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ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 他の命と自分が生かされているという事!!

2010-02-21 13:21:23 | Weblog
 先日の新聞に奈良市における話題で、捨て犬の処分に関するする具体的な方法が書かれて
いました。記事を読んでいて人間の勝手な行動に腹立たしさを感じ胸が詰まりました。何故
にいとも簡単に、命あるものを捨ててしまうのでしょうか。命の尊さを考えない行為は人間
として卑劣な行為です。捨てるのであれば欲望に惑わされることなく、始めから飼わない勇
気を持って欲しいと思います。

 以前にTVでも今回の記事の内容と同じ趣旨の番組が放送されていました。犬は処分され
る日が近づいてくると、目でその気持ちを訴えているのがはっきりと分かりました。今でも
あの犬の哀しそうな目を忘れることが出来ません。

 また一方で日本の調査捕鯨に抗議行動を起こしている国際団体があります。動物の命を守
ることに対する抗議であることは理解しますが、我々人間は生きるために常にいろいろな命
を奪いながら生き続けている事実があります。

 鯨は駄目で、牛や豚や鳥や魚の命は問題ないのかとの問題にぶち当たります。根底には全
て命に関する考え方が横たわっています。自然界の中ではあるものが他の生命を奪いながら
生きる続けるという連鎖が行われており、これまで全ての生き物がこの仕組みの中で生き延
びて来ているのです。

 これらの自然界の中で人間が最も残酷な方法で生き延びていると思います。必要以上にグ
ルメだ美食だといって多くの命を奪いながら生きています。命あるものを奪わずに生き続け
ることは確かに不可能ですから、ある点で割り切らなければなりません。

 しかし、ここの部分が明確になっていないのが現状ではないかと思います。人間がこの現
実の世界を支配しているという間違った考えが、自然界と人間界との関係を壊しているのだ
と思います。

 また、人の命を奪わなくとも人間と人間の関係でもこれに近いことが行われています。現
実の社会では、何事も他に勝たなければ生きて行けないという考えがあります。特に企業活
動はその典型であるし、政治の世界でもまた特定の業界等でも生じている現象です。

 勝つことが正義であるという考えですが、最近変わってきているのは地球の有限性が明ら
かになり、特に環境問題がクローズアップされるようになって来てからは、キーワードとし
て調和という考えが少し出てきたように感じられます。

 他に勝つという考えと全体の調和をとるという行為には雲泥の差があります。この調和と
いう考えの中には、他の命との係わりが特に重要となります。自分が自分で生きるというこ
とでなく、他の命とともに生きるということです。

 さらに突き詰めると、自分は自分で生きているのではなく、生かされているという視点に
立つことが出来ると、その人もまた周りの世界も急激に良い方向に変化するものです。

 しかし、多くの人は自分は自分で支えて生きていると錯覚しています。自分が周りによっ
て生かされていることに、残念ながら気づいていないのです。さらに他の命を奪い自らの命
を延ばしている事実をもっと理解し、貴重な命を頂いて生きていることを自覚すると、人間
としての生き方が大きく変わると思います。

 この点に気づくと、他の命を粗末に出来なくなるのが当然の成り行きです。そうすれば奈
良市や日本全国で生じているような生き物の飼育放棄が無くなると思います。命の尊さを認
識し、他の命を大切にすることと自分は周りに生かされているということを自覚し、より住
みやすい社会にしたいものです。

 これらは、全て仏教の教えです。さらに加えて、何事にも感謝の気持ちを忘れずに過ごし
たいものです。   合掌

■ 第47回リコーフィルハーモニーオーケストラ演奏会を聴いて♪♪

2010-02-21 10:48:54 | Weblog
 昨日の土曜日に、ミューザ川崎シンフォニーホールで開催されたリコーフィルハーモニー
オーケストラ演奏会を聴いてきました。このオーケストラを聴くのは今回が3回目です。知
人がこのオーケストラに所属していることが縁で、聴きに行くようになりました。

 このように企業がオーケストラを支援していることは非常に素晴らしいことだと思います。
景気が低迷しているなかで世界中のプロのオーケストラも国や企業からの支援の打ち切りや
減額が続いている状況の中で、特にこのような企業メセナの重要性を感じます。

 さて、今回の演奏会での指揮は、このオーケストラの常任指揮者である井崎正浩であり、
演奏曲目はドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調作品88とスメタナ:連作交響詩「わが祖
国」より「高い城」「モルダウ」「ボヘミアの森と草原より」「ブラニーク」でした。

 ドヴォルザークの交響曲というと一般に交響曲第9番「新世界」が有名ですが、個人的に
はこの交響曲第8番は哀愁や渋さが色濃くでている楽想なのでブラームス的な感覚を覚え、
聴き終わった後に安堵が感じられる曲であり好きな作品です。ともにチェコを代表する作曲
家の作品で、楽想が似ているので聴く側にとっては良い企画だと思います。

 過去に2回このオーケストラを聴いて感じた指揮者の井崎正浩ですが、才能がある指揮者
だと思います。もっと活躍してもよいと思っていますが、意外と日本で知られていないよう
な気がします。

 指揮の仕方は、シャルル・デュトアに似ています。背が高い点が共通しているとともに、
右足のかかとを支点につま先を45度程度上にあげて指揮する仕草は正にデュトアと同じで
す。また両手で楽員に指示する方法も近いものがあります。

 さて、当日聴いた感想ですが、ドヴォルザーク:交響曲第8番は全体がまとまっていて良
かったと思いますが、どちらかというとホルンやトランペットの金管楽器における演奏技術
が少し足りない感じを受けました。

 特に弱音部分で音がかすれてしっかりとした音になっていないために、せっかくの音楽に
緊張感が無くなってしまいました。反対に弦楽器はまとまっていたと思います。特にチェロ
の響きが美しく聴こえ、低音部分がしっかりと支えた演奏になっていたので安定感がありま
した。

 ただし、第一ヴァイオリンはパート全体のバランスが少し崩れていた点が気になりました
が、アマチュアオーケストラであることを考えると仕方のないことだと思います。アマチュ
アオーケストラで特に弦楽器のパートで感じることは、弓がしっかりと弦に張り付いていな
い感じを受けます。自信を持って、もっと弓のボーイングを確実に行うことで音は格段に変
化すると思います。

 後半のスメタナ:連作交響詩「わが祖国」より「高い城」「モルダウ」「ボヘミアの森と
草原より」「ブラニーク」ですが、中にはポピュラーな曲も含まれていますが、非常に難し
い曲だと思います。

 聴いた感想ですが、「高い城」「モルダウ」よりもそれ以降の「ボヘミアの森と草原より」
「ブラニーク」の方が弦楽器の乱れを除けば質の高い演奏になっていました。特に3曲目か
ら、管楽器のメンバーのポジションを変えたことが影響していると思いますが、オーボエや
ホルンの出来は大幅に変わりました。

 中でもオーボエは最高の出来であり、称賛される内容だと思います。前回の演奏会でもこ
の方の吹くオーボエの出来栄えに感動しました。まさに歌うオーボエで、その演奏技術の高
さと感性が素晴らしいと思います。ひょっとしたらプロの方かも知れませんが、哀愁の帯び
たしなやかに伸びる音色に惚れぼれしました。正にブラボーの状況でした。

 気になったのは、弦楽器の乱れでした。弱音でリズムを刻む部分で完全にハーモニーが崩
れていました。この辺が、プロとアマチュアオーケストラの違いだと思います。流石にプロ
は乱れたとしてもある一定のレベル以下まで落ちませんが、アマチュアではそれを維持でき
ない状態に陥ります。

 決して演奏内容を否定しているものではなく、今後ともアマチュアの良さを出して欲しい
と思っていますし、全体的には楽しめた演奏会でした。次回は今年の夏に横浜みなとみらい
ホールでブラームスの交響曲第4番を演奏するようです。個人的にブラームスの交響曲の中
でもっとも好きな曲なので是非とも聴きに行きたいと思っています。

 最後に、指揮者の井崎正浩ですが、もっと活躍できるチャンスをプロのオーケストラが与
えるようにならないものかと思いながら帰路に着きました。残念で仕方がありません。

■ 第1667回と1668回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(A、Cプロ初日)♪♪

2010-02-13 13:00:17 | Weblog
 先週と昨日、N響の定期演奏会(AプロとCプロ)に行ってきました。今回は、N響初登
場の指揮者であるセミョーン・ビシュコフのよる演奏が注目を浴びていました。

 指揮者のセミョーン・ビシュコフですが、1952年にレニングラード(現在のサンクト・
ペテルスブルク)で生まれてたとのことで、年齢は凡夫とほぼ一緒です。当初は地元の音楽
院で学び、その後1973年のラフマニノフ指揮者コンクールで優勝してから人生が大きく
変わったのではないかと思います。

 政治的な背景があって、1974年に米国に渡り、バッファローフィルハーモニーやグラ
ンド・ラピッズ交響楽団の音楽監督を務めたのち、パリ管弦楽団の音楽監督やケルン放送交
響楽団の主席指揮者を歴任している指揮者です。

 顔はがっちりとし、どちらかというとひと癖あるような風貌(良い意味で言っています)
の指揮者で、このような指揮者は熱く燃える情熱のある演奏を行うタイプに見受けられます。

 実際の演奏曲目ですが、Aプロは、ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調作品10と
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」、Cプロは、ワーグナー:楽劇「トリスタン
とイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」とマーラー:交響曲第5番嬰ハ短調でした。

 個人的に期待していたのは、マーラーの交響曲第5番でしたが、演奏を聴いた結果は、A
プロのロシア物のプログラムの方が圧倒的に演奏の質が高かったと言えます。

 個人的に、ショスタコーヴィチは敬遠するタイプの作曲家であり、ストラヴィンスキーは
まあま聴いていられる部類の作曲家ですが、今回の2つの演奏を聴きながら十分にビシュコ
フが主張したい内容が発揮できた演奏になっていたと思います。

 特にこれらの2曲は、全体では確かに一つの曲になっていますが、それを分解していくと
個々のパーツに分けられ、さらにそのパーツが楽器のパーツに分解されているのがはっきり
と表現できている事に驚きを感じました。

 過去にこの2曲は聴いたことがありましたが、今回のようにパーツ毎が上手く噛み合って、
あたかもプロセスが確立され、さらにそれらが上手く連携されている様子が鮮明に感じる事
が出来ました。

 これは、指揮者のビシュコフが曲を細部まで理解し、さらにそれらの要素に自分の主張を
組み入れて再構成した結果が、今回の演奏に出ていると思いました。ショスタコーヴィチも
良かったですが、個人的にはストラヴィンスキーの「春の祭典」は最高の出来であったと思
います。

 このような演奏を聴いたので、翌週に開催されるCプロの演奏会に期待が膨らむのは当然
のことです。過去にテンシュテットの指揮でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に
よるマーラーの5番を初めて聴いて感動し、涙を流した経験がある曲なので、なおさらの事
です。

 モーツァルトは勿論大好きですが、何故かあの感動を忘れられずにこのマーラーの5番は
捨てられない曲になった経緯があるのです。

 さて、Cプロの始めのワーグナーですが、弦の音のコントロール(始めは小さな音であっ
たのがだんだんと大きく広がりのある音に変化させる)が非常に上手く、このような表現を
した「前奏曲と愛の死」の演奏は初めて聴きました。とても新鮮に感じた演奏でしたので、
後半のマーラーはさらに良いだろうと期待が高まるのも無理がありません。

 休憩後、久しぶりに泣けるかなぁと期待し過ぎたのがいけなかったのかも知れませんが、
冒頭のトランペットの音色を聴いた瞬間に、悪い予感が走りました。期待している音色では
ないのです。

 マーラー特有の喜びを含んだ憂鬱で哀愁を帯びた音色ではないのです。さらにさらにビシ
ュコフの指揮は客席から観ていて上手い指揮に見えるのですが、それに伴ってN響が付いて
行っていないというかマーラーの感情が入っていない、表面上の淡白な表現になっているよ
うに感じました。

 演奏に関しては、マーラー特有のテンポを揺り動かしながら、内面の感情を表現すること
の難しさはありますが、今回は今一歩といった印象を受けました。良く言われることですが、
マーラーの演奏は一旦駄目になると全体がまとまらない失速状況に陥ることが多く、非常に
難しい楽想であると思います。

 個人的にこのような感想をもった演奏内容でしたが、演奏終了後の異常と思われるほどの
拍手とブラボーに対して、戸惑いを受けました。評価に関しては人それぞれであるので、何
とも言いませんが、演奏する側と聴く側がともに良くなるような事を前提に拍手をして欲し
いと思いました。

 一般的に言えることですが、最後に劇的に終わる曲は、それまでがあまり良くなくとも聴
き終わった後に全てが良いように思われがちです。しかし、そこは冷静に判断する必要があ
ると思いながら、NHKホールを後にしました。

■ 小さな事をコツコツとひたすら真面目に生きること!!

2010-02-11 17:37:20 | Weblog

 人間には生まれついた宿命というか、自分の力ではどうしようもないことがあるものだと
この齢になって認識するようになってきました。若いころは、この世に生まれたものは真面
目に努力していればいつかは救われると思っていましたが、最近はそうでもないような気が
して来ています。

 いくら頑張っても出来ないものは出来ないし、反対に自分でも不思議なくらいに余り苦労
せずに出来てしまう事があります。これはいったい何なのだろうと考えますが、所詮、凡夫
の浅はかな考えでは到底結論が出るものではなく、最後はまぁいいかといった諦めに似た状
態で満足してしまいます。

 しかし、最近これでは人間としての成長が無いなぁと考えるようになり、どのようにした
ら少しでも人間として成長できるのかと、考えた時に浮かんだ結論が、今回の標題に現わし
た「小さな事をコツコツとひたすら真面目に生きること」なのです。

 人間は例えその進み方が遅々としていようとも、コツコツと取り組む行動の中にから、大
きな力が湧いてくるような気がしています。ただ頭の中で考えているだけの状態では、前に
進みません。

 自分の手や体を動かすことを通じてその小さな行動の結果が積み重なり、ある時その力が
自分を大きく動かすことに繋がると思うようになりました。その力は、自分自身の中にある
「仏性」ではないかと思っています。

 仏教では、人間でも動物でも植物でも道端の石ころにも仏性があると考えています。自分
では気づかないもう一人の自分の姿が仏性なのです。さらに、素直になればなるほどこの仏
性に近づく事が出来るのです。この辺の考え方が他の宗教にないものであり、自分としても
素直に仏教を受け入れられる大きな魅力だと思っています。

 生まれながらにして頭脳明晰で、若いうちから世間で脚光を浴びて活躍している方が多く
います。当初は羨ましくもあり出来ることなら自分も少しでも近づきたいと思った事があり
ましたが、凡夫には所詮無理なことが分かりました。

 それは決して負け惜しみでなく、個々の人間には個々に与えられた役割があることに気が
ついたからです。全ての人が先のように世の中で脚光を浴びる人間ばかりでは、世の中が成
り立ちません。同じ人間でありながら世の中には階級や職業がさまざまあって、それで社会
が上手く構成されているのだと思います。

 古くからあることわざで「箱根山 駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋を作る人」があ
りますが、正にこの考えで社会が成り立っているのです。この考え方から行くと、凡夫は草
鞋を作る人に当たると思います。

 ただここで忘れてはいけない事は、それぞれの立場での自信やプライドだと思います。こ
のような想いがなく、ただ何かを行っているのでは意味がないと思います。自分に合った仕
事があればそれは幸せだと思いますが、現在携わっている仕事が自分に合っていないのであ
れば、それは少し不幸かも知れません。

 しかし、昔から「石の上にも3年」というように、最低でも3年ほど同じ仕事を行うとそ
れなりに自信を持てるようになるのが普通です。この段階でも真面目にコツコツ行う事が重
要だと思います。

 これらの努力が必ず成果となって現われることを一度でも経験すると人間はより大きくな
り、さらに成長するための次のステップに進むのです。継続は力に繋がります。

 この不景気で先が読めない時代ですが、毎日小さな事をコツコツとひたすら真面目に生き
ることを通じて、人間的に成長し心豊かな人生を過ごす事が、釈迦が教える人間としての正
しい道ではないかと最近考えています。

「小さな事をコツコツと」は凡夫が好きな言葉です。 合掌

1億人の中の無縁社会!!

2010-02-07 11:32:04 | Weblog


 先日NHKで無縁社会を扱った番組を見ました。見終わって感じたことは、人間としての
一つの命とこの命に繋がっている他の人との関係でした。TVの中だけの事実をもとに考え
れば、確かに無縁社会が広がっていると思います。

 しかし、このような状況になった真の原因は分からないままとなっています。個人的には
個人と個人をつなぐ手段があまりにも多様化したことにより、最も重要である本来の人間の
心と心の触れ合いを基盤とした仕組みが薄れてしまったのだと思っています。

 世の中で生きていくには、普通は働かなければなりません。働くということは、何らかの
形で他人との接点がでてきます。一緒に仕事をするとか、また作ったものを他人に買っても
らうとか、他人のために何かをしてあげることで生計を立てるなど、何らかの形で人間とし
ての繋がりが発生します。

 ところが最近の世の中は、他人との直接の接点を持たなくとも生きていけるような時代に
なりました。それを支えているのがITだと思います。ITが進めば進むほど、従来の人間
としての係わり合いがだんだんと薄く疎になって来ています。

 極端な言い方をすると、ITが発達し便利になればなるほど従来の人間の直接的な関係が
薄らいでくるのです。もっと言えば、情と愛が無くなって行く傾向にあると言えます。

 また、他の人間と係わりを持たずに生きていくことが出来ること自体が問題だと思います。
しかし良く良く考えると、どんな場面でも生きている以上、他人との接点があるのですが、
それを本人とその関係した人が意識を持たずに対応しているから、その時点で縁が切れてし
まうのです。

 確かに人間は生まれてくる時もまたこの世を去る時も一人であるという大きな真実があり
ます。しかし、この世に生きている間は決して独りで生きているわけではなく、他の人の力
を借りて生きています。また、この他人の力を借りて生きていることに何も気づかづに生き
ている人間が多過ぎるのです。

 さらに自分自身も何らかの形で、他人が生きることに際して力を貸していることにも気づ
いていないのだと思います。なぜならば、人間は自分のことを中心に考えるので多くの場合、
自分にとってメリットのあることを考えながら行動するからです。即ちまず自分が良くなる
事を考えて行動するのが基本であり、そこに自分としての正当性を確立するのだと思います。

 今の世の中の風潮は、めんどくさいことを如何に避けて、快適で自由な生き方をしたいと
思っている人があまりにも多すぎるのではないかと思います。多少苦労してでも、他人のた
めに何かをすることを自ら進んで行うところから、他の人間の大切さが実感できるのだと思
います。

 人間は不便であれば不便であるほど、関係する人との連携が必要となり、そこで本来の人
間としての交わりが出来るのですが、今の世の中は凡夫の年代からすると余りにも便利すぎ
る世の中となってしまいました。

 この便利に成り過ぎた世の中で生まれた時から育ってきた人は、人間との関係で何も苦労
せずに人生を歩んでいることになります。これでは、他の人間を敬うような考え方は出てこ
ないと思うのです。

 もっともっと不便でお互いに直接話さなければ解決できないような状況であれば、人間は
もっとお互いの距離が縮まって、そこに情や愛を基盤とした縁の関係ができるのだと思いま
す。

 NHKの番組を見ながら、無縁社会を報道することは重要であるが、いま世の中が置かれ
ている状況をもう少し深掘りした内容になっていると、見た人が次のアクションを打つきっ
かけが多くなると思いました。

 世の中の人間の関係をもっともっと暖かくする流れになるようにしたいものです。 合掌


■ モーツァルト・バッセットホルンの周辺演奏会を聴いて(JTアートホール)♪♪

2010-02-06 11:45:05 | Weblog

 1月19日の夜に、虎ノ門のJTアートホールで開催されたちょっと変わった演奏会を聴
いてきました。演奏会のタイトルは、モーツァルト・バッセットホルンの周辺 ~”アフィ
ニス夏の音楽祭2009広島”メンバーによる「ClassーK」~という何をやるのかち
ょっと分からない演奏会でした。

 この演奏会は、たまたまコンサートチラシの中にあった演奏会で、キーワードはモーツァ
ルトでした。さらに演奏者の中にオーボエの池田昭子が入っていたので、これは何としてで
も聴きに行かなければと思いインターネットでチケット予約をしようとしましたが既に販売
停止となっており、あとは当日券を当てにするしかない状況でした。

 当日の昼にJTアートホールに電話をすると当日券は20枚販売するとのことでしたので、
終業ベルが鳴ると同時に急いで虎ノ門へ向かい、運良く当日券を手に入れこの演奏会を聴く
ことが出来たのは幸せでした。

 さて、演奏会の内容ですがオールモーツァルトのプログラムで個人的には、大満足でした。
曲目は、12のデュオK.487、5つのディヴェルティメント第2番変ロ長調、第3番へ
長調、第4番変ロ長調K.439bと歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」K.621より序曲と
アリア”行きます、でも愛する人よ”の5曲でした。

 曲の内容から判断すると、最初に演奏された12のデュオK.487は2本のバッセット
ホルンのために書かれたものですが、モーツァルトらしさがあまり前面に出ないもので、ち
ょっと気になる曲でした。この12のデュオK.487に関しては、個人的に疑問があるの
で、これからこの曲が書かれた背景等をいろいろ調べてみようと思っているところです。

 残りの4曲は、明らかに聴いていてモーツァルトだと納得できるものでした。全体的には、
演奏会のタイトルに「バッセットホルンの周辺」とあるように主体は、バッセットホルンと
クラリネットを中心とした柔らかい音色に包まれた演奏会でした。

 さらに最後の歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」では、オーケストラ版を編曲してオーボエと
ファゴットを加えた木管六重奏風にした感じの内容で、興味深く聴きました。

 クラリネットはモーツァルトが好きだった楽器の一つとして言われていますが、この楽器
の持つ柔らかいまたとどこか哀愁を帯びた音色を最大限に生かした楽想で、聴いていると何
故か安堵感を自然と感じ、とても快い状況になるから不思議です。これはモーツァルトの持
つ音楽のもっとも顕著なものだと思います。

 今回は、モーツァルトの音楽のほかにオーボエの池田昭子が出るとのことでとても楽しみ
にしていました。演奏内容は期待通りで、オーボエのもつ渋い明るさとしなやかに伸びる音
に聴き惚れていました。

 N響の定期演奏会では黒の衣装で2ndオーボエを吹いている印象が強く残っている池田
ですが、当日は薄いピンクの衣装で登場し、常に主役として前面に出ている内容で、本来の
池田の持つ力を余すところなく出していた演奏でした。

 アンコールは2曲演奏され、一つはセレナードK.375から第3楽章と歌劇「魔笛」か
ら”パパパ”が演奏されました。今回初めてJTアートホールに出かけましたが、小じんま
りとしたホールで音がホールの隅々まで広がり、室内楽には持って来いの演奏会場だと思い
ました。

 久しぶりにゆったりとモーツァルトを聴くことができ大満足の演奏会でした。なお、当日
の演奏者は、バッセットホルンとクラリネット:野田祐介、橋本眞介、斎藤雄介、梅本貴子、
オーボエ:池田昭子、ファゴット:佐藤由紀でした。

■ 居心地の良さ!!

2010-01-17 10:46:53 | Weblog
 歳をとると夜中にトイレに起きることが多くなると言われていますが、寒い夜に暖かい布団
から出て、トイレに行くのが億劫になります。用を足してまた温もりのある布団の中に滑り込
んだ時の何とも言えぬ心地よさと安心感に似た感覚を感じる時に、大袈裟ですが生きていてよ
かったと思います。人間て言うのはこんな些細なことにでも生きている価値を見出すものだと
思います。

 若いころは、何事にもチャレンジ精神だけで、世の中や物事の裏とかを理解をせずに突っ走
りながら無茶なことをしてきました。いろいろ失敗や苦労はしてきましたが、それなりに充実
感がありました。

 これが歳を重ねて行くうちに、だんだんと世の中や他人の厭なところを見てくると、昔の純
粋なチャレンジ精神が政治家のような打算的なやり方に変わって来てしまいます。仏教でいう
ところの煩悩がどんどん大きくなり、しっかりとした生き方や実際に行ったことに対する謙虚
な反省がないままに歳を重ねると、最後は救いようのない人間となってしまいます。

 しかし有難いことにこのような凡夫や悪人であっても「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救わ
れ浄土に行けるという、易行念仏の開祖である法然上人や親鸞聖人の信念には頭が下がります。
仏教の奥の深さを感じる瞬間でもあり、また本当に人間を冷静に分析している宗教であると思
います。

 最近ですが、人間にとって慣れることに慣れてしまうことがいけないのではないかと思うよ
うになりました。どのようなことでも、初めて取り組むときは誰もが緊張しながら行い、実際
に行う過程の中で生じる失敗を通じてノウハウを蓄積し、さらなる改善に繋げることが重要で
す。

 しかし人間は、慣れてくるとだんだんと怠け心が強くなり、手を抜くようになります。これ
が一番いけないことなのです。常に初心の心で、さらに新鮮な気持ちで対応することが重要だ
と思っても、知恵がついた中途半端な人間はこれが出来ません。自然と楽な方向に動いてしま
うのです。

 これらの行動を防止する方法は、ただ一つで自分を甘やかさないことだと思います。所詮人
間は怠けものですから、怠けない方に自分を置き直すことしかありません。そのためには安定
した居心地の良い場を捨てて、次の新しいものにチャレンジすることだと思います。

 人生でも仕事でも毎日同じことだけを繰り返していたは駄目なのです。少しでも変化をもた
らすような新たな行動に出る必要があるのだと思います。

 最も容易な事としては、仕事であれば担当の業務を変えて新たなものに取り組むことで、自
分自身をリフレッシュすべきです。あるいは勤務地を変更するとかして、自分のいまいる居心
地のよい環境を変えて、一時的に居心地が悪くすると本来の純粋なチェレンジ精神が蘇り、心
身ともに大きく変化すると思います。

 最も重要なことは、変化の無い生活を過ごすのではなく、毎日小さな変化を起こすことが重
要だと思うのです。居心地の悪い状態をつくれば、人間だれでも良くするための行動を起こし
ます。ここが最も重要なことだと思っています。

 先日ですが、仲間と初めて立ち飲み屋に出掛けました。立ち飲み屋での基本的な行動様式は、
独りで行き、多くのつまみを一度に頼まずに少しだけにし、さらに隣に居合わせた初対面の人
と話をしながら酒を飲み、1時間程度で切り上げるのが礼儀なのだそうです。

 凡夫がとった行動は、これらの流儀とは全く反対で、複数人で出掛けいっぺんにつまみを多
く頼み、仲間内でわいわいがやがや長時間飲んで帰りました。この行動も単に居心地の良さを
求めただけで、なんら進歩発展がないやり方でした。

 今後は、チェレンジ精神を再度呼び起こし行動することと、立ち飲み屋に独りで行けるよう
になることで少しでも大人としての自立を図りたいと考えています。何ともだらしない大人で
自分自身でも情けなくなりますが、これが本来の自分であると再認識し、行動を起こしたいと
考えているこの頃です。 合掌

■ 第1665回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Cプロ初日)♪♪

2010-01-16 11:31:40 | Weblog

 金曜日の夜にN響の定期公演を聴きに行きました。今回はCプログラムで、当初指揮するは
ずであったローレンス・フォスターが、本人の健康上の理由により来日不可能となり代わって、
ジョン・アクセルロッド指揮をしました。

 演奏曲目はオールチャイコフスキーで、前半がスラヴ行進曲作品31とピアノ協奏曲第1番
変ロ短調作品23でピアノ独奏は、清水和音でした。後半は、バレエ音楽「くるみ割り人形」
第2幕でした。

 指揮者のアクセルロッドですが、アメリカ・テキサス州ヒューストン生まれ、1988年に
ハーバード大学を卒業したとのことですから、今年44歳かと思われます。指揮の師がクリス
トフ・エッシェンバッハとのことで、何となく音のつくりに共通する点があるような気がしま
した。

 今回N響を初めて指揮したからだと思いますが、指揮の内容とN響のメンバーからの音は異
なっている感じを受けました。初めての顔合わせであり、時間も少なかったことが原因だと思
いますが、指揮者の指示内容と同等の充実した演奏にはなっていなかったのがちょっと残念で
したが、個人的には好きなタイプの指揮者に入ります。

 2004年からスイスのルツェルン交響楽団及び同劇場の音楽監督兼首席指揮者に就任して
いるとのことで、昨年のルツェルン音楽祭ではモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の新演出
を指揮したそうです。どのようなモーツァルトにしたのか観てみたかったものです。

 40代の若手指揮者の中でも音楽界を引っ張る指揮者の中でも特に頭角を現し、世界中のオ
ーケストラから引く手数多であるといわれているそうですが、演奏を聴いて確かにそうだと個
人的に納得しました。再度アクセルロッドによる演奏を聴いてみたいと正直に思いました。

 演奏内容ですが、オールチャイコフスキーにはちょっと抵抗感がありましたが、生演奏でバ
レエ音楽「くるみ割り人形」を聴いたことが無かったので、今回演奏開業に足を運んだ次第で
す。素直に言うと、オールチャイコフスキーのプログラムは、感動が少なく全体的に退屈な印
象を受けました。

 特に最初の曲であるスラヴ行進曲作品31は、凡夫の音楽知識不足によるものと思われます
が、時々なんでこのような楽想になるのか分からないと感じる個所がありました。音楽の流れ
は、自然に流れる素直な繋がりが最も重要であると個人的に思っています。

 2曲目のピアノ協奏曲第1番ですが、ピアノの清水和音は、堂々とした演奏で非常に良かっ
たと思いました。ただし、弦楽器の中で特にヴァイオリンのパートが今一つ輝きが無かった印
象を受けました。弦のメンバーがAプロと異なっていたのも影響しているのかも知れません。

 後半のバレエ音楽「くるみ割り人形」は、楽しく聴くことが出来ました。第1曲から2曲の
情景は、音楽から受ける印象の画像が目に浮かぶような感じを受けました。個人的には第5曲
のパ・ド・ドゥーが良かったと思います。

 特に感激したのは、生まれて初めてチェレスタの生の音が聴けたことでした。チャイコフス
キーの曲がどうこう言う前に、とても可愛らしい音にただ感激した次第です。ただし、次回聴
くチャンスがあったとしても多分同じ感激は無いと思います。人間は何事でも初めての経験に
対しては特に感激するものだからです。

 次の機会にアクセルロッドの演奏が聴けるのであれば、是非ともモーツァルトの曲を演奏し
て欲しいと思いながら、NHKホールを後にしました。

 今回の演奏会に先立って、先日亡くなったN響の名誉指揮者であるオットマール・スウィト
ナーを偲んでバッハのアリアが演奏されました。スウィトナーは、個人的に尊敬する指揮者で
したので先日の訃報を聞いてモーツァルトを指揮する指揮者がまたひとり旅立ってしまったこ
とに寂しさを感じています。ご冥福をお祈りします。合掌

■ 幸せの飽和と意識!!

2010-01-10 11:18:10 | Weblog
 一昨年のリーマン・ショック以来、世界の景気は後退し、日本でもデフレスパイラル現象
が生じ、多くの業界で先行きが不透明になって来ています。このような状況の中で、我々が
唯一対応できることは、節約を含めた消費を減らす行動です。

 1980年代後半から始まったバブル経済の時期は、誰もが右肩上がりの状況が続く訳が
ないと思いながらも、その時の大きな流れの中で禁断の果実を味わっていたのです。何事も
金で解決がつくことから、自らの立ち位置を誤解し、あたかもその状況が相応しいものだと
思いながら、物の購入に走った時期でした。

 バブル期は自分の欲しい物が何でも手に入れられたので、戦後の物が無い時期から見ると
天国のような錯覚を覚えたに違いありません。そして物を得ることで、自分は幸せだと感じ
る日本人が殆どでした。

 物が無かったと言うひもじい経験をしている戦前派は、物の価値が分かるのですが、これ
らの経験がない戦後派はこの本質の点で見極めが弱いのです。また、戦前生まれの人と戦後
生まれの人の価値観が、ここで大きく変わったのではないかと思います。

 このようなバブル時代に育った若者が、今は親となり子供を面倒見るようになって、今の
世の中は激変しました。何が変わったかというと、自分の子供たちにいとも簡単に物を与え、
さらに常に最善の道を選ぶようにレールを敷き、子供に選択権を与えないような育て方をし
てきたのです。

 失敗を経験させない生き方が最も危険です。安全な生き方が最も危険である事に何故気づ
かないのか残念で仕方ありません。自然界の動物の育て方に見習う必要があります。

 これらの背景には、常に今よりも幸せのレベルを上げることが必須だと考えているのだと
思います。というのも、今の親はバブルの時期に最もその恩恵を受けた世代であるから、自
分自身がまず現状の幸せレベルを上げたいとの想いが強いのだと思います。

 常に成長することが重要だと今の世の中で言われていますが、その意味をもっと真剣に考
える必要があると思います。極端な言い方をすれば、今の親はまず自分があって、その次に
子供があるのです。昔の親は、自分よりも子供の事を考え行動していました。今の親は、行
動の順番を変える必要があるのです。

 一方で今の若者を批判する事がありますが、最終的な問題は学校教育にあるとの残念な結
論がよく引き出されています。個人的には、教育は学校ではなく家庭での教育が最も重要と
考えます。

 もっと言えば親が子供をきちんと教育していないことが、今の日本を弱くしているのだと
思っています。言葉を変えて言えば今の親は、こどもを教育する基本部分を持っていないの
で、子供を指導することが出来ないとも言えます。

 確かに便利なものを手に入れることは大切かも知れません、また美味しい物を食べるのも
時には必要だと思いますが、最も重要なことは人間としてどのように生きるのか、何を価値
観として持って生きるのかという基本的なところが欠けていることが、不幸なことだと思っ
ています。

 成長が極端に遅くなった時代の生き方として、物に執着するのではなく人間としての生き
方に執着するような方向に転換すべきだと思います。60歳を間近にしている凡夫にとって
は、日本全体が貧しかった時期を少しだけ経験しているので、物の価値もある程度分かりま
すし、それ以上に物が全てではないとの考えが染みついています。

 物が中心の幸せは、飽和状態が必ず来ますが、心の幸せは飽和しません。毎日が幸せを感
じる生き方は十分に可能であることを今の親は再認識し、この考えに従って自分の子供を再
教育して欲しいと思います。

 このような時代であるからこそ、もっと人間としての幸せが何かを真剣に考えてほしいと
思うのです。特に今の親の意識を変えることが、日本を変える大きな要因になると考えてい
ます。政権交代以前の大きな日本の問題であると認識しています。

 凡夫の浅はかな考えで、失礼いたしました。 合掌

■ 第1664回NHK交響楽団定期演奏会を聴いて(Aプロ初日)♪♪

2010-01-10 09:47:29 | Weblog
 土曜日に今年はじめてのN響定期公演を聴いてきました。当初の指揮者はローレンス・フ
ォスターでしたが、本人の健康上の理由により来日不可能となり、尾高忠明がその代役を務
めました。

 演奏曲目ですが、毎年恒例のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのような内容で、
前半がウィーンナーワルツ、後半はR. シュトラウスの曲でした。詳細な曲目は、ヨハン・
シュトラウスII世の作品から、喜歌劇「こうもり」序曲、常動曲作品257、アンネン・ポ
ルカ作品117、ポルカ「観光列車」作品281、皇帝円舞曲作品437とヨーゼフ・シュ
トラウスのワルツ「天体の音楽」作品235でした。曲の内容としては、ヨーゼフ・シュト
ラウスのワルツ「天体の音楽」が気に入りました。

 これらの曲を聴いた率直な感想ですが、音が良くないことでした。理由は分かりませが、
ワルツなのに聴いていて楽しくないのです。もっと言えば、心や体が音楽に合わせて同調す
るような状況にならないのです。

 自分でもとても不思議でしたが、よくよく音楽を聴きながら考えると、生意気な言い方で
すがウィーンの雰囲気が伝わってこないのです。日本人だからワルツの演奏が出来ないとは
言いませんが、体に染みついたあるいは自分の中に流れている血が騒ぐようなことがないか
らだと思います。

 さらに、ワルツを演奏するため必要となる演奏基礎技術が日本のオーケストラは少し弱い
のかも知れません。兎に角、ワルツを6曲聴きましたが、表面上の楽しさだけで、心の残る
ものがなかったのが実情でした。

 他人がどう判断しようと関係ありませんが、当日の会場にいた多くの聴衆も私と同じよう
な感想をもっていたと、演奏後の拍手の大きさを聴きながら感じました。日本の聴衆のレベ
ルが上がった証拠だと勝手に思った次第です。

 前半の演奏が終了後15分の休憩時間に、コーヒーを飲みながら後半もこのような退屈な
演奏であれば、今日の演奏会は来なかった方が良かったと思うほどの内容でした。

 後半は、2曲ともR. シュトラウスの曲で、最初のブルレスケはどちらかというと小規模
のピアノ協奏曲のようなものだと思いました。今回のピアニストは、若林顕で個人的には初
めての演奏家でした。演奏は素晴らしいと思いましたが、全体の楽想がいまいちだったとい
うのが本音です。

 曲の展開が円滑でなく、ばらばらのパートをつなぎ合わせて取りあえず一つの曲にしたよ
うな感じを受けました。ただ、時々ブラームスのピアノ協奏曲第2番のイメージが湧いてく
るような場面もあり、これから新たな展開部に入るのかなぁと期待しましたが、またもとの
流れに戻ってしまいました。全体的に、曲の完成度が低い感じがしました。ただし、ティン
パニとピアノの掛け合いの仕組みは大変に面白かったです。

 2曲目は歌劇「ばらの騎士」組曲で、R. シュトラウス自身が作ったのではないとの説が
あるようですが、個人的には今回の演奏会の中では最も完成度が高い曲であり、さらに演奏
内容もよかったと思います。

 R. シュトラウスの特徴が十分に発揮されたもので、管楽器がバリバリと吹きまくったり、
多彩な打楽器が登場し叩くなど、今回の演奏会の不満を解消するようなパワーで演奏してい
ました。劇的に終わる曲を聴くと聴衆は、それにつられて感動しがちですが、今回もその傾
向が強くでており最大の拍手で終わりました。良いことかどうか分かりませんが・・・