神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

昨年の今日は母と小豆島に泊まったようだ

2018年03月01日 21時19分21秒 | 思い出
また昨年の今日の記事について書く。

昨年の3月1日は、母が、昨年9月に亡くなった村形明子さんを
小豆島の華道のお弟子さんの経営するホテルに招待すると予約を入れてあった。

が、母の病態を知った村形さんは、
「それがどれだけ危ない状態か医師の娘であった私にはわかります」
と断ってきた。

何でもいったん決めたことは遂行する母は、
「予約を入れたから絶対行かないといけない」と断行した。

それにわれわれは付き合わされた。

昨年の記事には、そのことが書かれたあった。

今年の1月11日も入院中の病院の主治医の先生から無理やり外泊許可を取った母であったが、
昨年も、こうして無理をしていたのだ。

村形さんの言うように、昨年小豆島で死んでいても不思議はなかった、と思う。

せめて小豆島で亡くならなくてよかったと今は思える。

*

・母よ母あなたは去年の三月も許可をもらひて小豆島へと

・県外で亡くならなくてよかつたと去年(こぞ)の記事見て思ふ今日かも


小豆島のホテルの夕食
夕食は、私達夫婦と母と母の友人とホテルオーナー夫妻とオーナー奥さんのお姉さんの計7人で。まず、このホテルの売りである新鮮なお刺身。↓このさざえがとてもおいしかった。......

別荘

2018年02月13日 05時39分07秒 | 思い出
コメントくださった方のブログを読ませていただくと、別荘をもっていらっしゃるご様子。

東京にお住まいで、別荘は長野県!

理想的なお暮しのようにお見受けする。

が、実は、私どもも、いわゆる別荘と呼べるかどうかわからないが、別荘をもっている。

その場所は、大阪の北海道と呼ばれる能勢町である。

別荘というより物置なのだが、これは以前大阪のマンションに暮らしていたころ、親子5人にはあまりにも狭すぎたので、季節季節に、この別荘というか物置に季節外のものを運んで入れ替えしていたのである。

本当は物置だけでよかったのだが、しかし、大阪市内から片道1時間かかる能勢町に行くときは泊まれたらと思って、2階は部屋にした。

大阪のマンションに住んでいたころは、季節の入れ替えの必要もあって、比較的たびたび行っていたが、現在、兵庫県川西市に住むようになってからは、距離が近くなったにも関わらず、ほとんど行っていない。

子供達が巣立って、荷物を置きに行く必要がなくなったことと、現在の住まいが一応一戸建てで収納スペースも十分あるという理由にもよる。

それと、大阪市内に住んでいるころは能勢の田舎が新鮮で、行くのが楽しみだったということもあった。

現在の川西市は、大阪市のベッドタウンで、駅前は都会なのだが、少し行くと、山あり川ありの自然が残っているから、わざわざ能勢町まで行かなくても自然が楽しめる環境のせいもあるかもしれない。

が、いっとき夫が仕事の手伝いに就職浪人の青年を雇っていたころは、仕事がないときは仕事を作るため、彼と一緒に能勢の別荘に行き、しなくてもいい?作業をいろいろしたりしていた。

その青年も、夫の仕事もわざわざ人を雇うほどの量でもないということで辞めてもらってからは、能勢町に行くこともなくなった。

しかし青年が来てくれているころは楽しかったなあ。

仕事と名づけてではあるが、たびたび能勢町に行って作業して、そのついでに、能勢温泉という保養所で、ランチバイキングを食べてきたりして・・・。(笑)

青年の性格がよかったから、義理の息子ができたような幸せも味わわせてもらった。

現在も、夫は一人で仕事をこなすのは大変で、一人雇ったら楽になるのだが、そこまでの収入があるわけでもないから、夫一人で頑張っている。

だから、私も、せめてごはん作りくらい頑張らなくてはならないのだ。

*

・別荘といふより物置なりしかど持ちてゐるなり能勢に今でも

・大阪ゆたびたび行きし能勢町に行かずなりたり能勢口に住み

・大阪市内から能勢に一時間川西能勢口からはすぐなり

・近くなり行かずなりにし能勢町に以前は時間をかけて行きにし

・大阪の北海道と呼ばれゐる能勢町冬の寒さ厳しく

・大阪府能勢町なれど兵庫県川西市より都会に遠し

・豊中を通り池田を通り抜け川西抜けて行く能勢町へ

死んでいたのに眠っていると思った私

2018年02月06日 11時59分46秒 | 思い出
今日のこの記事のカテゴリー分けは何にすればいいだろう。

「思い出」にするには早すぎるが、思い出であるのが事実だから「思い出」に入れておく。

また母のことであるが、すでに書いたかもしれないが、私は、母とホテルに泊まっていて、母が死んでいるのに気づいたのは朝だった。

が、午前2時過ぎに一度目覚めたときに母はぐっすり眠っていると思ったが、あとから考えると、このとき既に死んでいたかもしれない。

夜9時くらいだったか、私が眠ろうとしていると、母が独り言のように、

「病院だったら酸素吸入してもらえるから楽になれるけど」

と言ったことを覚えている。

それで、その夜は、翌朝は早く朝食を摂り、速やかに病院に送ろうと思って寝た。

夜中の2時ごろに目が覚めたとき、朝すぐに出られるようにと自分の荷物をまとめたりした。

母の荷物は、朝まとめてやらないといけないから、とりあえず自分の荷物はまとめておこうと思ってのことだった。

そのことに気持ちが捉われていたから、母が死んでいるのを眠っていると勘違いしたのかもしれない。

私自身、自分ではそう思っていなかったが、寝ぼけているところもあったかもしれない。

母は亡くなる前の日の朝、私に、「あなたはよく眠っていた」と羨ましそうに言った。

私は母に、「人が眠っていることがそんなに羨ましい?」と聞いたことを覚えている。

母はたぶんよく眠れなかったのだろう。

その夕方、私が大阪から夜のバスで来るまで、母はホテルで眠っていたと言っていたから、そのせいで夜眠れなくなっていたと解釈したのだったが、あるいは死が近づいて眠れなくなっていたのかもしれない。

私も心臓弁膜症で死にかけていたとき、何日も眠れなかったし、何も食べられなくなっていた。

そのことを思い出した。

その亡くなった前日の朝は、甥の家族と一緒に朝ご飯を食べることになっていたから、母を急き立ててホテルのレストランに行った。

その後、近くの楽器店のピアノを借りて、甥の子(母の曾孫)のピアノ演奏を聴いた。

それからホテルに戻ってから、母は一日中寝ていた。

よほど疲れたのだろう。

母を寝かせてあげるために、私は部屋を出て、近くを散歩したりして、午後戻ってくると、母はまだ寝ていた。

母がミカンが食べたいと言ったが、ちょうど私はミカンやビスケットを買ってきたところだったので、それを言うと母は安心したようにまた寝た。

その後、私のほうが、前の日の疲れが出て夕方まで寝込んでしまっていた。

夕食の時間になっても起きない私を起こしたのは母だった。

亡くなる前日の夕食を母は「おいしい、おいしい」と言って食べた。

部屋に戻って、私は、また間もなく寝た。

私も、よほど疲れていたのだろう。

次に目覚めたのが夜中の2時過ぎだったわけだが、そのとき母は熟睡していた(ように見えた)

「昨日の夜はよく眠れなかったらしかったから、よかった」と私は思った。

異変に気付いたのは、私が二度寝して目覚めた午前7時半だった。

「7時に朝食を食べにいく約束をしていたのに寝坊してしまった」と思いながら母を見ると、母は夜中に見たと同じ姿勢で熟睡している。

このとき「ん?」と思った。

母を触ると、まだ温かかったが、呼吸していなかった。

救急車を呼ぶことを思いついたが、大騒ぎになるといけないと思って、兄嫁にメールして病院の主治医の先生に連絡してもらった。

主治医の先生の指示は、「救急車で病院に運んでください」だった。

もうすでに呼吸をしていなかったが、救急隊の方は懸命に心臓マッサージをしてくださった。

病院に到着すると、主治医の先生が待ち構えてくれていて、私は別室で待たされた。

しばらくしてから、主治医の先生は、私のところに来て、私の肩を抱いて、

「大往生でございました」と静かに言ってくださった。

このときの、主治医の先生の心のこもった対応は忘れることができない。

先日読ませていただいた歌人の馬場あき子さんは、お連れ合いの岩田正氏を、私の母と同じ
心不全で亡くされたあと、取り調べのようなことをされたと歌に詠われている。

私の母のときは、そういう取り調べが一切なかったのは、これも主治医の先生のお取り計らいのお陰だったかもしれないと今になって思える。

主治医の先生、どうもありがとうございました。

生前入院中は、人並み外れたわがままな患者であった母の死に際しての気配りには、いくら感謝しても感謝しきれません。

お読みくだっているかどうかわかりませんが、ケアマネさんも、私の母には悩まされながらも、最後まで温かくお見守りくださり、ありがとうございました。

その他の皆様にも、厚くお礼申し上げます。

遅ればせながら・・・。

*

・亡くなりて二十六日目の今日に気づき敬礼すなり四方に

・亡くなりてゐるに気づかず寝てゐると思ひしあの夜母は死にゐき

島津忠夫先生の思い出少しと、続々、村形明子さんの思い出

2017年11月12日 09時59分03秒 | 思い出
島津忠夫先生にお目にかかったことは、数回しかない。

村形さんのことを書いた記事でも書いた通り、「日本歌人」という短歌結社の歌会に2度参加させていただいたときと、あと、数年前に京都国民文学祭があったとき、連歌の部の選者であられた島津忠夫先生が講演もなさるというのを、夫の友人の連歌の先生に誘われて聞かせていただきに行ったときの計3回ということになる。

が、そのお噂はたびたび聞かせていただいていた。

私は、主に村形明子さんから、夫は、その夫の友人の連歌の先生から。

ちなみに、この夫の友人も、この京都国民文学祭の連歌の部の選者を務められた。

この島津先生の講演会のことは、私から村形さんに教えてあげた。

当時は、まだ彼女は連歌に足を踏み入れていなかった。興味はもっていたけれども。

彼女は、来るとは言ってこられなかったので、来られないかなと思っていると、来られていた。

来られていたのに、どういうわけか私達のところに来ないで、こっそり講演を聞いていられた。

それに気づいた私が、講演が終わってから、彼女に声をかけて、夫の友人を紹介しようとすると、村形さんは、「私は近年みすぼらしいお婆さんになってしまっているから、紹介していただきたくない」と逃げて帰ろうとする。

「まあ、そんなこと言わないで、夫の友人も、そんな格式ばった人ではないから」と言うのだが、思い込んだら曲げない質の村形さんはドアを開けて逃げようとする。

ところが、そのドアは鍵がかかっていて逃げられなかった。

彼女は必死になって、別のドアから逃げ出した。

その姿は漫画ティックで、ある意味、彼女らしく、いま思い出しても頬が緩んでくるような場面だった。

仕方なく、私は村形さんを追いかけるのは諦めて、その後、その連歌の会の懇親会に出席させていただいた。

実は、この国民文学祭の連歌の部には、私は、その夫の友人と夫とに、半ば強制的に出詠させられていた。

私は、連歌のルールも知らないので、いま思い出しても冷や汗の出るような愚作を出詠したのだが、その出詠のおかげで、一応その懇親会に参加する資格は得られていた。

夫は、どういう理由で出席できたのかは不明だが、まあ、夫も一緒に出席させていただけた。

その懇親会に島津忠夫先生も出席されていた。

お席も比較的近くだったので、以前、日本歌人の歌会に参加させていただいたとき頂戴した冊子のお礼も言わないといけなかったのだが、うっかり話しかけて、先生からいろいろ話しかけられると、難聴の私は対応に困ることになるので、敢えて見て見ぬふりをさせていただいた。

島津忠夫先生、その節は失礼いたしました。(と、今頃お詫び申し上げても、もう鬼籍に入られましたが)

島津忠夫先生は、お歳こそ90歳を超えられていましたが、そのりんとした佇まいは、見方によっては、青年のようにさわやかなそれであられました。

村形さんや、夫の友人が憧れるのも頷けるお姿であられました。

島津忠夫先生が素敵であられたのは、見た目だけでなく、その学問的信念のようなものに、より色濃くその魅力があられたようです。

村形さんから聞いたか、夫の友人からの話を又聞きしたかは忘れたのですが、島津先生は、国文学のある事案に歴史的画期的新解釈をされたことがおありだったとか。

たぶん夫から聞いたと思いますので、その内容がわかれば、また記事にするかもしれません。

見かけだけでなく、その学問的姿勢が格好いい先生であられたようです。

ウイキペディア島津忠夫

村形さんと、その夫の友人とは、その後連歌を通じて、ごく親しい関係になられた。

村形さんが亡くなる前、村形さんが入院したことを夫が彼女に伝えると、京都在住の彼女はすぐにお見舞いに行ってくださり、「いましがた亡くなりました」というニュースは彼女から私達にもたらされた。

*


  九十を超えても背筋まつすぐに歩く人なりき島津忠夫氏

  風貌の若々しかりしその人の学究心はさらなりしかな

  先生は期せず多くの学問の好きな女性を虜にしたり

  先生を尊敬しゐるそのことがそれらの人々むすびつけたり

  先生は亡くなられても先生を慕ふ人らは親しみあふも

(追記)
村形さんが、なぜ逃げて帰られたかと後で聞くと、上に書いたことも理由にあったけれども、私達が夫婦で懇親会に出席するのに、自分だけ一人というのもあったよう。

が、もし出席していたなら、島津忠夫先生もお独りでぽつねんと座られていたから、より親しくなれるチャンスだったと思うのだが、まさに「後の祭り」とはこういうことを言うのだろう。

それから、これは私の推測だが、彼女も、あちこちよく出かけるわりには、それほど懐が豊かにないという経済的な事情もあったのではないか。

私も、夫同伴で夫が懇親会費を出してくれたからよかったようなものの、自分ひとりなら、出席しなかったと思うにつけても。

いえ私もそれくらいのお金の所持がないというわけではないのだが、自分の分野でもない連歌の会には無駄にお金を使いたくないというか。

国立大学教授を定年退官したというと、世間的な評価は高いが、年金はそれほどではなかったかもしれない。

今日も昨年の記事より・・・寺田寅彦記念館

2017年04月03日 19時04分09秒 | 思い出
高知の偉人といえば、坂本龍馬ばかりが喧伝されるが、実は、寺田寅彦という優れた科学者も輩出している。

昨年もご紹介したが、最近読者になってくださった方も多いので、昨年の記事をアップして再度お知らせさせていただく。

寺田寅彦随筆集より「我が中学時代の勉強法」
4月1日に寺田寅彦邸に行ったときにいただいた冊子を読んだ。ボランティアの方が夫と私にくださったのだが、表紙に「我が中学時代の勉強法」というのが見えたので、中学2年の孫に読ませた......


明日は早稲田実業 対 明徳義塾らしいが

2017年03月23日 18時55分19秒 | 思い出
明徳義塾高校は郷里の高校だが、選手は全国から集められているらしいから、いまいち力が入らない。

さっきgooブログから昨年の記事が「甲子園、今日の第一試合は郷里の土佐高校」だったと教えてくれたが、土佐高校は亡父と亡兄の母校だったから、思い入れが強かった。

特に当時の野球部監督は、亡兄のクラス担任で、私も一度お正月に亡兄と一緒にお宅にお邪魔させていただいたこともあったので、よけい親しみがあったのだ。

亡兄と仲がよかった友人が四番を打っていたこともあって、燃えた。(笑)

母と従弟と一緒に甲子園球場まで応援に行ったりもした。

その後、高校野球は見ることもなくなっていたが、昨年は土佐高だけでなく、次男の奥さんの母校、神戸長田高校も出場したから、少しだけ燃えた。(笑)

いくつになっても、何か燃えるものがあることはいいことだ。^^

  亡兄も亡父も母校の土佐高よも一度われを燃え立たせてよ  biko

  嫁さんを娘と思ふわたくしに嫁の母校は娘の母校  biko

  長女嫁母校にサッカーゴンがゐて次女嫁母校に淀川長治  biko

森友学園の母体・塚本幼稚園について

2017年03月18日 10時35分58秒 | 思い出
いま森友学園が大問題になっている。

私は、そのことに逆に驚いている。

なぜなら、その母体となった塚本幼稚園は、以前私どもが住んでいたマンションの近くだったから。

塚本幼稚園は決して評判の悪い幼稚園ではなかった。

我が家は我が家の事情で通わせなかったが、長女の友人も、次男の幼馴染も通っていた。

教育熱心な家庭が通わせていた幼稚園という印象だった。

実際、塚本幼稚園に通わせていれば、他の稽古事とかわざわざしないで済むと、通わせていた友人は言っていた。ほめていたというか自慢していたというか。

そしてその結果か否かはわからないが、長女の友人は医師になったし、次男の幼馴染は東大大学院を卒業してJR東日本に就職した。

次男の幼馴染のお母さんのほうは私と同学年(歳は彼女が一歳上)ということで、子供達より母親同士が仲良しで、私が川西に引っ越してからも何回も来てもらっている。

最近も遊びに来たいというメールもらったばかりである。

一方の長女の友人のほうは森友学園の籠池理事長が毛嫌いするといわれる国の、たぶん帰化されてはおられると思うが、通名でない、その国の名前で通されている。

長女の友人のご両親はご夫婦とも医師で、その友人兄妹も三人とも医師になったという優秀なご家庭である。

特に長女の友人のお兄さんは東大の医学部を出られて、そのまま東大に残っていられるような優秀さであられる。

籠池理事長が、もし差別のようなことをしていたのなら、その賢明なお母様がそのお子さん三人を通わせられることはなかったと思う。

別に森友学園の肩を持つわけではないが、塚本幼稚園を間接的に知っている者として、そういう事実もお伝えしたかった。

  子供らの友人たちの通ひゐし幼稚園はも有名になり  biko

  特別に悪い評判あらざりし幼稚園なり突如ニュースに  biko

折込広告を見て最近の住宅の安くなったことに驚く

2017年02月09日 07時46分27秒 | 思い出
最近の住宅の広告を見て、その安さに驚く。

もちろん、今でも、われわれには十分高い価格ではあるけれども、あのバブル協奏曲に翻弄されていたころの価格と比べればの話である。

売り出されている中古住宅の値段は、かつての半分以下になっているのではないか。

私どもの住んでいた大阪のマンションの住民たちも、甲斐性のある人たちは、どんどん郊外に引っ越していった。

必ずしも、ゆとりのある人たちばかりでなく、無理した人も多かったと思う。

我が家は、その最中に年の離れた第三子を得た頃だったから、とても住宅にまで手が回らなかった。

しかし、家族が増えたことによって、住まいの狭さは極限に達していた。

今から思えば、捨てなくていい、また捨ててはいけないものまで捨てた、と思う。

最近、ちまたでは断捨離が大流行だが、我が家の場合は、そんな哲学的なことからでなく、住まいの狭さから仕方なく捨てざるを得なかった。

当時は郊外の広い一戸建てに引っ越した人達が羨ましくてたまらなかったが、しかし、結果的には買わなくてよかった。

なぜなら、上に書いたように、あの頃に急激に開発された住宅地は、大概が値崩れしてしまっているようだから。

私に甲斐性があれば無理してでも買っていたかもしれないが、運よく?私に甲斐性がないために、狭いマンションに甘んじていたことが結果的にはよかったと思う。

下がっていないところもあるかもしれないが、あの頃夢の住宅地だった場所の住宅は大概下がってしまったのではないだろうか。

あの頃郊外の広い一戸建てに引っ越していった人達を今は気の毒に思ったりもする。

  郊外に夢が開きてゐしころの住宅いまはその夢も閉づ  biko

引っ越していった人たちは、その後の生活が大変になったからか、音信不通になった人が多い。

我が家と同じように、必要があって、お連れ合いの実家に引っ越した人は、まだお付き合いしている。

先週、そんな人からメールがあって、一度また遊びに来たいと。

そういえば、数年前までは月に一度くらい来てもらっていたが、最近はご無沙汰だ。

一度来てもらおう。

遠藤周作さん・・・かつて愛読した、そのぐうたらシリーズ

2017年01月17日 18時59分55秒 | 思い出
ちょっとした調べものをしていたら、遠藤周作さんに行き着いて、ウィキペディアでその生涯を読ませてもらった。

私は、若いころの一時期、遠藤さんの弧狸庵シリーズに嵌った。

当時、現在もだが、劣等感の塊だった私に、遠藤さんの書く、ぐうたらシリーズは、心の安らぎになった。

その後、彼の書く深刻な小説『沈黙』なども愛読したが、しかし、私にとっては、彼のこのぐうたら人生訓シリーズが彼に傾倒するきっかけになった。

そこへ私のメールボックスに、「1年前のあなたのブログ記事」という毎日gooブログから届くお知らせが入った。

そこには、「情の深さは時として執念深さに変貌する」と題して、自分の性格を自己分析する記事があった。

そういえば、最近も同じようなことを書いた記憶がある。

私って、年がら年中同じことを考え、同じことを書いているんだと再確認した。

そこで、また危うく自己嫌悪に陥るところであったが、遠藤周作さんの弧狸庵シリーズを思い出したところであったから、危うく難から逃れられた。

遠藤周作さん、ありがとう。

  かつてわが愛読したる弧狸庵に今日も救はるこのぐうたらは  biko

ネットのいじめは子供の世界だけじゃない

2016年10月21日 21時06分13秒 | 思い出
いま子供のネット世界でのいじめが問題になっています。

が、ネットのいじめは子供の世界にとどまりません。

いい年の大人の世界にもあります。

図式は、子供の世界のいじめと全く同じです。

ここからは今朝の記事に続きます。

なぜ私がその人をそれほど憎むかというと、それはその人にされた苛めゆえです。

どこの世界にも女王様はいます。

その女王様に気にいられなければ苛められるのです。

女王様には必ず取り巻きがいます。

女王様に嫌われたら、取り巻きが女王様の代わりに邪魔者を苛めるのです。

その取り巻き以外の参加者達は、あきれながらも傍観しています。

うっかり関わって自分に火の粉が飛んでくるのを避けるためです。

結果、そのメーリングリストはシ~ンとしてしまいます。

誰が苛められるかもしれないメーリングリストに書き込みますか。

現在、そのメーリングリストは死んだようになっています。

女王様とその取り巻きはフェイスブックに移動して交流しています。

自分達が、そのメーリングリストを恐怖のメーリングリストにしてしまったことに気づかぬふりをして。

  大人にもネットの苛めはありまして構図は子供の苛めに同じ  biko

このことを告発するために、私は、このブログを始めたのでしょうか?

  告発のために始めしブログでもなけれど今日は告発をする  biko

今日の午後、鳥取に地震がありました。私のいる川西市もかなり揺れました。

私は、最初地震と気づかず、自分の体が震えたのかと思いました。

それほど私は、全身で彼女を憎んでいるのです。

  わたくしが起こしし地震と思ふまで怒りに震へし今日のわたくし  biko

忘れようと思っても忘れられないことの一つ二つは誰にでもあるんでしょうね

2016年10月21日 07時25分50秒 | 思い出
人を憎むのはよくないことだとは、誰でもわかっていることだと思います。

それは相手のためというより、むしろ自分自身のために・・・。

しかし、骨の髄まで憎むってことも、人にはあるのではないでしょうか。

わたしは、今でも、殺しても殺したりないくらい憎んでいる人がいます。

その人のことを思い出すと、それまでピーカンの青空だった空が、急に暗くなるような、私にとって、その人は、そんな感じの人です。

絶対に許せない、殺しても殺したりないくらい憎いです。

私をこれだけ苦しめておきながら平気な顔して生きていることが余計許せないのです。

こんな自分を見苦しいと思います。

しかし、この憎しみは、自分ではどうしようもないです。

普段は忘れて楽しく生きているのですが、その人のことを思い出したら体がこわばってしまいます。

誰にでも、こんな人、一人や二人はいるのではないかと思うのですが、どうなんでしょ?

  殺しても殺したりない人ひとり心に秘めて今日もおはよう  biko

芦屋・・・短歌に関わる思い出

2016年09月08日 07時02分47秒 | 思い出
芦屋は、県外の人たちもよく知っている高級住宅地である。

この芦屋には少し思い出がある。

私が短歌を最初に始めたのは、この川西市のアステという商業ビルにある朝日カルチャーセンターの短歌教室であったが、ある日、教室の待合室でパンフレットを眺めていると、芦屋教室では河野裕子さんが講師をしていられることがわかった。

河野裕子さんは、当時NHKの短歌の番組で先生をしていられた。

その番組を観ていた私は、河野裕子さんにお習いしたくなった。

それで、川西教室に籍を置きながら、芦屋教室にも通うことにした。

そのころ私は大阪に住んでいたから、芦屋の教室も、川西の教室と同じように、簡単に通うことができた。

むしろ、芦屋の教室はJRの駅前にあったから、JR川西池田から長い陸橋を歩いていく川西教室より楽に行けたくらいだった。

その後、河野裕子さんが先生をしていられた結社に入会させていただき、その結社の芦屋歌会にも出させていただくようになったから、川西の教室のほうは止めた。

大阪からは、そのほうが便利でよかったのだが、その後、川西に引っ越してきてからは、芦屋に通うのは、ほんの少し不便になった。

だけでなく、認知症の義母の世話をしないといけなくなったから、物理的にも通うことができなくなった。

それと前後して、先生の河野裕子さんの癌の再発があったりして、芦屋教室に通うのも止めてしまった。

思い返せば、川西の短歌の教室に通い始めたのは、将来川西に住まなければならなくなるのを見越して、川西で友人を作っておこうという軽い気持ちだった。

始めたのは1998年4月だったから、今春で満18年経った。

最初のころこそ、よく勉強したが、最近は半ば惰性でやっているようなところがある。

短歌賞に応募したりして賞をいただいたりしたのも、最初の数年だった。

いわゆるビギナーズラックで、賞がいただけていたのだろう。

その後は、応募するのにも飽きて応募することも止めてしまった。

それと比例して、だんだん下手になってきているようにも思うが、しかし、そうではなくて、最初のころは自分を過信していただけのことだったのだろう。

止めよう止めようと思いながら、止めないのは、好きというより、他に何のとりえもないから、続けているのではないか。

  JR芦屋駅前ラポルテの故河野裕子さんの教室  biko

  難聴のわれは真横に座らせていただき聴きき先生の声  biko

  あれはまだ二十世紀のことなりしと二十一世紀の今日思ひ出す  biko

  あのころはわれも河野先生も若かりしかな五十の初め  biko

  先生のお宅に塔誌の校正に行かせていただきしころの先生  biko

  岩倉のお宅でお茶を淹れくれし河野裕子先生の影  biko

ーーーーーーーーーーー

今朝、ブロ友さんのブログを拝見していると、芦屋のことが書かれてあったので、思い出して書いてみた。

土佐の高知のよさこい祭りの思い出

2016年08月12日 15時08分36秒 | 思い出
いまブロ友、くりまんじゅうさんの「よさこい祭り2016年。」を見せてもらってきた。

ああ、懐かしい。

私も新入行員だった年に踊った。

体力がないから、へとへとになりながら・・・。

娘も大学2年のときに踊った。

7月9日生まれの娘が生後1ヶ月のときに、抱いてよさこい踊りを見せた、否。私が見たから、よさこい踊りのメロディが娘の体に沁みこんだのだろう。

娘は、小さいころから、よさこい祭りにあわせた帰省のときには熱心に見ていた。

それで、大学2年のときに、私の母に頼んで、帯屋町グループに参加させてもらったのだった。

夫と私と私の母は、各々カメラを持って、各会場を追いかけて、娘を撮影した。

あの夏は、三人とも燃えた。(笑)

夫の撮影したビデオは繰り返し巻き返し見た。

来客があると、見てもらった。(笑)

結婚が決まったとき、婿の両親にも見てもらった。

今から考えたら、なんと親ばかなんだろうと思うが、あのころは、夢中だった。

もうあれからでも20年以上経ってしまった。

昨日のように思い出すけれども・・・。

  吾(あ)が踊り娘が踊りしよさこい踊り(よさこい)を今日ブロ友のブログに見たり  biko

大阪万博の頃

2016年07月23日 20時13分31秒 | 思い出
NHK「歴史ヒストリア」を毎回録画して観ている。

昨日のテーマは「大阪万博」だった。

大阪千里丘陵で大阪万博が開催されたのは1970年春から秋のことだった。

私は短大を卒業後、2年勤めた銀行を退職して、4月から東京の豪邸で行儀見習いをした年だ。

身辺に変化の多かった年だった。

大阪万博にも行ったが、一日だけで、めぼしいパビリオンにも入場せずじまいだった。

万博のあった千里は、現在私の住んでいる川西市からは車で少し走れば行ける。

が、あのころは、自分がどんな人と結婚をして、どこに住まうようになるかなど、想像もしていなかった。

夫とお見合いをして結婚したのは、その2年後のことであったから。

万博のあったころのことは思い出すだけで胸がいっぱいになる。

同じ年代を生きてきた人たちも同様だろう。

万博は、私は、一日だけしか行かなかったが、叔父(母の弟)と従弟(母の弟の長男)などは従弟の春休みを使って、10日間ほど叔母(母の妹)の家に泊まって連日行き、くまなく見て回ったらしかった。

思えば叔父は、生真面目な祖父とは打って変わって暢気な人であった。

母の実家の家業は、もともと製糸業だったのだが、斜陽産業だったことと、その忙しさを嫌って、後を継ぐことは拒否していた。

かと言って、もうひとつの家業の洋品店は祖母や奥さんに任せて、自分は株の売買で儲けたりするような人であった。

従弟は、叔父に似ず、まじめに勉強する子だったから、国立大学の医学部に進学して医師になった。

思い起こせば、今書いた人たちは、みな鬼籍に入ってしまっている。

叔父は49歳、叔母は62歳、従弟は52歳と、みな早世だった。

あの大阪万博のあった頃は、私は若くて、未来があったし、両親はもとより、その叔父、叔母、医師になった従弟も生きていたから、親族が集まっても賑やかだった。

私は、母方の祖父母にとって、紅一点の孫だったから、ずいぶん大事にされた。

叔母は娘がいなかったから、娘のようにかわいがってくれたし、叔父も同様だった。

大阪万博を思い出すと、自然にそれらの人々のことも思い出すから、胸がいっぱいになってくる。

  叔母、叔父と従弟も今は死ににけり大阪万博思ひおこせば  biko

昔Junior & Seniorは中学生と高校生を指す言葉であった

2016年05月25日 09時17分25秒 | 思い出
最近、老人のことをシニアということが多い。

私は、これには少し違和感を覚える。

というのが、私の出身中・高校の制服は、セーラー服であったが、そのセーラー服のスカーフ留めに、中学生は”Sinior"、高校生になると”Senior"という字を刺繍してあったことが記憶にあるから。

中学生の”Junior"は赤い糸で、高校生の”Sinior"は白い糸で刺繍されていた。

そして、まだ子供子供していた中学生時代は、少し大人びた高校生のお姉さまたちが眩しく見えたものだった。

と同時に、その胸のスカーフ留めに白い糸で刺繍された”Senior"の字が輝いて見えた。

その憧れだった”Senior"=シニアを、年寄りの名称に使うことに、どうも違和感を覚えてしまうのだ。

と言いながらも、最近は私も、自分を含めた年代を「シニア」とまとめてしまうこともある。

まだ「シルバー」とは言いたくない。

若い人達から見れば、十分シルバーなんだろうけれども・・・。

「シニア」という言葉は堂々とシルバーと自称できるまでの時間を猶予してくれる便利な言葉のような気もする。

  先輩の”Senior"の文字に憧れた”Junior"時代のわれの制服  biko

  いつのまにシニアすなはち老人を意味する言葉になりはてしかな biko

おまけ

  県内の男子生徒の憧れの制服なりきあのセーラー服は  biko