毎日新聞より転載
<大震災3年半>酒に頼らない 富岡から避難、不安と闘う
毎日新聞 9月11日(木)7時45分配信
「気持ちが揺らいだら、また酒に走ってしまうんじゃないか」。東京電力福島第1原発事故後の避難生活中にアルコール依存症になった福島県郡山市の福田利勝さん(56)は、事故から3年半がたった今、再び依存してしまう不安と闘っている。同県富岡町の古里は同原発から約7キロで、居住制限区域に指定されている。戻るめども、今後の生活も見えてこないからだ。
【アルコール依存症に負けない】母、妻、長男亡くした宮城・女川の68歳 自暴自棄、姉の言葉で再出発
福田さんは富岡町の自宅で両親と妹家族の計7人で暮らしていた。バス会社に勤めながら、両親の農作業を手伝う毎日。自分たちで収穫した米や野菜が食卓に並び、「平凡だけど笑顔に包まれた」生活だった。
それが、2011年3月11日の東日本大震災発生で一変した。原発の異変を恐れ、翌12日の午前中には同県いわき市内まで避難。間もなく、原発の水素爆発を知った。「もう終わりだ」。全身から力が抜けていった。
県内の避難先を転々とした。父清さん(当時80歳)は心臓病を患い、ペースメーカーをつけていた。「自分の仕事や家族の将来はどうなる。おやじの体調は大丈夫だろうか」。なかなか眠れず、寝酒として缶ビールを飲むようになった。悩みはどんどん膨らみ、手にするビールが2本、3本と増えた。気付けば家族に隠れて車の中で、ビールやウイスキーをあおるようになっていた。
清さんは毎日のように「(富岡へ)帰りたい」とつぶやいていた。入退院を繰り返して12年1月に肺炎で亡くなり、震災関連死と認定された。
数日後の葬儀の場で福田さんは倒れて病院に運ばれ、その後、アルコール依存症と診断された。「酒を飲んでいる場合じゃない」。自分を?咤(しった)した。県内の専門外来で3カ月間の断酒プログラムに取り組んだ。以来、酒は飲んでいない。だが、依存症に完治はないといい、今も体質を変えるための薬のほか、眠れないときのための睡眠薬が手放せない。
現在、福田さんは母の洋子さん(82)と2人で郡山市にある賃貸住宅で暮らす。手狭なため、妹家族とは別居せざるを得なかった。仕事も探しているが、見つからない。どうしても「原発事故さえなければ」と考えてしまう。眠れなくなる不安は消せないが、「一口でも酒を飲んだら、取り返しがつかない」と自身に言い聞かせている。【田ノ上達也】
◇患者の重症化顕著 アルコール依存、継続摂取が原因
福島県郡山市にあるアルコール依存の専門外来「大島クリニック」によると、震災直後に診察した患者に比べ、最近訪れる患者は肝硬変や認知症などに重症化しているケースが目立つという。避難生活が長くなる中で、継続的にアルコールを摂取していることが原因と考えられ、大島直和理事長は「このままではアルコールの問題で亡くなる人が出てくるのでは」と危機感を募らせる。
先の見えない将来への不安や仮設住宅での生活ストレスなど、避難生活では飲酒へつながるさまざまな要因がそろっている。1995年の阪神大震災後に孤独死の調査をした神戸大大学院の上野易弘(やすひろ)教授(法医学)によると、震災発生から4年半の間に兵庫県内の仮設住宅では男性47人が肝疾患で孤独死した。うち少なくとも7割は飲酒が主因とみられ、ほとんどが肝硬変だったという。
福島県では、福島第1原発事故による避難生活の長期化が予想されるが「症状を認めたがらない人が多いうえ、初期段階は周囲も気付きにくいことなどから、支援対象の把握は困難」(県)といい、詳しい実態が分からないのが現状だ。
だが、問題を重視した県は今年度、避難者支援などに取り組む民間団体「ふくしま心のケアセンター」に委託して、医療や福祉関係者らを対象にアルコール依存の研修会を始めた。担当者は「アルコール問題への対応力をつけた人材を育て、依存に苦しむ人々の早期発見や支援が届くようにしていきたい」と話す。【田ノ上達也】