Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ1-8

2007-12-13 11:16:07 | 本を読んだ
注:勝手に連載になったので、これは1から順に新しいほうを下に置いていきます。

しばらく日記の更新を放置していたんですが、それでも来てくれているひと、有難う。さて今日は、久しぶりに真面目に書きます。

ユリイカの12月臨時増刊号『BL(ボーイズラブ)スタディーズ』、この間BL本が出たばかりなのに、第二弾ということは、ニーズがあるということですね。先回の本はなかなかよくできていて、面白かったので、第二弾も楽しみにしていました。今回も面白かったんですが、残念なのは、先ほどの回に較べると、ちょっと寄せ集め的な感じがしなくもないところ。もう少し突っ込んだ作品批評、というか、BLについてのもう少し理論的な考察が読めると嬉しいです。なんでBLという形式が日本社会で発達したのか、という疑問ってわたしにとっては大きなものなんですが。

あと当然ガイド的なものもついているんですが、小説のラインナップは、かなり趣味が違いました。それは「趣味」だから、いろいろ違って、いいんですけどね。わたしだったら榎田尤利さんは『眠る探偵』シリーズよりは、漫画家シリーズを推しますし(どうでもいいけど、榎田さんと鬼塚ツヤコさん、紹介文の印刷が逆です…)、崎谷はるひさんは『ブルーサウンド』シリーズも人気あるのかもしれないですが、個人的に好きじゃないのです(ってそれだけかいっ。まぁ一年間に限っても、崎谷さんは作品数があまりに多いですけど。でもこのひとのは、ぶっ飛んだもののほうが面白い気がする)。あとは鳩村衣杏さんの『ドアをノックするのは誰?』とか、かわい有美子さんの『透過性恋愛装置』とか、砂原糖子さんの『言ノ葉ノ花』や『夜明けには好きと言って』など幾つかのものとか、人気があったし、挑戦的であったのではないかなぁと思います。マンガに関しては、わたしはどちらかというと古め(?)の作家さんが好きなので、やや自分の趣味の渋さが悲しくなっちゃったりしました。まぁ、そういう腐話は置いておいて。

今回ちょっとひっかかったのは、森川嘉一郎さんの『数字で見る腐女子』です。吉川さんは、仕事でご一緒させていただいたこともあり、イケメン(死語御免)なのに佇まいにオタクを実践されていて、すでにそれがパロディにまで昇華されているブリリアントな方ですが(変な文章ですみません)、今回の腐女子と非モテに関してはちょっといただけなかったです。

冒頭で「本稿では『腐女子論』をメインに扱います。男性によって腐女子が分析されることに嫌悪感を抱く方、『放っておいてくれ』という方、興味やご理解のない方は、ここから先の閲覧はご遠慮ください」という注意書きから始まり、「腐女子は縁遠い、などということを統計的に掲げたのは、危険な行為だったかもしれない。腐女子学者も怖いが、腐女子はもっと怖い。怖いので文頭にクレーマー除けを書き加えた上で、筆を置こう」で終わるあたり、かなり批判されることを意識されているようですが、わたしは腐女子と非モテというテーマや結論よりも、論じられている手さばきに、はてさて?という疑問を禁じえなかったです。

ご本人もお書きですが、でもやはり。腐女子の統計として使用するのが、雑誌『ぱふ』のアンケートです。う、うーん。『ぱふ』、年に一回はかならずBL特集をやっていますが、「『ぱふ』の読者=腐女子」という定義には、やっぱりかなりの疑問があります。「『ぱふ』の読者=マンガ好きの子」ではあっても、腐女子とはいえないような。しかもやっぱりアンケートに自ら進んで答える読者のサンプリングの問題があるので、統計的に「遜色がない」といわれても、それはちょっとといわざるを得ない。それをランダムサンプリングの国勢調査(あ、全数調査でしたね)や社保人口研の出生動向基本調査と較べてもなぁ…。でもまぁいいです。ここで突っ込むのはやめます。

『ぱふ』読者が求める恋人のタイプとして、一般人が35%、同類が37%、現実ではいらないが9%、その他が19%なんですが、それと社保人口研調査の「一生結婚するつもりはない」という4%と較べているんですよね。これを元のデータに当たってみると、女性で、

20-24歳 25-29歳の順にパーセンテージを書き込みます(ガタガタしててすみません)

一年以内に結婚したい            8.9  16.1
理想の相手ならしてもよい(結婚年齢重視派) 14.1  16.1
理想の相手ならしてもよい(理想相手追求派) 15.8  28.8
まだ結婚するつもりはない(結婚年齢重視派) 23.2  10.3
まだ結婚するつもりはない(理想相手追求派) 27.0  15.3
一生結婚するつもりはない          3.9   4.2
不詳                    7.1   9.2

森川さんは最後の3.9%と4.2%を足してだいたい4%と見当をつけられたようですが、これって「現実では恋人いらない」よりかなり強い決意じゃないですか? むしろ理想の相手を追究したいのでまだ結婚するつもりのないカテゴリーは20代前半では27%、後半でも15%近くいますが、なぜこれと比較してはいけないのでしょうか?(あ、表を書き写して疲れたので、語気荒くなってきた)。それも「恋人のタイプ? 一般人、は、腐女子との両立は難しいだろうし、同類、は、かえって鬱陶しいし、そういわれちゃうと現実ではいらないなぁ。今はテニミュに夢中だも~ん」なんていうふうに出されただろう数字が9%ですから、これをどうとっていいのか? 「結婚するつもりか」と聞かれるのと、「どんなタイプの恋人がいいか」と聞かれるのは、「いらない」と答える確率は、かなり変わってくるはずです。それを「どんなタイプがいい?」と聞かれて、「いらない」と答えたひとが少なかったので、腐女子は恋愛したいのに、相手がいない、と結論付けるのはちょっと手続きとして乱暴すぎる気がします。

こういう統計のデータの使い方がおかしい!みたいな批判って、まぁあんまり好きじゃないんですが、むしろ問題は、ジェンダーカルスタ論批判と腐女子の多様性をめぐる論考以下、いろいろです。息切れたのでとりあえず途中でアップ。消えちゃっても困るので(あ、ついでにいっておくと、べつにわたしは腐女子学者じゃありません)。

2に続きます。
  ↓

連載 BLスタディーズ2

2007-12-13 11:15:13 | 本を読んだ
なんだか途中まで書いたんだけど、ネット上にチマチマと文章書くのが面倒くさくなってきた。でも乗りかかった船だから完成させることにします。こんなことを書いている暇があるんだったら、論文書いたほうがと思うんですが、まぁいいや。今日も少し書いたら切り上げるので『連載』にしました(笑)。

この前の日記には、些細な意見の違いなんてどうでもいいのにと書いたんですが、やっぱり「些細」じゃないなぁと思うので、続き。

ええっと森川さんは、この間のデータから、腐女子がモテないという結論を引き出されて、やおいやBLの内容との関係を探ろうとするのだけれど、このような追求は、「モテない腐女子像を退けようとする学者たちのやおい論や腐女子論の思潮と、真っ向うから対立する危険性をはらんでいる」といい、その思潮とは、ジェンダー論の傾向で、前回の『腐女子マンガ大系』の学界の書き手による文章には明確にその傾向があったらしい。

うーん、具体的に誰をさしているのか、よくわかんないんですが(金田さんだけは名指しだけど。きっとわたしがこんなところでチョコチョコ書くより、森川さんが仮想敵(?)にされている方が直接反論なり、応答されたほうがいいんだろうなぁ)、「モテない腐女子像を退けようとする学者たち」というのが、どうもいるのかなぁ? わたしの知るかぎりでは、杉浦由美子さんなんかは、かなりその傾向がありましたが、彼女は学者じゃないし…、でもきっと、おっしゃるからには存在するんでしょう。わたしはBLという表現形式には関心があっても、腐女子というカテゴリーはともかく、実態はどうでもいいし、モテ非モテもどうでもいいので(っていったら、終わってしまいますが)、ここの部分は飛ばします。でも正直にいえば、前回の『大系』で、むしろジェンダー分析がされないことにわたしは違和感をもったし(だって男同士が性交渉する作品を女性ばかりが(腐男子もいますが)読んでるんですよ! 変な現象じゃないですか?)、表象の暴力の問題もさらっと流されていて(明らかに当事者じゃないひとたちの領有が起こっているというのに。今回は石田さんが論考を書かれていましたが)、森川さんと印象はまったく逆です(きっと信じている神が違うんだと思います)。

で、こういうやおいを考察する際の、既成の学問分野がカルチュラル・スタディーズと女性学であることが、これらの原因である、と森川さんはおっしゃって、カルスタ(略すの嫌いだけど、長いから略す)と女性学批判を行われている。

カルスタは、人種問題があり宗教問題があり、これらが焦点となる政治風土を背景とした社会での左派の理論武装で、日本は「歴史・人種・宗教風土」を「大きく異にする」という。うーん。わたしの琴線に触れるのは、ここです。こういう批判って、どうなんでしょう?(もう論じつくされている問題でもあり、今さらでもありますけど)。

例えばマルクス主義でもいいですし、構造機能主義(笑)でも、精神分析(これは半分保留)でもいいですけど、まぁそういう大きな理論の枠組みがあるところでは、その理論的枠組みの適用可能性を論じることって、まだ意味があると思うんですよね。大きな物語ってどうなの?でもいいですけど。でもカルスタって、そもそも既存の学問の境界線を壊しましょうというような学問的実践であって、何というか、ポスト構造主義のなか、ミシェル・フーコーが「知の道具箱」呼んだような、たんに分析のための小さなツールに過ぎないんじゃないんですかね? そんな小さなトンカチみたいなものを、「西洋」を実体化してそこに帰属させ、二項対立的な「日本」を作り上げたりするよりは、トンカチのオリジンなんて、どうでもいいじゃないと考えるほうが、現実に即しているように思います。森川さんのいうような批判自体が、「西洋」を実体として作り出しちゃうんじゃないのかしら?

もちろん、ひょっとしたらカルスタ総体を神として信じているひともいるのかも知れませんが。しかし具体的なテクストを分析するときには、ここは「オーディエンス」という概念を核に分析してみようとか、少なくともわたしは、その程度のことしかやらないし、できないです。そんな概念のクレジットに、漢字がついていようと、カタカナがついていようと、それはたいした問題じゃないと、わたしは思います。

うーん。また体力がなくなったので待て次号!
いったいいつ終わるのやら。

連載 BLスタディーズ3

2007-12-13 11:14:15 | 本を読んだ
なんだかちまちま進んでます。わたしは今日読んだ『天使のうた』にショックを受けて、なんだかどうでもよくなってきてしまったんですが、続けます(怖くて次号が読めません)。毎日、1セクションについて書いていると、森川さんのこの論文がすごく好きなような気がしてきました。少なくとも、今、森川さんのこの論文を、日本で一番読み込んでるのは、わたしですよっ(というのは、どうかわかりませんが)。

ええと、森川さんの批判のもうひとつの論点、女性学について。森川さんの懸念は、やおいや腐女子に関する研究が女性学によって植民地化されることのようです。そうなると起こる例として森川さんが挙げられているのは以下のような事態です。

「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が、「ゲイ差別的」で、その時々のフェミニズムの文脈にとって都合が悪いという基準でアカデミズムの高みから「望ましくない」と審査されたり、そうした基準に配慮したかたちでやおいの作品史が編纂されたりしかねなくなるのだ(129ページ)。

森川さーん、まるで杞憂ですから、安心してください。というか、森川さんっていいひとですね。わたしの知る限り一番最初に同性愛の文脈でやおい表現(やおい少女たち?)を問題化して批判したのは、キース・ヴィンセント氏だと思うのですが、むしろフェミニズムはヴィンセント氏のようなゲイ・スタディーズの側から、異性愛中心主義的であると批判される側であって、「ゲイ差別」を自ら告発するような、そんな立派なことはおこなってこなかったと思うのですよ。例としてはほとんど考えられない事態、というより、ジェンダーの視点から(というものがあるとここでは仮定して)テクストを分析することはあっても、そのときに、ゲイ差別の視点が落ちてしまうことのほうがあり得て、むしろこちらの事態のほうが問題だ、という風に思うのです。

しかしこう書くことによって、わたしが森川さんの批判するような「女性学」の学者になっていると思われると心外です。なぜなら、いまどき、表現と表象の問題を考えるときに、こんな単純な理論を取るひとって、いるのかなぁ? 性表現の規制派の代表格とされているキャサリン・マッキノンですら、ここ10年は、表象がパフォーマティヴであるということを理論的支柱に置いていて、こんな単純な批判はしないと思う。

まぁ、悪書追放運動を推進したいひとたちが、こういう理論を取るかもしれませんが、そのときはむしろ「ゲイ差別だから」なんてことをいってくれるよりも、「ゲイのこんな不道徳なシーンが描かれているザマス(なんでこういうことをいうPTAおばさんって、「ざーますふじん」として戯画化されるんでしょうね?)」と片付けられると思いますけどね。

ここでまともな学者がやるべきことは、「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が何を意味しているのか、書き手によってどのように意味づけられ、読み手がどのように受け取っているのか、テクスト総体のなかで、どのような効果を生じさせているのかを分析することであって(それは最終的に「ゲイに対して差別的な効果を生んでいる」という結論かもしれないけれど)、もしも「ゲイ差別的」だと断定して終わりという単純なひとがもしいるとしたら、森川さんは堂々と「こんな分析で満足しているなんて、あんたは学者として三流だ」と、個別に批判されればいいんじゃないでしょうか。と、わたしは思うのです。

さらに森川さんの心配は続きます。「このようなフェミニズムの文脈からの審査に足しして反発でも起きようものなら、植民地的な体質の下では、『それが進歩的な国(ルビ:アメリカ)では常識だ」、「世界の笑いものになる」といった、帝国主義的な原理の召喚へと容易に発展する」(129ページ)。大丈夫です、しないですよ。

むしろ可能性があるとしたら、「ゲイ差別だ」と怒るひとに対して、「ああこれは、アメリカではクィアっていうんですよ」と無化する、というほうが、まだあり得る気がします。森川さんのカルスタやジェンダー研究(女性学)へのイメージはすごくよく伝わったのですが、内実は全然違いますから、ご安心ください。そもそもあるジャンルを簡単に実体化して、統一的な見解を想定するっていうのは、無理があるように思います。カルスタやジェンダー研究も内部は多様ですから。

で、上手く繋がったところで、次回は、森川さんによる「多様性」批判を検討してみます。


連載 BLスタディーズ4

2007-12-13 11:13:40 | 本を読んだ
グランプリファイナル、高橋大輔、本当に惜しかった…っ!! 4回転を成功させたものの、そのあとの演技が精彩を欠いてしまいました。ジャンプの数、いつも織田信成が数え間違えて無効になったりしていますが、見ているほうもわかんなくなるのに、滑りながら「今のはコンビネーションを変えちゃったから、どこかのジャンプをコンビネーションにして…」とか考えるのは大変そうですね。荒川静香もオリンピックシーズンの全日本のとき、演技後に感想を求められて「ジャンプの数を数えていたら不安になって他は何にも覚えてません」というようなことをいっていましたね。ジャンプを成功させればそんな心配はあまり必要ないのですが、それはさておき。

ええーっと4回目。別にこんなに引っ張るつもりはなかったんですが、森川さんの提起する問題が面白いので、つい長くなってしまいました。で、今日は、多様性について、でしたっけ?

森川さんによれば、「多様性」というのは、エコロジーとか平和とかと同じで御旗の錦であり、こんな単語を珍重するのもカルスタと女性学のせいである、ということになります。そして、特殊な女たちの主張とされてきたフェミニズムが、腐女子の「多様性」を謳うことにより、「一般的な<女性>として扱うことができた方が、好都合」だからこそ「多様性」を謳うのであるが(フェミニズム陰謀論ですね)、それは「モテない腐女子」を抑圧し、有徴化するような効果をもつといいます。

わたしなりの要約なので、間違っていたらすみません。しかし、面白いなぁ…。わたしには、とても思いつかなかったです。しかし別に、フェミニズムが団体というか、ひとまとまりになって陰謀をめぐらしているわけではないと思うんですが、フェミニズムとは離れても、腐女子って多様なのは当たり前じゃないでしょうかね? そして「腐女子」というステレオタイプがあるからこそ、その多様性に焦点が当てられるのは当然のことであって、別にフェミニズムの陰謀ではないと思いますけど(別に腐女子はフェミニストでもないし、すべてのフェミニストは腐女子に関心があるわけではないし。フェミニストで腐女子に関心があるのは一割にも満たないんじゃないでしょうか? 勝手な脳内統計ですけど。世界のフェミ化のために、腐女子論を利用してやれっ、みたいなフェミニストがいたりするんでしょうかね?)。

ミステリーの読者が多種多様であるのと同様、あるジャンルの作品を読む読者が多種多様であるのは、当たり前のことなんじゃないんでしょうか? そして実際、読みは多様であるし、読者の好みも多様なんですよ。当たり前だけど。そうじゃなかったら、メガヒットを飛ばす出版物を作るのは容易に可能になりますけど、実際にはそうじゃないでしょう?

前の『腐女子~』を読んでわたしが衝撃を受けたのは、BLの読まれかたの違いに気づかされたところです。本当に読みかたって、多様なんだなぁと。確かに、「BLはポルノ」という言い方をされることがありますが、自分は少女マンガの延長で読んでいたので、この「ポルノ」っていういいかたは、「メタファー」だと思っていたんですよ。いや本当に、上品ぶるわけではなく。ところが、本当に「ポルノ」として読むという読み方があるんだ、ということを突きつけられて、眼から鱗というか、何というか、衝撃、としかいいようがありませんでした。

そうか、ポルノだと考えれば、人前でBL読むとかいいにくいよなぁ…。なんだか妙に納得。わたしは社会学者なので、「実にジェンダー論的に面白い」というか、読んでいると、男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて、面白いなぁと思って読んでいるという自己正当化ができるからかもしれません(いや単純に面白いんですよ、作品として)。でも本当にびっくりしたんです。

考えてみれば、24年組→白泉社系で、ひとまずピリオドを打ったわたしの読書経験としては、BLに触れたのは、今度は30を過ぎてからなんですよね。この年になったら、(あの程度では?)ポルノとしては機能しないんですが、中学生とか高校生には確かに刺激が強いのかも…。そしてその頃から読んでいる読者がそういう読みを身につけていても、なんら不思議ではないですね。

あと、やおいとBLは違うんだなぁとも思いました(相対的にですけれど)。金田さんはやおい同人誌が好きで、商業誌はそれに較べるとあまり好きではないとおっしゃっていたけど(知っている後輩に「おっしゃって」とかいうのもなんか照れ臭いですが、ここでは敬意を表して敬語に)、わたしはやおい同人誌を作っているひとは楽しそうだなぁと、同人活動を羨ましく思いますけれど、作品としては同人誌はあんまり好きじゃないんだろうなぁ。商業誌にやおい同人誌的なものが出てきた(尾崎南が『マーガレット』に連載開始とか)ときに、わたしはこの手のものから離れたのは、偶然じゃないと思うんですよね(あ、やおい=同人誌、BL=商業誌って本当に乱暴なくくりですけれど、ここでは暫定的に)。

何というか、やまなしいみなしおちなし、の作品より、ヤマもイミもオチもある、ある種の選別と覚悟を経由した作品を好むのです。玉石混交の宝の山から、宝石を発掘するのを好むひともいるだろうし、できる二次作品なんかはどうでもいい、仲間と好きな作品について語り合えるコミュニケーションの過程自体が楽しいのだというひともいるでしょう。やっぱりそれは多様としかいいようがない。「恋愛物のオリジナル」が好きな理由は個人的にはいろいろと考察可能なんですが、それはここでは関係ないので省きます。

こういうことを考えて、BLの読者って多様だなぁ、萌えツボも本当に違うよなぁ、ということは、別にフェミニズムの陰謀ではないとわたしは思うのですが、どうでしょう?

連載 BLスタディーズ5

2007-12-13 11:12:40 | 本を読んだ
ちまちまと森川さんの論文の論旨を追っていくのも疲れたので、今日はもう少し問題を発展させて考えてみようと思う。

森川さんの危惧していることは、おそらく「表現の自由」の規制であると思われる。それは行政による規制にとどまらず、「不要な自己規制が唱導される事態」への危惧も含む規制への危惧である。それらの背景には、近年、商業誌のみならず、同人誌の性表現への検閲の眼差しが強まってきていること、そして豊かな二次創作を生み出してきたパロディという形式自体が規制され始めていること(小学館のドル箱で、著作権でもめている『ドラえもん』のパロディが問題化された際の報道では、「偽物を作って荒稼ぎ」という報道が多く、このようなパロディのもつ問題についてきちんと考えられたものはほとんど見受けられなかった)などが、あるのではないかと推察される。その危惧はよく理解できる。

しかしその際、差し向けられる問題の対象が、ジェンダー論であったり、カルスタであったりするというのは、どう考えてもおかしな話である。歴史的にみれば、ジェンダー・セクシュアリティ研究、カルスタは、森川さんのいう「進歩的な国(アメリカ)」で保守派の槍玉に挙げられ、これらの「下品」な研究に公的な金銭を使ってもいいのかというまさにネオリベ的な問題化が起こり、潰されてきたのだ(日本でも文部科学省の科学研究費を「反動的研究」に投入すべきではない、国公立の大学では学問が「中立」であるべきだ(特定の派閥であるジェンダーフリーなどの研究・教育は行われるべきではない)という主張が、近い将来起こっても不思議ではないと感じている)。それを恐れての自己規制が行われる可能性は大いにあるとしても、フェミニズムやカルスタそのものが、規制をうんでいると考えるのは、多分にたんなる誤解である、としかいいようがないのではないか。

わたしは個人的には、「表現の自由」という言葉は好きではないし、おそらく今後も積極的には使わないと思う。わたしが守りたいものは、抽象的な「表現」などではないからだ。何かを表現する際、ひとは思ってもいないひとを傷つけたりする。それはある特定のカテゴリーに属するひとであったり、また例えば簡単なエッセイを書いただけでも身内の誰かを傷つけるかもしれない(そこには、表現の場を与えられているひとと、そうでないひとという非対称性がある)。となれば、何かを表現しようとするひとは、できるだけ誰かを傷つけないように配慮して表現を行うと同時に、その結果起こる出来事をある程度引き受ける気概と責任感を必要とされるのである(もちろん、すべてに責任を取ることなど不可能である)。何かを表現することというのは、(行政によるもののみならず)、そのような規制があるなかで、その隘路をくぐって行われるものである。それを「表現」だから何もかも認めよ、という気持ちに、わたしはならない(ナチスに関する表現が無限に行われていいとも思わない)。むしろそのような制約があるからこそ、「自由」という言葉は光り輝くのではないか。何を「表現」したいのかを自ら問い直すことになるのではないか、とわたしは思う。

と同時に、差別語や差別表現、わいせつ(という概念自体がもう問題だと思う)表現を無差別に規制することには反対である。なぜならそのような規制は、何かを問題化すること、例えば差別表現を問題化すること、自体を封じることになる。また差別的な状況を作品のなかで作り出すことによって、自ずから差別について考えさせる優れた作品があり得ると考えるからである。差別はいけません、という決まり文句で差別語や差別表現を排除することだけによって社会が変わるのであったら、…それは楽でいいですけどね。そんなことはあり得ないと思います。

本題に戻ってまた続きます。

連載 BLスタディーズ6

2007-12-13 11:11:29 | 本を読んだ
いろいろ用事が立て込んでいて、連載といいつつ(いや、誰も楽しみにしていないですね)、休載しているBLスタディーズ。途中脱線したまま、放置してました。

しかしクリスマスイブにこんなことを考えているのもどうかと思います。続き書く意思があることだけ表明して、今日はおしまい。でも年内に1回は書こう…。