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甲州街道8日目 石和  ▶️   甲府   6.2km 累計 153.2km  2015.3.4

2015-03-04 | 街道歩き

 ゆっくり寝ました。ゆっくり朝飯食べて出発です。甲府まで6km、のんびり歩こう。
石和温泉を出発するとすぐ甲府市にはいります。



 山が見えます。街並みはあまり良くないが南アルプスが見えます。


 この辺り、奈良・平安の昔から行政集落があったそうです。また近辺には多くの古墳
が点在するようです。






 素晴らしい!!おそらく手前は鳳凰三山、奥は北岳、右は甲斐駒ケ岳。懐かしい!!





 電車と甲斐駒、良い写真。


 石和から甲府の間は、だいb開発が進み過ぎて、甲州街道の昔の面影、痕跡が
あまりありませんでした。
ただ酒折宮と甲斐善光寺に出会えたのは感激です。

 まずは酒折宮です。
日本武尊が蝦夷征服の帰りに立ち寄り、歌をよんだ。
連歌のはじまりです。









 ご祭神  は日本武尊〈 やまとたけるのみこと 〉    (72年頃〜113年頃)
       古代日本の国土を平定した日本神話の英雄的存在。第12代景行天皇の皇子で、
       第14代仲哀天皇の父とされています。

 ご由緒  酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。
       記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、

            「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
                 と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が
            「かかなべて夜には九夜日には十日を」
                         と片歌で答えたことが記載されています。
  この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。

     当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに
          「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」
     と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)」(*)を塩海足尼(しおのみのすくね)
     に授けました。

     日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと
     伝えられています。

     * ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で
       叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。
       駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。
       (古事記による)
   以上 酒折宮HPより転載しました。凄い神社に出会えました。





 これはなんだ?本居宣長は読めるが、あとは漢字ばっかりで読めない。
古事記伝を著した人だからか?



 そして次は甲斐善光寺。これが不思議に長野の善光寺のコピーかと思うほど
似ていた。


 調べると
開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、
御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まったようです。
その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、
慶長三年(1598)信濃に帰座したようです。
 
 しかし・・美しいお寺です。







































 今日は酒折宮、甲斐善光寺訪問で、非常に充実感と満足感のあった一日でした。
6kmの行程そろそろ終盤、甲府市街へと入って行きます。



 そして終点、甲府柳町。今回はここまでとします。
次回は3月18日、ここから諏訪湖・下諏訪の中山道と合流地点を目指します。



 甲府駅前です、立派な武田信玄像がありました。締めは”ほうとう”を食べて帰ります。







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