島津忠夫先生にお目にかかったことは、数回しかない。
村形さんのことを書いた記事でも書いた通り、「日本歌人」という短歌結社の歌会に2度参加させていただいたときと、あと、数年前に京都国民文学祭があったとき、連歌の部の選者であられた島津忠夫先生が講演もなさるというのを、夫の友人の連歌の先生に誘われて聞かせていただきに行ったときの計3回ということになる。
が、そのお噂はたびたび聞かせていただいていた。
私は、主に村形明子さんから、夫は、その夫の友人の連歌の先生から。
ちなみに、この夫の友人も、この京都国民文学祭の連歌の部の選者を務められた。
この島津先生の講演会のことは、私から村形さんに教えてあげた。
当時は、まだ彼女は連歌に足を踏み入れていなかった。興味はもっていたけれども。
彼女は、来るとは言ってこられなかったので、来られないかなと思っていると、来られていた。
来られていたのに、どういうわけか私達のところに来ないで、こっそり講演を聞いていられた。
それに気づいた私が、講演が終わってから、彼女に声をかけて、夫の友人を紹介しようとすると、村形さんは、「私は近年みすぼらしいお婆さんになってしまっているから、紹介していただきたくない」と逃げて帰ろうとする。
「まあ、そんなこと言わないで、夫の友人も、そんな格式ばった人ではないから」と言うのだが、思い込んだら曲げない質の村形さんはドアを開けて逃げようとする。
ところが、そのドアは鍵がかかっていて逃げられなかった。
彼女は必死になって、別のドアから逃げ出した。
その姿は漫画ティックで、ある意味、彼女らしく、いま思い出しても頬が緩んでくるような場面だった。
仕方なく、私は村形さんを追いかけるのは諦めて、その後、その連歌の会の懇親会に出席させていただいた。
実は、この国民文学祭の連歌の部には、私は、その夫の友人と夫とに、半ば強制的に出詠させられていた。
私は、連歌のルールも知らないので、いま思い出しても冷や汗の出るような愚作を出詠したのだが、その出詠のおかげで、一応その懇親会に参加する資格は得られていた。
夫は、どういう理由で出席できたのかは不明だが、まあ、夫も一緒に出席させていただけた。
その懇親会に島津忠夫先生も出席されていた。
お席も比較的近くだったので、以前、日本歌人の歌会に参加させていただいたとき頂戴した冊子のお礼も言わないといけなかったのだが、うっかり話しかけて、先生からいろいろ話しかけられると、難聴の私は対応に困ることになるので、敢えて見て見ぬふりをさせていただいた。
島津忠夫先生、その節は失礼いたしました。(と、今頃お詫び申し上げても、もう鬼籍に入られましたが)
島津忠夫先生は、お歳こそ90歳を超えられていましたが、そのりんとした佇まいは、見方によっては、青年のようにさわやかなそれであられました。
村形さんや、夫の友人が憧れるのも頷けるお姿であられました。
島津忠夫先生が素敵であられたのは、見た目だけでなく、その学問的信念のようなものに、より色濃くその魅力があられたようです。
村形さんから聞いたか、夫の友人からの話を又聞きしたかは忘れたのですが、島津先生は、国文学のある事案に歴史的画期的新解釈をされたことがおありだったとか。
たぶん夫から聞いたと思いますので、その内容がわかれば、また記事にするかもしれません。
見かけだけでなく、その学問的姿勢が格好いい先生であられたようです。
ウイキペディア島津忠夫
村形さんと、その夫の友人とは、その後連歌を通じて、ごく親しい関係になられた。
村形さんが亡くなる前、村形さんが入院したことを夫が彼女に伝えると、京都在住の彼女はすぐにお見舞いに行ってくださり、「いましがた亡くなりました」というニュースは彼女から私達にもたらされた。
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九十を超えても背筋まつすぐに歩く人なりき島津忠夫氏
風貌の若々しかりしその人の学究心はさらなりしかな
先生は期せず多くの学問の好きな女性を虜にしたり
先生を尊敬しゐるそのことがそれらの人々むすびつけたり
先生は亡くなられても先生を慕ふ人らは親しみあふも
(追記)
村形さんが、なぜ逃げて帰られたかと後で聞くと、上に書いたことも理由にあったけれども、私達が夫婦で懇親会に出席するのに、自分だけ一人というのもあったよう。
が、もし出席していたなら、島津忠夫先生もお独りでぽつねんと座られていたから、より親しくなれるチャンスだったと思うのだが、まさに「後の祭り」とはこういうことを言うのだろう。
それから、これは私の推測だが、彼女も、あちこちよく出かけるわりには、それほど懐が豊かにないという経済的な事情もあったのではないか。
私も、夫同伴で夫が懇親会費を出してくれたからよかったようなものの、自分ひとりなら、出席しなかったと思うにつけても。
いえ私もそれくらいのお金の所持がないというわけではないのだが、自分の分野でもない連歌の会には無駄にお金を使いたくないというか。
国立大学教授を定年退官したというと、世間的な評価は高いが、年金はそれほどではなかったかもしれない。