山のやまさんの 一日

早朝ウオーキングや野山の散策 その他日々の出来事で デジカメに収めたことを 書き留めます

ヤーコン収穫しました

2010-11-25 10:19:45 | 偉人紹介
昨日は お天気が良かったので 農作業日和でした

田舎で畑を借りて(といっても妻の実家ですが)
春植えた ヤーコンを収穫しました


ヤーコンは ご存知の方も多いと思いますが 
中南米アンデス高地原産のキク科の根菜です。

ヤーコンはキク科の植物なのに いも です 
そしてヤーコンは 芋なのになんと生で食べられるのです

現在食する あらゆる野菜の中で、
最高にオリゴ糖を含んでいる 魅力的な野菜なので
 “オリゴ糖の塊のようなお芋” とも言われています

形はサツマイモに似ていますが、味や歯ざわりはナシのようで
果物の梨に似た シャキシャキとした触感です



6株植えましたが一株が枯れ、5株収穫できました

収穫したヤーコンは 
我が家、畑を貸してくれた妻の実家
一緒にヤーコンづくりにかかわった妻の姉 
の3つに分けました


収穫直後のヤーコンは 白いですが
しばらく寝かせて置くと
サツマイモのように赤くなり、甘さが出てきます

そうなれば食べ頃です
食卓に上る日が待ち遠しいです



同じ畑に 皇帝ダリア も植えたのですが 
生育が遅いような気がします


ここは 山間なので 山に邪魔されて 
陽の光が降りそそぐ時間が短いということもあってか 
まだつぼみです




暖房用のマキの用意もできました
これから寒さも厳しくなりますし、雪も近いので
花が見られるか どうか心配です

福井が生んだ 幕末の偉人 その3

2010-10-31 10:28:37 | 偉人紹介
激動の幕末 福井が生んだ偉人に
 橋本左内がいます


橋本左内は 福井県生まれ、幕末の志士。父は福井藩医です。


大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得し、嘉永5年(1852)帰国。
安政元年(1854)江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友した
帰国後、書院番・藩校明道館学監同様心得などに取り立てられ、
横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となった

安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に仕え、
14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走したが、
井伊直弼の大老就任により挫折。
安政の大獄により江戸で斬首
された人です


橋本左内が、数え年十五の時
偉人、豪傑の言行や精神を学び触発され、
自らを常に奮い立たせるために、
自己の行動規範を五項目に渡って記したものが
「啓発録」

単なる覚書のようなものではなく、この誓いこそが 橋本左内の一生の出発点であり、
後に傑出した先覚者となるための礎となりました。

読まれたことありますか?

概要は、
稚心を去る(去稚心) 
子どもじみた甘えを脱却せよ。

気を振う(振気) 
恥辱を知って、人に負けまいと強く決意せよ。

志を立つ(立志) 
自分の目標を揺ぎなく定め、ひたすら精進せよ。
 
学に勉む(勉学) 
優れた人物の立派な行いを見習い、実行せよ。
 
交友を択ぶ(択交友) 
自分の向上につながる友を択(えら)べ。


それぞれに詳しい文がありますが、それはまた後日 順次ご紹介したいと思います

みなさん ぜひ一度読んでみてください
講談社から 橋本左内:著 伴五十嗣郎:翻訳で「啓発録」という本が出ています
   ちなみに 924円  です

福井が生んだ 激動期の偉人(岡倉天心)

2010-10-28 11:10:42 | 偉人紹介
先日に引き続き 福井市中央公園にある像から
「福井が生んだ激動期の偉人」紹介のパート2です

日本美術院の創始者 岡倉天心 の像です
福井市中央公園の北西の角に建立されています


岡倉天心は 福井藩士の子。横浜生まれ。東大卒です。

文部省に出仕し、大学時代の師フェノロサらと国内外に出張。
東京美術学校開設準備にあたり、
明治23年(1890年)から同校校長を務めました。

8年後の明治31年天心36歳の時、
学内に天心排斥運動が起こり、
同校校長を辞任します

天心に殉じて学校教授を辞任したものは、
橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など
17名の多きに及んだということです  

天心は自分に殉じて辞職した者を中心に
「日本美術院」創設を計画、
同年10月15日には東京谷中で「日本美術院」の開所式が挙行されました