神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

嫁いでいても、実家の親の世話はするべきか

2016年02月02日 20時17分21秒 | 老い
帰省から帰ってきて、ずっと母のこれからを考えている。

あれだけ弱ってきたら、もう老人ホームに入ってもらうしかないかとも思う。

母にそのことを言うと絶対いやという。

まだ認知症ではないが、しかし、一人で生活するには余りにも頼りない。

兄嫁達とは同じ建物に住んでいるが、2階と3階で、所帯は別個である。

現代は90歳になっても矍鑠とした老人もいるが、母の場合は、いつも書いている通り、78歳で脳梗塞を起こしたから、後遺症として滑舌が悪い、心臓の心室細動のため声が弱弱しい。左半身は滑らかに動かせない。

というわけで、常に誰かの手助けが必要な状態なのだが、未だに活け花から離れようとしないで、週に一度、自宅で教えているのみならず、学校にも教えに行っている。

あれだけの状態になった老人だから、教えにこられるほうも迷惑だと思うのだが、母が活け花が生きがいだと押しかけているような有様である。

確かに元気なころは、高知県の活け花のトップであるのみならず、全国的にも活躍していた大先生だったのだが、寄る年波と病には、さすがの母も勝てない。

そのことを言うのだが、聞く耳をもたない母とは喧嘩になるばかりである。

あげくに、私の娘に、「お母さん(私のこと)は切れる(怒る)から困る」というようなことを言いあげる。

3年前に亡くなった兄も、母の対応には、ほとほと困っていた。

兄嫁と母の板ばさみになって、兄は苦しかったと思う。

兄は急逝したが、しかし数年前から人工透析を受けていたから、まったくの急逝だったというわけでもない。

なぜ人工透析を受けるようになったかというと、お酒の飲みすぎである。

グルメだった兄は、兄嫁の作る料理が口に合わないと言って、毎日、外で好きなものを食べて、お酒も飲んでいた。これには、仕事柄も多少絡んではいたが。

そうこうしているうちに、いつのまにかアルコール依存症になった。

それで、肝臓だけでなく、腎臓まで悪くしてしまったのだ。

お酒をたくさん飲んだのは母と兄嫁の板ばさみになっていたことも遠因にあったのではないかと私は思うのだが、これは推測の域を出ない。

私は、内心お酒を止めさせなければと思っていたが、母も兄嫁もいながら私が言うことではないと言わなかった。

こういうふうになると分かっていたら、嫌われても言うべきだったと思う。

兄は、私と違って、赤ちゃんのころから健康優良児で、学業も成績優秀であったから、母の自慢の息子であった。

私は、当然、兄は私より長生きして、母も看取ってくれると思っていた。

が、こういう結末を迎えてしまった。

母は、あまり出来のよくない私に残された。

実子は私だけになったから、私が母の世話をするべきだろうか。

夫は、そうすべきだという。だから、高知に帰って母の世話をせよと。

確かに、姑の世話は、認知症が酷くなるまでは、私達より近くに住んでいた義妹がしてくれていた。

ともいえるし、義妹は実の娘なので、嫁いでからも実家であるこの家に頻繁に来ていたから、その延長だったともいえる。

姑が本格的な認知症になってからは、私達が引越してきて選手交替した。

私達が引越してきてからは、義妹は一度もこなかった。

たまには話し相手に来て欲しいと思うこともあったが、姑と義妹は実の親子であるがゆえに、お互いに遠慮がないことが災いして大喧嘩になるのが常であった。

認知症になった人のややこしさは、世話をした人でないと分からないと思う。

そんなこんなを考えると、私も兄嫁にお世話してもらいたいと思うのだが、兄亡きあと、それは無理な相談だろうか?

夫は、そんなに心配なら、私が世話をしにいくべきだと言うが、私自身、それほど体が丈夫ではないので、自信がない。難聴であるので、母の言っていることが聴き取りにくいのも疲れる。

姑は、認知症ではあったけれども、体は健康体であった上、声は比較的低音であったため、聴き取りやすかった。

また、義理の中なので、お互いの遠慮もあって上手くいくところもあったし、夫にも相談できた。

ところが、今後、母のことを私が引き受けるとなると、まず経済的な問題も発生する。

母には不動産は全て甥たちにやってといわれているし、預金は、母が税金対策として、ほとんど兄名義にしてあったから、兄嫁と甥のものになっている。

いったいどうしたらいいかと私は思案投げ首である。

ま、神様が、いいようにしてくださると当分このままにしておこうか。

「高齢者向け住宅」は老人ホームとは違うのだろうか?

2015年11月30日 14時10分27秒 | 老い
昨日の夕方、買い物に行くとき、ふと見上げると、高齢者向け住宅と書かれた垂れ幕が見えた。



近くに行ってみてみると、サービスつき高齢者向け住宅と書かれてある。

老人ホームとはどう違うのだろう?

まだ母存命の私には関係ないように思えるが、今からいろいろ調べておくのは悪いことではないだろう。

家に帰ってネットで調べてみた。

アルファ川西能勢口駅前

やっぱり老人ホームのようだ。

一瞬こんな狭い部屋に閉じ込められたら息苦しくはないかと思ったが、共用スペースがあるので、そうでもないかもしれない。

しかし、気の合う人がいれば天国かもしれないが、逆にいやな人がいたら、地獄になるだろうな、というようなことも考えた。

食事の支度をしなくてよくなるのは大歓迎だが、しかし食事が不味かったら、これも地獄だろうな、と思った。

やはり、自分の足腰が立つ間は、夫が亡くなっても、自宅での一人暮らしのほうがいいだろうと思った。

反対側からも撮影しておいた。



  遠からず訪れてくる足、腰の立たぬ己を思ふこのごろ  biko

  まだ母のいませば今は他人事と思へる老いはすぐに来るらむ  biko

子供達には子供達の生活があるから、なるべく世話は焼かせないで死にたいと思う。

老いても急に生き方は変えられない

2015年06月17日 13時57分31秒 | 老い
けさ兄嫁から私のケイタイにメールが入った。

5月に帰省したときに、今夏、母の母(私の祖母)の画家であった従弟の遺作展が高知市で開催されることを聞いた。

その画家は抽象画では世界的にも名のある画家なのだが、しかし抽象画という範疇に属するため、誰にでも見ていただくわけにはいかない。

が、その開催に合わせて、母は、その祖母の親戚の者を集めて”いとこ会”を目論んでいる。

そのこと自体は悪いことではないのだが、もうすぐ90歳になろうとする老女の献立てることだから、誰かの助けを借りなければ遂行できない。

それで、いろんな人に(お願いならいいのだが)命令して、迷惑をかけているらしい。

しかも、100人規模の会を遂行しようとしているのだ。

母は先月、私には40人の会を執り行うよう、すでにホテルに予約してあると書いてきていた。

私は、それほど人が集まってくれることは考えられないから反対と書き送ったのだが、いつのまにやら、話がもっと大きくなって、100人になっているらしい。

どうも母には認知症も入ってきたようだ。

それは5月に帰省したときにも感じたことだったが、先日の次男の結婚式に際しては、きちんとした文面でお祝いも送ってきてくれていたから、杞憂だったかと思っていたのだが・・・。

母は、もともと家でじっとしている人ではなかった。

それが若い頃は母の利点でもあった。

少なくとも活け花界で君臨していたころは、それが利点になっていた。

しかし体も頭も十分には働かなくなった現在、それは時に人を振り回す暴力にもなる。

かと言って、急に生き方が変えられるわけでもないのが、人の哀しさである。

  かつてその権力をもて号令をしてきし人の晩年あはれ  biko

  身体も頭も弱りゐし人の号令だれも聞かなくなりて  biko

ゆきあいの空

2012年08月10日 06時33分04秒 | 老い
昨日のカモミールさんのブログの雲の写真が素敵だったので、日記を。

まだまだ暑さの最中だが、空は、すでに秋の準備を始めているらしく、入道雲の上に秋の筋雲が見えることがある。

こういう空を「ゆきあいの空」と呼ぶらしい。

夏の雲が残りながら、秋の雲がしのび足でやってきている。そういう状態だ。

考えてみれば、われわれの老化も、そういうふうにやってくる。まだまだ若いと思っている年齢にも、ふと老化の兆しがみえることがある。

私などの年齢になると、秋はとうに過ぎて、晩秋から初冬にさしかかっているところかもしれない。いや、現代は、超老齢化社会であるから、やっぱりまだ秋だろうか。

ところで、車の運転のできない私の買い物の手段は、おもに自転車だが、若いつもりで乗っていても、若いころと比べると動作が鈍っているのを自覚するときがある。いよいよ乗れなくなる前の、これも、「ゆきあいの空」だろうか?