任天堂の Wiiゲームソフト『戦国無双3』における島津義弘公のシナリオの続きです。
島津義弘公シナリオ第3話「伏見城の戦い」編となります、
伏見城の戦いは関ケ原の合戦の前哨戦のうち、最初の戦闘ですが、その前の島津家の内情は、いろいろあったようです。
1587年の「九州戦役」時、島津家家老であり、島津家の降伏をまとめた功績で日向都城8万石の城主になった伊集院忠棟を、1599年3月に義弘の三男・忠恒(後の島津家当主)は伏見島津邸で、手討ちにしました。
そのため、忠棟の嫡子・伊集院忠真が国許の日向都城に籠って「庄内の乱」を起こしましたが、その鎮圧に手を貸したのが徳川家康でした。
謹慎していた島津忠恒が、鹿児島へ帰り、庄内を攻め、島津義久も出陣するも膠着状態となり、その調停に家康が家臣山口直友を薩摩に向かわせます。
家康の調停により、1600年3月15日に忠真が城を島津家に引き渡したので、このお礼で島津義弘公は家康に度々会っていたようです。
1600年4月27日、義弘公が家康を訪問した際、家康は義弘公に、会津征伐の留守中は「伏見城に入り鳥居元忠に協力・援助するよう」頼みます。

4月27日 義弘公は国許の義久への書状を出し、
「伏見の御留守番を引き受けたからには、人数を整えなければ島津家にとってよくない。会津遠征の軍役は100石につき3人だが、伏見城在番は100石につき1人程度で済むと思われるので、どうか兵を送って頂きたい」と軍勢の派遣を要請します。
しかし、朝鮮出兵、庄内の乱で疲弊している島津家の事情や、中央の動きにできるだけ関与するまい、とする義久の意向もあり、大阪の義弘公の元へ駆けつけたのは、帖佐衆や出水衆など義弘公を慕う私兵だけだったようです。
だからこその結束力だったのですが・・・
5月12日に、日向佐土原領の島津豊久(義弘公の弟・家久の子)が、義弘の要請に応え真っ先に馳せ参じました
6月18日、家康は伏見城を出発、7月2日に江戸城へ到着し、7月13日に先発の四天王・榊原康政らの軍が江戸を発ったようです。
一方7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込み、7月12日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされたとのこと。

『惟新公関原御合戦記』では、7月2日から17日まで三成に対して数度与することを固辞し、また伏見城留守居・鳥居元忠に再三入城することを申し入れたが、拒否されたとしています。
この時点で義弘が率いていた手勢は2百人ほどであったらしく、入城できなければ西軍の軍勢に壊滅させられることは明らかでした。
また島津氏は1587年の九州征伐の敗北による大幅な領土の削減、さらには文禄・慶長の役の軍役のたため、領国経営は破綻寸前であり、その窮状を石田三成の指南によって乗り切ったという経緯があり、恩人ともいえる三成の要請を固辞できなかったという理由もあるようです。
7月18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しました。
元忠は拒絶。7月19日から伏見城の戦いが始まりました。

伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋で、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂などが攻城側に参加し、総勢4万人の大軍でした。

守備軍は鳥居元忠を総大将とした内藤家長、松平家忠、松平近正ら1800名ほどの兵のみでした。

島津義弘の家老・新納旅庵が伏見城に篭る鳥居元忠の下に向かい入城を申し込むが、拒絶されたとの説あり。

伏見城では守将がよく守り、なかなか落城せず。
西軍の近江水口城主で五奉行の一人の長束正家の家臣に甲賀衆の鵜飼藤助がいて城内の甲賀衆へ、内通しなければ家族を磔にすると脅迫します。
甲賀衆は、30日の深夜に城内に放火し、元忠は8月1日に討死にし、伏見城はようやく落城しました。

家康は7月21日に江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。
ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたとのことです。
7月25日に今後の方針について「小山評定」と言われる軍議を催しました。
数日で落とせたはずの伏見城に10日以上もの期間をかけたため、西軍のその後の美濃・伊勢方面に対する攻略が大きく遅れる要因となったとされ、三成の、尾張・三河で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利するという戦略は破綻してしまいました。・・・

江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた約200通もの書状作戦を展開している頃、福島正則ら東軍先鋒は清洲城に集結。
家康の使者・村越直吉が来着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられるや、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へとなだれ込みます。
8月22日:「河田木曽川渡河の戦い」「米野の戦い」
8月22・23日「岐阜城の戦い」

正則は西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めで池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させました。
岐阜城を攻め落とした際には「某(それがし)の武功に代えても」の一言で城主・織田秀信の助命を嘆願したそうです。

坊ちゃん=立花宗茂(当時32歳)は、9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始し、義弘公達と別行動になりました。

千代(当時30歳)は西軍が関ヶ原の戦いで敗北した際には、居館「宮永殿」から甲冑を着て出撃、攻め寄せる東軍を威嚇したとの噂も

黒田如水は九州で破竹の勢いでした。

西軍が勝ってもおかしくない状況ですから、まさにばくちでしょう。

義久の三女亀寿が当主忠恒夫人で、大坂に人質になっていたため、致し方なく西軍に属しただけと、義弘の家老・新納旅庵は合戦後、弁明し島津氏赦免の方向になります。
義弘公シナリオ・第4話は「大津城の戦い」ですが、これは立花宗茂のためのシナリオで、義弘公には、あまり接点はないです・・・
やはりラスト第五話「関ヶ原敵中突破」が義弘公最大の見せ場でしょう
島津義弘公 関連記事
戦国無双3・毛利元就 (立花救援戦 )
戦国無双3・島津義弘公 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (小田原討伐 )
戦国無双3・立花千代の章第2・3話
戦国無双3・立花千代 (杭瀬川の戦い)
戦国無双3・立花宗茂 (大津城の戦い )
戦国無双3・島津義弘公 (関ヶ原突破戦)
戦国無双3・立花千代(石垣原撤退戦) +宗茂ED
歴史(戦国・維新・島津など) 目次
島津義弘公シナリオ第3話「伏見城の戦い」編となります、
伏見城の戦いは関ケ原の合戦の前哨戦のうち、最初の戦闘ですが、その前の島津家の内情は、いろいろあったようです。
1587年の「九州戦役」時、島津家家老であり、島津家の降伏をまとめた功績で日向都城8万石の城主になった伊集院忠棟を、1599年3月に義弘の三男・忠恒(後の島津家当主)は伏見島津邸で、手討ちにしました。
そのため、忠棟の嫡子・伊集院忠真が国許の日向都城に籠って「庄内の乱」を起こしましたが、その鎮圧に手を貸したのが徳川家康でした。
謹慎していた島津忠恒が、鹿児島へ帰り、庄内を攻め、島津義久も出陣するも膠着状態となり、その調停に家康が家臣山口直友を薩摩に向かわせます。
家康の調停により、1600年3月15日に忠真が城を島津家に引き渡したので、このお礼で島津義弘公は家康に度々会っていたようです。
1600年4月27日、義弘公が家康を訪問した際、家康は義弘公に、会津征伐の留守中は「伏見城に入り鳥居元忠に協力・援助するよう」頼みます。

4月27日 義弘公は国許の義久への書状を出し、
「伏見の御留守番を引き受けたからには、人数を整えなければ島津家にとってよくない。会津遠征の軍役は100石につき3人だが、伏見城在番は100石につき1人程度で済むと思われるので、どうか兵を送って頂きたい」と軍勢の派遣を要請します。
しかし、朝鮮出兵、庄内の乱で疲弊している島津家の事情や、中央の動きにできるだけ関与するまい、とする義久の意向もあり、大阪の義弘公の元へ駆けつけたのは、帖佐衆や出水衆など義弘公を慕う私兵だけだったようです。
だからこその結束力だったのですが・・・
5月12日に、日向佐土原領の島津豊久(義弘公の弟・家久の子)が、義弘の要請に応え真っ先に馳せ参じました

6月18日、家康は伏見城を出発、7月2日に江戸城へ到着し、7月13日に先発の四天王・榊原康政らの軍が江戸を発ったようです。
一方7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込み、7月12日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされたとのこと。

『惟新公関原御合戦記』では、7月2日から17日まで三成に対して数度与することを固辞し、また伏見城留守居・鳥居元忠に再三入城することを申し入れたが、拒否されたとしています。
この時点で義弘が率いていた手勢は2百人ほどであったらしく、入城できなければ西軍の軍勢に壊滅させられることは明らかでした。

また島津氏は1587年の九州征伐の敗北による大幅な領土の削減、さらには文禄・慶長の役の軍役のたため、領国経営は破綻寸前であり、その窮状を石田三成の指南によって乗り切ったという経緯があり、恩人ともいえる三成の要請を固辞できなかったという理由もあるようです。
7月18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しました。
元忠は拒絶。7月19日から伏見城の戦いが始まりました。

伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋で、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂などが攻城側に参加し、総勢4万人の大軍でした。

守備軍は鳥居元忠を総大将とした内藤家長、松平家忠、松平近正ら1800名ほどの兵のみでした。

島津義弘の家老・新納旅庵が伏見城に篭る鳥居元忠の下に向かい入城を申し込むが、拒絶されたとの説あり。

伏見城では守将がよく守り、なかなか落城せず。
西軍の近江水口城主で五奉行の一人の長束正家の家臣に甲賀衆の鵜飼藤助がいて城内の甲賀衆へ、内通しなければ家族を磔にすると脅迫します。
甲賀衆は、30日の深夜に城内に放火し、元忠は8月1日に討死にし、伏見城はようやく落城しました。

家康は7月21日に江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。
ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたとのことです。
7月25日に今後の方針について「小山評定」と言われる軍議を催しました。
数日で落とせたはずの伏見城に10日以上もの期間をかけたため、西軍のその後の美濃・伊勢方面に対する攻略が大きく遅れる要因となったとされ、三成の、尾張・三河で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利するという戦略は破綻してしまいました。・・・

江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた約200通もの書状作戦を展開している頃、福島正則ら東軍先鋒は清洲城に集結。
家康の使者・村越直吉が来着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられるや、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へとなだれ込みます。
8月22日:「河田木曽川渡河の戦い」「米野の戦い」
8月22・23日「岐阜城の戦い」

正則は西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めで池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させました。
岐阜城を攻め落とした際には「某(それがし)の武功に代えても」の一言で城主・織田秀信の助命を嘆願したそうです。


坊ちゃん=立花宗茂(当時32歳)は、9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始し、義弘公達と別行動になりました。

千代(当時30歳)は西軍が関ヶ原の戦いで敗北した際には、居館「宮永殿」から甲冑を着て出撃、攻め寄せる東軍を威嚇したとの噂も


黒田如水は九州で破竹の勢いでした。

西軍が勝ってもおかしくない状況ですから、まさにばくちでしょう。

義久の三女亀寿が当主忠恒夫人で、大坂に人質になっていたため、致し方なく西軍に属しただけと、義弘の家老・新納旅庵は合戦後、弁明し島津氏赦免の方向になります。

義弘公シナリオ・第4話は「大津城の戦い」ですが、これは立花宗茂のためのシナリオで、義弘公には、あまり接点はないです・・・
やはりラスト第五話「関ヶ原敵中突破」が義弘公最大の見せ場でしょう

島津義弘公 関連記事
戦国無双3・毛利元就 (立花救援戦 )
戦国無双3・島津義弘公 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (九州征伐編)
戦国無双3・立花宗茂 (小田原討伐 )
戦国無双3・立花千代の章第2・3話
戦国無双3・立花千代 (杭瀬川の戦い)
戦国無双3・立花宗茂 (大津城の戦い )
戦国無双3・島津義弘公 (関ヶ原突破戦)
戦国無双3・立花千代(石垣原撤退戦) +宗茂ED
歴史(戦国・維新・島津など) 目次
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます