goo blog サービス終了のお知らせ 

ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ メルマガ発行10年目と秩父34所観音巡礼を終えて考えたこと!!

2010-05-05 16:48:17 | Weblog

 2001年5月5日に第1号のメルマガを発行して、今日で10年目を迎えました。今回
のメルマガが318号ですから9年間で317号を発行した計算になるので、年平均35号
を発行したことになります。よくもまぁここまで続けられたと自分でも驚いています。

 何事もこつこつと積み重ねると、ある時に形としてまとまるものだと思います。過去発行
したメルマガの中で自分でも内容的に気に入っているものがある程度ありますので、時期が
来たら内容を再度精査し、まとまった形の本にでもしようと思いながら今日まで来てしまい
ました。しかしある程度の年齢に達したし、そろそろ本当に実行に移さないと未完成のまま
終わってしまうのではないかと危惧しています。

 過去9年間の内容を振り返って感じることは、根本的な考え方に変わりはありませんが、
物事の見方というか視点が変化してきたと思います。昔はどちらかというと自分勝手なもの
でしたが、現在は人生の終着点がおぼろげに見えてきた年齢に達したこともあり、普遍的な
よりどころに立って意思決定する動きとなってきています。現在の大きな支えが仏教である
ことは間違いない事実です。

 それまでは、自分自身が哲学だなどと生意気なことを考えていましたが、仏教を少しずつ
学ぶことを通じて物事に対して偏ったり、拘ったり、囚われたりしないことが重要であるこ
とに気づくと、生きること自体に感謝する気持ちが自ずと出てくるようになりました。

 人間が住む世界にはいろいろな宗教がありますが、仏教ほど広い考え方で対応するものは
ないと思います。数年前までは宗教に興味を持たない人間でしたが、いまやひたすら仏教を
よりどころとして生きているだけでなく、4月下旬の日曜日に秩父34所観音巡礼を全て終
えました。

 昨年の10月から巡礼を始めてから半年の間に8回秩父を訪れ、延べ100kmの巡礼古
道を歩きました。室町時代以降にどれだけの人が、自分が歩いている同じ巡礼古道を歩きな
がら何を思ったのかを考えると、一挙に自分が室町時代や江戸時代にタイムスリップしたよ
うな感覚に陥りました。

 また、ある時は田圃の畦道をまたある時は国道を、そしてまたあるときは江戸時代の巡礼
古道で熊が出ると言われた沢沿いの山道やアップダウンの厳しい修行道のような山道を歩き
ました。

 特に山道では誰にも会うことなく独りでただひたすら歩きました。「同行二人」とはこの
ことだと思います。俗世間から遮断されたこれらの巡礼古道を歩きながら思ったことは、何
事も精一杯取り組んだあとは、祈ることを通じて自分を信じることしかなく、またそのこと
が非常に重要であることに気づきました。

 愚妻に作ってもらった握り飯を頬張りながら、ポットに入れた暖かいほうじ茶を飲むとき
のあの美味しさは、どんな高級料理にも勝るものです。贅沢で余分なものをすべて削ぎ落と
したシンプルであるがゆえの純粋な美しさとして、表現できるのだと思います。音楽で言う
とより多くの音で構成される音楽ではなく、シンプルな構成となっているモーツァルトの音
楽そのものです。

 今回初めて観音巡礼にチャレンジし、巡礼しながらいろいろな経験をし以前よりも精神的
に成長したと感じています。今後は武蔵野33所観音巡礼と坂東33所観音巡礼を通じてさ
らに人間的に成長したいと感じています。今更ですが仏教は偉大であると思います。合掌

■ 紀尾井シンフォニエッタ東京演奏会を聴いて(紀尾井ホール)♪♪

2010-05-02 20:23:26 | Weblog

 4月2日に紀尾井ホール開館15周年記念演奏会に出掛けました。演奏は室内オーケスト
ラの「紀尾井シンフォニエッタ東京で、指揮が高関健、ソプラノ:天羽明恵、ピアノ独奏:
田部京子で、演奏曲目はJ.シュトラウス2世:ワルツ「春の声」作品410、モーツァル
ト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」、マーラー:交響曲第4番ト長調で
した。

 これまでに紀尾井ホールでコンサートを聴いたのは、今回が2回目でした。こじんまりと
したホールで音が良く響くホールの印象を持っています。今回のコンサートに出かけたのは
モーツァルトのピアノ協奏曲を聴きたいとの思いがあったからです。さらに田部京子のピア
ノをいままで聴いたことがなかったので、是非とも聴きたいと思い紀尾井ホールへ出かけま
した。

 指揮者もまた室内オーケストラも今回初めて聴く組み合わせでしたので、とても期待して
いました。最初の曲であるJ.シュトラウス2世のワルツ「春の声」は、とても楽しく聴け
たので、モーツァルトとマーラーにも必然と期待が高まりました。

 ピアニストの田部京子に関して、現在までの演奏経歴をプログラムで読みましたが、凄い
経歴の持ち主で常に高い評価を得ているとのことでしたたので、どのようなモーツァルトを
聴かせてくれるのか楽しみにしながら曲が始まるのを待ちました。

 ところが、モーツァルトのピアノ協奏曲が始まって田部が引き出したモーツァルトは自分
がイメージしていたモーツァルトと異なりました。モーツァルトの曲なのですが、内容がモ
ーツァルトらしくなく、さらに田部の演奏が通り一遍の内容でがっかりしました。

 有名なオーケストラとの共演があり、かつCDを30枚程度出している演奏家であるのに、
なぜこのようなモーツァルトの弾き方なのかと思いました。極端な良い方をすれば感情が殆
ど入っていない表面的な演奏だといえると思いました。

 音の強弱や感情に従ったリズムやさらに楽想の微調整がなく、ただひたすらに楽譜通りに
弾いている印象でした。このような印象を持ったのは、以前にNHK交響楽団でラフマニノ
フのピアノ協奏曲を弾いた中村紘子の演奏と同じ感覚を持ちました。

 田部ですが、モーツァルトではなくシューマンやシューベルト、メンデルスゾーン等の作
曲家の音楽の方が会うのかも知れません。折角才能があるのですから、それを最大限に発揮
する曲を選択すべきだと思いました。今回の演奏を聴きながらピアニストに合う作曲家は確
実にあることを痛感しました。

 最後の曲はマーラーの交響曲第4番でしたが、いつもお話しているようにマーラーの曲を
演奏する際には結果は良かったかあるいは駄目であったかの2極化に落ち着きます。今回は
残念ながら後者の方でした。

 折角ソプラノの天羽明恵が良かったのに、高関健の指揮による紀尾井シンフォニエッタ東
京のマーラーは退屈な演奏内容になりました。問題は、弦楽器のヴァイオリンのパートにあ
るような気がしました。音が一つになっていない響きだったのです。

 多分エキストラを入れた分だけ意思の疎通が完全に取れるまで行かない状態で本番を迎え
たような印象を受けました。演奏が終わった際の拍手はかなりありましたが、聴衆は本当に
あのマーラーの演奏に満足したのでしょうか。儀礼だけの拍手は演奏する側にもまた聴く側
にとっても不幸な結果を招くことになります。

 アンコールは、グスタフ・マーラー:歌曲集「子供の不思議な角笛」から「ラインの伝説」
でした。皮肉なことにこの演奏が力が入らない点が良かったのかもしれませんがこの日の演
奏の中で最も良かった内容でした。

 演奏後、四谷の駅まで歩きましたが、ちょうど桜が咲いており金曜日の夜もあっていたる
ところで夜桜を見ながらの宴会が開かれていました。夜桜は綺麗で美しかったですが、モー
ツァルトのピアノ協奏曲が花開かなかったことが残念でした。

■ 東京都交響楽団第697回定期演奏会を聴いて(東京文化会館)♪♪

2010-04-30 00:01:59 | Weblog


 先週の木曜日に東京文化会館で行われた東京都交響楽団第697回定期演奏会を聴いてき
ました。演奏曲目はモーツァルト:ピアノ協奏曲第17番ト長調K.453とエルガー:交
響曲第2番変ホ長調作品63です。指揮はジェームズ・ジャットで、ピアノは相沢吏江子で
した。

 東京文化会館は青春時代によくコンサートを聴きに行ったホールで、当時はこの東京文化
会館しかなかったような記憶があります。このホールは良い音の響きが感じられるホールで
NHKホールより良い音がするので好きです。

 今回この演奏会に足を運んだのは、モーツァルトのピアノ協奏曲があるのと、エルガーの
曲があったからです。エルガーはどことなくブラームスの香りがするので好きな作曲家です。

 2曲とも演奏内容に関しては、満足しました。モーツァルトのピアノ協奏曲を弾いた相沢
吏江子ですが、今回初めて聴きましたがモーツァルトの曲なのにモーツァルトではないよう
な、でもある部分は思いっきりモーツァルトで、とても不思議な演奏をするピアニストだと
思いました。

 聴いていて才能があることははっきりと分かりますが、どの部分がどのように素晴らしい
のかを言葉で表現するのは難しいのですが、敢えて言うのであればある極限までモーツァル
トの音を持って行き、それ以上にすると明らかに全体が崩れてしまうぎりぎりの演奏をする
ピアニストだと感じました。

 また、彼女の演奏を聴いていて、今まで経験したことが無いような新たなモーツァルト像
が浮かんでくる感じがしました。常にドキドキしながら緊張感を持って聴くことができ、大
いに楽しめました。個人的には、モーツァルトでなく現代音楽の分野がぴったりとするピア
ニストではないかと思った次第です。

 一方、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番は、それまでのピアノ協奏曲と異なる雰囲気
を持つ曲で、モーツァルトがさらに大きく成長したことを現わす内容となっている感じがし
ます。別の表現をするのであれば充実感が味わえると言ったらよいのでしょうか、何かレベ
ルが高い感じを受けるのです。

 エルガーの交響曲ですが、どの楽章もエルガーと分かるような楽想で、4楽章間の重み付
けもあまり感じられず、全ての楽章が独立しているような感じを受けました。また、エルガ
ー独特の哀愁を帯びた流れや、さらに引き締まる感じの部分があり、リズムと音色が作る音
楽の世界感を楽しむことが出来ました。

 指揮者のジェームズ・ジャットは、以前NHK交響楽団を振ったときに聴いたことがあり
ますが、ヨーロッパで活躍している指揮者でバランスのとれた音楽を作る指揮者だと思いま
すし、今後期待されている指揮者だと思います。

 また、東京都交響楽団ですが、久しぶりに聴きましたが弦楽器が良く鳴っているし、演奏
者のレベルも高いと思われました。今後モーツァルトを演奏するプログラムがあったら必ず
聴きに行こうと思いました。

■ 尊敬する恩師の死と秩父34所観音霊場巡り!!

2010-04-29 21:21:06 | Weblog


 先日、私の尊敬する恩師が94歳で亡くなりました。4月だというのに冷たい雨が降る中、
通夜に参列し先生を偲びました。先生との出会いは、学生の時に電気磁気学を受講した際の
教授であり、さらに電波工学研究室のゼミで電波工学を学んだ際の担当教授であったことで
す。

 外見からは非常に優しい印象を受けますが、授業やゼミの時は非常に厳しい先生でした。
先生がもっとも嫌いであったことは、一生懸命に取り組まず手を抜くような行為であり、こ
のようなことをした学生に対しては、激怒されたことを今でも思い出します。

 ただし、真面目で一生懸命に前向きに取り組む学生に対しては、出来が悪くても褒めてく
れる先生でした。何を隠そうこの私は、成績は悪かったのですが、電波が好きで真面目にそ
して前向きに取り組んでいたので、先生からは可愛がられた学生であったと思っています。

 人間って不思議なもので、他人から可愛がってもらえている事を実感できると、何事でも
一生懸命に取り組むものです。褒めたり優しくしたりすることの重要性をこの先生から学び
ました。

 先生はお酒が弱いにも関わらず、ゼミで飲み会を設定すると必ず出席しさらに多大な寄付
までいただくなど、幹事としてとても助かった思い出があります。学部を卒業し就職するか
大学院へ行くか悩んだ時に、先生に相談したところ大学院で勉強するのであれば学内推薦を
してあげると言われ喜んだことが、昨日のように思い出されます。

 結局は大学院へ行かず就職したのですが、就職の時も学校推薦で内定した会社を最終的に
断り、先生が大学に来る前に居た会社に入社しました。当時世の中では、会社が指定する大
学の学生が優先的に入社出来る指定校制度がありました。

 一流の大学を出たものは苦労をせずに一流の企業に入社できるシステムが公に存在してい
ました。どんなに優秀でやる気がある者でも、この指定校になっていない大学の学生は一般
公募の枠が設定されていればそれを受けるしか入社する手段はないのです。

 2流の私立大学にいた私は、この指定校制には泣かされましたが、当時はそのような制度
が当たり前で、誰も疑問に思いませんでした。

 先生の出身会社を一般公募枠で受験し、1次試験をパスし2次試験に進む際に人物推薦書
の提出が必要となりましたが、既に学校推薦で内定が決まっていた会社があったので、学校
から新たな人物推薦書をもらう事が出来ない状況でした。

 困った挙句の果てに先生に頼みに行きましたが、当時先生は就職担当でしたので学校推薦
で入った会社を断ることはルール違反になるので駄目だろうと思っていました。しかし先生
は暫く考えた後に、先生個人による非公式な人物推薦書を書いて渡してくれました。

 この先生の非公式な人物推薦書を携えて2次試験に臨みましたが、面接官の中に先生を知
っている方が多くいた関係で何の問題もなくスムースに終わりました。そして、この会社か
ら内定通知をもらった際に、先生に報告に行った時は満面の笑みで非常に喜んでくれました。

 今の会社で採用の仕事にも携わっていますが、学校には拘らず人物本位で採用し少しでも
公平性を保つようにしています。このような考えの背景には、自分が経験した指定校制に対
する疑問があったのは事実です。多くのチャンスを与えることが今後とも企業としての責務
だと思っています。

 社会人になった後に先生にお世話になったのは、結婚する際に仲人をお願いしたことです。
当時の結婚は、仲人を立てて執り行うのが通例でした。会社の上司にお願いすると後々まで
いろいろな関係で大変になりそうだったので、迷わず恩師にお願いした次第です。先生の家
へ愚妻とともに仲人のお願いに訪問した際には、いつものようににこにこしながら一つ返事
で受けていただいた日の事を思い出します。

 その後は、数年に一度開催されるOB会でお会いしたり、最近では年賀状を通じての挨拶
だけになってしまいました。年賀状にはいつも先生のコメントが几帳面な細かい文字で書か
れているのを読むのが楽しみでしたが、これからは先生のコメントはありません。少し寂し
い気持ちです。

 先週の日曜日に、秩父34所観音霊場巡りを終えました。最後の34番札所でこれまでの
先生への感謝の気持ちを持ちながら、今後は自分が先生から学んだ大切なものを後輩に教え
なければならないと新たな決意でこれから取り組んで行くことを誓うとともに、先生のご冥
福を祈りました。

 今こうして自分があるのは、先生のお陰だと思っています。先生と出会う事が無ければ、
今の自分の人生はあり得ないと思っています。先生本当にありがとうございました。合掌

■ 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団演奏会を聴いて(ティアラこうとう)♪♪

2010-04-18 17:30:16 | Weblog
 先週、「ティアラこうとう」で開催された東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団演奏
会を聴いてきました。初めて聴くオーケストラでしたが、目的は単純でモーツァルトの交響
曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」とレクイエムK.626が演奏曲目にあったから
です。指揮者は、飯守泰次郎でした。

 人生の時間が残り少なくなってきているので、コンサートを聴きに行く基準として、演奏
曲目にモーツァルトの作品があるかないかで決めるようにしています。限られた時間の中で
出来るだけ良いモーツァルトの演奏を聴きたいという言わば我儘な判断ですが、どうしても
納得の行くモーツァルトに出会いたいというのが、正直な気持ちなのです。

 過去にモーツァルトのレクイエムを演奏会場で聴いたのは1回だけで、それもNHKホー
ルで行われたアーノンクールの指揮によるもので、演奏はウィーン・コンツェントゥス・ム
ジクスした。

 その時の聴いた印象ですが、とても上品で清楚でどちらかというと美しいレクイエムとい
った方が適切かも知れません。個人的には淡白なものではなくもう少し劇的なものを望んで
いたのですが、アーノンクールは淡々と演奏していました。その後、現在までレクイエムを
聴くチャンスがなかったので、今回期待して聴きに行った次第です。

 飯守泰次郎の演奏ですが、昔学生の頃に良く聴きに行った読売日本交響楽団を指揮してい
た若い飯守泰次郎の印象が今でも強く残っています。今回数十年振りに聴いた飯守の指揮で
すが、良い意味での年齢を感じさせる内容になっていました。

 プログラムは先ほど示したモーツァルトの2曲のほかに黛敏郎の「弦楽のためのエッセイ」
の3曲でした。生意気な言い方ですが、演奏内容は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽
団の実力を考えると、それなりの演奏になっていましたが、個人的に望んでいた重厚あるレ
クイエムにはなっていないものでした。

 曲の出だしの弦楽器の部分の扱いはもっと丁寧に慎重に処理して欲しかったし、盛り上が
るべきところは全力の音を出してほしかったと思います。個人的にはモーツァルトのレクイ
エムは全てを出しつくし、また燃え尽きて何も残らない中にぽっかりと空虚なものが心に残
る演奏が理想だと考えています。アーノンクーも今回の飯守泰次郎も、そのような内容のも
のではなかったのが個人的に残念な限りです。

 また、最近のオーケストラの傾向だと思いますが、弦楽器奏者の多くが女性が占めている
ことです。決して女性の演奏が悪いと言っているのではなく、演奏で瞬発力が求められる時
に若干問題があるかなぁと思う程度です。変な表現ですが、自信が無いような運弓からはし
っかりとした弦の音は出ないのです。弦と弓がしっかりとくっついた状態であとは力の入れ
加減とボーイングの技術で心の感情の動きを音として表現できるのです。

 その点、独唱の4名(ソプラノ:日比野 幸、アルト:谷口 睦美、テノール:児玉 和
弘、バス:山下 浩司)と合唱の東京シティ・フィル・コーアは良かったと思います。人間
の声に勝る楽器はないと思います。

 モーツァルトのレクイエムですが、モーツァルト最後の曲として余りにも有名ですが、今
日聴ける内容の約半分はモーツァルト自身によるものですが、残りは弟子のジェスマイアー
が作曲したとされています。どちらが書いたにしろモーツァルト最後の曲なのでそれなりの
内容をキープし、かつ最期に相応しい演奏内容を期待するのは誰もが望むことだと思います。

 全てを聴き終わった後の感想ですが、なにかもやもやとしたものが残るモーツァルトのレ
クイエムでした。6月にダニエル・ハーディング指揮でスウェーデン放送交響楽団とスウェ
ーデン放送合唱団による、モーツァルトのレクイエムを聴きに行きますが、3度目の正直で
今度こそ重厚なレクイエムになるように祈っています。

■ 無能なリーダーは去り、立ち上がれ日本!!

2010-04-17 11:47:14 | Weblog

 生意気なことを言うようであるが、この齢になると何事にも先が見えてくるような気がし
てならない。若いうちは全く考えもしなかったことであるが、この齢になると全ての事象に
は有限性があるとの視点に立つことが出来るようになるので、自ずと見えてくるものがある。

 最近特に憂いていることは、日本という国の将来ことである。政権交代した時は、これで
日本もあるべき姿の国に変わるのではとの大きな期待があったが、今は国の責任を預かる鳩
山首相のリーダーシップの無さにより迷走しているのが現実である。従来の自民党とほとん
ど変わらない、あるいはもっと悪い状況に陥っているような気さえする。

 国だけでなく家庭でも会社でも方針や方向を決めることは、大きな意味を持ちそれだけ覚
悟を持って取り組むのが普通である。家庭であれば景気低迷で給与が減額になれば、それな
りの対応をし生活レベルを変えなければならない。従来と同じスタイルを続けることは出来
ないのは誰にでも分かることであり、自分の欲を抑えるのが普通である。限られた資源のな
かで如何に生きていくかを考えなければ生活ができないのである。

 会社であれば、如何にしてコストを削減するかを真剣に考えそれに対応する施策を定め、
実行することが経営者の責任である。特にコスト削減はいろいろな所から不平不満が出てく
るが、断固とした決意で臨まなければ会社が成り立たない。

 部下からの人気を気にしながら会社経営を行うような者は、始めから会社を動かす人物と
して不適格なのである。良く言われるが、厳しい経営者ほど本当に優しい経営者であると思
う。

 厳しい判断を下した時は、周りから批判が多く出るが危機が去った後に初めて厳しい経営
者の判断が正しかったと評価されるのである。このように経営者は辛い立場を何度も経験し
て最後に評価を得る割の合わない仕事であるがゆえに、それなりの覚悟を持った者が行うべ
きなのだと思う。

 それに比べて国の対応はどうなのだろうか。強いリーダーシップをもって国のために真剣
に考え対応している政治家や官僚がいるとは正直いって思えない。誰もが、自分の利益や権
限を守るために慢心しているだけで、あるべき姿に向かって直球で進んでいる人がいない。
意味のない調和を考えているだけである。

 痛みを伴わない改革はあり得ないことは誰でも分かっているが、いざ自分がその判断を下
し実行する際には、自ら傷つきながら前進する気概をもった大物がいない。その点、評価は
二分されるが小泉純一郎は一直線に進んだ政治家だと思う。良い悪いは別にして、好きなタ
イプの政治家である。

 全ての面で正しいことを成し遂げることができる人間なんていないと思うが、判断しなけ
ればならないときには何らかの決断をするのがリーダーの責任であり、それが出来ない者は
リーダーを降りるべきだと思っている。リーダーは孤独であるのが宿命なのだと思う。

 友愛という言葉で人に優しくすることは重要であり否定はしないが、痛みのない改革はあ
り得ないことを肝に銘じて、あるべき姿の国にして欲しい。弱い者に味方することは間違っ
ていないし、仏教を信じている自分として絶対に行うべきであると考えるが、全てが丸く収
まることはあり得ないと思っている。

 ある程度の犠牲は仕方のないことだと思う。仏教を信じる者として、釈迦と会話が出来る
のであれば、一部の犠牲の上に成り立つ多数の幸せの是非に関して教えを請いたいと思って
いる。

 日本の国の公的債務は、国内総生産の2倍近くに達し、世界に例を見ないレベルにまで来
ているというのに、まだ友愛路線で突き進むのかと心配を通り越して最近は怒りを感じるよ
うになって来た。今は良いかもしれないが、いつかはそのツケが自分たちの子孫に回る確実
な事実があることを、もっと認識しなければならないのだと思う。

 このままでは、日本の国が危ないと真剣に考えている。国民の意識を変え、多少の犠牲を
払ってでも正しい道を進む勇気を持たない限り、日本は世界から取り残され全体が駄目にな
ってしまう。

 そのためには、全ての者が自分だけの視点で考えるのではなく、全体の立場で考え多少の
犠牲は受け入れることをすべきであると思う。犠牲による心の哀しさは仏教が癒してくれる
と個人的に考えるこの頃である。この状況を打破し、立ち上がれ日本!!

■ ノルウェー室内管弦楽団演奏会を聴いて(東京オペラシティコンサートホール)♪♪

2010-04-03 12:00:34 | Weblog
 3月中旬に東京オペラシティコンサートホールで開催されたレイフ・オヴェ・アンスネス
&ノルウェー室内管弦楽団による演奏会を聴いて来ました。ピアニストのレイフ・オヴェ・
アンスネスもまた、ノルウェー室内管弦楽団も今回初めて聴く演奏家でした。

 何となくノルウェーというと日本から遠い国の印象があり、地理的な関係で音楽も暗いイ
メージを持っていましたが、モーツァルトの作品を中心に組まれたプログラムであったので、
興味本位で聴きに行った次第です。

 たまたま日曜日の午後2時からのコンサートであったため、早めに昼食をとりのんびりと
した気持ちで会場に向かいました。会場の東京オペラシティコンサートホールですが、開館
した当時は数回演奏会で足を運びましたが、その後10年ほど遠ざかっていたので、本当に
懐かしい想いで会場に入りました。

 開館当時は、このホールの木の香りが漂い本当に心が落ち着くような印象を持っていまし
たが、今回は当時のあの懐かしい木の香りが無くなり、時の流れとともに何事も変化するも
のであることを実感しました。

 さて、当日のプログラムですが、モーツァルト:交響曲第35番ニ長調K385「ハフナ
ー」、モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K488、休憩を挟んでグリーク:ホル
ベルク組曲Op40、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491の4曲でした。
個人的にはモーツァルトの作品を沢山聴けるので大満足のプログラムでした。

 さて、演奏内容ですが正直言って、ここ数年に聴いた全ての演奏会の中で最も素晴らしい
演奏内容でした。少しノルウェー室内管弦楽団の実力を過小評価していたようです。この楽
団は指揮者を置かず演奏するスタイル(ただしコンサートマスターのイザベル・ファン・ク
ーレンがこの楽団の音楽監督を務めていますので、実質的には彼女が全体を統制しているよ
うです)をとっていますが、全員の気持ちが完全に繋がっており、一糸乱れぬ演奏にはただ
ただ感嘆するばかりでした。

 また、室内管弦楽団ですから人数が30数名程度の小規模ですが、そこから溢れ出る音は
通常のオーケストラと匹敵するものでした。さらに音が均質化しており、モーツァルトを演
奏するには最適な音楽環境であると思いました。

 全体的に女性が多いように見受けましたが、しっかりとした演奏でこの管弦楽の演奏レベ
ルは非常に高いと思いました。モーツァルトの音符が全て清楚にかつ喜びを持ちあたかも踊
っているような音が溢れ出ており、ただただ感激の中で満たされた時間を過ごしました。

 奏でられる音が、モーツァルトが演奏した時代の音のように聴こえてくるのが不思議でし
た。多分モーツァルトが実際に演奏した際の規模が、今回のノルウェー室内管弦楽団の規模
とほぼ同じだからではないかと思います。全ての音がそれぞれの役割をきちんと果たしてお
り、何一つ無駄な音が無いし音量のバランスもこれ以上調整する必要がないと感じるほど微
妙なところまで心がこもっていた内容でした。

 今回ノルウェー室内管弦楽団を弾き振りしたレイフ・オヴェ・アンスネスは、1970年
ノルウェーに生まれたピアニストですが、演奏を聴いていて才能があることが直ぐに分かる
ほど演奏内容には素晴らしいものがありました。モーツァルトが持つただ美しいメロディー
を弾くのではなく、長調の中に短調をまた短調の中に長調の気持ちをしっかりと弾けるピア
ニストで本当に久しぶりに感動しました。

 これまで感動する演奏会に出あう事が少なかったことから、本当は素晴らしい演奏なのだ
が自分の心が変に曲がってしまい、心で感じなくなったのではないかと思ったいましたが、
そうではないことが今回の演奏会で分かりほっとしました。

 反対に今まで聴いてきた演奏は、やはりどこかずれているものがあるのだと思いました。
純粋な音楽を伝え共有するべき演奏会が、音楽を提供するサービスビジネスになってしまっ
て来ているたのかも知れません。この点は、演奏家もまた聴く側も反省する必要があると思
われます。

 兎に角、今回の演奏会は全ての曲が本当に素晴らしいものであり、久しぶりにこころが感
動しました。これだけで十分だったのですが、アンコールでモーツァルトのピアノ協奏曲第
14番 変ホ長調 K449から第三楽章とショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op64-2が
演奏されました。特に最後のショパンは目がしらが熱くなるものがあり感動しました。

 今回の演奏家によるモーツァルトのピアノ協奏曲のCDが発売されているとのことなので、
購入してあの感動をもう一度体験できたら良いなぁと考えながら、心満たされた状態で東京
オペラシティコンサートホールを後にしました。

■ 3月は別れの季節ですね!!

2010-03-27 15:27:42 | Weblog
 暖かい日が続くと思うと突然冬のような寒さに逆戻りの不思議な季節ですが、暦上では3
月も下旬で正に春ですね。特に3月は卒業の季節でもあります。新たな旅立ちの人もいれば、
ゆっくりと人生を考える時期を迎える人もいるなど、それぞれに異なった状況下でこの季節
を迎えているのだと思います。

 先日は学生時代に助手をされていた方が70歳で定年退官されるとのことで10年振りに
研究室のOB会がありました。40名弱の方が参加していた中で、知った顔は同期かその前
後の方しか分からない状況でしたが、同じ研究室に所属していたという事実がベースにある
ので、最終講義の後のパーティでは初対面の方であっても昔からの知り合いであったかのよ
うに、楽しく話をする事が出来ました。

 教授が最終講義ということで、40年ほどの研究生活の中で取り組んだ研究テーマを交え
ながら、その時代の思い出を語る内容でした。学生の頃は良く理解出来なかった内容が、今
回の講義では研究の流れが手に取るように分かり納得しました。当時如何に勉強をしていな
かったか、はっきりと分かりました。

 教授が淡々と語る中で、表面上は特段の苦労が無いように思われがちですが、細かく見る
とその時々に大きな壁にぶち当たったり、また空回りするようなことがあったと思われます。
教授の話の中で、研究に対する考え方が明確に示されていることを聞きながら、その取り組
み姿勢に頭が下がる思いでした。

 一言で言うと他の研究者が手をつけない、あるいは手間ばかりかかり面白みがない領域を
こつこつと取り組み、そこから得られた事実に基づき、それを既存理論の中で整合性をとり
体系化する姿勢です。

 個人的にはものすごく共感する内容です。脚光を浴びている研究テーマをターゲットとす
るのも一つの方法ですが、教授のように地道にかつ確実にステップアップして行く姿勢が重
要であると思っています。これは所属していた研究室の精神的なDNAかも知れません。そ
のような面からも、この研究室での経験は現在の私にとって生きる上で非常に役に立ってい
ます。

 また講義の中で、教授の人間性が前面に現われていたこととして、次のようなことがあり
ました。全く同じ研究テーマに取り組んでいる方がいた時に、その方を訪問し、自分も同様
の研究を行っていることを丁重に伝え、その後も研究テーマとして扱うことを明言するとい
う非常にオープン的な姿勢から、教授の素直な人生の生き方を学びました。

 この先生の研究領域は、電波伝搬です。とても地味な研究領域ですがまだまだ体系化され
ていない領域があるのも事実です。70歳を迎えた先生の話を聞きさらに一緒に酒を飲みな
がら、時間が40年ほど逆方向に戻りましたが、当時の自分と今の自分の間に何の成長もな
いことが分かり、少し不安になりました。凡夫はなかなか成長しないものなのでしょうね。

 先生がこの3月末で定年退官されますが、この私も今の会社で役職定年になります。来週
に退職の手続きを済ませ、この4月からは契約社員という形で再雇用されます。このご時世
では、仕事があるだけ良しとしなければなりません。

 当然給与も減額となるので4月から生活スタイルを変えなければなりません。しかし簡単
に生活スタイルを変えるのは難しいので、当面は外で飲む機会を減らせば小遣いの面での減
額対応は可能となります。また反対に健康にとっても良いかもしれません。

 先生にとっても私にとっても、今年の3月は人生の中での一つの節目となる時期となりま
した。さらにこの3月は多くの人の中で何らかの卒業や別れがある季節だと思います。卒業
や別れがあるから新たな出発や出会いがあるのも事実です。

 この春は、咲く桜と散る桜を見ながら人生を考えようかなぁとも思っています。春は哀し
い面もありますが嬉しいこともあるはずです。

■ 日本の活気を復活させるために!!

2010-02-28 10:47:17 | Weblog

一昨年のリーマン・ショック以来、日本社会全体に活気の無い状態が続いています。さら
に国債や借入金などをあわせた国の借金残高が2009年度末に初めて900兆円を超え、
10年度末には過去最大の973兆円に達する見込みであることが財務省の集計で明らかに
なりました。

 この数字はあまりにも多き過ぎて、庶民感覚ではどの程度の状況なのか判断がつきません
が、現時点で日本経済が閉塞感の中から抜け出すことが出来ない状況にあることは、誰もが
肌で感じているところだと思います。

 こんな景気状態であるから税収が伸びず、この税収で来年度予算の約40%程度しか補え
ないとのことですから、普通で考えれば絶望的な状況だと思います。企業であればすでに倒
産していることになります。

 このような状況の中で、いろいろな対策が打たれていますがどれも即効的な効果が出てい
ない状況です。とても不思議な気がします。いったい何が原因なのか素人的に考えて思い当
たることが一つ浮かびました。

 それは、日本人が持つ国民性とでも言うのでしょうか、ある事象に対して悲観的な感覚で
対応することが大きな要因となっているような気がします。今の状況が悪いから将来に備え
て貯蓄をするために消費を抑える行動に出ます。庶民的には正しい選択肢であり、何を言お
うこの凡夫でさえ無駄な消費を抑える行動をとっています。

 物が売れなくなれば、売る側は価格を下げて売ろうとします。価格を下げればコストを削
減しなければなりませんから、その分社員の給料やその他外部からの調達が減少します。そ
うすると全体的に経済の規模が減少するのは当然の成り行きです。

 このような負のスパイラルのプロセスに入ってしまうことは当然のこととして考えられま
すが、個人的に経済はこうような理論だけで簡単に表わすことが出来ないものだと考えてい
ます。もっと人間的な要因により大きく影響されていると思っているのです。

 このような状況の中で日本人が敢えて取るべき行動はただ一つ、今できることを前向きに
なって行動することだと思います。いままで米国に次いで2番目の経済大国であったという
自負がありましたが、いまや隣りの中国の高度成長に驚異を感じて悲観的になっている感が
あります。しかし、日本は捨てたものではないとの自負を再度認識すべき時が今だと思うの
です。

 米国ではトヨタが叩かれ、日本の自動車産業の行末が心配されますが、日本はまだまだ外
に現われていない底力があることに目覚め、本来の日本的な素晴らしさを世界にアピールす
る必要があると思います。

 日本人は他の国に比べて貧富の差が小さく、本来の勤勉な国民性を最大限に発揮すれば必
ずやこの閉塞的な経済状況を打破できると確信しています。もっと自信をもって行動するこ
とで経済は復活し、高度成長期の状態には戻らないにしても、バランスのとれた社会に到達
することが出来ると思っています。

 無駄を省きながら質を高めることにより、世界に通用するあらたな局面を迎えることが出
来ると思います。そのためには国は子供手当のような表面的な支援でなく、労働市場を確保
するような、社会の基盤を支える仕組みを構築し、積極的に投資すべきだと思います。

 働きたくとも働く場が無いことがもっとも大きな問題だと思います。そして、日本人の持
つ底力を発揮し、健全な社会を取り戻したいと思うこの頃です。

■ オットマール・スウィトナーの思い出♪♪

2010-02-27 16:43:29 | Weblog
 今年の1月8日NHK交響楽団の名誉指揮者であるオットマール・スウィトナーが87年
の人生をベルリンで閉じました。学生の頃から時々N響の定期公演にでかけるようになり、
社会人になってからは定期会員としてN響を聴き続けていますが、オットマール・スウィト
ナーは、ヘルベルト・ブロムシュテットとともに好きな指揮者でした。

 スウィトナーのN響登場回数は13回とのことですが、このうち記憶が定かではありませ
んが定期演奏会で2~3回聴いた記憶があります。確かモーツァルトやベートーヴェンの曲
であったと思います。

 ちょうど今から30年ほど前になると思いますが、そのころはまだまだ音楽の神髄を見極
めるような力はなく、ただただオーケストラが奏でる美しい音楽を聴きながら、いつも感動
していた気がしています。

 そのような中でオットマール・スウィトナーの印象が特に強く残っている理由は分かりま
せんが、何故か脳裏にスウィトナーの音楽が染み込んでいるような気がしています。

 生演奏だけでなく、CDが発売されるとそれらを聴きながらさらにスウィトナーの良さが
確実に刷り込まれていくような感じがありました。特にモーツァルトの演奏は印象強く残っ
ています。

 一言で言うならば自然さが前面に出たモーツァルトでした。先日より通勤時間にスウィト
ナーの演奏によるモーツァルトの交響曲を聴いていますが、飾り気のない正に自然な流れの
モーツァルトで、改めてその偉大さを再確認しました。

 モーツァルトの交響曲の演奏に関しては、ラファエル・クーベリックの指揮でバイエルン
放送交響楽団の演奏が好きでいつも聴いていましたが、今回スウィトナーのドレスデン国立
歌劇場管弦楽団による演奏を聴き、優劣付けがたい内容となっています。ただ、素朴で自然
な仕上がりの面では、クーベリックよりもスウィトナーのほうが上だと思います。

 スウィトナーのモーツァルトを聴けば聴くほど、心が清らかになり軽くなる感じを受けま
す。さらにモーツァルトが書いた全ての音符の音が、はっきりと聞こえるのも大きな特徴で
あり、この点はモーツァルトを演奏する上で特に重要なものだと思います。

 モーツァルト以外の音楽家の作品では、全ての音がはっきりと聞けるのは少ないと思いま
す。多くの楽器の音に重なり、音が厚くなってしまうことが原因だと思います。

 音楽を専門に取り組んでいる方には、それぞれ分離して聞こえるのかも知れませんが、素
人の身である凡夫にとっては難しいことです。ただし、指揮者が各楽器のバランスを保つこ
とによって凡夫でも聴き分けることが可能になると思います。

 スウィトナーは、この点が特に優れていたと思うとともに、モーツァルトの良い演奏を後
世の人に残してくれたことは大きな財産であり、感謝しています。

 スウィトナーは外見からもその人柄の良さが滲み出ている感じがあります。東西ドイツの
統一がなされた直後にパーキンソン病による手の震えが原因で、潔く指揮者という舞台の幕
を下ろし引退する行動に心を動かされるだけでなく、それだけ純粋に音楽を追求していた姿
勢に心が打たれます。

 私生活では、妻のほかに愛人がいて彼女との間に生まれた息子を含め、音楽から離れた年
月は2つの家庭を微妙なバランスで保ってきた人でもありました。このような人間としての
生きざまが、スウィトナーの音楽に現われていると思います。表面上の恰好良さではなく、
本質をきちんとわきまえた人であったと思います。

 モーツァルトを正しく表現する指揮者が居なくなったことが残念ですが、幸いにも音源と
して残っていることが救いとなっています。しばらくの間は、モーツァルトの曲はスウィト
ナーによる演奏を聴き、偉大なマエストロに感謝をしたいと思います。 合掌