自然・宇宙・地球・旅から人生を顧みる

自然や宇宙、旅が好きな私のブログです。色々な体験など、日々の出来事について日記風に綴ってみます。

2018年の最後の日

2018年12月31日 09時22分29秒 | 日記

 今日が2018年の最終日。天候は曇りで、終日気温は上がりそうもない。29日の10時前に千葉から娘と孫が帰省してきたが、彼らも3日目となる。猫を一匹連れての帰省だが、終日猫に振り回されている。以前飼っていた猫(レオ)は良く躾が効いて飼い主の言葉を理解していたが、この猫はなかなか聞かない。

 もうじき一年が終わるが、今年の一番の収穫は「オオムラサキの幼虫」に出会えたことか。今年も福山市農林水産課主催の自然観察会を2度引き受けたが、その2回目を11月6日に実施した。場所は山野峡の入り口に位置する駐車場だった。いつもは自然観察をしながら一定のコースを歩くのだが、今回は駐車場周辺の植物について実際に収集してその違いや特徴に気付いてもらう作業をしていただいた。その時にエノキの近くで一匹の緑色の幼虫に出会った。見るからにかわいい姿をしていた。参加者に「これは何ですか?」と聞いても、誰も答えられなかった。恐らく初めてお目にかかる幼虫だったに違いない。そういう私も初めて目にした幼虫だった。参加者との違いは、図鑑等で見た記憶があっただけ。そう、あに国蝶「オオムラサキ」の幼虫だった。私も実際に見るのは初めてで、参加者に説明しながら興奮していた。

  

 2本の角状の突起が特徴で、正面から見ると愛らしい表情に見える。この冬は幼虫のままで越冬し、来春蛹となって羽化、成虫になり飛翔することだろう。以前は飛んでいる姿を良く観察した物だが、最近はめっきり個体数が減少している。自然環境の悪化や、里山の管理が巧くできていないのだろう。野山の生き物が棲みにくい環境になっているということは、人間も住みにくい環境のはずなのだが。(今年最後のブログである)

 この一年間で、11月に素晴らしい出会いに恵まれた2018年だった。あと14時間ほどで新年を向かえる。来年は、どんな出会いがあるだろうか。


年末の忙しさ

2018年12月27日 21時13分48秒 | 日記

 12月27日(木)、今年も残すところ今日を入れて5日。時間の経過が頗る早く感じるようになってきた。朝から天候も良く、予定通り「餅つき」をすることにした。朝食後の9時前から始めたが、例年通り餅つき機は「蒸す・搗く」なので、時間がかかる。白餅を二臼、豆餅も二臼、ミカン餅が一臼。全部終了したのが14時を回っていた。夫婦二人での作業はなかなか大変だが、年末の年中行事で仕方あるまい。独立している子ども達は餅つきなんてしないから、その分も搗かなければならない。まあ、時間さえかければモチになるのだから、やらねばなるまい。

 餅つきが済んで自宅の通路に置いてある木製の棚を片付けていると、グラウンド・ゴルフ仲間が魚を持ってきてくれた。収穫したてのノリとクロダイ。棚の片づけが終了後、温水器が凍結しないようにカバーを設置し、その後魚の調理に入った。ノリは煮付けて佃煮状にして、クロダイは3枚おろしに。身の部分は柵状にして冷蔵、娘たちが来た時に“刺身”で食べられるようにしておいた。残りの部分は“あら煮”にしておいた。なんだか一日中働きづめだったような…、感じ。なぜ、年末は忙しくなるのだろうか。昔は年末年始は街も商店も休業で、特に三が日は「お節料理」なぞ作っておかなければならなかったのだろうが、昨今はいつも店舗は開店で商品を購入することができるので、日常生活は変わらないのだろうが…、“慣習”なのだろうか。

 娘と孫は明日の22時頃の「サンライズ出雲=寝台特急」に乗車し、翌29日の9時前に岡山駅に着くとか。そこで山陽新幹線に乗り換えて、10時前に福山駅着とのこと。5日の早朝に帰るらしいので、丸7日間は滞在するらしい。食べさせるのも大変だなあ…。先が思いやられるが、帰省してくれないと寂しい。逢う度に、孫は大きく育っている。


晩秋?それとも初冬?

2018年12月22日 11時43分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

 「晩秋」でも「初冬」でも気象に変わりはないが、“気分”の問題かな。今日は22日で「冬至」。この日は「昼の長さ」と「夜の長さ」が同じになる日で、「カボチャを食べる日」とのこと。カボチャを食べて柚子湯に入ると、元気になり風邪をひかないとか、昔からの言い習わしか。午前中は曇り空だったが、今の時刻(11時34分)日が照り始めた。少しは暖かく感じられるかなあ。

 今年は異常気象の年だったが、何となく暖冬の気配。庭のサザンカも満開で綺麗です。花の少ないこの時節、目を楽しませてくれます。鳥が運んできて芽生えた“マンリョウ”も、赤や白の実が見事です。

 台風の時節に書きましたが、主幹が風で割れたミカンの樹、見事に色づきました。早くに摘果しておけば幹が傷むことはなかったのでしょうが、欲深い私だから「もったいない」と摘果しませんでした。大いに反省です。色づきは良いのですが、先日味わってみたところまだ酸っぱい。年が明けての収穫となりそうです。

  

 それにしても、植物は律儀に時節が来れば熟して良い色合いになりますね。実っている状況を愛でて、摘み取って味わえる、「素晴らしい!!」の一言です。自然の巡りって、人間の力を遥かに超えています。


結婚披露宴に招待される

2018年12月17日 19時45分39秒 | 日記

 昨日16日(日)、友人の結婚披露宴に招待された。2003年に「備後地方に“宇宙少年団”を作ろう」という機運が盛り上がったらしく、丁度広島大学から帰ったばかりの私に話が舞い込んだ経緯がある。その時に、結団事務のメンバーの中に彼もいた。分団結団は2003年11月16日だったが、あれから15年の歳月が過ぎている。

 2週間ほど前に我が家へ来られ、「結婚披露宴へ出てください」との依頼。「披露宴ではもう一人K先生に祝辞をお願いしているが、先生にもお願いしたい。」と言われた。「話の中身が被らないように…」とも言われた。彼のことは分かるが、相手の女性については全く分からないのに…とその時は思った。一週間後に再度招待状持参でお出でになったが、招待状には「乾杯の発声をお願いします」とのメモが入っていた。それで「あっ、乾杯の発声か」と了解できた。私の肩書は「公益財団法人日本宇宙少年団 活動委員会委員」としてもらっていた。他の肩書よりはシンプルで分かりやすいと思ったが、聞いた人は「??」と思うに違いない。まず、そのことを説明して、次に主題を話して乾杯の発声をすればよかろうと考えた。「時間は短く、簡潔に」と。

 披露宴の受付開始時刻は15時半となっていたので、10分くらい前に着くように家内に送ってもらった。待機場所で待っていると知り合いのWさんがお出でになり、「私の塾の講師に先生の経験を話していただけないか」と言われたので、席を移して話を始めたが「間もなく披露宴が始まる」とのことでお開きとなった。

 披露宴ではまず初めにK先生が祝辞を述べられた。私の知らない内容が沢山披歴された。彼は広大附属福山中・高校を卒業し、慶應義塾大学で物理を学んだとか。卒業後今の塾に籍を置き、現在は「気象予報士」の資格も取られたとか。素晴らしい学歴と、身につけられた知識や技能、感服した。

 次に私の出番、「乾杯の発声」である。はじめに招待いただいたお礼を述べて、肩書の説明をしておいた。みんなが頑張って結団した「宇宙少年団・備後ローズスター分団」のこと。2003年11月13日を迎える前にその説明会を開き、当時の事務局長や猪俣女史に宇宙少年団についてのお話をしていただいた。結団式当日は、古川 聡宇宙飛行士に「宇宙について」語ってもらった。そんなことが走馬灯のように脳裏を過ったが、1986年筑波科学万博に時に「YAC」は結団されて、その後全国各地で分団が結成されたことなどを紹介し、現在の私の肩書について簡単に触れた。

 次に、人間は目標を持ち、その目標に向かって邁進する。その歩みは「有機的でなければならず、お二人は本日より協力しながら歩を進めて欲しい」こと。そして「歩」という漢字は「止まって少し考える」という意味合いが読める。歩を進める時、地面に着いた足の裏から地面から受ける変化を感じ、一歩一歩目標に向かって有機的な歩を進めること。「本日より、お二人が協力しながら仕事の目標、家庭の目標に向かって、協力しながら前進されることを祈念して、“乾杯!”」と発声し、唱和を頂いた。

 その後は安心して宴を楽しんだが、彼の表情は生き生きとしていたのが印象に残った。

 今日、「お礼に来ました」と訪ねてこられた。その時、「先生がノー原稿であれだけ話されたこと、多くの参加者が感心されていた」と言われた。お褒めの言葉に違いないが、「話すことが私の仕事でしたから」と返しておいた。「乾杯の発声」前の挨拶で原稿を見ながら話をすることは興ざめだし、5分~10分程度なら何とか原稿なしでもOKである。思い起こせば、「最後の卒業式の式辞」をノー原稿で話したことを思い起こした。私が関わった式での「式辞」はきちんと原稿があり、それは今でも記録として保存してある。が、最後の卒業式での式辞の原稿はない。幸いにPTAの役員の方がビデオで撮影してくださっていたので、映像として残っている。「原稿を読むと目線が原稿へいき、対象の卒業生の顔を直視できない」との理由で最後だけノー原稿で通したが、さて、聴かれた方々の感想は分からない。そんなこともあったなあ…、と昔々の思い出である。


喪中の葉書

2018年12月14日 21時10分54秒 | 日記

 12月13日(金)は、世羅ゆめ公園で開催された「世羅ワイナリー杯グラウンド・ゴルフ大会」に参加するために、世羅ゆめ公園グラウンド・ゴルフ場へいた。早朝の6時40分頃に家を出て、7時40分頃に現地へ着いた。辺り一面霧が出て、何となく幻想的な景色ではあったが、気温は低く風は冷たかった。

 大会は3コース・24ホールで競われ、寒さの中齢を重ねた参加者たちは寒さにめげずに頑張っていた。途中、寒さ対策(?)で甘酒が振る舞われたが、飲んだ一時は体が温まったような気がした。私はCコースから周り、Aコース、Bコースの順に24ホールを回った。結果は57打で4位に入賞し、賞品として世羅ワイナリーの製品一本(白ワイン)を頂いた。

 その大会を済ませて帰宅した所、郵便受けに一通の「喪中葉書」が入っていた。文面を読むと「平成30年7月4日(水)に夫〇〇が永眠致しました」とあった。目を疑い、息が止まったような感じを受けた。早速ご自宅に電話を入れると、若い男性の声で出られた。どなたか確認することを忘れて、色々と質問を浴びせる私がいた。何でも、2月に血尿が出て医師の診察を受けたが「時、遅し」で、腎臓がんの末期だったようだ。即入院したものの転移が早く、治療の術がなかったとのこと。肺や内臓に転移し、最後は脳にも転移したとのこと。「医者にかかるのが嫌いで、ほとんどお医者さんにはかかっていなかったので、見つかった時は手遅れでした…」と。奥様は毎日、夫の仏壇の前で話しかけておいでとのこと。

 この方は、私が岡山県の蒜山に山荘を建てるときからお世話になり、不具合等が生じた時には直ぐに対応してくださった。最後になった仕事は、昨秋の台風で杉の大木が一本折れた時に、その撤去をしていただいた。あの時、電話で話したのが最後となった…、と寂しさが先立つ。建築事務所で、建築関係の仕事をご夫婦でやっておられたが、その事務所も閉じられたとか。子ども達は全く別の仕事をしているので、跡を取る者がいなかったのが理由らしい。今後は、我が山荘のメンテナンスは「自分でできることは自分で」と言うことになってしまった。私も齢を重ねているので、次に頼める事業所を探さなければならない。「気さくでいい人」だっただけに、今でもお顔が浮かんでくる。「人生って本当に儚いし、人の命も儚い」と…、奥様から頂いた葉書を読むにつけ寂しさが募る。「生前は良いおつき合いをさせて頂き 大変ありがとう御座いました」の筆跡を読みつつ、「11月初旬にお家の近くを通った時、立ち寄ればよかったのに」と思いもする。「来春、暖かくなったころ、ご仏前にお参りに行かねば…」と思っている。

「御冥福をお祈りいたします。合掌」、である。