今年は湯浅家ルーツを巡礼することを目標に歩き始めました。まずは「明恵上人」
湯浅党初代”湯浅宗重”の娘と平重国との子・・孫にあたる明恵上人を訪ねました。
京都 高山寺です。まずは明恵上人が再興した京都は高山寺を訪ねました。
そもそも湯浅党の党首"湯浅宗重"は、もともと藤原宗重が和歌山湯浅を領有して後
湯浅を名乗ったようです。
湯浅宗重は藤原北家の右大臣”藤原不比等”の次男”藤原房前”を祖とします。
藤原不比等は”藤原鎌足”の子、大化の改新を中大兄皇子と実行した人です。
中臣鎌足と当時は呼ばれてました。
よって湯浅の先祖は藤原鎌足となります。
そして明恵上人とは
鎌倉前期の華厳宗の僧。後鳥羽上皇より栂尾山を賜わり、高山寺を創建して
華厳興隆の道場とした。戒律を重んじ、念仏の徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に努力。
著書に『摧邪輪』等がある。
貞永元年(1232)寂、60才。です。
明恵上人のお墓です。
明恵は、「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を座右の銘とし、
人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持つべきなり。僧は僧の
あるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。帝王は帝王のあるべきよう、
臣下は臣下のあるべきようなり。
このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。 と石柱に書いてありました。
高雄山神護寺では、叔父の上覚に師事(上覚は湯浅宗重の四男)のち文覚にも師事。
後、仁和寺で真言密教を学び、東大寺で華厳宗、栄西に禅を学んだようです。
神護寺といえば空海、明恵上人は1173年生まれ、空海は835年生まれ、二人は
出会うことはできませんでしたが、真言密教を学びました。
さて、次回湯浅ルーツ2は我が家の先祖の地、丹波を歩いてみたいと思います。
南北朝が統合されるころ、後亀山天皇が神器を持って入京し、神器を北朝後小松天皇
に譲る時、”湯浅宗朝”は後亀山天皇に従って上京、その功により京都は丹波の
「世木郷」を与えられた。この丹波 世木郷を訪ねます。
湯浅ルーツ3では湯浅党の本拠地和歌山県湯浅町をゆっくり訪ねたいと思って
います。
下の絵は小生が描きました。思い出によいかと・・・。
何よりよくわかります。