ゆうちゃんの独り言

モーツァルトが大好きで毎日欠かさず聴いています。人生の生き方は仏教で毎日般若心経を唱え、時間を見つけて寺巡です。 合掌

■ 人として思う事!!

2010-11-23 14:37:04 | Weblog

 最近の世界の動きや日本の国の動き、さらに人として行動する様式に大きな変化が出てき
ていることに関して杞憂をいだいています。

 米国での中間選挙の結果、北朝鮮の次期指導者の事実的な指名、尖閣諸島に関する中国の
領土主張と実力行使、さらに北方領土に関してのロシア大統領の訪問、法務大臣の不適切な
発言、指導力のない総理大臣等、事例を挙げたらきりがないほど出てくるこの頃です。

 巷の中では一向に良くならない日本経済のなかで、国民は何も発しずただ無気力に生きて
いる感じがします。地球規模でみれば現代人がほんの少しの期間の中で地球環境を破壊し、
今現在もその傾向は続いています。

 誰もが本来あるべき姿を分かっていても、自分が所属する組織等の現実の世界の中では、
自分たちを守ることが第一の正義であって、エゴイズムそのものに従った行動をとっている
のが実情です。

 いつから人間はこのような行動をとるようになったのかと考えてみると、社会が豊かにな
ってきたころからだと思います。さらに、これらはすべてが人間の欲にその端を発している
ことが分かります。

 人間として学びそして発展したいという正しい欲は大切ですが、往々にして人間は自分だ
けが良ければよいという欲に支配されてしまいます。また人間には、生・老・病・死をはじ
め愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、求不得苦、五蘊盛苦のさまざまな人生苦がありますが、
これらから脱却する救いの考え方として四諦の教えがあります。

 四諦の教えとは、苦諦:苦という真理、集諦:苦の原因という真理、滅諦:苦の滅という
真理、道諦:苦の滅を実現する道という真理の4つを指しますが、これらの「苦」を滅する
方法として釈尊は八つの正しい道を解き明かしました。これが、正見・正思・正語・正行・
正命・正精進・正念・正定の方法です。

 全ての人間に仏教を学べとは言いませんが、人間の心の中を冷静に分析しそれを少しでも
良くする教えが仏教であると思っています。確かにこの世の中は綺麗事では生きていけない
ことは十分承知しています。

 先日、ベトナムで日本が原子力発電のプロジェクトを受注できたのも米国のアジア戦略の
一環としての結果であるように、真の実力でなく裏での取引による結果なのです。多くの物
事は表の綺麗な世界で行われているのではなく、その多くは裏でいろいろな力が動いている
のです。

 しかし、個人的に、また人として正しいやり方で対応することが、最終的に正しいことだ
と小さな子供でも分かることが今の世の中で出来ていないのが事実です。

 どのようにしたらよいか分かりませんが、最低限自分自身は釈尊の教えに少しでも近づき、
モーツァルトのように全ての泥臭さを知った上での本当の清らかな音楽のように生きたいと
思うこの頃です。

 自分を含めてですが、最近の日本人は魂が抜けてしまっている様で情けなくなります。し
かしこれが凡夫の人生なのかも知れません。 合掌

■ 人を育てることと人として育つこと!!

2010-11-21 14:19:43 | Weblog

 先日TVを見ていると現在の教育に関して「ゆとり教育」から「詰め込み教育」に路線が
変わるような話題を取りあがているのを見ながら、ふと40年以上前の自分の時代の事を考
えた。

 自分の時代は、社会基盤がまだまだ整っていない環境の中で学んでいた。低学年の頃は、
児童数が多く教室が不足していた関係で、午前と午後に分かれた2部授業体制であった。

 今のように物が溢れている時代でなく、殆どの人達が生きることが精一杯の時代だったの
で、周りも必然と必死に生きていたと思う。このような時代であったがその頃は漠然とした
夢やそれを実現させるために頑張ると言った気力があったように思う。

 なにしろ前に進むことが大きな目標であったから、確実に教育も「詰め込み教育」の時代
であった。当時はまさに詰め込まれる側に居たが、自分が詰め込まれているという意識は正
直言ってなかったと思し、それが当たり前の時代であったので何も疑問に思わなかった。

 昔は今のように豊かな時代ではなかったけれども考え方は純粋そのものであった。そのこ
ろの考え方として自分が嫌な思いをしたら自分よりも年下の者には同じような思いをさせな
いようにすべきであるとの考え方が一般的であった。この考え方はいまでも身に浸みており、
自然と年下の者を扱う時にはそのような行動になってしまう。

 今の若者は教育が「ゆとり教育」であり、社会にでると先輩が手とり足とり指導してくれ
る環境にあることから、自ら考えることあるいは自ら行動することができない人間になって
きている。とても可哀そうな時代だと思う。

 昔は、先輩の仕事のやり方をこっそりと真似しながら、少しずつ自分のものにしていく所
謂先輩の背中を見ながら自分を育てるような感覚で取り組んできた。いまは教える側がお教
えられる側以上に気をつかっているのを見るにつけ本当にこのような方法で良いのかと心配
になってしまう。

 全てが現在の経済の状況と同じように負のスパイラルに陥ってしまっていると思われる。
あまりにも過剰な優しさはかえってマイナスで、豊かな時代であるから厳しい指導が必須な
のかもしれない。反対に貧しい時代は、人間の暖かな優しさに包まれた指導が向いているも
のと思われる。

 これから暫くの間は、人を育てる人は今以上に厳しく、また育てられれる側は自ら行動を
起こし前向きで取り組んでいく行動様式が必要であると思う。このような考え方が浸透すれ
ば、今世の中で生じているいろいろな問題点はかなり改善されるものと思われる。

 是非ともこのような仮説に基づき行動し、教える側と教えられる側の双方ともに正しい意
識をもって対応し改善を図りたいものである。

■ NHK音楽祭2010イスラエル・フィルハーモニー演奏会を聴いて♪♪

2010-11-14 11:48:14 | Weblog

 先週の水曜日にNHKホールで開催されたNHK音楽祭2010の第3日目にあたる演奏
会を聴いてきました。ズービン・メータ指揮によるイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
で、ベートーベン:交響曲第6番ヘ長調「田園」と交響曲第7番イ長調でした。

 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団は弦楽器が素晴らしいという噂を昔から聞いてい
たので今回の音楽祭の中では最も楽しみにしていたプログラムでした。他のオーケストラに
比べると日本で聴くチャンスはさほど多くはないと思っていましたので、今回の演奏会に期
待するのは当然のことです。

 ただし、指揮者のズービン・メータですが、過去にザルツブルク祝祭大劇場で行われたモ
ーツァルト週間の中でウィーンフィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏を聴く機会があり
ましたが、モーツァルト的でなくがっかりした経験があり、それ以来ズービン・メータは個
人的に評価の低い指揮者の中に分類されています。

 今回はオールベートーヴェンなのでひょっとするといい演奏が期待できるかなぁと思いな
がら開演を待っていました。ただし、購入できた席が前列から5列目でそれも正面ではなく
レフト側の席であったためか、音のバランスが良くなくがっかりしました。

 イスラエル・フィルハーモニーの第一印象ですが、楽員の顔や態度から窺えたのはそれぞ
れプライドが非常に高いことと、それに伴って個人が前面に出過ぎていて全体の調和に問題
があるような感じを受けました。特に期待していた弦楽器ですが、緊張感が伴っていない印
象を受けました。

 演奏内容は前半の交響曲第6番ヘ長調「田園」は単に自然な流れで演奏されている感じで
全く緊張感のない演奏で盛り上がりに欠けたものとなっていました。後半の交響曲第7番は
6番よりも演奏の中身は充実していましたが、ズービン・メータの解釈に問題を感じました。

 7番は楽想からして盛り上がりが大きい曲ですが、余りにも盛り上がりを意識しすぎた演
奏となっており、本来のベートーヴェンの真意を逸脱した演奏になっていた感じを受けまし
た。とくに最終楽章のフィナーレに近づくにつれ、特に第二ヴァイオリンの奏法はあそこま
で大きな運弓をしなくても良いはずですが、あたかもラジオ体操でもしているかのような演
奏方法で、音楽ではなくパフォーマンスではないかと疑いを持つほどの内容でした。

 フィナーレはそのような状況でしたから、テンポはハイになり音量も暴発し嵐のような感
じの中で終わりました。終わった瞬間にブラボーの声と拍手の嵐を聞きながら、個人的にこ
れは本当のベートーヴェンの真意の音と精神ではないのに、なぜここまで聴衆は熱狂の嵐で
応えているのか、非常に複雑な思いをしました。

 結果的に期待していた弦楽器の音も想像していたものとは異なりましたし、ズービン・メ
ータのベートーヴェンの解釈も異なったし、個人的にはさんざんな内容の演奏会でした。

 最近ふと感じることは、演奏内容に対する見方が他人と大きく異なってきているのではな
いかと思うようになってきたことです。昔は周りの人とほぼ同じ反応でしたが、最近はその
ような場面が少なくなりつつあります。

 自分が正しい音楽の聴き方から外れて来ているのかも知れません。しかし、最後は自分で
感じたことが事実であって他人の感じ方と異なってても問題ないのですが、演奏内容の方向
がずれてしまう哀しさが残ります。ただ、良い演奏をする指揮者やオーケストラがまだある
のが救いとなっています。

 指揮者のズービン・メータとは合わない自分を感じながらNHKホールを後にしました。

■ NHK音楽祭2011NHK交響楽団演奏会を聴いて♪♪

2010-11-07 11:52:38 | Weblog

 昨日NHK音楽祭2011でNHK交響楽団演奏会を聴いてきました。音楽祭としては2
日目になる演奏会でした。指揮はアンドレ・プレヴィンでブラームスの交響曲第3番ヘ長調
作品90と交響曲第4番ホ短調作品98の2曲でした。

 今年のNHK音楽祭は、偉大なるドイツ3大B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)
と題した演奏会になっていました。若かりし頃は3Bは大好きで聴き込んでいましたので、
久し振りに青春時代に戻る気持ちでチケットを購入しました。

 ただ第1日目のバッハ「ミサ曲ロ短調」指揮:ニコラウス・アーノンクール、演奏:ウィ
ーン・コンツェントゥス・ムジクス、合唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団の演奏会だ
けはスキップしました。以前のNHK音楽祭でモーツァルトのレクイエムを聴いたときの印
象があまり良くなかったという理由からです。演奏の解釈でアーノンクール節が沢山出てく
るところが大好きな人にはたまらないのだと思いますが、私には合わないからです。

 さて、今回のブラームスの演奏会ですが、一言で言うと円熟したブラームスで今の季節の
ように音の秋を感じました。第3番は初秋の感じで、第4番はまさに晩秋の感じをもった楽
想です。これらの曲を円熟しきったプレヴィンが指揮するのですから、ブラームスのブラー
ムス的な演奏内容でした。

 個人的には休憩後の第4番の交響曲の方が心に浸みました。正に人生の第4コーナーを回
り最後の直線コースを静かにそして確実に駆け抜ける思いで聴いていましたし、プレヴィン
もそのような演奏をしてくれました。さらに数か所のところでは、自然と涙が出そうになり
心の中では確実に涙が出てしまう、そんな自然な流れがありました。

 モーツァルトが最も好きですが、やはり青春時代に聴きこんだブラームスは忘れられない
ものがあります。ベートーヴェンは青年ですがブラームスは親爺的な哲学を感じます。仏教
的ともいえるようなものがあります。さらに聴きこんでいると不思議なことにモーツァルト
に近い心情に満たされます。

 今回の演奏は、プレヴィンの円熟した演奏の中に人生の淡く夕暮れのような晩秋の想いを
一杯に感じた演奏会でした。今回の演奏ではチェロとコントラバスならびにヴィオラが充実
した演奏で脱帽でした。それに比べるとヴァイオリンは気持ちが乗っていないというか表面
的なものを感じました。

 最近のN響の演奏では特にヴァイオリンパートの演奏に疑問をもっています。先日の小澤
征爾が指揮したサイトウキネンのような演奏で無くとも良いですが、もう少し気を入れた演
奏をして欲しいと思います。ヴァイオリンパートだけに限って言えば先日聴いた東京都交響
楽団の方が上だと思います。

 今回も感じましたが、アンドレ・プレヴィンのように高齢になっても今回のような充実し
た演奏を披露してくれているのですから演奏者はもっと気を入れたものにし力を出し切った
最高の演奏にして欲しいと思うのは、私だけではないと思います。

 NHK音楽祭2011の第3日目は今週の水曜日で、ズービン・メータ指揮によるイスラ
エル・フィルハーモニー管弦楽団で、ベートーベン:交響曲第6番ヘ長調「田園」と交響曲
第7番イ長調です。イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団は初めて聴くのでとても楽しみ
にしています。