陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「グリーン・バレンタイン」(一)

2009-02-16 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


古い雑居ビルを出ると、昼どきの都会ならではの喧噪につつまれた。
朝晩のラッシュ時よりはいくぶん和らいではいるにせよ、煤けた街の空気が、一枚軽くなった装いにまとわりついてくる。香りのいい柔軟剤を利かせたのに台無しだ。寒い冬なら気にならない、こんな遠慮のない外気の澱み。それが重く感じられるのは、花の粒子を含みはじめたせいだろうか。折しもテレビのニュースは花粉の飛散を伝えていた。青信号を待つ交差点では、往来を行き交う自動車の排気ガスと、柔らかな風がはこぶ春の匂いがまぐわっていた。

横断歩道をわたり、樹木の多い公園の横の歩道にすすむと、漫画家はやっとこさひと心地ついた。穏やかな光りと戯れる翠の多さに、連日連夜、蛍光灯の下で酷使した目をやすめ、いくぶんか清浄な空気にからだを慣らしておく。街路樹の表皮にある瘤を見つめてしまうのは、ペンを手放せない職業柄の指にそれがなじみ深いからだ。また巡りくる春のために、翠はさかんに新しい枝を生み出そうとしているのだ。

この街にはとてつもなく余分なものが多すぎる──漫画家はそう思う。そう思えてならなかった。
自分の描く世界は、つねに白か黒かの二進法。控えめなグレースケールでの立体感があって、いりくんだパースはない。必要最低限の人数、感情を抑制された言葉、絶対の因果律がある動き、過剰すぎない、感情に任せない硬質なモノローグ。想像の世界には、無意味なものなどなかった。ペン先から生まれた人物に、つまらない生き方をする者はいなかった。デヴュー当時の少女漫画のようなけばけばしい画風もなりを潜め、今ではシャープな輪郭を持ち味にしている。原稿用紙のうえに踊る存在者たちは、みな無駄な装飾を省かれている。彼らは、生き残るにも、死ぬにもそれなりの目的があった。モブに等しい脇役にまで、ありえないほど濃い性格の味つけをする彼女のスタンスは、キャラクターの人気に格差をつけたがるファン層からは、あまりよろしく思われなかった。

漫画家は自分のあまりに素朴な表現を、過剰すぎる世界に対する抵抗のエコロジーだと思っていた。
多すぎる関係を清算するために、不必要な出会いをもうけて話を間延びさせることを、彼女は良しとしなかった。だから、彼女の世に送る作品の多くは、わずか一年足らずで完結してしまうものが多かった。あけすけにいえば、ひとつの作品とじっくりゆっくり長丁場で向き合うのが苦手なのだ。ファンレターが増えるたびに、キャラが自分のものでなくなっていく。

したがって寿命の短い彼女の各作品には、ほぼおなじような姿かたちの人物がなんども登場する。そのリサイクルも、彼女なりのエコロジーなのである。

ところが、現実の世界たるや、そうではない。きょうはそんな現実の関係の徒労を、多いに味わった日だった。
肩が痛い。腰が固まる。目がしぱしぱする。やはり座りなれない椅子は駄目だ。出版社が主催した新年の祝賀パーティーに出席した以上の、くたびれ方だ。慣れない衣装で着飾るのとはことなる重みが、彼女のこころを濡れ衣で縛られたようにしていた。

地下鉄をひと駅分も自分の足で歩いたのは交通費を浮かすためではなく、春さきの温もりを放ちはじめた街にひとしきり浸っていたかったからだ。運動不足、理由はその四文字で足りる。
歩道に沿った城山公園の堀には、ぬるくなった水中をゆったりと鯉が銀の鱗を閃かせて泳いでいた。彼女の描く世界に、こんな余剰のいのちはいないのだった。眠たそうな魚の速度では、頁は稼げないし、コマもそう大して埋まらない。

豊かな翠の自然が背後に退いて、おおきなターミナルの駅に辿りついたとき、ふと彼女の気をひくものがあった──チョコレートの店頭セール。
赤やピンクを基調としたいささか幼稚な派手派手しいシートにくるまれて、ギフト用チョコレートがならぶ。その情熱の色は、さきほど翠で憩った瞳を貫くような痛さがあった。

さっき、原稿をわたすついでに、編集部の人間にたんまりお義理で渡してきた。
お返しを期待しているようなしたたかさは、奴らには毛頭ない。ただ、日ごろお世話になっているこれまでのお礼。あるいは、締切をうっかり過ぎた際の便宜などもあっての、これからの保険のようなものだ。あくまで無表情を通して配ったので、独身者の多い職場で誤解されることはなかったろうが…。好きなオンナでもなかろうに、なんであんなに嬉しそうな顔をしくさるのだか。なんだか気に食わない。なぜ、自分はわさびでも食ったような気分になるのだ。

贈り物をおくるとき、どんな顔をして渡せばいいのだろう。
ほかの女性漫画家たちは、千円札一枚でおつりがきそうなチョコ菓子をそれ以上の価値にみせる、したたかな媚態のデコレーションに長けていた。記号的に愛くるしい少女の笑顔を描くことに慣れてしまった彼女だけは、自分の喜びをつぶさに表現することを忘れてしまっていた。

息を吐くと、眼鏡がくもる。でも恋の吐息と溜息とは曇りかたが異なる。
甘いものは好きじゃない。甘い表情だってできやしない。甘ったるい話も勘弁してほしい。そもそも食い物の話なんかするな。食べるより寝るほうが大事なんだから。
この記念日に便乗して自分にご褒美なんてガラじゃないし、必要最低限の関係のために甘いお布施はしてきた。だが…。今日の日を疲れたこころでやり過ごすのも、いささかこころ虚しい結末。目には目を。チョコにはチョコを。チョコの疲れを払うには、チョコしかないのだ。

レーコは地下鉄の昇降口にむかう足の向きをかえて、賑やかな街路のほうへ進んだ──ただし、向かった先は、洋菓子店ではなくコンビニだったが…──。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「グリーン・バレンタイン」






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