アンドレ・アガシは負け続けていた。強烈なリターンショットと見事な反射神経を武器に、プロテニス選手として輝かしいデビューを飾ったのは86年のこと。それが90年代に入ると卜-ナメントの早い段階で敗退するか、勝ち進んでも優勝には手が届かないことが続いた。
94年3月、アガシはマイアミ・マスターズの決勝戦で再び敗北を喫した。相手は大会直前に食あたりで出場を危ぶまれたほど体調が悪かったピート・サンプラスだった。
いら立ったアガシは、新しいコーチ候補のブラッド・ギルバートに会ってみることにした。ギルバートは当時まだ現役選手で、成績はぱっとしないけれど、大物選手を相手にときどき大金星を挙げていた。
アガシはそのプレースタイルをあまり好きではなかったが、当時出版されたばかりのギルバートの著書『格好悪く勝つ――テニスにおけるメンタルな戦い』は大きな話題になっていた。アガシは彼に、自分のプレーの正直な評価を聞きたかった。なぜ自分よりもテクニックが劣る選手に負け続けるのか――。
ギルバートは完璧なプレーをしたがるアガシを厳しく批判した。強烈だが難度の高いショットを毎回打とうとするのではなく、取りあえずボールを返して、相手がミスするのを待てばいいではないか、とアドバイスした。
「頭の問題だよ」とギルバートは言ったと、アガシは自伝『オープン』で書いている。「君ほどの才能があれば、テクニックは50%しか使わなくても、頭脳を95%使えば勝てるだろう。逆にテクニックを95%発揮しても、頭脳を50%しか使わなければ負け続ける」
アガシはその場でギルバートを雇うことに決めた。そして彼の言うとおりプレースタイルを全面改造し、5ヵ月後に挑んだ全米オープンで初優勝した。
「喜びでひざまづいた」とアガシは、優勝の瞬間を振り返っている。
「涙がこぼれそうな目でボックス席を見た。……そのときブラッドが私のために純粋に、手放しで喜んでくれているのを見て、私も彼を無条件に信じようと思った」
アガシは変わった。トレードマークだった長髪もやめて坊主頭にした。95年の全豪オープンでアガシはサンプラスを破って優勝し、初めて世界ランキング1位に輝いた。その後もアガシは、長いキャリアの中で再び何度もの敗戦を経験することになる。だが、確かにアガシは勝つ方法を学んだ。
大学院でホルモン調査
果たして勝者と敗者を分けるものは何なのか。
スポーツの世界では、勝者には敗者にはない身体的特徴や技術があると言われがちだ。現在、男子プロテニス界で快進撃を続けるノバク・ジョコビッチを見れば、そう言いたくもなるだろう。
だが身体的な優位がすべてではない。「トップクラスの才能を持つ人間は、実際の勝者よりもずっと多い」と言うのは、テニスやゴルフのメンタル面について複数の著書があるティモシー・ガルウェイだ。
「勝者は自分の邪魔をしない。自分の能力が素直に発揮されるようにする。そのためにまず、自分に対する疑いや不安を克服している」
つまり勝利の秘訣は身体的な能力を超えた領域にある。もちろんテニスやチェス、戦争などすべての分野に共通する勝利の遺伝子や脳のスイッチがあるわけではない。けれども神経学者や心理学者たちは、専門分野を超えて「勝つ」とは何かを理解し始めている。勝利には脳内化学物質や社会理論、そして経済学も関係しているという。
そこで見直されているのが、優位性という概念(勝利という言葉を学者的に言うとこうなる)だ。長い間、優位性は主にテストストロンという男性ホルモンが働いた結果だと考えられてきた。テストストロンが多いと複数の領域で勝利する可能性が高まる、というのだ。
しかし昨年8月、テキサス大学とコロンビア大学の研究者たちが、テストストロンがうまく働くのは、少量のコルチゾールという別のホルモンによってわずかに抑制されたときだけであることを発見した。また血中のコルチゾールが多過ぎる場合、テストストロンは勝利を妨げる働きをするという。
コロンビア大学経営大学院では、学生たちにテストストロンとコルチゾールを調整する方法を教えている。コルチゾールを減らすには全粒粉を摂取してコーヒーを飲むのをやめること。テストストロンを増やすにはウエートリフティングをしてビタミンBを摂取すること。重要な勝負の前に特定のポーズを取ることで、両ホルモンの量を一時的に調整する方法――。
理想的なリーダーは「物静かだが、優位に立ちたいという衝動を持つ」と、同大学院のポール・イングラム教授は言う(アップルのスティーブ・ジョブズCEOが新製品を発表する姿を思い描いてほしい)。それは男女ともに言えることであり、有利な契約を勝ち取ったり、昇進
を勝ち取ることにもつながる。
チェス世界王者の心理戦
勝利に関する新しい科学は、過去の勝者に再び脚光を当てる。例えば、思慮を重ねた攻撃で対戦相手を粉砕した史上屈指のチェスプレーヤー、元世界王者ボビー・フィッシャーの脳の血流をのぞくようなものだ。
「フィッシャーには相手を滅ぼしたいという容赦ない欲望があった」と、新作ドキュメンタリー『世界を敵に回した男ボビー・フィッシャー』のリズ・ガーバス監督は言う。
「相手をいかにイライラさせるかということに快感を感じていた。そのやり方はサディズム的だった」
72年に開催された世界選手権で、ソ連のボリス・スパスキーを破って世界王者に輝いた伝説の対戦を前に、フィッシャーは徹底的なウエートトレーニングと持久力のトレーニングに励んだ。握手でスパスキーの手を砕いてやりたいと、トレーニングのコーチに話していた。
対戦が近づくにつれてフィッシャーは躊躇するようなそぶりを見せ、なかなかレイキャビクに行かなかった。次々に奇怪な要求を出し、試合が始まる前から相手をいら立たせた。
「心理学は信じない」と、フィッシャーは心理戦について語っている。「私が信じるのは(チェスの)いい手だ」
世界が注目するなか、フィッシャーはようやく試合会場に現れた。そして五分五分の対戦成績で迎えた第6局、フィッシャーはいつもの戦術を裏切る初手でスパスキーを驚かせた。
その後は畳み掛けるように攻撃した。スパスキーは立ち直れず、続く15局で辛うじて1勝を挙げただけ。フィッシャーの実力と彼の精神力にテストステロンとコルチゾールが加わり、王者の座を勝ち取った。
勝負のスリルを疑似体験
勝利より大きな褒美があるとしたら、相手の敗北だ。独ボン大学の経済学者による実験では、課題を達成した被験者に報酬を与えた。すると他の被験者が失敗したり成績が悪かったりした場合のほうが、報酬に対する喜びが大きいことが分かった。
この結果は、人間の最大の動機は報酬であるという従来の経済学の理論を覆し、神経経済学における勝利の社会勤学という新しい考察につながる。神経経済学は、神経科学や経済学、認知心理学に基づいて人間が選択する仕組みを解明する新しい学問で、特に非合理的な選択に注目する。
神経経済学には、脳内における喜びと、見返りを期待する気持ちに大きな影響を及ぼすドーパミン系に関する研究が多い。ドーパミン受容体は、テニスボールがラインの内側に落ちるか外側に落ちるかといった確率に反応し、ある結果がどのくらいの確率で起こり得るか、あるいは起こり得ないかを推測すると考えられている。
なるほどと思うだろう。だから第1シードの選手が無名の挑戦者に勝ってもあまり盛り上がらないが、下馬評をひっくり返す勝利には大いに興奮するというわけだ。
期待をめぐる似たような心理的駆け引きはアスリート自身の脳内でも行われていると、デューク大学神経経済学研究所のスコット・ヒューテル所長は言う。オリンピックのメダリストの満足度を比較すると、もちろん金メダリストが最も高い。しかしヒューテルによれば興味深いのは、2番目に満足するのは銅メダリストで、銀メダリストが最も取り乱すことだ。
「人間の脳は常に、起こり得たことと実際に起こったことを比較する。銅メダリストは『メダルを取り損ねるところだった。表彰台に上がれるなんて素晴らしい』と思うだろう。銀メダリストは、金メダルを取れなかった原因をあれこれ考える」
なぜ私たちはこれほど勝者を賛美し、彼らの戦いが見ている私たちの幸福感を大きく左右するのか。それは私たちが脳のどこかで、自分も戦いの最中にいると重ね合わせているからだ。
米大統領選の投票が行われた08年11月4日に、デューク大学とミシガン大学の神経科学者は有権者のグループにガムを配った。投票が締め切られた午後8時と、バラク・オバマの当選が発表された午後11時半の2回、かみ終わったガムを回収し、テストステロンの量を測定した。
普通は夜11時半にもなればテストステロンは減る。しかしオバマの支持者は減っておらず、対立候補ジョン・マケインに投票した人々は急減していた。
研究者はこのことから、勝利を自分のことのように感じる期待は、実際に競争する人の期待を反映していると考えた。アメリカンフットボールやバスケットボールを観戦しているときも、アガシの熱戦やアメリカ生まれのフィッシャーが冷戦時代にソ連の強敵を次々に倒した激戦を見守るときも、同じことが起きている。
私たちはなぜ勝者が好きなのか。それは勝者に重ね合わせて自分を愛しているからだ。
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