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番外特別編 湯浅家ルーツ巡礼記録2

2018-04-24 | 街道歩き


 湯浅ルーツ第二弾、丹波へやってまいりました。現在は南丹市、我が家の先祖は
どうやら旧住所「京都府船井郡世木村字天若小字中島30番地」らしいということで、
現在で言えば南丹市の天若あたりと思い、下の山陰線日吉駅に降り立ちました。

 まずは駅前で湯浅情報をバスの運転手がうろうろされていたので、何か情報は
ないかと尋ねてみました。するとなんと、なんとその運転手は湯浅さんでした。
これはさい先良しと思い、いろいろ尋ねたが目立った情報なし。日吉町郷土資料館
の交通の便について確認しおわりました。



 次は日吉駅近くにある南丹市役所日吉支所を訪ねました。田舎の支所のわりに
立派な建物でした。先ほどの旧住所を示し、現在の住所に変換するとどこかを
調べていただきました。ちょうど5人くらいの所員の方がおられましたが、全員で
いろんな資料で現在の住所を調べていただきました。感謝です。

 ただ結果は約30年前に日吉ダム、世木ダムが建設され、すでに湖の底とあいなり
残念ですが潜るわけにも行かず、その現在の様子みることかなわず、ただ所員の方々が
当時の写真の掲載された思い出の書籍を見せていただき、写真を撮ることが
できました。



 下の天若湖の中央より少し右あたりに、先ほどの旧住所であろう場所に印をつけ
ていただきました。



 書籍の写真の写真です。写っている人は湯浅とは関係ありません。
ただ、こんな場所に湯浅の先祖が生活したんだと・・今はすべてダムの底です。





 なんとこの書籍の執筆、やはり湯浅さんです。文章の最後に名前が書いてあります。

 この積雪の世木村・・まるで白川郷のよう。


 今の山陰線、こんな電車です。ここ日吉駅は無人駅、時々駅員さんって感じです。

 

 こうして、一旦日吉駅を後に・・明日の日吉町郷土資料館へ。どうやら朝10時10分
のバス一便だけ・・帰りは14:37資料館発しかない。仕方なく朝の便に乗り、
帰りは歩くこととしました。5kmくらい。楽勝です。
 田舎の資料館、博物館は平日は閉まっていたり、人がいなかったりで、情報が
とれないと思い、あえて土曜日に訪れました。
 下の写真が資料館正面です。素敵な自然いっぱいの中に建設したみたいです。
まわりはキャンプ場、運動施設があり、府民の森としていこいの場となってました。
おそらく、ダムが建設されてから建設、整備されたんだと思いました。
ただし、マイカーで来ないとどうしようもない場所です。


 府民の森全体です。


 資料館内部は写真撮影禁止、湯浅五郎兵衛の展示は見ることができ良かったです。

下の家の写真は、天若地区がダムに沈む前に移築された、湯浅家二軒、我が家と
関係あったかどうかは、今としてはわかりませんが、少なくとも我が先祖と交流が
あったんだと信じます。素敵な茅葺き二軒、絵に描いてみたいと思います。



























 ありました。我が家の家紋”九曜紋”です。同じ家紋で安心しました。
16世紀に細川家と湯浅家の交流、婚姻等ご縁があり、細川家よりこの”九曜紋”
の使用を許され今日に至ってます。湯浅には細川家の血が確実に入ってます。
この九曜紋に感激しました。






 懐かしき竈














 この道は湯浅とは関係ありません。ダム湖の展望所に通じています。
近所に住んでいれば、ウォーキングに最適な道です。如何せん横浜からは遠い。



 天若湖と日吉ダムです。








 ここが府民の森の玄関、これより歩いて戻りました。























 これは日帰り温泉と道の駅です。新しいですね。やはりダムを造ってからでしょうか?


 もう一つの訪問地。天稚神社です。ご祭神は天稚彦命(アメノワカヒコノミコト)
です。ダム建設に伴い現在地に移転。眉目秀麗の男神、彦星のモデルとなった神
らしいです。出雲の国譲り神話の二番目の使者です。神霊光臨され、夜毎大光を放たれた
林業と農業の神様だそうです。天若地区にあった神社で天稚と書く。おもしろい。









 見てください。氏子に並ぶ湯浅姓、まさに湯浅の神様ですね。ちょうど宮司さんが
おられました。農業されるような服装でしたが、ここにまたお名前が湯浅、すごい
ご縁です。



 こうして日吉までのんびり歩きました。巡礼に比べれば楽勝です。
もっと探りたいところいっぱいありますが、今回はこれまで。次回は湯浅の
本拠地、和歌山の湯浅町へ。楽しみです。行くときは残った熊野古道、松本峠から
丸山千枚田、熊野本宮へ歩いて、湯浅町へ行きたいと思っています。

 さて、現在山陰線上におります。まだ乗ったことのない亀岡トロッコ電車で
保津峡を眺めながら京都へ戻りました。
 これあトロッコ電車亀岡駅です。大勢のお客さんですが、外人ばかり、そのほとんどが
中国人、日本の駅ではない雰囲気でした。
走る電車の車窓からの撮影、上手く撮れませんでしたがご覧ください。















 さて、京都に戻りました。せっかくなんで我が家の昔の本籍地である伏見稲荷を
訪ねました。相当昔のことなんでうろ覚えですが、この写真の左端の三階建ての
場所だったと思います。少し記憶のある知り合いの家の表札があったので間違いない
と思いますが、せいかくではないかも・・・。長屋のようですが、京都の家屋
間口狭く奥行きが長い。いわゆる鰻の寝床でした。最奥に坪庭とトイレがあったと
記憶してます。中学3年の一年間はここから烏丸車庫(現在の北大路烏丸)まで
京阪と市電を乗り継いで通いました。懐かしい・・・。



 折角伏見稲荷まで来たので、稲荷大社にお参りしようとまいりましたが、
写真の通り、ここもまた外人に占領され、大混雑。千本鳥居を写真に撮り
そうそう退散しました。









 続いて向かったのが醍醐三宝院。何故醍醐かと言うと、去る昔秀吉時代のこと
この醍醐寺で大花見が毎年開催されていたことは有名ですが、秀吉が下の金堂が
ある場所に何も建物がなかったのが、花見時に殺風景と言って、和歌山の湯浅に
あった勝楽寺の本堂と仏像まるごと移築を命令したようです。おそらく湯浅ですので
湯浅党が命令に従い移築したものと思われるので今回訪れました。秀吉・・天下統一
した独裁者ですから、湯浅の面々も言うことを聞くしかなかったことでしょう。
立派な建物です。











 あとは広大なお寺を散歩して帰りました。







 この素晴らしい桜、来年花の季節に訪れたいものです。














 次はおまけの訪問。泉涌寺。楊貴妃観音のあるお寺です。
玄宗皇帝が亡き楊貴妃の面影を写させて造像したの伝承のある木造。
13世紀に南宋から請来したようです。写真が撮れないので、パンフレットの
写真をお借りします。素敵です。























 こうして湯浅ルーツの旅第二弾は終わります。いよいよ次は和歌山県湯浅町へ。
楽しみです。
 最後に湯浅家描いてみました。

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9 コメント

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湯浅時哉 (くろ)
2018-07-03 21:05:57
はじめまして。千葉県在住のくろと申します。
古文書解読が趣味で、最近入手した古文書に
「湯浅時哉」とあったのでネットで調べていて
ここを発見しました。まだ内容までは解読できて
ないのですが、解読できたらコメントしたいと
思います。ちなみに自宅から比較的近いところに
坂東33観音の30番札所、高蔵寺がありますが
ここは鎌足誕生の伝承があります。
http://takakurakannon.com/history 御存知でしたら
すいません。
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情報ありがとうございます (ゆーぼん(湯浅))
2018-07-03 21:57:49
藤原鎌足が千葉出生とは、初めて知りました。奈良は大和国生まれだと、、、。情報ありがとうございます。是非この高蔵寺訪ねてみたいと思います。古文書解読がご趣味の由、さぞかし難しいのでしょうね。小生はブログにあるように巡礼が趣味です。横浜在住です。よろしくお願いします。
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途中経過 (くろ)
2018-07-16 16:51:32
湯浅時哉氏の古文書解読に関する途中経過です。
正直、自分の実力だと武家の古文書は難しい
です。江戸時代の庶民と役場のやり取りの文書、
いわゆる地方文書なら自力でなんとか読める
のですが、武家の出す消息文書はなかなか
やっかいです。時哉氏は肥後細川家初代の
細川忠興の腹違いの兄弟らしいのですが
この文書は時哉氏から細川氏家臣の松井康之
もしくはその息子の興長に宛てた書簡の
ようです。宛先の「佐渡守」の上の部分が
消えていて判読できません。
内容については、今月末に定例の古文書講座
があるので古文書仲間の助けを借りて解読
してみようと思います。
講座の先生も一応学芸員なのですが武家の
文書はほとんど読めないので・・・。
ということでもう少々お待ちください!
返信する
九曜紋 (ゆーぼん)
2018-07-16 18:52:46
 調べると細川家の血が湯浅家に流れているようです。その関係で細川家の家紋の使用を認められたらしい。我が家も九曜紋です。それにしても古文書の解読なんて凄いご趣味ですね。またいろいろ教えてください。
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湯浅時哉 古文書 (くろ)
2018-07-26 16:31:45
お久しぶりです。
時哉(湯浅宗清)が書いたと思われる古文書
ですが古文書仲間の協力を得て8割方読めま
した。
時哉から松井興長(長岡佐渡守)へ
出した文書で間違いないと思います。
慶長5年に細川忠興が豊前、豊後へ転封されるのに伴い、姻戚関係のある家臣、松井康之、興長
親子も九州へ赴きます。しかし、湯浅氏はその
まま丹波世木郷木住に残ります。
その後、久しぶりに帰郷する興長に対して
時哉が出した手紙だと思われます。
積もる話もあるので当地で温泉につかって
ゆっくり湯治して下さい・・というような
ことが書いてありました。
もう少し解読して納得できたら日吉町資料館
に寄贈しようと思います。
また、何かありましたら連絡します。
では!
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Unknown (とし)
2019-01-06 19:08:03
急に昔が懐かしくなり色々調べていたらコチラにたどり着きました。
小さい時に微かに天若と言う所に住んでいた記憶があるのですが、当時を知る祖父母も両親も他界してしまった為、詳しく調べるにはなかなか大変な作業になってしまうので、コチラで懐かしい風景が見れてよかったです。
今でもお墓が成就院と言うダムの側のお寺にあるので、次に日吉に行った時には自分が住んでいた場所について調べてみようと思います。
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コメントありがとうございます (ゆーぼん)
2019-01-06 22:19:06
としさんは姓は同じですか?私の先祖も甘若の出のようです。甘若はダム湖の底でした。残念です。たぶん日吉には親戚がおるのでしょうが、母は亡く、父はボケて、今となってはよくわかりません。また湯浅のいろいろな情報ありましたら教えてください。
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Unknown (親戚)
2019-10-28 20:59:57
こんばんは。はじめまして。私の母は湯浅姓で、日吉ダムの下にならなかった一番端に現在もある家(今は無人)の出身です。あのあたりはみんな湯浅さんで、どこも屋号でよばれていて、母の実家はたまやさんとよばれていました。
祖母も祖父も湯浅姓で親戚だったと聞いています。
私も自分のルーツ探しの旅にでたいと思っております。参考にさせていただきます✨
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親戚さんへ (ゆーぼん)
2019-10-29 08:09:17
 初めまして、書き込み有難うございます。ルーツ探しの旅面白いですよ。是非チャレンジなさってください。本当は家系図等残っていれば確実にたどれますが、如何せん何もありません。でも先祖が住んでいたであろう地を訪問することは、何か言葉にできないような感動があります。その後ネットで湯浅ふるさと会に入会しました。神奈川支部です。来年には湯浅町で総会があるようです。貴殿は入会されているんですか?
https://www.smatu-ssl.com/yuasakai/index.html
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