【2024年】ツイッターつぶやき
トイレに入ったら、いきなりブーンと虫が飛びついてきた。
手で追い払ったのですが、はじめはゴキブリかなと思いぞっとしました。手で追い払ったときに首に筋をやられた。
壁にへばりついた虫を見たら小さなカメムシでした。トイレットペーパーで撮って捨てました。
さっきはさっきで網戸に泊まっていました。
薬がないので消毒液を欠けたら一瞬ひるんでいた。
これから大量発生しそうです。
下手に捕まえると臭い液を出し石鹸で洗ってもダメですからね。
ミニトマトを食べられないか心配です。
≪過去の記事≫
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
うわっ!昨日の日記、「つれづれ」が「テレ連れ」になっていた。
直しました。。。。
また夕食後寝てしまった。
少しだけごろっとしようかと横になるともうだめです。いつの間にか寝入ってしまいます。気持ちよく寝ていたら足がつってしまい目が覚めました。最近時々つることがある。ビタミンでも足りないのかな?そういえば高校のときにサッカーをやっていてよく足がつっていた。体質でもあるのか?
エビ反るほどの痛さ。。。(笑)
【2006年】
もらった朝顔の苗から蔓がグングン伸びてきました。
もう棒の高さでは間にあわないので、棒の先からビニールの紐をつけてやりました。どのくらいまで伸びるか楽しみです。
子どもたちが小学生のころに夏休みの宿題での観察用に育てたことがありましたが、朝顔もこの頃以来です。毎朝いくつ咲くかは楽しみですね。
小さな花の莟も出てきました。このままいけば種がたくさん採れると思います。
妻と出かけたのですが、その途中、庭に何本もの紐を高くつけて朝顔の蔓を何本も絡ませている家がありました。あのまま伸びると簾状になり花が咲き始めるときれいだろうなと思いました。
種がたくさん取れたら、来年は長細い鉢にたくさん植えて簾状にしてみよう。。。。
日本テレビの明石屋さんまのサッカー番組を見ました。
さんまのサッカー好きは本物ですなぁ。。。。他のチャンネルのレポーターの「日本が負けて残念」ばかりのコメントだけではなく、ワールドカップそのものを楽しめる解説だと思う。
もちろん、日本が決勝リーグにいけなかったのは残念だが、案外この後の決勝トーナメントを冷静に楽しめるのではないかと思う。
サッカーだけではなく、オリンピックでも「日本チャチャチャ」的な騒ぎは好きでないこともある。または、これは、マスコミが期待しすぎの騒ぎをしていることに嫌気がさしていて、日本を冷めた目で見てしまうのかもしれない。
天邪鬼です。。。。
【2007年】
久しぶりの快晴。
超久しぶりに布団を干しました。洗濯物もからっと乾き気持ちがよかったです。
蝉の声がしました。
娘がキンキキッズのベスト版を買いたいというので付き合いました。
それにしてもジャニーズ系はすごい人気ですなぁ。。。
どこのCD屋さんに行っても売り切れで、5件目にしてやっとゲットしました。それも残り1枚というぎりぎりで。
新譜専門のCD屋というのも少なくなりました。どこに行っても中古を同時に売っています。たしかにCDは昔のレコードと違って傷も付きにくいし中古でも音が飛ぶということもほとんどないようですから、中古であるならそれを買ったほうがお買い得ですね。このような中古のCDを売っている店には、必ず古本も置いてある。夏生さんの本をついでに探してきました。
本もこうも古本ばかりが多く出回っていては普通の本屋さんもたいへんでしょう。。。。
そういえばCDのベスト版。。。。
これがあんがい曲者ではないかな?
ベスト版だからよく聞いた曲がたくさん入っていると思い買うのですが、中にはレコードで言えばシングルの裏面(B面)の曲も入っているときがある。大体がB面というのはA面の陰に隠れた曲で、あまり印象に残っていない曲で、ベスト版でこのようなB面の曲が多く入っているとどんよりするものです。。。。
さて、娘の買ったベスト版はどうなんでしょ?
僕にはわからない曲の世界なので。。。。
夏生さんの新刊「流氷にのりました へなちょこ探検隊2」が8月7日に発売ですね♪
【2008年】
「風花 kazahana」
集英社
川上 弘美 著
2008年4月発行の長編です。
集英社のホームページに編集者の作品紹介がある。
その中に「川上弘美さん初の『結婚小説』」とありました。
この結婚小説」と意味では、「夜の公園」(2006年7月発行)も結婚小説と呼べるものだろう。また「真鶴」(2007年1月発行))も結婚生活の中での夫婦間のやり取りが少ないが、夫婦関係が表現されているものと見てもいいのではないか。「光ってみえるもの、あれは」(2005年9月発行)では、愛子さんと大鳥さんという別れた夫婦関係も出てくるが、主人公は高校生の翠(みどり)である。
こうして見ると毎年1篇の長編小説が発表されているのですが、「光ってみえるもの、あれは」は、翠という高校生の見た目からの自分を取り巻く人々を描くわけですが、愛子、大鳥という両親の関係も子である翠を通して描かれる中に夫婦関係の一面を見ることができます。この意味ではこの作品は「結婚小説」ではないのでしょうが、夫婦というものに視点が合いつつある作品かと感じます。そして「夜の公園」では、はっきりした形で夫婦の生活の場が描かれます。しかしこの作品においては、リリ、幸男という夫婦は互いに不倫(幸男はリリの親友春名と、リリは若い暁などと)という形においてのすれ違いが描かれ、そのすれ違いがどこから出てしまうのかは、リリ自身もわからないままに、「おかえり」の声を使い分けていたのに夫が気づかないことに好きでないと思うという表現に心の動きとしてのリリがいます。
「真鶴」では、夫「礼」は失踪をして影のようにしか出てきませんが、主人公「京」の夫への思いや結婚生活を思い起こしての心の中が多く表現されていると思います。その意味では「夜の公園」のリリに比べて幻想的ではあるが夫婦を描くという意味ではよりはっきりしたものが「京」の中において見えるのではないかと思います。
そして「風花」においては、主人公の「のゆり」は夫の卓哉との関係を迷いながらも見つめようとし、それは具体的な生活の中に描かれます。
このように毎年発表される1篇の長編という流れの中に川上さんの結婚観の流れがあり、またはいろいろな視点で見つめる川上さんの目があるのかもしれません。
このように、「結婚小説」という視点で川上さんの作品を読もうとするなら、「夜の公園」「真鶴」そして「風花」とお読みになることをおすすめいたします。
「さっき、こわかった。手に持っている小さな手鏡が何の予告もなくぱりんと割れてしまったみたいに、こわかった。」(11ページ)
「のゆり」は、従兄妹である真人と新幹線で温泉に行く。
結婚後ほとんど出かけなかったのゆりは新幹線の改札機の通り方がわからずに戸惑ってしまった。そんなのゆりは、何に怖さを感じたのか。
ここからこの作品ははじまります。
夫卓哉は、同じ会社の後輩である里美と不倫関係にあり、ある日匿名の電話がありその間系を知らされる。その夜のゆりは卓哉に
「ただ、どうしていいのかわからなくて、かといって腹に溜めておくほどの決意もつかず、ともかく報告したのである。」(12ページ)
普通「とめおく」は留め置くとして「留」の字を使うが、のゆりは「溜」の「とめ」である。よく溜飲を飲むとか溜飲が下がるいうが、この溜である。たぶん、のゆりは卓哉に対して不満な気持ちも起こらずに卓哉の不倫に怖さだけを感じたのではないか。それが「報告」という言葉になる。同時に、不満さもなく、怒りや悲しみも出ないのゆり。こういうのゆり自身にこそのゆりは怖さを感じたのでしょう。
卓哉の不倫に怒りや悲しみもおこらないで「報告」するのゆり。
そんなのゆりが日常の中において悲しみや怒り、特に悲しみを抱いていく様子を表現したものがこの作品の主題ではないか。それは、のゆりの「卓哉の妻のゆり」から「一人の女性としてののゆり」への変化であり、そして「一人の女性であるのゆり」を取り戻したときに大きな悲しみにのゆりは気づくのである。
「夜の公園」のリリにしても、「真鶴」の京にしても、夫の不倫に対して自らも不倫をする。もちろんそのリリや京の不倫は、夫への報復的なものではなくて極自然な夫婦間の破綻から来る女性性の流れであり、愛情の向くべきところへと自然である。そんな女性の主人公に対してのゆりは、従兄妹といっても少し危ないような関係の真人や医療事務の学校で知り合った若い男とも不倫関係には陥らない。のゆりの気持ちは卓哉にあるのである。それは愛情であり、卓也との経済関係支配にあるのではない。だからこそその悲しみの深さにのゆりは気づくのである。
「わたしはいったい、どう、したいんだろう。のゆりはぼんやりと思う。」
(40ページ)
卓哉にはもう一人の不倫相手がいた。
毎日のように無言電話をかけてきたが、ある日始めて電話に応対する。「別れてください」と。
のゆりは、「はあ」とあいまいに答える。混乱しながらも「きれいな声」だと思い、やっと無言電話をやめられたのねとよかったじゃないと思う。
毎日の家事をこなすのゆり。。。
こういうのゆりが描かれていくのだが、女性の読者としてこのようなのゆりがどのように写るだろうか。
のゆりの従兄妹真人も不倫をしていたが、妻からは追い出される。のゆりにはこういうことができない。読者の中には、感情をあらわにして怒り夫を問い詰めて時には追い出して反省をさせるといった強い妻を応援しないだろうか?その意味でのゆりという女性はどうなんだろう。
しかし女性のほんとうの強さは、泣き叫んで問い詰めてというよりも静かに戸惑いながらも自分を見つめる女性のほうが強さが在るのではないか。
僕としてはそういうのゆりの強さをこの作品から感じるのである。泣き叫び問い詰めるのではなく悲しみを感じるという強さでもある。
この強さは、「夜の公園」のリリや、「真鶴」の京にも共通する。
卓哉は叫ぶように
「なぜのゆりはそんなに落ちつきはらってるんだ」といい、「のゆりには、プライドは、ないのか」とも。(172ページ)
のゆりには悲しみと戸惑いしかない。卓哉への愛情しかない。
だから「みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。」(173ページ)と思いつつ卓哉への愛を自分に問い直す。のゆりの中にあるものが卓哉への愛と悲しみという面では、この自分自身を見つめる中でしか答えは返ってこないし、それに応える卓哉を見つめなおすしかないのであろう。
のゆりはアパートを借りて別居をするが、ある晩、卓哉が火事にあい火傷をしてのゆりのアパートに来る。
卓哉は「怖かった」という。
冒頭にあるのゆりの「こわかった」とは違う。しかし違うが、卓哉の「怖かった」は、火事が怖かったではなく、のゆりが近くにいなくて怖かったであろう。
「結婚しなければよかったのに、わたしたち」「結婚しなければ、もっとちゃんと好きになれたのに」(259ページ)と、のゆりは思う。
卓哉は結婚生活を続けたいと思う。のゆりは結婚しなければもっと好きになっていたかもと思う。ここに結婚生活というものへの川上さんの考え方が出ているだろうし、結婚生活という形の中での愛情とは何かが見えるのかもしれない。
のゆりは「別れよう、わたしたち」(282ページ)と口に出して言う。。。。
ラストはある意味さわやかである。
仕事のできる、「お給料の高い」、かっこいい卓哉はそこにはいない。おろおろと戸惑い悲しむのゆりはいない。かと言って卓哉ものゆりも「好きだ」という気持ちは持つ。卓哉は泣きながらキャリーバックを引きずり、やはり泣くのゆりの後についてくる。
やはりのゆりは強いのです。
泣き叫び怒り狂って別れるという形を作らなかったのゆり。ちゃんと愛情だけは大切にしたのゆり。結婚生活ではできなかった「この人の前でちゃんと正式に泣いたことがあったっけ」とのゆりは思う。この涙は、のゆり自身の姿であり妻ののゆりではない本来ののゆり。「おなか、すいちゃった」「ラーメンでも食べて帰ろ」
そんなのゆりを卓哉は見つめる。
ちょっと事情は違うし、卓哉ものゆりも若くて子もないが、このふたりの関係は「光ってみえるもの、あれは」の愛子さんと大島さんのような関係になるのかなとも思う。
このラストは、読者に複雑な涙を流させるでしょう。。。。
それは、のゆりと、もしかしたら卓哉とも同じ涙だと思います。
難しいけど、すばらしい作品でした。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
落ち着かないから
緑深い葉っぱの陰に隠れた
【2011年】ツイッターつぶやき
銀色夏生さんの「つれづれノート⑳ 相似と選択」(角川文庫)が発売になりました。
日記エッセイです。
改めて手にとって「掃除と洗濯かぁ。。。」と思ってしまったのですが(笑)「相似と選択」です。
ホームページによりますと今までの「つれづれ」とは少し違った感じだとか。
買ってすぐに背表紙を読みました。
人の本性がわかるのは、いい時でもうれしい時でもない。悪い時やよくない時にその人がどう反応するか。人が窮地に立った時にどう変わるか。「もっと見たいと思う。」と。。。。。
今いろいろと悲しいことが社会でも起きていますし、日常の個人としてもいろいろな苦しいことが起きることもあります。それを夏生さんは行動力で克服してきたわけですが。。。
相似・・・・対称としての同じもの。選択…選ぶこと決意とも?
明日から読みたいと思います。
【2012年】ツイッターつぶやき
政治というわけではないが、ニュースなどでアメリカの市民へのインタビューなどを見ると、アメリカの市民は自分の考えをきちんというのを誇りと思っているのかと感じます。ヨーロッパの国々も?
この個人の考えを云えるという誇りは、相手の意見も意見の違いはあっても聴くことを誇りとするのではないか。その上に立っての激しい議論であり時には喧嘩なのではないか。
日本では今、政党政治の危機が二大政党制の中に噴出している。衆参のねじれとかいう理由で政治が機能しなくなっていると言われたりする。一方では多数決が民主主義といって数の力を重んじる。もちろん口先では十分な討議を行い。。。。などとは言うが、中途半端な議論で最後には数の力で決められる。党の結束という中身のない数の論理で党が議員を縛る。こうしないと数の力は発揮できないから。一人一人の議員は自分の意見を出すことを誇りとはしない。党がやはり党内の数の力により決めた党の決定を重んじる。あまりにも日本的な「お家のため」といった武士道ともいえるようなものを誇りとする。
結局衆参のねじれや伯仲する数の力の中では国会が機能しなくなるのである。そこですぐに大連立という二大政党制の自殺行為を模索する。
民主主義が逆立ちをしているのである。
民主党内では消費増税の採決に向けて賛成派(政府派)は反対派や中間派を切り崩しを行っているという。一つの方向に向くような条件がなくなった議員は右往左往する。悲痛な叫びさえあるようである。しかし、何も悲痛な叫びなどを発するようなことではないのである。賛成なら賛成、反対なら反対と自分の意見を言うことを誇りとすればいいのである。簡単なのである。しかしそこには次の戦況や次の大臣(要職)への損得勘定も出るし、考えることそしてそこから結論を自分なりに得るという孤独に耐えきれない不安が付きまとう。
浮雲は風向きによって流されていく。。。。
これでは議員をやっていても楽しくないでしょう。。。。もちろん権力・名誉や金のためと思っていれば深く考えなくていいわけですが。
【2013年】ツイッターつぶやき
世代間格差とはなんでしょうか?今の若い人は高齢者よりも損をするといった論理が多くありますが、もし仮に損をすると言っても何が原因で損をするのかという中身がないとだめでしょう。
若い人が損をする。じゃぁ、高齢者が得をするから若い人が損をするのか?何も高齢者が得をするからではなくて若い人が損をする仕組みが作られていると見た方がいいでしょう。
消費税を見ても高齢者の若いころは消費税はなかった。それが3%そして5%になったわけですが、その中に現役生活をしたわけです。ところが若い人はすでに5%の時代に青春を送るわけですから、高齢者の30代の頃とい今の若い世代の30代では税負担が当然違うわけです。そして高齢者は定年を迎えてある程度子供に金がかからなくなって消費税が10%になる。ところが若い人は結婚子育てと一番金のかかる時期を10%で生活しなければならない。こう見たとき、たしかに若い人は損をしています。消費税という税の負担が大きいわけですから。しかしこれは高齢者が得をしたわけではなくて若い人が政治のために損をさせられているという事です。ですからこれを世代間格差として高齢者と対決するような論理はおかしいでしょう。
消費増税も福祉や社会保障のためと言われていますが、今は位置づけが違うでしょう。国家財政のための増税となっています。ですから消費増税が行われても福祉や社会保障は削られるのです。そうすると若い人は自分たちの重荷を少しは軽減することができるという幻想は消え去ります。そして年金やその他改悪をされる中で、親である高齢者を公助ではなくて家族内の自助で行うことになります。今までは公助で親は経済的に切り詰めればある程度独立した生活をおくれるが、年金などが改悪されれば家族内の自助が求められる。そうするとどうでしょうか。自助とは今の生活の中の負担になるわけですから、格差社会の中で自助を行うにしてもその苦しみの度合いは格差に応じてきつくなるわけです。
どうでしょうか?若い人は損をする問論理だけで世代間格差が悪いとだけ言えるでしょうか?
昔から格差は同世代の格差が問題だったのです。この中で平等主義のようなものが企業の中でもある程度広げられずに年功序列といった賃金体系もありました。しかし今はこれが壊されて雇用形態やもちろん昔から続く男女間差別も広がり、同世代であっても収入の格差が開くという同世代格差が広がっているのです。高齢者はある程度平等主義の中で同世代格差が小さかったとすれば高齢者が徳をしていたのではなくて今の若い人が政治に損をさせられているのです。
矛盾の基本は世代間格差ではなくて、同世代間格差と今も続く男女間格差の問題が基本なのです。これをどうにかしないとますます若い人が損をする世の中になります。
【2014年】ツイッターつぶやき
死体の一部を集めて人造人間を作ってもその人造人間はただのグロテスクな死体であり生命を持たない。管制経済というのはこのような人造人間ではないか。
政府は企業の国内設備投資を求めている。日銀も消費増税後も個人消費はある程度維持しているが供給の問題を提起して民間の活力を求める。それは積極的な設備投資でもあるでしょう。財界も法人減税で20%なら国内の設備投資をするという。政府はこのために財源すらはっきりしない法人税を成長戦略の柱の一つとする。
官製の賃上げも含めて個人消費の生きている部分と企業の溜め込んでいる資金にさらに法人減税で資金を集めてそれで立派な経済という人間を作り出そうとしているわけである。まさにこの官製の経済は人造人間でしかないでしょう。人造人間にも生血が必要なわけですからそれは量的緩和の資金と国民が持つかねです。この生血を注ぎ込むがやはり人造人間には命はないのである。生血を循環させようとするが脳死状態である。
賃上げも一部の大企業での賃上げでその賃上げも政府・日銀の物価高政策により物価に追い付かずに実質賃金は下がり続ける。一部の労働力不足の産業でのバイトなどの不安定雇用の時給は上がっているにしてもこの官製の賃上げの恩恵を受けていない労働者は多いだろう。
個人消費は生活にどうしても必要なものは消費をするが耐久消費財などの消費は落ち込む。贅沢意識(これは国民の生活向上の実感と意識)もプチ贅沢の範囲を出ない。正社員の夏のボーナスや不安定雇用に対しての何かしらの特別手当がなければ個人消費は節約意識の中におかれるだろう。もちろん高齢者(特に年金生活者)などの非労働人口は蚊帳の外におかれるだろう。あるいは政府の高齢者の活用(年金支給年齢の引き上げが実施されている中で)相当ひどい低賃金におかれる。
企業の国内設備投資は、今でさえ内部留保が増えているにもかかわらずその資金が設備投資には回らない。個人消費の不安定性の中で内部留保を吐き出してまでも国内での設備投資には消極的にならざるを得ない。
日銀は物価上昇だけを自らの責任とするわけで成長は国と民間の仕事だとして更なる量的緩和は行わない状態です。
こう見ると管制経済という人造人間には命は生まれていないということです。
さらに国民の生血を人造人間に注入をするのが成長戦略ですから人造人間のグロテスクさは増していくでしょう。もちろんこの下部構造でのグロテスクさは上部構造に作用をして政治をはじめとした社会システム自体がグロテスクなものになる。やはりとんでもない仮定を出しての集団的自衛権という人造人間を生み出そうとしている。ここでも心配されるのが国民の生血が流されかねないということである。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
誰もが、普通、火事を発見したから火の見やぐらに上って半鐘をたたくものと知っている。しかいこの社会にでは時より半鐘を鳴らすから火事が起きると言い出す人たちがいる。
国民に真実を教えるとその不満などが拡散して社会が混乱するとしたり、混乱が起きると半鐘をたたいたやつが悪いといわれたりもする。
ここから国民には自由や民主主義はいらないという人々が出る。
でも、こういう人が逆に半鐘を鳴らして有りもしない火事を騒ぐ。ポピュリズムである。扇動である。
国民には半鐘など鳴らすと火事になると言い聞かせながら、自分に必要と思うことには半鐘をカンカン鳴らす。
国民には貧富の拡大や格差の拡大を強いつつ、真面目な学問である経済学が、経済の好転=インフレだからインフレ=経済の好転だとして半鐘ばかりをカンカン鳴らす。
こういった社会ですから、社会の中に矛盾が爆発して火災が起きているんです。
この火災を発見して見つめて国民が半鐘を鳴らさなければなりません。もちろん、マスコミや知識人そして誰よりも政治家自身が。
【2018年】ツイッターつぶやき
ツイッターからです。
宗教ってなんでしょ?本来は人間世界を住みやすく平和にそして平等にしようという思想ではなかったでしょうか?もちろん同時に自然に対する人間の営みに深く関連したものです。自然に感謝したり恐れたり。そこに神を見る。
自然の中に神を見る時に森羅万象一つの神がそのすべてを支配するといった宗教もあるでしょうし、自然界には八百万の神々が存在をするという宗教もあるでしょう。初めの宗教は八百万の神々がいたはずですが。
八百万の神々は素朴に人々の心に結びついて存在をしていましたが、だんだんと一つの神の支配下に組み込まれていく。この流れは神は人間の観念ですから人間社会が変化すれば神の姿も変化をします。原始共産制には八百万の神々でよかったでしょうが、人間社会に王様が生まれると神の中にも王様が必要に。
もちろん王様が生まれる過程に宗教が絡んでいたことは間違いありませんが。絶対的王様には絶対的な神が必要になります。多くの富を蓄えるには、そしてそれを正当化するためにも。実はこの時、富が絶対的になっているのです。神は物神性の前にひざまずく。
唯一の神がいるとしても、人類すべてが認める唯一の神が存在するわけではない。それは当たり前のことであり、唯一の王様が存在するわけではないのだから。誰が唯一の王様なのか、ここに唯一の神が現れる。神を支配した物神性は神を語りながら平和や自由を脅かし始める。唯一の神が争いはじめる。
同じ唯一の神を持ちながらも王位継承争いがあれば宗派が闘争をはじめる。宗教社会は逆立ちをする。
神を語る人々が平気で花を踏みにじる。
神と悪魔は同一のものであることが証明をされる。仏とマーラは同一のものと証明される。
このように神と仏を守る人々が花を守る。八百万の神々に感謝をしながら
人々は神や仏でなくとも絶対的なものを求めはじめる。ぞの作り上げられた神のような絶対的なものを感情と誤った誇りと現世利益で守ろうとすることはある意味絶対的な王様を必要とする。無条件な神への追随。人間は物神性に支配される。
【2019年】ツイッターつぶやき
NHKニュースによると、安倍総理が
「参議院選挙では憲法改正について、ただただ立ち止まって議論しない政党か、正々堂々と議論をする政党か、それを選ぶ選挙でもあるだろうと強く訴えていきたい」
と、語ったという。
改憲がなぜ必要か?
昔ながらの自主憲法や押し付け憲法論も根強くあるのでしょう。そして自衛隊を軍隊として憲法に明記すること、そして国民の自由や民主主義そして平和主義を抑制しながらの国家の在り方。
ここを議論したいというのが保守勢力です。
しかし国民はこの保守の憲法に対する考え方をそもそも必要ないと思っているのです。改憲の必要性がないと考えているのに「憲法改正について、ただただ立ち止まって議論しない政党か、正々堂々と議論をする政党」というのは独り善がりでしょう。
安倍政権で富は国民から企業や富裕層あるいは不労所得者に移り、社会保障は後退をしていった。外交も諸外国を飛び回っているようでその中身は税金のバラマキでコレラ司式成果はない。目立つのはアメリカとの蜜月だが、それもアメリカへカネを流すことばかり。そして内政は国会の何でもありの形骸化。
これこそが参議院選の争点である。
安倍総理が改憲を争点とするというのは、ますます国民不在、国民の犠牲による政治・経済を憲法の上でも安定化すると言っていることでしょう。
こんなものにそうですかと選挙の争点と思ったら国民生活はさらにひどくなっていきます。
自分の首を絞めることに賛成か反対か。。。。。
と、みることが争点でもあります。
よく考えれば、アベノミクスも死語となり、消費税を社会保障にという公助も2000万円発言にあるように自助になっていく。力のある者の理不尽な行動も正当化される。こうした政治経済の政策をこれまでの国民に対する公約や約束から見て成功と見るか失敗と見るか、国民目線で判断をすることが大切になってきています。
流れに乗れば安心という浮草は心もとないですなぁ。。。。。
【2020年】ツイッターつぶやき
7月からコンビニでレジ袋の有料化がはじまるらしい。
すでにスーパーの一部では有料化がはじまっているが、コンビニとスーパーでは買い物の質が違い、コンビニはふらっと立ち寄る機会が多いのでレジ袋に変わるものを用意しておくことができない場合が多い。
レジ袋廃止の理由は、ゴミの減量と燃やすことによるCO2の削減そして海洋汚染としてのマイクロプラスチック対策などがあるそうですが、レジ袋が占めるプラスチックごみの割合は少ないようです。
とはいえプラスチックごみ減量のためというのはわかります。しかし有料化で原料というのもおかしなもんです。
【2021年】ツイッターつぶやき
オリンピック選手団ウガンダの2人の選手のほかに選手関係者4人の要請陽性が見つかっているらしい。
隔離免除の特別入国以前に検査体制、隔離体制、医療体制、すべてが脆弱な日本。そして国民の自己責任で片付けようとする日本においてオリンピック開催は無理である。
【2022年】ツイッターつぶやき
低所得層は、電気料金が値上げされるのですから節電をするのではなくて「節約」をするのです。節約というのは我慢を含みます。エアコン設定温度を高くするのではなくエアコン使用をひかえます。
命の問題です。
2014年からたばこ増税が言われ、それは貧困層や低所得層の強制禁煙で喫煙率を下げてきた。
これとなじ非人道的な方法論が電気料金の値上げによる貧困層などからエネルギー奪い取る。
これは今後食料にも広がる。
貧困層という人間だけではなく、貧困国という国への生存を脅かす非人道性に向かう。
ツイッターより
これは貧困層だけの問題ではない。。。。
【2023年】ツイッターつぶやき
いそがしくてなかなかベランダの花を植えられなかったのですが、先日ホームセンターに行き診て見てきました。
今年はよい花の苗がないですなぁ。
ホームセンターの管理が悪いのかとも思ったのですが、このホームセンターは毎年案外よい花がるのでホームセンターの管理でもなさそう。
今年は急に熱くなったりしましたし気候の問題でしょうか?
まぁ、とりあえず近いうちに勝ってこようと思います。
トイレに入ったら、いきなりブーンと虫が飛びついてきた。
手で追い払ったのですが、はじめはゴキブリかなと思いぞっとしました。手で追い払ったときに首に筋をやられた。
壁にへばりついた虫を見たら小さなカメムシでした。トイレットペーパーで撮って捨てました。
さっきはさっきで網戸に泊まっていました。
薬がないので消毒液を欠けたら一瞬ひるんでいた。
これから大量発生しそうです。
下手に捕まえると臭い液を出し石鹸で洗ってもダメですからね。
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≪過去の記事≫
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
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少しだけごろっとしようかと横になるともうだめです。いつの間にか寝入ってしまいます。気持ちよく寝ていたら足がつってしまい目が覚めました。最近時々つることがある。ビタミンでも足りないのかな?そういえば高校のときにサッカーをやっていてよく足がつっていた。体質でもあるのか?
エビ反るほどの痛さ。。。(笑)
【2006年】
もらった朝顔の苗から蔓がグングン伸びてきました。
もう棒の高さでは間にあわないので、棒の先からビニールの紐をつけてやりました。どのくらいまで伸びるか楽しみです。
子どもたちが小学生のころに夏休みの宿題での観察用に育てたことがありましたが、朝顔もこの頃以来です。毎朝いくつ咲くかは楽しみですね。
小さな花の莟も出てきました。このままいけば種がたくさん採れると思います。
妻と出かけたのですが、その途中、庭に何本もの紐を高くつけて朝顔の蔓を何本も絡ませている家がありました。あのまま伸びると簾状になり花が咲き始めるときれいだろうなと思いました。
種がたくさん取れたら、来年は長細い鉢にたくさん植えて簾状にしてみよう。。。。
日本テレビの明石屋さんまのサッカー番組を見ました。
さんまのサッカー好きは本物ですなぁ。。。。他のチャンネルのレポーターの「日本が負けて残念」ばかりのコメントだけではなく、ワールドカップそのものを楽しめる解説だと思う。
もちろん、日本が決勝リーグにいけなかったのは残念だが、案外この後の決勝トーナメントを冷静に楽しめるのではないかと思う。
サッカーだけではなく、オリンピックでも「日本チャチャチャ」的な騒ぎは好きでないこともある。または、これは、マスコミが期待しすぎの騒ぎをしていることに嫌気がさしていて、日本を冷めた目で見てしまうのかもしれない。
天邪鬼です。。。。
【2007年】
久しぶりの快晴。
超久しぶりに布団を干しました。洗濯物もからっと乾き気持ちがよかったです。
蝉の声がしました。
娘がキンキキッズのベスト版を買いたいというので付き合いました。
それにしてもジャニーズ系はすごい人気ですなぁ。。。
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新譜専門のCD屋というのも少なくなりました。どこに行っても中古を同時に売っています。たしかにCDは昔のレコードと違って傷も付きにくいし中古でも音が飛ぶということもほとんどないようですから、中古であるならそれを買ったほうがお買い得ですね。このような中古のCDを売っている店には、必ず古本も置いてある。夏生さんの本をついでに探してきました。
本もこうも古本ばかりが多く出回っていては普通の本屋さんもたいへんでしょう。。。。
そういえばCDのベスト版。。。。
これがあんがい曲者ではないかな?
ベスト版だからよく聞いた曲がたくさん入っていると思い買うのですが、中にはレコードで言えばシングルの裏面(B面)の曲も入っているときがある。大体がB面というのはA面の陰に隠れた曲で、あまり印象に残っていない曲で、ベスト版でこのようなB面の曲が多く入っているとどんよりするものです。。。。
さて、娘の買ったベスト版はどうなんでしょ?
僕にはわからない曲の世界なので。。。。
夏生さんの新刊「流氷にのりました へなちょこ探検隊2」が8月7日に発売ですね♪
【2008年】
「風花 kazahana」
集英社
川上 弘美 著
2008年4月発行の長編です。
集英社のホームページに編集者の作品紹介がある。
その中に「川上弘美さん初の『結婚小説』」とありました。
この結婚小説」と意味では、「夜の公園」(2006年7月発行)も結婚小説と呼べるものだろう。また「真鶴」(2007年1月発行))も結婚生活の中での夫婦間のやり取りが少ないが、夫婦関係が表現されているものと見てもいいのではないか。「光ってみえるもの、あれは」(2005年9月発行)では、愛子さんと大鳥さんという別れた夫婦関係も出てくるが、主人公は高校生の翠(みどり)である。
こうして見ると毎年1篇の長編小説が発表されているのですが、「光ってみえるもの、あれは」は、翠という高校生の見た目からの自分を取り巻く人々を描くわけですが、愛子、大鳥という両親の関係も子である翠を通して描かれる中に夫婦関係の一面を見ることができます。この意味ではこの作品は「結婚小説」ではないのでしょうが、夫婦というものに視点が合いつつある作品かと感じます。そして「夜の公園」では、はっきりした形で夫婦の生活の場が描かれます。しかしこの作品においては、リリ、幸男という夫婦は互いに不倫(幸男はリリの親友春名と、リリは若い暁などと)という形においてのすれ違いが描かれ、そのすれ違いがどこから出てしまうのかは、リリ自身もわからないままに、「おかえり」の声を使い分けていたのに夫が気づかないことに好きでないと思うという表現に心の動きとしてのリリがいます。
「真鶴」では、夫「礼」は失踪をして影のようにしか出てきませんが、主人公「京」の夫への思いや結婚生活を思い起こしての心の中が多く表現されていると思います。その意味では「夜の公園」のリリに比べて幻想的ではあるが夫婦を描くという意味ではよりはっきりしたものが「京」の中において見えるのではないかと思います。
そして「風花」においては、主人公の「のゆり」は夫の卓哉との関係を迷いながらも見つめようとし、それは具体的な生活の中に描かれます。
このように毎年発表される1篇の長編という流れの中に川上さんの結婚観の流れがあり、またはいろいろな視点で見つめる川上さんの目があるのかもしれません。
このように、「結婚小説」という視点で川上さんの作品を読もうとするなら、「夜の公園」「真鶴」そして「風花」とお読みになることをおすすめいたします。
「さっき、こわかった。手に持っている小さな手鏡が何の予告もなくぱりんと割れてしまったみたいに、こわかった。」(11ページ)
「のゆり」は、従兄妹である真人と新幹線で温泉に行く。
結婚後ほとんど出かけなかったのゆりは新幹線の改札機の通り方がわからずに戸惑ってしまった。そんなのゆりは、何に怖さを感じたのか。
ここからこの作品ははじまります。
夫卓哉は、同じ会社の後輩である里美と不倫関係にあり、ある日匿名の電話がありその間系を知らされる。その夜のゆりは卓哉に
「ただ、どうしていいのかわからなくて、かといって腹に溜めておくほどの決意もつかず、ともかく報告したのである。」(12ページ)
普通「とめおく」は留め置くとして「留」の字を使うが、のゆりは「溜」の「とめ」である。よく溜飲を飲むとか溜飲が下がるいうが、この溜である。たぶん、のゆりは卓哉に対して不満な気持ちも起こらずに卓哉の不倫に怖さだけを感じたのではないか。それが「報告」という言葉になる。同時に、不満さもなく、怒りや悲しみも出ないのゆり。こういうのゆり自身にこそのゆりは怖さを感じたのでしょう。
卓哉の不倫に怒りや悲しみもおこらないで「報告」するのゆり。
そんなのゆりが日常の中において悲しみや怒り、特に悲しみを抱いていく様子を表現したものがこの作品の主題ではないか。それは、のゆりの「卓哉の妻のゆり」から「一人の女性としてののゆり」への変化であり、そして「一人の女性であるのゆり」を取り戻したときに大きな悲しみにのゆりは気づくのである。
「夜の公園」のリリにしても、「真鶴」の京にしても、夫の不倫に対して自らも不倫をする。もちろんそのリリや京の不倫は、夫への報復的なものではなくて極自然な夫婦間の破綻から来る女性性の流れであり、愛情の向くべきところへと自然である。そんな女性の主人公に対してのゆりは、従兄妹といっても少し危ないような関係の真人や医療事務の学校で知り合った若い男とも不倫関係には陥らない。のゆりの気持ちは卓哉にあるのである。それは愛情であり、卓也との経済関係支配にあるのではない。だからこそその悲しみの深さにのゆりは気づくのである。
「わたしはいったい、どう、したいんだろう。のゆりはぼんやりと思う。」
(40ページ)
卓哉にはもう一人の不倫相手がいた。
毎日のように無言電話をかけてきたが、ある日始めて電話に応対する。「別れてください」と。
のゆりは、「はあ」とあいまいに答える。混乱しながらも「きれいな声」だと思い、やっと無言電話をやめられたのねとよかったじゃないと思う。
毎日の家事をこなすのゆり。。。
こういうのゆりが描かれていくのだが、女性の読者としてこのようなのゆりがどのように写るだろうか。
のゆりの従兄妹真人も不倫をしていたが、妻からは追い出される。のゆりにはこういうことができない。読者の中には、感情をあらわにして怒り夫を問い詰めて時には追い出して反省をさせるといった強い妻を応援しないだろうか?その意味でのゆりという女性はどうなんだろう。
しかし女性のほんとうの強さは、泣き叫んで問い詰めてというよりも静かに戸惑いながらも自分を見つめる女性のほうが強さが在るのではないか。
僕としてはそういうのゆりの強さをこの作品から感じるのである。泣き叫び問い詰めるのではなく悲しみを感じるという強さでもある。
この強さは、「夜の公園」のリリや、「真鶴」の京にも共通する。
卓哉は叫ぶように
「なぜのゆりはそんなに落ちつきはらってるんだ」といい、「のゆりには、プライドは、ないのか」とも。(172ページ)
のゆりには悲しみと戸惑いしかない。卓哉への愛情しかない。
だから「みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。」(173ページ)と思いつつ卓哉への愛を自分に問い直す。のゆりの中にあるものが卓哉への愛と悲しみという面では、この自分自身を見つめる中でしか答えは返ってこないし、それに応える卓哉を見つめなおすしかないのであろう。
のゆりはアパートを借りて別居をするが、ある晩、卓哉が火事にあい火傷をしてのゆりのアパートに来る。
卓哉は「怖かった」という。
冒頭にあるのゆりの「こわかった」とは違う。しかし違うが、卓哉の「怖かった」は、火事が怖かったではなく、のゆりが近くにいなくて怖かったであろう。
「結婚しなければよかったのに、わたしたち」「結婚しなければ、もっとちゃんと好きになれたのに」(259ページ)と、のゆりは思う。
卓哉は結婚生活を続けたいと思う。のゆりは結婚しなければもっと好きになっていたかもと思う。ここに結婚生活というものへの川上さんの考え方が出ているだろうし、結婚生活という形の中での愛情とは何かが見えるのかもしれない。
のゆりは「別れよう、わたしたち」(282ページ)と口に出して言う。。。。
ラストはある意味さわやかである。
仕事のできる、「お給料の高い」、かっこいい卓哉はそこにはいない。おろおろと戸惑い悲しむのゆりはいない。かと言って卓哉ものゆりも「好きだ」という気持ちは持つ。卓哉は泣きながらキャリーバックを引きずり、やはり泣くのゆりの後についてくる。
やはりのゆりは強いのです。
泣き叫び怒り狂って別れるという形を作らなかったのゆり。ちゃんと愛情だけは大切にしたのゆり。結婚生活ではできなかった「この人の前でちゃんと正式に泣いたことがあったっけ」とのゆりは思う。この涙は、のゆり自身の姿であり妻ののゆりではない本来ののゆり。「おなか、すいちゃった」「ラーメンでも食べて帰ろ」
そんなのゆりを卓哉は見つめる。
ちょっと事情は違うし、卓哉ものゆりも若くて子もないが、このふたりの関係は「光ってみえるもの、あれは」の愛子さんと大島さんのような関係になるのかなとも思う。
このラストは、読者に複雑な涙を流させるでしょう。。。。
それは、のゆりと、もしかしたら卓哉とも同じ涙だと思います。
難しいけど、すばらしい作品でした。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
落ち着かないから
緑深い葉っぱの陰に隠れた
【2011年】ツイッターつぶやき
銀色夏生さんの「つれづれノート⑳ 相似と選択」(角川文庫)が発売になりました。
日記エッセイです。
改めて手にとって「掃除と洗濯かぁ。。。」と思ってしまったのですが(笑)「相似と選択」です。
ホームページによりますと今までの「つれづれ」とは少し違った感じだとか。
買ってすぐに背表紙を読みました。
人の本性がわかるのは、いい時でもうれしい時でもない。悪い時やよくない時にその人がどう反応するか。人が窮地に立った時にどう変わるか。「もっと見たいと思う。」と。。。。。
今いろいろと悲しいことが社会でも起きていますし、日常の個人としてもいろいろな苦しいことが起きることもあります。それを夏生さんは行動力で克服してきたわけですが。。。
相似・・・・対称としての同じもの。選択…選ぶこと決意とも?
明日から読みたいと思います。
【2012年】ツイッターつぶやき
政治というわけではないが、ニュースなどでアメリカの市民へのインタビューなどを見ると、アメリカの市民は自分の考えをきちんというのを誇りと思っているのかと感じます。ヨーロッパの国々も?
この個人の考えを云えるという誇りは、相手の意見も意見の違いはあっても聴くことを誇りとするのではないか。その上に立っての激しい議論であり時には喧嘩なのではないか。
日本では今、政党政治の危機が二大政党制の中に噴出している。衆参のねじれとかいう理由で政治が機能しなくなっていると言われたりする。一方では多数決が民主主義といって数の力を重んじる。もちろん口先では十分な討議を行い。。。。などとは言うが、中途半端な議論で最後には数の力で決められる。党の結束という中身のない数の論理で党が議員を縛る。こうしないと数の力は発揮できないから。一人一人の議員は自分の意見を出すことを誇りとはしない。党がやはり党内の数の力により決めた党の決定を重んじる。あまりにも日本的な「お家のため」といった武士道ともいえるようなものを誇りとする。
結局衆参のねじれや伯仲する数の力の中では国会が機能しなくなるのである。そこですぐに大連立という二大政党制の自殺行為を模索する。
民主主義が逆立ちをしているのである。
民主党内では消費増税の採決に向けて賛成派(政府派)は反対派や中間派を切り崩しを行っているという。一つの方向に向くような条件がなくなった議員は右往左往する。悲痛な叫びさえあるようである。しかし、何も悲痛な叫びなどを発するようなことではないのである。賛成なら賛成、反対なら反対と自分の意見を言うことを誇りとすればいいのである。簡単なのである。しかしそこには次の戦況や次の大臣(要職)への損得勘定も出るし、考えることそしてそこから結論を自分なりに得るという孤独に耐えきれない不安が付きまとう。
浮雲は風向きによって流されていく。。。。
これでは議員をやっていても楽しくないでしょう。。。。もちろん権力・名誉や金のためと思っていれば深く考えなくていいわけですが。
【2013年】ツイッターつぶやき
世代間格差とはなんでしょうか?今の若い人は高齢者よりも損をするといった論理が多くありますが、もし仮に損をすると言っても何が原因で損をするのかという中身がないとだめでしょう。
若い人が損をする。じゃぁ、高齢者が得をするから若い人が損をするのか?何も高齢者が得をするからではなくて若い人が損をする仕組みが作られていると見た方がいいでしょう。
消費税を見ても高齢者の若いころは消費税はなかった。それが3%そして5%になったわけですが、その中に現役生活をしたわけです。ところが若い人はすでに5%の時代に青春を送るわけですから、高齢者の30代の頃とい今の若い世代の30代では税負担が当然違うわけです。そして高齢者は定年を迎えてある程度子供に金がかからなくなって消費税が10%になる。ところが若い人は結婚子育てと一番金のかかる時期を10%で生活しなければならない。こう見たとき、たしかに若い人は損をしています。消費税という税の負担が大きいわけですから。しかしこれは高齢者が得をしたわけではなくて若い人が政治のために損をさせられているという事です。ですからこれを世代間格差として高齢者と対決するような論理はおかしいでしょう。
消費増税も福祉や社会保障のためと言われていますが、今は位置づけが違うでしょう。国家財政のための増税となっています。ですから消費増税が行われても福祉や社会保障は削られるのです。そうすると若い人は自分たちの重荷を少しは軽減することができるという幻想は消え去ります。そして年金やその他改悪をされる中で、親である高齢者を公助ではなくて家族内の自助で行うことになります。今までは公助で親は経済的に切り詰めればある程度独立した生活をおくれるが、年金などが改悪されれば家族内の自助が求められる。そうするとどうでしょうか。自助とは今の生活の中の負担になるわけですから、格差社会の中で自助を行うにしてもその苦しみの度合いは格差に応じてきつくなるわけです。
どうでしょうか?若い人は損をする問論理だけで世代間格差が悪いとだけ言えるでしょうか?
昔から格差は同世代の格差が問題だったのです。この中で平等主義のようなものが企業の中でもある程度広げられずに年功序列といった賃金体系もありました。しかし今はこれが壊されて雇用形態やもちろん昔から続く男女間差別も広がり、同世代であっても収入の格差が開くという同世代格差が広がっているのです。高齢者はある程度平等主義の中で同世代格差が小さかったとすれば高齢者が徳をしていたのではなくて今の若い人が政治に損をさせられているのです。
矛盾の基本は世代間格差ではなくて、同世代間格差と今も続く男女間格差の問題が基本なのです。これをどうにかしないとますます若い人が損をする世の中になります。
【2014年】ツイッターつぶやき
死体の一部を集めて人造人間を作ってもその人造人間はただのグロテスクな死体であり生命を持たない。管制経済というのはこのような人造人間ではないか。
政府は企業の国内設備投資を求めている。日銀も消費増税後も個人消費はある程度維持しているが供給の問題を提起して民間の活力を求める。それは積極的な設備投資でもあるでしょう。財界も法人減税で20%なら国内の設備投資をするという。政府はこのために財源すらはっきりしない法人税を成長戦略の柱の一つとする。
官製の賃上げも含めて個人消費の生きている部分と企業の溜め込んでいる資金にさらに法人減税で資金を集めてそれで立派な経済という人間を作り出そうとしているわけである。まさにこの官製の経済は人造人間でしかないでしょう。人造人間にも生血が必要なわけですからそれは量的緩和の資金と国民が持つかねです。この生血を注ぎ込むがやはり人造人間には命はないのである。生血を循環させようとするが脳死状態である。
賃上げも一部の大企業での賃上げでその賃上げも政府・日銀の物価高政策により物価に追い付かずに実質賃金は下がり続ける。一部の労働力不足の産業でのバイトなどの不安定雇用の時給は上がっているにしてもこの官製の賃上げの恩恵を受けていない労働者は多いだろう。
個人消費は生活にどうしても必要なものは消費をするが耐久消費財などの消費は落ち込む。贅沢意識(これは国民の生活向上の実感と意識)もプチ贅沢の範囲を出ない。正社員の夏のボーナスや不安定雇用に対しての何かしらの特別手当がなければ個人消費は節約意識の中におかれるだろう。もちろん高齢者(特に年金生活者)などの非労働人口は蚊帳の外におかれるだろう。あるいは政府の高齢者の活用(年金支給年齢の引き上げが実施されている中で)相当ひどい低賃金におかれる。
企業の国内設備投資は、今でさえ内部留保が増えているにもかかわらずその資金が設備投資には回らない。個人消費の不安定性の中で内部留保を吐き出してまでも国内での設備投資には消極的にならざるを得ない。
日銀は物価上昇だけを自らの責任とするわけで成長は国と民間の仕事だとして更なる量的緩和は行わない状態です。
こう見ると管制経済という人造人間には命は生まれていないということです。
さらに国民の生血を人造人間に注入をするのが成長戦略ですから人造人間のグロテスクさは増していくでしょう。もちろんこの下部構造でのグロテスクさは上部構造に作用をして政治をはじめとした社会システム自体がグロテスクなものになる。やはりとんでもない仮定を出しての集団的自衛権という人造人間を生み出そうとしている。ここでも心配されるのが国民の生血が流されかねないということである。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
誰もが、普通、火事を発見したから火の見やぐらに上って半鐘をたたくものと知っている。しかいこの社会にでは時より半鐘を鳴らすから火事が起きると言い出す人たちがいる。
国民に真実を教えるとその不満などが拡散して社会が混乱するとしたり、混乱が起きると半鐘をたたいたやつが悪いといわれたりもする。
ここから国民には自由や民主主義はいらないという人々が出る。
でも、こういう人が逆に半鐘を鳴らして有りもしない火事を騒ぐ。ポピュリズムである。扇動である。
国民には半鐘など鳴らすと火事になると言い聞かせながら、自分に必要と思うことには半鐘をカンカン鳴らす。
国民には貧富の拡大や格差の拡大を強いつつ、真面目な学問である経済学が、経済の好転=インフレだからインフレ=経済の好転だとして半鐘ばかりをカンカン鳴らす。
こういった社会ですから、社会の中に矛盾が爆発して火災が起きているんです。
この火災を発見して見つめて国民が半鐘を鳴らさなければなりません。もちろん、マスコミや知識人そして誰よりも政治家自身が。
【2018年】ツイッターつぶやき
ツイッターからです。
宗教ってなんでしょ?本来は人間世界を住みやすく平和にそして平等にしようという思想ではなかったでしょうか?もちろん同時に自然に対する人間の営みに深く関連したものです。自然に感謝したり恐れたり。そこに神を見る。
自然の中に神を見る時に森羅万象一つの神がそのすべてを支配するといった宗教もあるでしょうし、自然界には八百万の神々が存在をするという宗教もあるでしょう。初めの宗教は八百万の神々がいたはずですが。
八百万の神々は素朴に人々の心に結びついて存在をしていましたが、だんだんと一つの神の支配下に組み込まれていく。この流れは神は人間の観念ですから人間社会が変化すれば神の姿も変化をします。原始共産制には八百万の神々でよかったでしょうが、人間社会に王様が生まれると神の中にも王様が必要に。
もちろん王様が生まれる過程に宗教が絡んでいたことは間違いありませんが。絶対的王様には絶対的な神が必要になります。多くの富を蓄えるには、そしてそれを正当化するためにも。実はこの時、富が絶対的になっているのです。神は物神性の前にひざまずく。
唯一の神がいるとしても、人類すべてが認める唯一の神が存在するわけではない。それは当たり前のことであり、唯一の王様が存在するわけではないのだから。誰が唯一の王様なのか、ここに唯一の神が現れる。神を支配した物神性は神を語りながら平和や自由を脅かし始める。唯一の神が争いはじめる。
同じ唯一の神を持ちながらも王位継承争いがあれば宗派が闘争をはじめる。宗教社会は逆立ちをする。
神を語る人々が平気で花を踏みにじる。
神と悪魔は同一のものであることが証明をされる。仏とマーラは同一のものと証明される。
このように神と仏を守る人々が花を守る。八百万の神々に感謝をしながら
人々は神や仏でなくとも絶対的なものを求めはじめる。ぞの作り上げられた神のような絶対的なものを感情と誤った誇りと現世利益で守ろうとすることはある意味絶対的な王様を必要とする。無条件な神への追随。人間は物神性に支配される。
【2019年】ツイッターつぶやき
NHKニュースによると、安倍総理が
「参議院選挙では憲法改正について、ただただ立ち止まって議論しない政党か、正々堂々と議論をする政党か、それを選ぶ選挙でもあるだろうと強く訴えていきたい」
と、語ったという。
改憲がなぜ必要か?
昔ながらの自主憲法や押し付け憲法論も根強くあるのでしょう。そして自衛隊を軍隊として憲法に明記すること、そして国民の自由や民主主義そして平和主義を抑制しながらの国家の在り方。
ここを議論したいというのが保守勢力です。
しかし国民はこの保守の憲法に対する考え方をそもそも必要ないと思っているのです。改憲の必要性がないと考えているのに「憲法改正について、ただただ立ち止まって議論しない政党か、正々堂々と議論をする政党」というのは独り善がりでしょう。
安倍政権で富は国民から企業や富裕層あるいは不労所得者に移り、社会保障は後退をしていった。外交も諸外国を飛び回っているようでその中身は税金のバラマキでコレラ司式成果はない。目立つのはアメリカとの蜜月だが、それもアメリカへカネを流すことばかり。そして内政は国会の何でもありの形骸化。
これこそが参議院選の争点である。
安倍総理が改憲を争点とするというのは、ますます国民不在、国民の犠牲による政治・経済を憲法の上でも安定化すると言っていることでしょう。
こんなものにそうですかと選挙の争点と思ったら国民生活はさらにひどくなっていきます。
自分の首を絞めることに賛成か反対か。。。。。
と、みることが争点でもあります。
よく考えれば、アベノミクスも死語となり、消費税を社会保障にという公助も2000万円発言にあるように自助になっていく。力のある者の理不尽な行動も正当化される。こうした政治経済の政策をこれまでの国民に対する公約や約束から見て成功と見るか失敗と見るか、国民目線で判断をすることが大切になってきています。
流れに乗れば安心という浮草は心もとないですなぁ。。。。。
【2020年】ツイッターつぶやき
7月からコンビニでレジ袋の有料化がはじまるらしい。
すでにスーパーの一部では有料化がはじまっているが、コンビニとスーパーでは買い物の質が違い、コンビニはふらっと立ち寄る機会が多いのでレジ袋に変わるものを用意しておくことができない場合が多い。
レジ袋廃止の理由は、ゴミの減量と燃やすことによるCO2の削減そして海洋汚染としてのマイクロプラスチック対策などがあるそうですが、レジ袋が占めるプラスチックごみの割合は少ないようです。
とはいえプラスチックごみ減量のためというのはわかります。しかし有料化で原料というのもおかしなもんです。
【2021年】ツイッターつぶやき
オリンピック選手団ウガンダの2人の選手のほかに選手関係者4人の要請陽性が見つかっているらしい。
隔離免除の特別入国以前に検査体制、隔離体制、医療体制、すべてが脆弱な日本。そして国民の自己責任で片付けようとする日本においてオリンピック開催は無理である。
【2022年】ツイッターつぶやき
低所得層は、電気料金が値上げされるのですから節電をするのではなくて「節約」をするのです。節約というのは我慢を含みます。エアコン設定温度を高くするのではなくエアコン使用をひかえます。
命の問題です。
2014年からたばこ増税が言われ、それは貧困層や低所得層の強制禁煙で喫煙率を下げてきた。
これとなじ非人道的な方法論が電気料金の値上げによる貧困層などからエネルギー奪い取る。
これは今後食料にも広がる。
貧困層という人間だけではなく、貧困国という国への生存を脅かす非人道性に向かう。
ツイッターより
これは貧困層だけの問題ではない。。。。
【2023年】ツイッターつぶやき
いそがしくてなかなかベランダの花を植えられなかったのですが、先日ホームセンターに行き
今年はよい花の苗がないですなぁ。
ホームセンターの管理が悪いのかとも思ったのですが、このホームセンターは毎年案外よい花がるのでホームセンターの管理でもなさそう。
今年は急に熱くなったりしましたし気候の問題でしょうか?
まぁ、とりあえず近いうちに勝ってこようと思います。
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