(画像は、歌川国貞の「阿武松緑之助」の部分)
相撲絵は、江戸時代初期から人気を博した浮世絵の様式の一つ。
東洲斎写楽や勝川春章、十返舎一九、歌川国貞ら多くの名うての浮世絵師たちが描いています。今でいうなら、スターのブロマイド、いやいや、今はツイッタやインスタグラムでフォローが正しいですね。
本年最後の大相撲本場所が開催中に、世情をにぎわす騒動が持ち上がりました。
横綱・日馬富士関が、平幕の貴ノ岩関を酒宴の席で殴ったというのです。どちらもモンゴル人力士。被害者の師匠である貴乃花親方は、警察に被害届を提出。現役の横綱が、警察に任意で事情聴取されるという事態に。
私的なことを申し上げますと、我が家も角界には縁がないわけではない。
私から数えること四代まえの家長Kは、明治三十六年七月、東京から小さな白木の箱を抱えて帰郷します。力士として修業していた弟Iの変わり果てた姿でした。平均よりもやや長身が多い当家でもひときわ偉丈夫だったという三男坊。その亡骸には明らかに暴行の跡があったとみられています。宮尾登美子の小説などに描かれていますが、当時の相撲巡業は、いうなればやくざ稼業。手荒な稽古があったとておかしくはなく、Iは声を上げられなかったのでしょう。
元横綱・朝青龍をはじめとし数々の傷害沙汰、賭博容疑。
角界をめぐる不祥事は絶えない。すわ、またしても大相撲のスキャンダル。マスコミは飛びついて報道したので、日馬富士関の「横綱の品格」うんぬんが激しく非難されることに。
ところが、ここにきて一転。
同席した白鵬関の証言によれば、日馬富士関が「馬乗りになってビール瓶で殴った」ことはなく、その後も、ふたりは談笑しており、また医師の見解では、脳機能障害が残るような重症ではないとのこと。また、貴ノ岩関は、「お前たちの時代は終わった」などと、先輩たちを愚弄する発言を繰り返し、日頃の不行状を見かねて、日馬富士関が注意したところ、スマホを眺めて無視していたというのです。また、日馬富士関の日頃の温厚な振舞いから擁護の声がひろがっています。
たしかに、日馬富士関が殴ったのは行き過ぎた指導です。酒に酔ったうえでの過ちではすまされない。
しかし、誰もが極められるわけではない横綱という地位に対し、失礼ですが、30歳近いのに大関にもなれていない平幕力士が大口をたたくのはいかがなものでしょうか。また、貴ノ岩関の頭の骨折も、「過去の稽古できた可能性」もあるとのこと。下手すると、手厳しい貴乃花部屋のしごきで…という疑いもあります。そうなると、今度は被害届を出した親方の監督不行き届きも指摘されかねないでしょう。若貴時代を牽引したスターだった平成の大横綱・貴乃花関も、一時期、土俵に粗相をしたと報道されました。それが真実かはわかりませんが、彼にも親子や兄弟の確執で鬱屈したものがあったはずです。
この事件が教えていることは、スターの高潔な品格はもちろんですが、それを蔑ろにする風潮がわれわれにもあるのではないか、という事実です。私たちは、むやみやたらに、品格というものを一部の人間のみに求めていいものでしょうか? それは大衆の傲慢というべきではないでしょうか?
私も過去のフィギュアスケート記事に対して反省していますが、加熱する期待がときに選手たちを苦しめることがあります。プライバシーを暴かれ、交友関係をめちゃめちゃにされ、まちがったイメージを捏造される。わたしたち観客は生活の不満を、アスリートの勝負へ依託して、慰めようとしています。スポーツマンたちの周囲からは無理解の嵐、心身共にボロボロになってもおかしくはない。清原選手が麻薬に溺れた一件がありましたが、スターの内面は意外と脆い。
貴ノ岩関のような20代後半の頃は、生意気盛りです。
しかし、また同時に、30歳を目前にして自分の行く末が分かってしまう年ごろでもあります。その不安が、すでに20代前半で横綱になって長きにわたり角界の頂点に君臨してきた先輩横綱に向けられたのではないか、というのが見立て。
私自身のその年代を振り返ってみても、そうでした。
研究発表会で指導教官に論文の穴をつつくような嫌味を言われたときに、アカハラまがいではないかと思ってみたり。会社の同僚や上司とうまくいかないときに、彼ら彼女らの指導不足を疑ってみたり。自分に自信があり過ぎる人、自分を優秀だ、美しい、尊ばれるべきと思い込んでいる人ほどそうなりやすいのです。批判や批難に弱い。 ましてや、現代は、SNSで褒めて!褒めて!の世界に浸ることができますから、なおさらです。横綱に叱られたときに、スマホに目を落としたモンゴルの若き青年は、そこに逃げるしかなかったのでしょう。彼だって、かつては先輩力士たちの背中を追いかけて、夢に燃えて祖国を離れたはずです。
また白鵬関への無意味なパッシングがそうだったように、外国人力士への排斥の雰囲気も、不満要素だったと考えられます。
すでに介護や農林水産業、一部の製造業では人手不足で外国人労働者の助力を得ないと成り立たなくなっています。TPP交渉が進んでいますが、日本への労働者派遣が多いベトナム国では、労働者の待遇を巡って難色を示していますよね。滞日中の労働者もしくは留学生としての外国人にも所得税や年金の納付は課されますから、当然、彼らが生活に困窮すれば行政は救う義務はあるのです。さもなければ、国際社会から批難を受けます。難民などを装った不法滞在の外国人はともかくとして、入管法(出入国管理及び難民認定法)規定にもとづく在留資格者は、法律上、保護されています。日本人が働きたがらない分野に身を投じてくれる人材を、優秀な業績を残した外国人を、日本人でないからという理由のみで貶める行為は恥ずべきでしょう。モンゴル人力士が慰労会を開いたこと自体が槍玉にも上がっていますが、そもそも、日本人力士自体が育たず、育てられず、不甲斐ないというべきです。
智に働けば角が立つ、情に竿させば流される。
しかし、この世はとかく不条理ではなく、不条理にしているのは自分のものの見方…かもしれない。じょうずに誰かに叱られた人こそ成長できる。また管理職や各界のリーダーも人材育成に際しパワハラと訴えられない様に、部下や後輩へのストレスを与えないような教育法の大切さが問われ始めています。鉄拳制裁でひとが動く時代ではありませんから。偉い人が強制しても身体だけはしぶしぶ動くでしょうが、こころは従っていない。それは世代間や待遇格差の不満となって、やがて跳ね返ってきます。
今回の事件は、角界という特殊な業界だけの事情にして片付けず、多くの人が、我が子や若者、もしくはまちがったことをしている人への思いやりある叱り方はどうあるべきか、を考える契機にしたいものですね。年齢、性別、どころか文化の違いのある人までもが共存する社会では、ますます他者を理解していくことが難しくなります。