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極秘のエリートスパイ部隊の素顔が明かされる!「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」

2011-06-26 00:24:15 | 成功するための教養本
陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後
筆者/斎藤充功 出版社/角川文庫 552円

◆目次
序章 秘密戦士たちの留魂祭
 留魂祭に集う老戦士たち
 真実の姿を追う旅
 戦死率13.6%
 諜報員たちの戦後史

第1章 陸軍中野学校とは
 中野交友会
 「中野は語らず」
 創成期の中野学校
 戦争中期の中野学校
 “後方勤務要員養成所”開設の経緯
 不明者はどこへ行ったのか
 終戦前後の動き 

第2章 知られざる中野学校秘話
 神戸事件と伊藤少佐
 神戸事件と中野学校
 いま明かされる真相
 一期生の手紙
 「十年早ければ…」
 刑死した卒業生
 中野学校の終焉  

第3章 “戦犯”となった卒業生とGHQ潜入工作
 中野学校一期生
 上海の軍事法廷に立って
 モノクロ写真が語る外地勤務時代
 油山事件
 事件の真相とは
 処刑実行者の告白
 GHQ潜入工作
 遊撃戦教育と泉工作
 占領軍監視地下組織
 なぜ潜入したのか
 “国家の秘密”

第4章 下山事件との関わり
 下山事件
 情報提供者
 アメリカに住む中野学校卒業生
 GHQのインテリジェンス・ビル
 奥山を訪ねて
 点と線を結ぶ
 事件をさらに追う
 遠のいた核心
 
第5章 幻の教材発掘
 六十年ぶりの発見
 吉原国体学
 原資料にみる中野学校の教育
 現代にも通用する教育 

第6章 陸軍中野学校と戦後諜報機関
 自衛隊調査学校をつくった中野関係者
 引き継がれた中野学校の教育
 三島由紀夫と山本瞬勝
 卒業生の失敗談
 内閣調査室に伝説を残した男

第7章 「最後の抑留者」の証言
 中野学校卒業生に間違われた「最後の抑留者」
 中国での謀略工作
 深谷と望月の関係
 中国の核実験情報
 
終章 陸軍中野学校の戦後を追って
 歴史は遠く
 中野学校終焉の地
 中野学校を追い続けて
 
追補 皇統護持本丸作戦
 


いつの時代も、情報戦が勝敗を決するのは世の東西を問いません。

日本国家の「情報収集」と「分析」を担う人材を育成するために設立されたのが、この陸軍中野学校です。

この本は、日本の戦争遂行の中での報収集分析機関の位置づけと戦後を考察する格好の資料だと思います。

印象深かった箇所を、いくつか紹介します。


◆第一章 陸軍中野学校とは

教育の方針は学生の性格や学歴、職歴に留意し、一定の鋳型にはめ込まないように注意し、情報勤務に必須の資質、精神、術科の教育を行った。フリートーキング式の研修が多く採り入れられ、寺子屋式人間教育が中野のスタートであった。(※中略)

櫻は創成期にあたる後方勤務要員養成所時代の教育を「寺子屋式人間教育」と記しているが、学生は実地教育を名目にバーや待合などにもよく出入りしていたようだ。その辺りの事情を一期生の阿部直義は手記に遺している。

「バーに遊びにいくと一回平均十円くらいであった。電車賃が七銭の頃十円で、給料は七十円八十銭だから七回も遊びにいくと煙草銭もなくなる。喫茶店に行くし、映画館へも行き、ビアホールにも行くので「バー」等へ何回も行けるわけがない。

しかし、私は、給料が入って十日も過ぎた頃、電車賃もなくて四キロほどあるいたことがある。金がなくても、寝るとこはあるし、食の心配もないので、お金をパッパと使っても平気でいられたのである。」

秋草所長はなんともユニークな実地教育を学生に施したものである。これは学生から軍人色を消すためだったそうだ。遊びの時はもちろん、背広に長髪姿であった。


陸軍中野学校の一期生

また手記には給料にも書かれている。学生とはいえ、一期生も軍人である。当然、俸給は陸軍省から支給されていたわけで、阿部は七十円八十銭をもらっていた。昭和十三年当時の高等試験に合格して役人になった大学卒の初任給が七十五円。それと比べても、阿部の俸給は決して低い額ではなかった。そのうえ衣食住は保障されていたので、独身学生は存分に遊びの実地教育を堪能したのではあるまいか。


中野交友会編纂の校史『陸軍中野学校』

こうした謀略・諜報工作で、一部の関係者ではあったが、諜報員たちは隠密裏に活動していた。

これらの工作活動には、中野学校で徹底的に叩き込まれた実践教育が役に立った。中野学校での実践カリキュラムは、「潜入、潜行、偵察、候察、偽騙、謀略、宣伝、破壊、通信、暗号」などの訓練であった。それと、中野学校ならではの特殊な教育として、一般教養基礎学と専門教育の座学が充実していた。

学校のモットー「謀略は誠なり」を実行するための「無私」と「誠」の精神を国体学と思想学で徹底的に教育され、外にも心理学や統計学を学んでいる。また、兵器学や築城学、航空学、それに自動車、戦車、航空機の操縦法や長短波無線の操作まで学んでいた。

さらに諜報員として外国事情を知ることは必須になっていて、米国、英国、ソ連、中国、ドイツ、イタリア、フランス、東南アジアなど広範囲にわたる地域の文化や民情、歴史を学んでいる。当然、派遣先の国の言葉として、英語、ロシア語、中国語、マレー語、ペルシャ語などが教えられていた。(※中略)

専門学科では、諜報員に必要な秘密通信法、防諜技術、暗号解説、武器の取り扱い、射撃などを学んでいた。なかでもユニークなカリキュラムとしては、忍法研究科による忍術講座や警察教官による犯罪学や法医学の講座までも用意されていたという。

術科では柔剣道や合気道はもちろんのこと、諜報技術の一環として、ヨード法や赤外線還元法による文書の作成、超小型カメラによる盗写技術、あるいは郵便物の開かん法、開錠術、変装術なども映画撮影所で役者から直接学んでいた。これらの謀略・謀報器材は陸軍登戸研究所で試作、開発されていた。


◆第三章 “戦犯”となった卒業生とGHQ潜入工作

小俣は「終戦秘話」に、ESSに潜入したときの様子を書いていた。

「仕事は、三十三台のパンチカードに英文で書かれた各種の資料を打刻する日本人女性の監視及び資料の流出防止であった。元来、この仕事に甘んずる意味がなく夜勤には黒人のMP(米軍の憲兵)の寝ている間に資料を盗読する事は怠らなかった」(※中略)


陸軍中野学校の卒業生は戦後各方面で活躍した

「昭和二十年八月十五日)午後四時から、将校一人一人校長(山本敏少将)に呼ばれ、坂本中佐立ち会いの上、将来のことについて内示あり。工作費について金一封宛てを、又秘密通信用として、インク及び特殊便箋が渡された。

この金こそ、太郎良君たちが話していたもので、参謀総長は将来の国家再建秘密工作資金として、中野学校に一括交付、坂本中佐が代表して受領した金だったと思う」(中野校友会会誌 第二九号)


最後に著者のプロフィールを、以下に記します。

◆斎藤充功(サイトウミチノリ)
1941年東京都生まれ。東北大学工学部中退。国際機械振動研究所勤務を経てノンフィクションライターに。新聞、雑誌などに社会問題の分野でルポを執筆。著書に『ドキュメント謀略戦-陸軍登戸研究所』『伊藤博文を撃った男-革命義士安重根の原像』他多数。


◆リンク集
・陸軍中野学校-ウィキペディア
・陸軍中野学校(映画)-ウィキペディア
・陸軍中野学校シリーズ/RAIZO

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