戦国無双シリーズの代表キャラの一人・真田幸村の章の最終話は「大阪の陣」です。
1614年の「冬の陣」と1615年の「夏の陣」があります。
真田昌幸と信繁(幸村)は1600年の関ヶ原の戦いの際、西軍に属し徳川秀忠の足止めに成功するも、関ヶ原で西軍が敗れ、昌幸と信繁は、本来なら死罪でしたが、本田忠勝や真田信之の取り成しで紀伊国九度山に蟄居を命じられました。
昌幸、信繁父子が九度山に追放になった後、稲姫(信之の妻)は食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったそうです。
赦免を待ち続ける蟄居中の1611年に父・昌幸は死去しました。
1603年3月24日に徳川家康が征夷大将軍に任官され江戸幕府が開かれました。
1614年方広寺鐘銘事件で豊臣家と徳川家との対立が決定的となり、10月1日に家康は大阪城攻撃を宣言。
豊臣側は10月2日に旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばすも諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいました。
幸村は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城しました。
大坂で幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一していました(真田の赤備え)。
冬の陣の真田丸の戦いなどで被害の出た幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えました。
本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたということです。
くのいち「幸村様…どうぞ、ご武運を。私も、お供します。」
秀頼「皆、頼む…父の遺したこの家を、守ってくれ…!」
豊臣秀頼は秀吉と淀殿(浅井長政と市の娘)の息子ですが、徳川秀忠と江(浅井長政と市の三女)の娘である千姫と1603年に従兄弟同士の結婚をしました。
江は2011年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』の主人公ですね
大阪城は周囲を淀川、大和川などに守られた堅城でしたが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄でした。
幸村は、積極的な出撃を主張しましたが籠城の策と決すると、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に、真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊(前田利常、井伊直孝、松平忠直ら)に大打撃をあたえました。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊されてしまいました。
幸村「私の意地に付き合わせてしまったな…すまん」
くのいち「お気遣い無用! 勝手についてきただけですから」
健気ですね(泣)
長宗我部氏第21代当主の盛親は関ヶ原で無理やり西軍に入れられたあげく、吉川の妨害で戦場に出れず、西軍壊滅後、軍を率いて領国の土佐に逃げ帰りました。
盛親は井伊直政を通じて家康に謝罪しましたが、兄の津野親忠を殺害し、家康の怒りを買い、改易となってしまいました。
夏の陣で、豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川方の藤堂高虎と戦い、大坂の陣屈指の激戦として名高い「八尾・若江の戦い」で活躍します。
稲姫「幸村、あなたこの戦で…」
幸村「義姉上、これが戦国最後の戦なのです」
稲姫「ダメよ…! 力ずくでも、あなたを止める!」
孫市「お前、この戦で死ぬ気か? …感心しねえな」
鈴木重朝(孫市)は関ヶ原戦後は浪人し、伊達政宗に仕え、後に伊達政宗の仲介により、徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられたそうです。
幸村「私はただ、己の信念を槍に託して戦うのみです」
孫市「幸村、生き残れよ…」
・・・泣けますね
兼続「私は桜が嫌いだ…幸村、散れば美しいなど妄想だ」
・・・しんみり語りかけます。
兼続「だがお前の…岩のように変わらぬ信念は好きだ」
幸村「兼続殿・・・」
・・・これもまた泣けるセリフですね。
秀頼「豊臣の家…なにわの露と潰えるか…」
夏の陣で劣勢の中、幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めましたが、側近衆や母の淀殿に阻まれかないませんでした。
幸村「もはや大阪城の命運はつきた」
「今は、もののふの…真田の戦を天下に示すまで…」
「家康公の首、我が槍でもらい受ける!」
敗色濃厚な豊臣家の誘いに乗って大坂城に入った幸村の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われています…
くのいち「さっすが幸村様! 素敵すぎっ!」
くのいち「もっと…もっと…ついていきたかった…な…」
討ち死にすると、こんな悲しいセリフが(泣)
甲斐姫「ゼッタイ、退かないいいっ!」
秀吉の側室の一人・甲斐姫も豊臣側で参戦!
甲斐姫「あたし…は…負け…な…い…」
甲斐姫も討ち死にすると、かなり泣けるセリフが…
史実では甲斐姫は大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際には千姫のとりなしで死を免れ、近親者で豊臣秀頼の側室となっていた、小石(おいわ)の方(成田吾兵衛助直の娘)とその娘・天秀尼(秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の東慶寺に入って尼となったということです。
幸村「我こそは真田幸村! 死にたくなくば道をあけよ!」
幸村は「今はこれで終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは家康の首ひとつ!」とつぶやき 、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行しました。
政宗「馬鹿め! 単騎で突撃するつもりか、幸村!」
実際は、この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄します
黒田官兵衛「豊臣の残り火、卿の沈黙をもって消させてもらおう」
史実では1604年に死去しました。
後藤又兵衛は如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔。
細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康などから召し出しがかかるも長政に邪魔されたとのこと。
夏の陣で伊達政宗軍との乱戦の中、片倉重長(片倉景綱(小十郎)の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃され、傷を負い自刃しました。
家康「なんと!ここまで単騎で突破したというのか…!」
真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢らに手一杯であった徳川勢の隙を突き、「三方ヶ原の戦い」武田勢以来の家康本陣まで攻め込み、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったそうです
政宗「待て。幸村! 今さら家康を討って何になる!」
「道はわしが示す、共に新たな時代を…」
幸村「これは私の意地…もののふとしての意地なのです!」
政宗「くっ、幸村を止められんのか…」
1615年年の大坂夏の陣では、幸村は道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させました。
その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。
幸村「真田幸村、世に生き様を示すため、あなたを討つ!」
家康「討たれぬ…天下に泰平を成すため、討たせぬ!」
幸村・無双奥義・皆伝
幸村 ドアップ!!
ブンブン槍を振り回し…
ジャーンプ!
勢いよく地面に突き刺し…
炎の竜巻を発生させて自身の周囲近距離を攻撃
幸村「家康公、ご覚悟!」
ここから幸村エンディングです。
追い詰められた家康ですが、さっと避けると…
稲姫が弓矢を放ちました!
幸村は矢を叩き落とします。
稲姫と幸村の戦いが繰り広げられ…
稲が幸村をロックオン!! 王手!!
でも撃てない稲姫。
一瞬時が止まり…
幸村が隙ありとばかりに稲姫の弓をはじき飛ばします
幸村に逆王手された稲姫。
家康の方を見やる幸村…
家康を守ろうと兵士が集まり、完全に家康を討つのが困難に・・・
それでも、傷ついた体で徳川軍へゆっくり向かっていく幸村・・・
稲姫「幸村ー!」
幸村「私を止めてくださったのが、義姉上でよかった」
稲姫「天下、あなたこそ日本一の兵と褒めそやしています!」
稲姫「もののふの意地は立ちました!」
稲姫「もはや、死ぬにはおよびません!」
稲姫「どうか…!」
幸村「どうぞ、お健やかに」
「義姉上」
そして小走りで突撃・玉砕していく幸村…
画面が白じんでいきます…
ナレーション
ここに徳川幕府のもと天下は統一された
・・・戦国の世は終わった
武田家伝統の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由 徳川方、半分敗北」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せました。
幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害しました。
この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉しました。
これを元和偃武(げんなえんぶ)と言うそうです。
戦国無双3・真田幸村の章・関連記事
戦国無双3・真田幸村(上田城の戦い)
戦国無双3・真田幸村 (忍城の戦い)
戦国無双3・真田幸村(沼田城の戦い)
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1614年の「冬の陣」と1615年の「夏の陣」があります。
真田昌幸と信繁(幸村)は1600年の関ヶ原の戦いの際、西軍に属し徳川秀忠の足止めに成功するも、関ヶ原で西軍が敗れ、昌幸と信繁は、本来なら死罪でしたが、本田忠勝や真田信之の取り成しで紀伊国九度山に蟄居を命じられました。
昌幸、信繁父子が九度山に追放になった後、稲姫(信之の妻)は食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったそうです。
赦免を待ち続ける蟄居中の1611年に父・昌幸は死去しました。
1603年3月24日に徳川家康が征夷大将軍に任官され江戸幕府が開かれました。
1614年方広寺鐘銘事件で豊臣家と徳川家との対立が決定的となり、10月1日に家康は大阪城攻撃を宣言。
豊臣側は10月2日に旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばすも諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいました。
幸村は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城しました。
大坂で幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一していました(真田の赤備え)。
冬の陣の真田丸の戦いなどで被害の出た幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えました。
本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたということです。
くのいち「幸村様…どうぞ、ご武運を。私も、お供します。」
秀頼「皆、頼む…父の遺したこの家を、守ってくれ…!」
豊臣秀頼は秀吉と淀殿(浅井長政と市の娘)の息子ですが、徳川秀忠と江(浅井長政と市の三女)の娘である千姫と1603年に従兄弟同士の結婚をしました。
江は2011年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』の主人公ですね
大阪城は周囲を淀川、大和川などに守られた堅城でしたが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄でした。
幸村は、積極的な出撃を主張しましたが籠城の策と決すると、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に、真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊(前田利常、井伊直孝、松平忠直ら)に大打撃をあたえました。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊されてしまいました。
幸村「私の意地に付き合わせてしまったな…すまん」
くのいち「お気遣い無用! 勝手についてきただけですから」
健気ですね(泣)
長宗我部氏第21代当主の盛親は関ヶ原で無理やり西軍に入れられたあげく、吉川の妨害で戦場に出れず、西軍壊滅後、軍を率いて領国の土佐に逃げ帰りました。
盛親は井伊直政を通じて家康に謝罪しましたが、兄の津野親忠を殺害し、家康の怒りを買い、改易となってしまいました。
夏の陣で、豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川方の藤堂高虎と戦い、大坂の陣屈指の激戦として名高い「八尾・若江の戦い」で活躍します。
稲姫「幸村、あなたこの戦で…」
幸村「義姉上、これが戦国最後の戦なのです」
稲姫「ダメよ…! 力ずくでも、あなたを止める!」
孫市「お前、この戦で死ぬ気か? …感心しねえな」
鈴木重朝(孫市)は関ヶ原戦後は浪人し、伊達政宗に仕え、後に伊達政宗の仲介により、徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられたそうです。
幸村「私はただ、己の信念を槍に託して戦うのみです」
孫市「幸村、生き残れよ…」
・・・泣けますね
兼続「私は桜が嫌いだ…幸村、散れば美しいなど妄想だ」
・・・しんみり語りかけます。
兼続「だがお前の…岩のように変わらぬ信念は好きだ」
幸村「兼続殿・・・」
・・・これもまた泣けるセリフですね。
秀頼「豊臣の家…なにわの露と潰えるか…」
夏の陣で劣勢の中、幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めましたが、側近衆や母の淀殿に阻まれかないませんでした。
幸村「もはや大阪城の命運はつきた」
「今は、もののふの…真田の戦を天下に示すまで…」
「家康公の首、我が槍でもらい受ける!」
敗色濃厚な豊臣家の誘いに乗って大坂城に入った幸村の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われています…
くのいち「さっすが幸村様! 素敵すぎっ!」
くのいち「もっと…もっと…ついていきたかった…な…」
討ち死にすると、こんな悲しいセリフが(泣)
甲斐姫「ゼッタイ、退かないいいっ!」
秀吉の側室の一人・甲斐姫も豊臣側で参戦!
甲斐姫「あたし…は…負け…な…い…」
甲斐姫も討ち死にすると、かなり泣けるセリフが…
史実では甲斐姫は大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際には千姫のとりなしで死を免れ、近親者で豊臣秀頼の側室となっていた、小石(おいわ)の方(成田吾兵衛助直の娘)とその娘・天秀尼(秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の東慶寺に入って尼となったということです。
幸村「我こそは真田幸村! 死にたくなくば道をあけよ!」
幸村は「今はこれで終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは家康の首ひとつ!」とつぶやき 、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行しました。
政宗「馬鹿め! 単騎で突撃するつもりか、幸村!」
実際は、この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄します
黒田官兵衛「豊臣の残り火、卿の沈黙をもって消させてもらおう」
史実では1604年に死去しました。
後藤又兵衛は如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔。
細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康などから召し出しがかかるも長政に邪魔されたとのこと。
夏の陣で伊達政宗軍との乱戦の中、片倉重長(片倉景綱(小十郎)の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃され、傷を負い自刃しました。
家康「なんと!ここまで単騎で突破したというのか…!」
真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢らに手一杯であった徳川勢の隙を突き、「三方ヶ原の戦い」武田勢以来の家康本陣まで攻め込み、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったそうです
政宗「待て。幸村! 今さら家康を討って何になる!」
「道はわしが示す、共に新たな時代を…」
幸村「これは私の意地…もののふとしての意地なのです!」
政宗「くっ、幸村を止められんのか…」
1615年年の大坂夏の陣では、幸村は道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させました。
その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。
幸村「真田幸村、世に生き様を示すため、あなたを討つ!」
家康「討たれぬ…天下に泰平を成すため、討たせぬ!」
幸村・無双奥義・皆伝
幸村 ドアップ!!
ブンブン槍を振り回し…
ジャーンプ!
勢いよく地面に突き刺し…
炎の竜巻を発生させて自身の周囲近距離を攻撃
幸村「家康公、ご覚悟!」
ここから幸村エンディングです。
追い詰められた家康ですが、さっと避けると…
稲姫が弓矢を放ちました!
幸村は矢を叩き落とします。
稲姫と幸村の戦いが繰り広げられ…
稲が幸村をロックオン!! 王手!!
でも撃てない稲姫。
一瞬時が止まり…
幸村が隙ありとばかりに稲姫の弓をはじき飛ばします
幸村に逆王手された稲姫。
家康の方を見やる幸村…
家康を守ろうと兵士が集まり、完全に家康を討つのが困難に・・・
それでも、傷ついた体で徳川軍へゆっくり向かっていく幸村・・・
稲姫「幸村ー!」
幸村「私を止めてくださったのが、義姉上でよかった」
稲姫「天下、あなたこそ日本一の兵と褒めそやしています!」
稲姫「もののふの意地は立ちました!」
稲姫「もはや、死ぬにはおよびません!」
稲姫「どうか…!」
幸村「どうぞ、お健やかに」
「義姉上」
そして小走りで突撃・玉砕していく幸村…
画面が白じんでいきます…
ナレーション
ここに徳川幕府のもと天下は統一された
・・・戦国の世は終わった
武田家伝統の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由 徳川方、半分敗北」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せました。
幸村討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害しました。
この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉しました。
これを元和偃武(げんなえんぶ)と言うそうです。
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歴史(戦国・維新・島津など) 目次 はこちら
やっぱり、かっこよかったですね!
乚v50までしちゃいました!
幸村の章、いいですよね~
強くて、強くて、
これだけで、あいてを
倒しちゃいました!