Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ3

2007-12-13 11:14:15 | 本を読んだ
なんだかちまちま進んでます。わたしは今日読んだ『天使のうた』にショックを受けて、なんだかどうでもよくなってきてしまったんですが、続けます(怖くて次号が読めません)。毎日、1セクションについて書いていると、森川さんのこの論文がすごく好きなような気がしてきました。少なくとも、今、森川さんのこの論文を、日本で一番読み込んでるのは、わたしですよっ(というのは、どうかわかりませんが)。

ええと、森川さんの批判のもうひとつの論点、女性学について。森川さんの懸念は、やおいや腐女子に関する研究が女性学によって植民地化されることのようです。そうなると起こる例として森川さんが挙げられているのは以下のような事態です。

「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が、「ゲイ差別的」で、その時々のフェミニズムの文脈にとって都合が悪いという基準でアカデミズムの高みから「望ましくない」と審査されたり、そうした基準に配慮したかたちでやおいの作品史が編纂されたりしかねなくなるのだ(129ページ)。

森川さーん、まるで杞憂ですから、安心してください。というか、森川さんっていいひとですね。わたしの知る限り一番最初に同性愛の文脈でやおい表現(やおい少女たち?)を問題化して批判したのは、キース・ヴィンセント氏だと思うのですが、むしろフェミニズムはヴィンセント氏のようなゲイ・スタディーズの側から、異性愛中心主義的であると批判される側であって、「ゲイ差別」を自ら告発するような、そんな立派なことはおこなってこなかったと思うのですよ。例としてはほとんど考えられない事態、というより、ジェンダーの視点から(というものがあるとここでは仮定して)テクストを分析することはあっても、そのときに、ゲイ差別の視点が落ちてしまうことのほうがあり得て、むしろこちらの事態のほうが問題だ、という風に思うのです。

しかしこう書くことによって、わたしが森川さんの批判するような「女性学」の学者になっていると思われると心外です。なぜなら、いまどき、表現と表象の問題を考えるときに、こんな単純な理論を取るひとって、いるのかなぁ? 性表現の規制派の代表格とされているキャサリン・マッキノンですら、ここ10年は、表象がパフォーマティヴであるということを理論的支柱に置いていて、こんな単純な批判はしないと思う。

まぁ、悪書追放運動を推進したいひとたちが、こういう理論を取るかもしれませんが、そのときはむしろ「ゲイ差別だから」なんてことをいってくれるよりも、「ゲイのこんな不道徳なシーンが描かれているザマス(なんでこういうことをいうPTAおばさんって、「ざーますふじん」として戯画化されるんでしょうね?)」と片付けられると思いますけどね。

ここでまともな学者がやるべきことは、「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が何を意味しているのか、書き手によってどのように意味づけられ、読み手がどのように受け取っているのか、テクスト総体のなかで、どのような効果を生じさせているのかを分析することであって(それは最終的に「ゲイに対して差別的な効果を生んでいる」という結論かもしれないけれど)、もしも「ゲイ差別的」だと断定して終わりという単純なひとがもしいるとしたら、森川さんは堂々と「こんな分析で満足しているなんて、あんたは学者として三流だ」と、個別に批判されればいいんじゃないでしょうか。と、わたしは思うのです。

さらに森川さんの心配は続きます。「このようなフェミニズムの文脈からの審査に足しして反発でも起きようものなら、植民地的な体質の下では、『それが進歩的な国(ルビ:アメリカ)では常識だ」、「世界の笑いものになる」といった、帝国主義的な原理の召喚へと容易に発展する」(129ページ)。大丈夫です、しないですよ。

むしろ可能性があるとしたら、「ゲイ差別だ」と怒るひとに対して、「ああこれは、アメリカではクィアっていうんですよ」と無化する、というほうが、まだあり得る気がします。森川さんのカルスタやジェンダー研究(女性学)へのイメージはすごくよく伝わったのですが、内実は全然違いますから、ご安心ください。そもそもあるジャンルを簡単に実体化して、統一的な見解を想定するっていうのは、無理があるように思います。カルスタやジェンダー研究も内部は多様ですから。

で、上手く繋がったところで、次回は、森川さんによる「多様性」批判を検討してみます。