Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ8

2007-12-11 22:25:08 | 本を読んだ
今回で、やっと森川さんの論文を読み終わります。森川さんは、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」という項目を立て、腐女子が「腐女子」としての解放を要求しないのは、女性のなかでの社会化、とくに学校空間における社会化が効いており、「安定した階級構造というよりは、緊張感のある派閥構造によって学級社会がモデル化される」とおっしゃいます。その際に、拠って立つ根拠が、宮崎あゆみさんの「ジェンダー・サブカルチャーのダイナミクス」論文です。

わたしは教育社会学で修士号も取っていて、学部時代から研究会などで宮崎さんのこの論文が練り上げられているプロセスを知っているので、つい懐かしくなってしまいました(森川さん、文献の出版年が落ちていますけれど、これは1994年の論文ですよ)。「宮崎あゆみ氏の事例調査」が、女子生徒たちが、勉強グループ、オタッキーグループ、ヤンキーグループ、一般グループによって編成されていることを報告していおり、これが森川さんの女性対立論の根拠となっています。

森川さんは、「この宮崎氏による派閥モデルの普遍性を評価するには、より多くの研究の蓄積を要する」と前置きしたうえで、「仮に(宮崎氏による)この対立構造がある程度の普遍性を持ち、かつ、教室を舞台とするそのような殺伐とした派閥間構想が腐女子たちの多くを訓練する場として機能していたと仮定するなら」、とおっしゃいますが、宮崎さんはこれらの仮定に、イエスとはおっしゃらないと思いますし、わたしも受け容れることはできません。

今手元に『教育社会学研究52集』がないので、詳しく論拠はあげられませんが、宮崎さんのこの論文の秀逸な点は、フィールドワークの対象として、消滅していく家政科(?か商業科か何かだったように思います。記憶が不確かですみません)と勉強のできる学生が行く新設された普通科というふたつのコースが混在する高校という滅多にない場所を選択したということ、だからこそ、普通の教室ではみられないほどの女子生徒間のダイナミクスがみられたこと、これらの「ジェンンダー・サブカルチャーのダイナミクス」がどのような社会の構造に支えられているのかをきちんと家父長制的なシステムを視野にいれて分析されたことにあったように記憶しています。森川さんによる宮崎さんの論文の読み方とは、かなり違う印象がわたしの記憶にはあるのですが、いかがでしょうか? 今度きちんと読み返してみたいと思いますが。

学校空間は、確かにさまざまな規範を学び取る場所のひとつであり、わたしたちに重くのしかかっていることも否定しませんが、そこで学ばれた規範とはまた違う社会をもわたしたちは生きていく(何といっても高校は18歳で終わりますから)ことも忘れ去られてはいけないと思います。いつまでも学校社会を生きているわけではないし、わたしたちはつねに学習し続けているのです。

また、宮崎さんのフィールドワークから15年近くも経った今、学級のダイナミクスは別の様相を示すと思いますし、それは対象として選択される場所によって異なると思います(取り合げられた宮崎さんのイラストの懐かしいこと!)。何よりも、これらのサブカルチャーの「ダイナミクス」の分析を無視することは、宮崎さんに失礼に当たらないかなぁ。ある意味、宮崎さんの分析は、森川さんが批判されるような「ジェンダー論」であり、女性の間の対立に焦点を絞ったものではなかったように記憶していますけれど。森川さんの主張の根拠として、宮崎論文を引っ張ってくるのは、ちょっと不適切だと思います。まぁそんな論証のプロセスはどうでもいい、結果として出てきた類型だけ借用したい、というならそれでもいいですけが。女性による「腐女子嫌い」は、論考に値するテーマだとは思いますけれど、しつこいようですが、女性のあいだのグループ対立をみるだけでは、何も解明できないと思います。

そういえば、森川さんが「英米」と書いているところを、わたしが「西洋」とスライドさせている点について、千野帽子さんが言及してくださったようです(有難うございます)。「森川氏はまったくそんな話をしていないのに、森川氏が「西洋/日本」という(架空の)二項対立にはまっているなどと勝手に解釈するとは、千田氏にとってこそ、世界は「英米である西洋」と「日本」のふたつしかないのでしょうか。「英米である西洋」などというものは、英米を学的信仰の対象とする人たち以外にとっては、存在しません」とのこと。うーん…。舌足らずですみません。千野さんのおっしゃっているように、「『英米である西洋』などというものは、英米を学的信仰の対象とする人たち以外にとっては、存在しません」ということは事実ですし、英米にどこの地域を足してもいいですけれど、「欧米」や「西洋」そのものが、虚構であるということがわたしの議論の出発点です。

わたしの博士論文は、日本の社会科学における「日本近代」の構築がテーマでして、ちょっと説明をはしょりすぎたのかもしれません。「日本」を語る際に、明治以降、ずっと「西洋=近代」が参照点とされてきた、ということは間違いのない事実であると思います。それは戦前は、ドイツなどの欧州であったし、敗戦後は圧倒的にアメリカであったのですが、この二項対立図式から逃れ得た思考方式というものは残念ながら、長らく存在してこなかった。例えばフーコーなどが「紹介」された当時にすら、「近代が成立している欧米とは違って、日本は前近代であるから、近代的主体が成立しえない」というような議論が盛んにされていた記憶があります。

しかし90年代以降のグローバリゼーションの加速化と、近代国民国家の相対化の流れのなかで、いかに従来の社会科学がこのような二項対立図式に囚われていたのか、ということが、自覚化され始めます(ある意味、わたしの博論なども、そのような研究の流れに位置づくものでしょう)。西洋や欧米といったものの神話が、劇的に崩れる様は爽快でもありました。わたしがいいたいのはむしろ、森川さんが、虚構にすぎないということが明らかになった、「日本VSアメリカ(森川さんが文中で、「英米」とされているのは、アメリカにさらにカルスタの盛んなイギリスを加えられたいからでしょう。アメリカだけのときもあります )」という図式を、二項対立的に立てることによって、それらがあたかも実体であるかのように、反復的に構築しているのではないかということです。典型的な日本のほうに肩入れする、戦後講座派図式の逆転バージョンです(わたしが勝手に読み込んでいるわけではなくて、そういう論理構成になっていませんか?)。

英米の理論では日本の現象は切れない、やおいやBLをカルスタ分析・ジェンダー分析するのは、英米を有り難がっているからだというような論のたて方をされている森川さん、「『英米もいいけど、それだけじゃなくて、勉強すべきことはほかにもあるんじゃないの?』くらいの、それ自体はきわめてまともな立場からこの文を書いた(千野さん)」とは、どう好意的に解釈しても、わたしにはとても読めませんでした。すみません(そう思えるなら、わたしも長々とこんな文章を書いていないです)。「ジェンダーに焦点化すると英米崇拝」というような批判は、わたしには「きわめてまともな立場」とは、とうてい思えない。森川さんは「あなたたちは英米崇拝していて、何もわかってない」と、実質的にかなりの方たちを批判しているのですよね、やっぱり。

でもただ、森川さんが英米崇拝するカルスタを批判される気持ちは、わからなくもないですけどね。わたしもアメリカに暮らしたときに、彼らとの間にある植民地的な関係に苛立たないわけもなく、また日本において(マジョリティが)「人種」という軽さと、自分が実際に体験する「人種」経験の重さは較べようもないなぁと感じました。ただ、カルスタやジェンダー論が英米出自(少なくともジェンダー論が英米出自というのは、不正確としか思えません。千野さんのおっしゃるように、例えばフランスは? フレンチフェミニズムはどこにいったの? これはわたしではなく、「英米」といいきる森川さんのほうが、答えるべき問いだと思います)であると殊更いいたてるよりも、圧倒的な英語帝国主義の前で英米圏出自の概念ばかりが世界に流通しているけれども、日本でも当然同様な議論はなされているし、その概念の出所をすべて英米に専有させるつもりはないですよと、切り返すことのほうが必要なのではないでしょうか。

長い連載になりましたが、読んでくださったかた、有難うございました。ふー、こんなに長くなるとは思わなかったよ…。なんだか論文1本くらい書いた気分。