つづきです。
子どもの頃のお話続きます。
誕生日にはカレーライス作ってくれた。カレーライス好きだったから。誕生日はカレーライスの日。その日は僕が好きなそれを作ってくれた。それだけですけどね。それが、唯一の楽しみだった。
ややこしいですけど、兄弟は一番小さいときは8人くらいいましたからね。
ひとりひとりの誕生日にはそれぞれが好きなものを作ってた。
たいしたもんじゃないけど、ふつうの野菜と牛肉が入ってたりとか。
昔はルーとかなかったから、メリケン粉っていうか、小麦粉をちょっと溶いてとろ味をつけるみたいな。
岸部さんが聴きたい曲サティスファクション
↓
流れてるのは、ローリングストーンズのだけど、わたし、考えてみたら、この本家本元のあまり聞いたことないな。
この曲は、やっぱりジュリーとかタイガースので聞きなれてる感じ。
これ、アマチュアのころに京都会館でエレキコンテストというかエレキ合戦みたいのがあって、これを歌って優勝したんです。この賞金5万円でユニフォームを作って、大阪のナンバ一番というジャズ喫茶で出てた。ファニーズの頃ですけど。
カーキ色のミリタリーっぽいやつでしたね。ちょっとビートルズっぽい。
ローリングストーンズにはうまくスケジュールがあえば行くつもりしてるんですけど。特別なバンドなんで。
1967年にタイガースがデビューして、まる4年ですね。意外と短いんですよね。
それからPYGですね。タイガースから僕と沢田、スパイダースから大野克夫さんと井上尭之さん、テンプターズから萩原健一と大口ひろし、その6人でやったんですけどね。
すごいバンドだったんですけど、
すぐ1年くらいで解散しましたけどね。10年続くなんて、まぁ無理でしょうね。
PYGの途中で、ショーケンがやめて、解散してから沢田がソロになって、僕らは井上バンドということで、バックバンドになって、いっしょにやってたんです。
それでまたしばらく沢田とはやってたんですけどね。
当時のあだ名はサリー、のっぽのサリーですね。誰が言い出したのかは覚えてないですけどね。
京都でまだバンドやる前に、ダンスホールとかで踊ってたころにサリー、サリー、って言われてたんです。
そのころはギター持つとか、バンドやるのが流行ってて、そういうのやれば、女の子にもてるだろうと。みんなそうですよ。
沢田はそのあとだけど、4人で歌は歌わないグループをやりはじめて。それが最初ですね。
森本と加橋、ふたりはギターやってたんですよ。瞳と僕はなにもやってなくて。あとドラムとベースがいるということで。
瞳がドラム覚えるわということで。残ってるベースは簡単そうなのでやろうかなと。そんな感じでやり始めたんですよ。
みんなギターやるんですよ、最初。ドラムやベースはみんなやりたがらないんだよね。考えてみたら単純な動機だよね。
タイガースの思い出。
人気は確かにすごかった。日劇とかから出た後に、楽屋口から出ると、ファンが大勢いるんで押されて、メンバーかが宙にういてくんですよ。
あとは、アシベにでたときは、交差点で警察が止めてくれて、パトカーが交通を止めてだすようにしてましたね。
夏木さんはグループサウンズの追っかけだったそうですが、タイガースやテンプターズのような人気があるバンドだとファンが多すぎて話してもらえないので、わざとちょっと人気のないバンドの追っかけになって。そうすると出待ちのとき、しゃべったりしてくれるから、って。
子どもの頃のお話続きます。
誕生日にはカレーライス作ってくれた。カレーライス好きだったから。誕生日はカレーライスの日。その日は僕が好きなそれを作ってくれた。それだけですけどね。それが、唯一の楽しみだった。
ややこしいですけど、兄弟は一番小さいときは8人くらいいましたからね。
ひとりひとりの誕生日にはそれぞれが好きなものを作ってた。
たいしたもんじゃないけど、ふつうの野菜と牛肉が入ってたりとか。
昔はルーとかなかったから、メリケン粉っていうか、小麦粉をちょっと溶いてとろ味をつけるみたいな。
岸部さんが聴きたい曲サティスファクション
↓
流れてるのは、ローリングストーンズのだけど、わたし、考えてみたら、この本家本元のあまり聞いたことないな。
この曲は、やっぱりジュリーとかタイガースので聞きなれてる感じ。
これ、アマチュアのころに京都会館でエレキコンテストというかエレキ合戦みたいのがあって、これを歌って優勝したんです。この賞金5万円でユニフォームを作って、大阪のナンバ一番というジャズ喫茶で出てた。ファニーズの頃ですけど。
カーキ色のミリタリーっぽいやつでしたね。ちょっとビートルズっぽい。
ローリングストーンズにはうまくスケジュールがあえば行くつもりしてるんですけど。特別なバンドなんで。
1967年にタイガースがデビューして、まる4年ですね。意外と短いんですよね。
それからPYGですね。タイガースから僕と沢田、スパイダースから大野克夫さんと井上尭之さん、テンプターズから萩原健一と大口ひろし、その6人でやったんですけどね。
すごいバンドだったんですけど、
すぐ1年くらいで解散しましたけどね。10年続くなんて、まぁ無理でしょうね。
PYGの途中で、ショーケンがやめて、解散してから沢田がソロになって、僕らは井上バンドということで、バックバンドになって、いっしょにやってたんです。
それでまたしばらく沢田とはやってたんですけどね。
当時のあだ名はサリー、のっぽのサリーですね。誰が言い出したのかは覚えてないですけどね。
京都でまだバンドやる前に、ダンスホールとかで踊ってたころにサリー、サリー、って言われてたんです。
そのころはギター持つとか、バンドやるのが流行ってて、そういうのやれば、女の子にもてるだろうと。みんなそうですよ。
沢田はそのあとだけど、4人で歌は歌わないグループをやりはじめて。それが最初ですね。
森本と加橋、ふたりはギターやってたんですよ。瞳と僕はなにもやってなくて。あとドラムとベースがいるということで。
瞳がドラム覚えるわということで。残ってるベースは簡単そうなのでやろうかなと。そんな感じでやり始めたんですよ。
みんなギターやるんですよ、最初。ドラムやベースはみんなやりたがらないんだよね。考えてみたら単純な動機だよね。
タイガースの思い出。
人気は確かにすごかった。日劇とかから出た後に、楽屋口から出ると、ファンが大勢いるんで押されて、メンバーかが宙にういてくんですよ。
あとは、アシベにでたときは、交差点で警察が止めてくれて、パトカーが交通を止めてだすようにしてましたね。
夏木さんはグループサウンズの追っかけだったそうですが、タイガースやテンプターズのような人気があるバンドだとファンが多すぎて話してもらえないので、わざとちょっと人気のないバンドの追っかけになって。そうすると出待ちのとき、しゃべったりしてくれるから、って。