神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

摂津鉄道、阪鶴鉄道、箕有鉄道(『かわにし「川西市史第3巻』より)

2018年02月15日 06時42分53秒 | 読書

最近はカテゴリー分けに苦労する。

今日これから書こうとする記事もそうだ。

昨日、夫が夕食不要と言って出かけたので、以前から調べたいと思っていた川西市を走っている鉄道について調べてきた。

図書館でその旨を話すと、司書の方がそれにぴったりの本を探し出してくれた。

ありがたくて手を合わせたくなる。

それは『かわにし「川西市史第3巻」』という本だ。

第3巻ということは、シリーズになっているようだ。

禁貸出しで閲覧のみ許される本だったから、司書の方の座っておられる大きな机で読ませていただいた。

その読んだ記憶を自分の備忘のために書くので間違ったことも書くかもしれませんが、間違いに気づかれた方はご指摘ください。

記事を書くために本の中の地図を私がケイタイで写していても何も言われなかったので、アップさせていただく。

と、前置きが長くなってしまったが、以前から、むかし尼崎や伊丹から川西(駅名は「池田」)まで走っていた軽便鉄道に興味があった。

上の写真は川西村にあった池田停車場の地図である。

なぜ川西村にあったのに池田駅かというと、当時は川西は無名の村だったし、もともとこの軽便鉄道は尼崎や伊丹から池田に物を運ぶためと同時に池田から伊丹、尼崎に物を運ぶための鉄道であったので、そう名付けられたようだ。

当時の池田は能勢の菊炭やその他の産物を出荷するターミナルであったらしいし、賑わっていた池田には尼崎港から陸揚げされた物産が必要ということでもあったのだろう。

伊丹は、当時、綿糸紡績、綿糸織物の産地であったらしく、これらの物産を尼崎港から出荷する必要があったようだ。

現在も川西市にあるJRの駅名が「川西池田駅」であるのは、こういう歴史があったからである。

現在の「川西池田駅」は川西の西の端の宝塚との際にあるが、昔の「池田停車場」は川西の東の端の猪名川西岸にあった(ようだ)。

といっても、そのころは川西市という地名ではなく、宝塚との際の地名は寺畑、のち花屋敷であった。

猪名川の西岸の地名は小戸と小花であった。

現在全部川西市になっているが、この川西市という市は南北に長く東西に狭いので、宝塚寄り、池田寄りといっても、どちらも散歩がてら歩いて行けるくらいの距離しかない。

実際、私や夫の散歩コースは、日によって宝塚、また日によっては池田であったりする。

と余談になってしまったが、

そういうわけで、

猪名川を渡れば池田だから、「池田駅」と名付けても、それほど不都合でもなかったのだろう。

が、その後、どんどん宝塚寄りの場所になったのに、相変わらず「川西池田駅」であるのは違和感がある。

池田駅が西に移っていったのには、川西村の住民(特に駅の所在地の小花地区の住民)の反対があったかららしい。

そのころは蒸気機関車だったので、走ると煤が出た、だったかな?

当時の鉄道は摂津鉄道と言い、私鉄である。

最初は馬車で走っていたらしい。

前身は「川辺郡馬車鉄道」。

現在の川西小学校の東側すれすれを通って呉服(くれは)橋の近くまで走っている。

その後、鉄道は大阪と舞鶴間を走らせるという目的のもと、「阪鶴鉄道」と改名される。

このころ、この阪鶴鉄道は国に撤収されて私鉄から国有になったらしい。

現在のJR福知山線、すなわち宝塚線の前身である。

↓下の写真は上の写真より古い写真だ。

尼崎から伊丹を通り、池田停車場に至る摂津鉄道の計画線路図である。

このころ伊丹から宝塚行きもできたのか、伊丹から二股になり宝塚方面にも鉄路が伸びている。

↓こちらは、その後、京都から山陰に伸びる鉄道も併せて図にした広範囲の地図の写真である。

阪鶴鉄道は、その名前でもわかるように、大阪から舞鶴まで走らせるのが目的だった。

が、京都から山陰に走る鉄道に先手を打たれたので、目的が知り切れトンボになった。

それでも頑張って福知山まで走らせたので、以後「福知山線」と名づけられたとか書いてあったような?

資料が私の手元にありませんので、正確に知りたい方は川西市立図書館5階の資料室でこの本をお借りしてお読みください。

この記事は、おおざっぱなご紹介、あるいは参考ということで・・・。

この阪鶴鉄道は国鉄になったが、その後、川西から梅田まで走らそうという人たちがいて会社を設立したらしい。

その会社の本社は川西の花屋敷駅に作ったらしいが、自分の町に鉄道を走らせたい池田の協力を仰ぐため、本社を池田市に移し、専務取締役に小林一三氏を選んだらしい。

それで小林一三さんの旧居は池田市なのですね。

と、これは私の推測。

この小林一三さんが、宝塚少女歌劇を作ったり、沿線に高級住宅地を売り出したりと、天才的な経営者だったから、現在の阪急電鉄の繁栄はあるのですね。

この箕有鉄道の繁栄に伴って、国鉄になった阪鶴鉄道が衰退したというのは皮肉なことだった。

現在もその歴史の名残りとして、阪急川西能勢口駅周辺が賑わっているのに比して、JR川西池田駅は駅周辺も含めてローカル駅な雰囲気である。

阪鶴鉄道にも池田駅と駅名はあったが、この新しく作られた鉄道の駅は偽池田の川西ではなく、正真正銘池田町にできた。

鉄道の名前は、この鉄道が池田から箕面に支線を走らせることと、有馬まで伸ばすことを目的としていたから、箕面と有馬の名から「箕有(きゆう)鉄道」と名づけられたらしい。

これが、その後の阪神急行鉄道、すなわち阪急電鉄になる。

その後、能勢妙見山まで鉄道を走らせようということになって、その駅は、阪鶴鉄道池田駅から箕有鉄道池田駅を通って能勢に向かう予定だったが、池田の住民が「そんなことをしたら池田がさびれてしまう」と反対をしたため、能勢に行く鉄道は川西小花に新たな駅を設けることにしたらしい。

↓下の写真は、その小花あたりの詳細地図である。


昔の川西は、ほとんどが田んぼだったことが上の地図でわかる。

*

・いにしへの鉄路たしかめ今を知る今も走れる阪急電鉄

・阪急は箕有鉄道より生まれ花屋敷駅に本社が

・池田市に本社移転をせし箕有鉄道箕面有馬鉄道

・歴史知ることは現在知ることの理(ことはり)なれば調べる歴史

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (はなこころ)
2018-02-15 14:10:41
鉄道沿線の衰退 変動
時代の流れですね。
小林一三さんの偉業は
こないだ ブラタモリでやってましたね
興味深いです。

…はなこころ
はなこころさんへ (biko)
2018-02-15 16:57:03
小林一三さんは天才だと思います。

阪急電鉄は、彼がいなければ現在のような発展はなかったと思います。

池田市の彼の住んでいた屋敷が一般公開されていますが、その屋敷を見せてもらうと、彼の考え方がよくわかります。

私は、今日は、先日のブラタモリの影響で、宝塚を探索してきました。

またブログにアップします。^^

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