つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

何を見ても何かを思い出す

2017-11-18 10:37:00 | 文もどき
父は飽きたと親戚にこっそり愚痴をこぼしていたが、出されたものを平らげるほかの事をしない以上致し方ない。母は嫌なら自分の食事は自分で用意すればいいのよと涼しい顔をしている。
サラダの話だ。
僕がしたいのは、サラダに乗っているソーセージの話である。
遅めに起き出して、犬のおはよう攻撃を避けながらキッチンへ顔を出すと、母がフライパンをゆすろうとする父を制しているところだった。余分な脂を出すためには、そっとしておくのがいいのだと諭す。要らぬ好意を引っ込め、父は朝の一服に戻る。換気扇の下でしかタバコを吸えないのは、家を建て替えた時の決まりだった。爾来、我が家の壁紙はいたく清潔なままだ。
二つ割りにして切り込みを入れたソーセージは、じうじうといいながら溶けだした脂に焼かれている。ひとり二本分の割り当てらしい。聞いてもいないのに、母はこのソーセージがいかにリーズナブルかつ味かよい品である事を説明しはじめる。曰く、贔屓のスーパーと、精肉加工会社のコラボ商品であるらしかった。
おばあちゃんがね。
母は懐かしそうに呟く。
ほら、お肉が嫌いだったでしょう。だから、なんでも良く焼いていたのよね。良くここまで焼けるもんだわと感心するくらい、ソーセージも干からびるくらいの焼き加減でねえ。
母はフライパンのソーセージをようやく裏返し、余分な脂をキッチンペーパーで拭いはじめる。
これ食べた時に思い出したの。ああ、おばあちゃんのソーセージ、って。
一服し終えた父がのっそりとキッチンの奥からリビングへ退散、途中で入り口に鎮座するキャパに声をかけ、連れ立っていった。いつの間にか、キャパは自分の割り当てと決めているブロッコリーを食べ終えていたらしい。でなければ、キッチンで父は一顧だにされない。
生前の祖母には二度ほど会ったことがある。はっきり分かるのは穏やかな喋り方をする人で、甘ったれのセントバーナードの世話をひとりでしていたということくらいで、僕の祖母像はすべて母により作られたものだ。末っ子の父を僕ちゃんと呼び、外出時にはヘアウィッグをつけた。肉という肉が苦手で、その連れ合いは肉が好きで、だからたぶん、男子厨房に入らぬ最後の世代である祖父は思いきりのよいウェルダンを食していたと思われる。
さ、持ってって。
ソーセージは自らの脂でカリカリになっていて、意外なほどおいしかった。そう言うと、母は少し面白そうな顔をした。
たぶん僕は、ソーセージを見るたびに祖母を思い出すだろう。父は飽いたサラダに気に入りのドレッシングを振りかけて黙々と食している。