Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ7

2007-12-12 14:26:34 | 本を読んだ
A Happy New Year! すみません。年内に更新といいつつ、できませんでした…。先生も走る師走ということで、いろいろと雑事に追われていました。あとは、橋下弁護士はじめ、相変わらず怒ることには事欠かなかったので。ってわたしが怒っても、仕方ないんですけどねぇ…。

大学は税金を使うのは無駄だから、私立大学があれば充分。府立大は160億も浪費している。女性センターなどの団体は、赤字のところはいらない。廃止し、徹底した民営化をって、このひとの考えることはなんて貧困なんでしょう…。相対的に安い国公立大学は、教育機会の平等のために必要だし(私立大学の学費を払えないひともいるし、地方に国公立大学はそれなりの教育機会を提供しているのです。大阪が地方かどうかは微妙ですが、こうやって地方の国公立大学が廃止されたら、大変。皆に私立、とくに橋下さんのように早稲田などの、東京の私立に進学しろというのでしょうか?)、営利を追求しない公共的な団体は、市場の原理に乗らないからこそ、行政が運営する必要があるのになぁ。弁護士を続けていたら、収入は10倍だそうですから、続けられたほうがいいんじゃないでしょうか? 徹底して、ケチで行く(だっけ? 銭勘定でいく、みたいなことをおっしゃってました)という名の民営化促進論者の橋下さん、自分の人生にかんしても、銭勘定を貫かれたらいいのに。

などと正月早々、怒っていても仕方ないので、これを早く終わらしてしまおう、BLスタディーズ。今後はちょっと駆け足にします。

腐女子の多様性を言い募るのは、フェミニズムの陰謀、というところまで書いたんでしたっけ? 森川さんによれば、やおいやBLを、「女性のため」と枠付けようとする傾向にも、特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているようにみえる(「腐女子」は所詮「女オタク」だろうということ)そうです。あとは、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」という構図があるにもかかわらず無視している、それは「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある」けれど、「英米の学界には、腐女子差別に関する議論などは、まだ、存在しない」からであるそうです。

きちんと論じ始めると、かなりのオタク論を展開しなければならないので、ここでは簡単に述べますが、わたしは男のオタクと女のオタクは、この社会で置かれている立場がやはり異なり、オタクという語で一緒にはくくれないと思います。例えば中島梓などの評論で言われつくされてきたことだと思うのですが、男は、オタクになることによって「男」から降りることができるけれども、女のオタクはオタクになったとしても「女として」評価されることからは降りられない、という古典的なオタク論はまだ死んでいないと思います。杉浦由美子さんが「腐女子」を自称されたうえで、腐女子はキモオタではない、モテモテである、ということを繰り返し述べていらっしゃったのは、その図式を無化しようと試みながらも、逆に構図を明らかにすることなくこだわることによって、逆に呪縛から逃れられなかったのではないかと、個人的には思っています。

森川さんも自覚されていますが、男のオタクが扱う事象とことなり、腐女子が扱う事象は、自分とは本来関係ないとされる男性同性愛関係ですから、やおいやBLを論じるときに「女性」が「男性同性愛」についての作品を生産・消費していると、性別に着目することは、決して不思議ではない気がしますが…。

むしろ、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」の区別はそれほど自明ではないと思います。というより、「一般女性」というカテゴリーは、「(一般)男性」というカテゴリーとは異なって、もっと空虚だと思っている、というのが正しいんですが(これはこれで長くなるので、ここでは割愛。また他で書きます)。そのことはさておき、もちろん、みるからに女オタク的な腐女子というのも存在するでしょうが、そうでない腐女子がなぜ、「腐女子」ではない「一般女性」のイメージをことさら「擬態」するのかについて「腐女子だと笑い者にしてもいいというメディアの態度が暴力的で隠したいから」「腐女子に強い嫌悪感と敵意を示す男性に恐怖を覚えるから(ホモフォビアがあるうえに、それを「女子」によって扱われるのですから、あり得る反応だと思います)」という理由を挙げるひとは多いのです(森川さんの周囲には、そういう女性はいらっしゃいませんか?)。

「一般の女性」のカテゴリーに入る女性がいるとして、そのひとたちが「腐女子」に強い嫌悪を示すとしたら(わたしはすごく理解できますけれど)、それは「女性」対「女性」のなかで分析されるものではなく、「男性」を含みこまざるを得ず、森川さんが嫌がられる「ジェンダー論」を経由しなければ不可能なものだと思います(誤解があるようですが、ジェンダー論はけっして、単純に「『男性』対『女性』」という対立のみを解くものではなく、ポスト構造主義の洗礼をうけているジェンダー論はもう少し繊細なカテゴリーの分析をしていますし、それを可能にしたのが「ジェンダー」という概念です。フーコー経由のジェンダー概念については、スコットの『ジェンダーと歴史学』あたりに感動しました。といっても10年以上前ですが)。

「英米の学界には、腐女子差別に関する議論などは、まだ、存在しない」からと森川さんはこれらの議論の理由を分析されるのには、違和感をもちました。わたしが面白いと思った日本の少女マンガやBLを分析した評論はたくさんあるのですが、それらは別にカルチュラル・スタディーズを直接適用したものではないし、そもそもカルスタはそんな「大きな物語」ではないということは、先に述べた通りです。

今回、ちょっと荒い議論ですが、次回は、森川さんが根拠とされている宮崎さんの論文について述べさせてもらって、終わりにします。年を持ち越すとは思わなかったです…。どれだけ森川さんが好きなんだと、驚くわたしですが、森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした。

それでは皆さん、今年もよろしく。