近年、マスコミを賑わせていた鈴香容疑者の事件も、ひと段落ついたようだ。娘の彩香ちゃんの死因もわからないし、狭い町で起こった殺人事件の真相は、藪に包まれたままだ。容疑者だと内心思っている鈴香容疑者に、事前にインタビューしている映像は、ある意味エゲツナイなぁとあまり正視できるものではなかった。
彩香ちゃんは鈴香容疑者に殺されたのかどうか。そうだとしてもありえるなぁと思うし、違ったとしても、そうかと納得するような気がする。
それにしても、彩香ちゃんの生前に「中絶のお金がなかった」、「産みたくなかった」とか「育てたくない」などと鈴香容疑者が語っていた発言ばかりが(殺人をしかねない根拠として)クローズアップされているけれど、それはどうなんだろうか。鈴香容疑者は、そういう発言をすること自体が、子どもに対する虐待にあたるということすら、理解していないような気がする。
やはりと思うしかないのだけれど、鈴香容疑者のうちはあまり裕福ではなく、常日頃から父親に暴力を受けていたという。そのような家庭で育った容疑者は、「子どもを可愛がる」ということがどういうことか自体を、すでに学んでいないのだと思う。つまりは、可愛がり方がわからないのではないかという気がする。
カップラーメンばかりを食べさせられていた、よく外に放り出されていた、その間は鈴香容疑者は売春したり、男のひとと付き合っていたみたい。このような断片的なエピソードも、鈴香容疑者にしてみれば、虐待している意識はなかったのではないか(もちろん頭の片隅には、疑念がよぎったとしても)という気すらする。きちんとした食事を毎食食べさせてもらい、さまざまな局面で気にかけて貰うという育てられ方を自分がしていない限り、子どもにもそうしてあげなければならないということがわからないのではないかと思う。
意地になって子どもを引き取って離婚したものの、お金はないし、どう子育てをしていいのかもわからず、途方に暮れていたのではないかという感じがする。人間は、自分の経験を超えることを他人に施すことはできないのだ。むしろ恐ろしかったのは、インタビューのなかで「彩香をいかに愛していたのか」を切々と訴える容疑者の言葉は嘘であるように思えなかったことだ。主観のなかでは、子どもを愛しているつもりだったのではないかという気がする。
お金がないながらも七五三の衣装を着せて写真を撮ったり、「母親はこういうことをするんだろうな」ということを見よう見まねでやってみたりはする。でも本当に子どもを育てるということの意味はよくわからない。だからこそ、彩香ちゃんが亡くなったことによって、鈴香容疑者は、現実に裏切られることなく、安心して「母」として振舞うことができるようになったのではないかと思う。現実の子どもはときとしてうざったいこともあるが、そのようなこともなくなる。「子どもを亡くした母」としての役割、「母」の幻想を演じること。そのことによって、彩香ちゃんの生前、「きちんとしたよい母」ではなかったという自責の念も薄まるのではないか。白々しいほどに過剰なまでの「母」のイメージを演じることで、まさに自分が本当に「母」になったような気持ちに、生まれて初めてなれたのではないかと憶測してしまう。そして、豪憲君を殺すことによって、「母」としての自分が確認できるように思われたのではないかと憶測してしまう。
いや、本当に勝手な憶測なのだけれども。子どもは親を選べないし、亡くなった彩香ちゃんや豪憲君には可哀想な事件である。現代日本のさまざまな意味での貧困と無知が折り重なったようにして引き起こされた事件に、悲惨だなぁという気持ちが禁じえない。
彩香ちゃんは鈴香容疑者に殺されたのかどうか。そうだとしてもありえるなぁと思うし、違ったとしても、そうかと納得するような気がする。
それにしても、彩香ちゃんの生前に「中絶のお金がなかった」、「産みたくなかった」とか「育てたくない」などと鈴香容疑者が語っていた発言ばかりが(殺人をしかねない根拠として)クローズアップされているけれど、それはどうなんだろうか。鈴香容疑者は、そういう発言をすること自体が、子どもに対する虐待にあたるということすら、理解していないような気がする。
やはりと思うしかないのだけれど、鈴香容疑者のうちはあまり裕福ではなく、常日頃から父親に暴力を受けていたという。そのような家庭で育った容疑者は、「子どもを可愛がる」ということがどういうことか自体を、すでに学んでいないのだと思う。つまりは、可愛がり方がわからないのではないかという気がする。
カップラーメンばかりを食べさせられていた、よく外に放り出されていた、その間は鈴香容疑者は売春したり、男のひとと付き合っていたみたい。このような断片的なエピソードも、鈴香容疑者にしてみれば、虐待している意識はなかったのではないか(もちろん頭の片隅には、疑念がよぎったとしても)という気すらする。きちんとした食事を毎食食べさせてもらい、さまざまな局面で気にかけて貰うという育てられ方を自分がしていない限り、子どもにもそうしてあげなければならないということがわからないのではないかと思う。
意地になって子どもを引き取って離婚したものの、お金はないし、どう子育てをしていいのかもわからず、途方に暮れていたのではないかという感じがする。人間は、自分の経験を超えることを他人に施すことはできないのだ。むしろ恐ろしかったのは、インタビューのなかで「彩香をいかに愛していたのか」を切々と訴える容疑者の言葉は嘘であるように思えなかったことだ。主観のなかでは、子どもを愛しているつもりだったのではないかという気がする。
お金がないながらも七五三の衣装を着せて写真を撮ったり、「母親はこういうことをするんだろうな」ということを見よう見まねでやってみたりはする。でも本当に子どもを育てるということの意味はよくわからない。だからこそ、彩香ちゃんが亡くなったことによって、鈴香容疑者は、現実に裏切られることなく、安心して「母」として振舞うことができるようになったのではないかと思う。現実の子どもはときとしてうざったいこともあるが、そのようなこともなくなる。「子どもを亡くした母」としての役割、「母」の幻想を演じること。そのことによって、彩香ちゃんの生前、「きちんとしたよい母」ではなかったという自責の念も薄まるのではないか。白々しいほどに過剰なまでの「母」のイメージを演じることで、まさに自分が本当に「母」になったような気持ちに、生まれて初めてなれたのではないかと憶測してしまう。そして、豪憲君を殺すことによって、「母」としての自分が確認できるように思われたのではないかと憶測してしまう。
いや、本当に勝手な憶測なのだけれども。子どもは親を選べないし、亡くなった彩香ちゃんや豪憲君には可哀想な事件である。現代日本のさまざまな意味での貧困と無知が折り重なったようにして引き起こされた事件に、悲惨だなぁという気持ちが禁じえない。