南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・真田幸村(上田城の戦い)

2010-04-07 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双シリーズの主役でしょうか、真田幸村は戦国無双3のパッケージ表紙を飾ってます。
真田幸村の章・第一話は「三方ヶ原の戦い」で、父・真田昌幸が1572年からの信玄の上洛作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているようです。
第二話は1585年の「上田城の戦い」になります。



1575年の長篠の戦いで長男・信綱と次兄・昌輝が討死したため、真田幸隆の三男・昌幸が真田氏の家督を相続。
1582年武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となるも、同年本能寺の変で織田信長が横死。
旧武田領を巡って、徳川家康・北条氏直・上杉景勝、および独立を狙った真田昌幸が対立を深めていきます。


「上田城の戦い」のムービー。
家康が真田の居城・上田城に攻め寄せ、真田が援軍を募り勇者が集まった(笑)というゲーム設定。
政宗が1585年に父・輝宗を拉致した二本松城主畠山義継ごと討った悪夢から覚める所から始まり、政宗と孫市が待っている部屋へ、前田慶次、真田幸村、直江兼続が入ってきます。
以降セリフ列記。

慶次「お二人さん、待たせたねえ」
「状況は最悪」
「敵は天下に一番近い男の一人・徳川家康」

1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉と互角以上の戦いをし、野戦の名手と知れ渡った家康です。

慶次「んで、これがこの城の息子・真田幸村」
「未来の天下人と戦おうって肝の据わった男さ」

幸村「死地へようこそ」

目が据わってます・・・

政宗「激しき戦、望む所よ!」
兼続「私は戦が大嫌いだ」
「だが、戦は戦わねばならぬ!」・・・????
孫市「面白な奴だ」

慶次「これが直江兼続 この絶望的な戦に」
「上杉から好きこのんで援軍に来た面白な御仁さ」

孫市「俺は雑賀孫市」
「困っている奴と女性の味方だ」
「こっちのはわけありで身分は明かせないが政宗って呼んでくれ」
・・・片目で政宗だったらバレバレなんじゃ・・・

雑賀党の首領として孫市を名乗った鈴木重朝は関ヶ原の合戦では、西軍に与し(伏見城に籠もる鳥居元忠を討ちとったとのこと)、戦後は浪人し、伊達政宗に仕えたそうです。


兼続「こんな戦に来るとは、馬鹿だが臆病者ではないらしいな」
政宗「馬鹿ではないわ、馬鹿め!」
・・・これが長谷堂城の戦いにつながった・・・なことはない(笑)


慶次「俺は戦(いく)さ人・前田慶次、あんたらに馬鹿さじゃ負けてねぇ」
「さあて・・・くさくさした気分をぶっ飛ばすには、うってつけの無謀な戦」
「馬鹿ども五人でひっくりかえそうかあ!」



1582年3月、真田昌幸は主君・武田勝頼に真田が守る岩櫃(いわびつ)城へ籠城することを進言しましたが、勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かい反逆され天目山で織田の滝川一益の軍に討たれます。
昌幸は北条氏への臣属を打診しつつ織田の配下になりましたが、勝頼滅亡後80日目の6月に織田信長が横死、滝川一益が本国へ帰り、織田家の新領甲・信の地が上杉・北条・徳川ら強豪の争奪の地となりました。
三強が競合する小県(ちいさがた)に本拠を置く昌幸は7月頃は北条氏直の配下に、9月には徳川家康に臣従します。
北信濃四郡を守る上杉景勝に対抗し、昌幸は1583年に上田城を築城しました。


1584年秀吉と対立する家康は背後を固めるため北条氏と和睦します。
和睦の条件で北条氏は真田の領地・沼田を要求したため、家康は昌幸に渡すよう命じますが、昌幸は拒絶し、源次郎信繁(幸村)を上杉景勝に人質に出すことで上杉氏に臣従することになります。

上杉景勝へ鞍替えした昌幸に激怒した家康は1585年8月、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世らを将として、7000の兵をもって上田城を攻めさせました。

真田昌幸は家康が畏敬していたといわれる武田信玄のもとへ7歳から奉公し、1561年の川中島の戦いに信玄の近習として従軍、やがて足軽大将になり、信玄に「両眼のごとき者」と称されています。

昌幸は城下の町内にいたるところに柵を千鳥掛けに立て、城の東南を流れる神川の前に200の兵を置き、「敵が川を越えたら軽く戦い軽く退け」と命じます。
昌幸は500人の手勢をつれ櫓に上り、甲冑もつけず家来と碁を打っていたそうです。


長男・信之のオトリ部隊に徳川勢が城内へおびき出された時、昌幸は真田の兵を場外へ出し、町家に火を放たさせます。
黒煙があがり兵の姿たあたりの風景も覆い隠しました。

小説「真田太平記」にも「おこう」などの女忍者(くのいち)が登場します

四方に伏せておいた武装農民3000人が鉄砲を撃ち放しながら急襲すると、徳川勢はいたるところで千鳥掛け柵にひっかかり、退路を失って次々に討たれ総崩れになります。

信之の兵と昌幸の兵により城中で前面と両側面から攻撃を受けた、徳川軍は敗走し神川のほとりに至るも信之の追撃で、溺死者も多数でたそうです。



ゲーム内のキャラのセリフ。
慶次「んじゃ、みんな、存分に暴れようか!」
兼続「敵の先陣は崩れた。このまま徳川軍を押し返すぞ!」
孫市「火の手が上がったようだな・・・おら、出番だぜ!」
政宗「わかっておる!わしに指図するでないわ!」
兼続「敵の裏をかく奇抜な計略で、戦況を一気に覆したか」


幸村「兼続殿、戦嫌いのあなたが、何故・・・」
兼続「力で信州を得んとする徳川のやり口は盗賊と同じ」
「上杉は悪行を見過ごさぬ、それを天下に示すためだ」

・・・上杉も北信濃などに進出してきたのですが・・・
1584年末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担います。
のちに家康に会津遠征を決意させるきっかけとなった(後世の偽作ともいわれる)直江状では、全くいわれのない嫌疑をかけるなら上杉は受けてたつという文面を家康に送りつけたようで・・・


幸村「慶次殿、助太刀いただき、改めて礼を・・・」
慶次「礼?まだ早ええだろう、戦は始まったばかりだぜ」


幸村の義理の姉になる稲姫(本田忠勝の長女)との絡みも。

稲姫「なぜ真田は戦うのです。最初から勝ち目など・・・」
幸村「逆に問う、なぜ稲殿は三方ヶ原で、弓を取られた?」

稲姫(幼名)=小松姫は1573年の生まれで幸村は1567年生まれですから1572年の三方ヶ原の戦いは、史実ではちょっと無理でしょうか(笑)


幸村「意地を曲げては武士に生きる価値はないからでは?」
さすが、武士(もののふ)真田幸村
昌幸「あの娘、幸村を相手になかなかやりおる…」
稲姫「やはり強い…覚悟の深さが…違う…」

ただ、家康(この時30歳)にとって「三方ヶ原の戦い」は歴史的大惨敗であり、敗走し浜松城に戻った家康は、苦渋の表情の肖像画を描かせ、熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話も。


幸村×くのいちでは
くのいち「うぎぃ、なんかヤバいかも…」(ピンチ時)
援護すると
くのいち「幸村様、迷惑をかけてごめんなさい…」

幸村「よくやってくれた、怪我はないか?」
くのいち「全然、楽勝ですよ!ちょっとヤケドしただけ…」

小説「真田太平記」では真田家と忍者の関係が蜜に描かれています。


政宗ピンチ時セリフ
政宗「手が足りぬわ、加勢をよこさぬか!」
…政宗…



氏康「あんな小城も落とせねえたあ、家康も情けねえ」
「ド阿呆な孫の舅殿だ、ちったあ助けてやろうかい」


北条氏康は1571年に死去し、後北条氏の第4代当主に氏政が、第5代当主(1580年~)に氏直がなっていました。
本能寺の変後、北条氏直は上野へ侵攻し滝川一益を6月の神流川の戦いで破り、上野を通過して信濃に入り、傘下に降った真田氏、依田氏などの国人を足掛かりにして信濃国の小諸城に進出し、同国の領有をめぐって徳川家康、上杉景勝と三つ巴の対立が始まりました。

氏直の母は、武田信玄の娘で氏政の正室・黄梅院で、「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」と主張し1582年旧武田領を巡って北条氏直と徳川家康が争い(天正壬午の乱)膠着状態となり、上野は北条、甲斐信濃は徳川が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立しました。
1583年8月15日、家康の娘・督姫が氏直に嫁いでいます。


兼続「北条が動いたか!」
景勝・兼続と北条氏との因縁
1569年に甲斐の武田信玄に対抗するために越後の上杉謙信・相模の北条氏康が結んだ越相同盟で、氏康の七男の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子(人質)として差し出しています。
1578年、上杉謙信が死去し謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱がおこり、景勝が勝利し、北条が支援した景虎は自害します。


孫市「家康の奴、北条まで引き連れてくるとはなぁ」
慶次「ケンカ相手は、多い方が盛り上がるってもんだ」
政宗「氏康のような年寄りに、負けるはずもないわ!」


幸村の決め台詞の一つ
幸村「その生き様、真田の槍が見届けた!」

孫市「かっこいいぜ?俺ほどじゃないが」(笑)
慶次「あんたも大した御仁だねえ!」
くのいち「さっすが幸村様!素敵すぎっ!」
兼続「見事だ、お前がいてくれてよかった」
…本当は幸村はこの時、上杉の人質になり上田城合戦に参加していないようなのですが…


幸村「真田の存亡を懸けた戦、負けるわけには…」
孫市「思い詰めるな、幸村。つらいときこそ笑っとけ!」
…いいこと言ってるけど、孫市、戦国無双2で「もう笑えねぇんだよ(怒)」ってぶちぎれていたような…


氏康「守ることの厳しさ、俺が教えてやろうじゃねえか」
「戦は傷を残し、痛みを残す…忘れんな、小僧ども」
「戦わねえ道を探すことを怠んじゃねえぞ」
…今回、真田領に侵攻してきたのはそっちなんじゃ…


忠勝「狡知ながら見事な戦…なれど、ここまで」
「真田の軍略ごと、この忠勝が穿つ!」

幸村「我が闘志の槍にて、あなたを止める!」
忠勝「よかろう!その生き様すべてをもって我に挑め!」
「そなたらの闘志、この忠勝をも凌ぐか…」

上田合戦における真田の軍略に惚れ、そして彼を恐れた本多忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案したそうです。



家康「なんと!城攻めの部隊が全滅だと!」
「真田の力…まさかこれほどとは…」


家康は2回にわたる上田城合戦の敗北で、重度の真田アレルギーになったとのことです。



徳川軍の戦死者は300~1300人と言われていますが、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだとのこと。
11月には徳川譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、徳川軍は完全に撤退しました。
この第一次上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになりました。




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1 コメント

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くのいちは?もしかして! (天下一の兵)
2012-01-16 20:38:39
もしかしてじゃなくて、好きでしょうね!
ヒユーヒュー!
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