

 

 

大名たちによく思われなくなっていった

 

「太閤検地」に関しても大名たちは三成を恨んでいたらしいです

とにかく殿下に認められ

重要なポストに任ぜられていた三成ですから

周りの者には承服できない采配が有ったかもしれません

 

出る杭は打たれる

 

秀吉が、やりっぱなしで亡くなって

家臣は皆、さんざんな目にあいました

三成も総司令官として足元がぐらつき始めたよう

「しくじり」による「しくじり」になりました

 

 

隠居生活から、また一線に出てこようとしています

 

関ケ原

武器は刀や銃だけではなく

頭脳戦、特に裏工作が多い様な

駆け引きを制すものが勝つ、天下分け目の合戦

 

地元民としては、三成がんばれなのですが…

 

自宅から関ヶ原駅まで

JRにて所要時間は約1時間

関ヶ原駅から岐阜関ケ原古戦場まで徒歩10分

 

遠くからでもあちこちに幟が立っていてよく分かります

 

いつか行ってみたいです

 

「どうする家康」 の関ケ原の合戦

 

NHKはどうする?

 

 

 

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俳句大会に行って来ました

2023-11-02 15:32:49 | 俳句・和歌
 
 
 
先週は俳句大会がふたつありまして
 
ひとつは琵琶湖ホールの近くの会館でありました
 
 
 
以前より、少し参加者減ったように思います
 
 
この日はいいお天気で、解散後琵琶湖のほとりを
 
近江鉄道ひと駅分歩いて帰りました
 
 
 
実はコロナ以前、会館から歩いて帰ろうと思い
 
ひとりで歩いたことがあります
 
近江大橋を渡り始めた頃、足の裏が痛くなり
 
もう、とてもとても!
 
これ以上は無理で断念するしかありませんでした
 
 
石場出発→→草津イオン
 
これにてウォーキング終了
 
 
イオンでショッピングはしたような、してないような?
 
ケーキセットを食べたような、珈琲だけのような?
 
そこのところは記憶が曖昧でして…
 
 
 
あれから、コロナ、足の手術、いろいろ、ありました
 
 
 
足の手術をしてから1年10ヵ月
 
石場駅から膳所駅のウォーキング、無事に歩けました🎵
 
 
 
 
 
 
 
琵琶湖ホール
 
何度見ても、魅かれます
 



 
 
琵琶湖文化館 (鴟尾)
 
2023年10月28日 にパチリ
 
 
 
 
こちらは、2022年10月に (とんぼ)
 
 
屋根の上の装飾部分が違います
 
昨年のは、「とんぼ」
 
 
 
今年のを拡大してみますと 「鴟尾」
 
 
 
 
一部改装されたようです
 
屋根も吹き替えられたのか、色を変えたのか
 
今は休館中ですが、いずれまた開館するそうです
 
 
琵琶湖の傍での大会への投句は
 
 
指先の唄う踊り子風の盆    佳作でした
 
 
 
 
その一日前の、駅近くの場所での大会は
 
 
朝露や野の満点の星となり    佳作でした
 
 
どちらも佳作とは
 
 
 
10月の通常の句会も同じ週にあって、忙しい月末でした
 
11月の句会は吟行なので楽しみです~ 
 
 
 
 
 



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